2017年05月30日
第137回 「鏡原小学校山北分校跡地」

今回ご紹介するのは、かつて小学校があったことを標す石碑です。鏡原小学校の山北分校と聞いても、なかなかピンとこないのではないでしょうか。大字の住所でいうと東仲宗根添。現在の通称では宮原地区ということになります。山北の名は宮原地区でも北(海寄り)の増原あたりに、「山北」を名乗るバス停があります(比嘉行 長北山北線 上り1本、下り2本/日)。

山北分校は1948(昭和23)年に鏡原小学校の分教所として設置されました。藁葺きの教室がふたつというつつましい学校(分教所)に、三学年(2・3年生は複式)のみながら、93名の児童が在籍していました(担任教師は2名、分教所なので校長は不在)。
1951(昭和26)年に校舎は瓦葺きとなり、校庭なども整備されて次第に学校らしくなってゆきます。
1956(昭和31)年に現在の場所に新校舎を建設して移転。翌1957(昭和32)年には宮原小学校として念願の独立校となり、山北分校は廃止されました。設置から10年足らずとわずかな期間ですが、分校があったことを記録する石碑が、宮原小学校創設35周年となる1992(平成4)年に、石碑は小学校向かいの園地の隅に建立されました。
しかし、後身となる宮原小学校も少子化の波を受け、2015年3月をもっ58年の歴史に幕を閉じてしまった(鏡原小学校に統合)。それから学校から子供の声は消え、今や校内は雑草が生い茂っている(一部の建物は倉庫などとして暫定活用されいる)。
そんなちょっと淋しい廃れゆく校内の様子を少し紹介しておきます。

【画像】2015年3月廃校となった宮原小の全景。前庭は雑草に覆われています。


【左】理想の宮原っ子を、あいうえお式の標語で記した石碑。
【右】深く雑草に埋もれている、創立50周年を記念する石碑。


【左】もうタイトルも読むことが出来ないほど埋もれた、創立25周年の石碑。
【右】学校壁面にある校章と時計。2年の時を経てもまだ色あせていません。


【左】謎の鳥キャラがオープンカーに乗る交通安全の誓いの言葉。
【右】かつては庭園だったのでしょうか。奥には飼育小屋もありました。


【左】まさかのトマソン、“純粋階段”。校章と時計の裏側にありました。
【右】蛙と牛がバスケをする体育館の壁画。集落を象徴する生き物?。


【左】校門の門柱に書かれたあいさつ文。時の止まった小学校に明日はありません。
【右】併設されていた宮原幼稚園。こちらも小学校と同じタイミングで廃園になりました。

まだ、取り壊すなどといった具体的な計画はまったく出ていませんが、いずれ廃校となったこれらの施設はきっとつぶされてしまうのでしょうか。
勝手な思いを勝手に語るならば、スポーツアイランドを掲げて各種スポーツの大学や社会人、クラブチームなどの宮古島キャンプを受け入れているので、改修して合宿施設とかにしたら、学校だったことも活用が出来るし、なにかと費用のかかる合宿も環境のいい場所で低予算で出来るとなれば、候補地として選ばれることが増えるのではないでしょうか。また、人が来れば地域活性にもつながって、結びつきが出来たら面白いことにも発展しそうな予感もします。
スポーツではなく文系の合宿地というのも面白いかもしれませんね。市の公文書館を兼ねて、図書館とは路線の異なる市史編纂資料などを閲覧できるような保存状態にして、宮古の歴史文化の研究の拠点とする構想なんてどうでしょうか。宿泊も出来てゼミ合宿などに活用できる教室とかあれば、文系研究者(とその卵たち)が、宮古について研究しだしてくれるかもしれません(そういう人材を増やせれば、文化に広がりが生まれそう)。逆に先生を招聘して島の子供たちの進学や学業アップのための予備校的集中合宿講座なんてものありかもしれません。
学校って教育委員会の管轄だから、その気になれば出来そうかも。。。っと、妄想が過ぎましたが、それだけ魅力的なのかもしれません。学校という場所が。。。
【資料】
宮古協栄バス/長北山北線 路線図 ※比嘉入口は経由しません。
宮原小の誇り、永遠に/閉校式行う 宮古毎日新聞 2015年3月29日
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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