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2017年03月14日

第126回 「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」

第126回 「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」

今回お届けするのは、ひと言で云ってしまえば、與那覇勢頭豊見親、出帆の地の石碑です。
宮古の歴史には欠かせない人物のひとりであり、歴史の転換点ともなった現場(白川浜)にあるこの石碑の存在を知り、数少ない関係史料を漁り、碑の存在を知る人々に聞き取りし、数次に渡る現地調査を慣行するも、旺盛にして貪欲な宮古の自然に阻まれ、なかなか発見することが出来ないまま約3年を費やし、遂に我々取材班は幻の石碑にたどり着くことが出来たのであった!
第126回 「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」
石碑は全長2キロちかくある白川浜の中ほど、海岸から内陸へと移り変わってゆく多様な植物に覆われた古い浜堤(ひんてい)の頂部にあり、北北東の方角(つまり那覇の方角)を向いて建立されいます。一族の方からでしょうか、香を焚かれ拝所化していました(石碑が巨大な畏部-イビ-となっている感じを受けた)。

宮古の戦国時代で目黒盛豊見親との争いに惜敗した與那覇原軍。捲土重来を期した與那覇勢頭はここから沖縄島を目指して出帆します。っと、ものすごく簡単に説明してしまいましたが、実際のところ與那覇勢頭に関しては判らないことが多く、生没年などもはっきりしていません。また、諸説もさまざまありますので、詳しくは「みやこの歴史」や「宮古史伝」などを歴史書を色々とチェックしてみてください。

碑面には今回のタイトルである「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」という文字が刻まれているのですが、海浜部という場所柄もあるのか、劣化が酷くきちんと読みとることはできません。
また、左わきには建立された年号が書かれているのですが、現地で読んだ時は「大正七年八月二十日建立」などと読んでしまいましたが、もっと上の方まで文字が刻まれており、どうやら
『西歴一九五七年八月二十日建立 祭典委員會』
と書かれていることが判りました。

日付はまさかの西暦。それも戦後でした。
1957年というと、昭和32年。沖縄はアメリカ世の真っただ中ですから西暦表記というのも判らなくもありません。
この石碑は史料によると砂川一雄(旧名・恵長 1902-1965)という方が、亀川恵信や稲村賢敷らの協力を得て建立しています。
砂川一雄については拾い見た資料から得られる情報はとても少なく、どうやら大阪在住の一門の人物(旧名の名乗り頭が“恵”である点で)であろうという程度しか判明しませんでした。

建碑に協力している亀川恵信(1897-1960)は、下里村出身の医師で、北海道帝国大学や台北帝国大学の医学部を出ており、戦後は宮古医学会を設立するなど医療界での活躍に留まらず、文化教育政治などにも積極的にかかわった人物。面白いのは恵信の祖父・恵備はロベルトソン号の救助の指揮を取り、サンシー事件では責任者のひとりとして服役をしている(白川氏支流17世)。
また、稲村賢敷(旧名は上運天。1894-1978)は東仲宗根村の生まれの教育者・歴史家。在番筆者上運天築登之親運上・夏姓賢献と宮古女性との間にもうけた夏文氏賢英の子。苦学の末に東京高等師範へ入学し、ネフスキーの宮古研究に協力同行します。卒業後は県内を中心(戦前は渡台もしている)に教師や校長を歴任し、宮高女(宮古中学との兼任)の校長を最後に教育界を去ります。1957年には「宮古島庶民史」を執筆しました。

日夜、血眼になって石碑探しをしている自分ですら、発見するまでに長い時間を要した、「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」は、ある意味では世の中に忘れ去られてた石碑と云えるのではないでしょうか。宮古の治世において仲宗根系統は由縁のある墓など史跡は多数あるものの、与那覇系統の史跡はあまり見られません。(時代区分としては)現代の石碑ではありますが、今となっては貴重な史跡となっているように感じました。

そして砂川一雄はこの碑を建立した3年後、那覇の泊(新都心の境となる崖)で、1767年に与那覇世頭の子孫が建立するも、沖縄戦で破損消失してしまった、「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」(乾隆碑)を再発見します。

と、いうことでドラマは大きく動きます。
次回、「んなま to んきゃーん」第127回は、初の那覇編。
「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」(乾隆碑)をお届けします。
第126回 「與那覇勢頭豊見親沖縄島發見出發之地」




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