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2017年01月17日

第118回 「復帰記念事業の碑」

第118回 「復帰記念事業の碑」

今回ご紹介する石碑は「復帰記念事業の碑」です。とてもストレートな碑名ですが、そう大書きされているだけで、実質はサブタイトル的に刻まれている「積上 海上道路工事」の開通を記念した石碑であると思われます(積上=ツミャギ)。
第118回 「復帰記念事業の碑」
石碑が建立されているのは、佐良浜海蝕崖のシンボルともいえるヤマトブー大岩の前。ちょうど海上に道路が張り出したカーブの内側に建立されています。まさに「海上道路」の部分にあります。ちなみにこの石碑の隣には第16回で紹介した「伊良部大橋開通記念碑」があります。また、道の向かい側には市指定無形民俗文化財「イラウタオガニ」(伊良部トーガニ)の指定記念碑も設置されています(唄なので無形文化財として地域を定めずに指定されていますが、どうしてこんなところにあるのか不思議でなりません。どなたか納得いく解説を披露してください)。

それにしてもなぜかメインのタイトルが開通の方でなく、復帰記念事業となっているでしょう。お金の出所が関係しているのでしょうか。そのあたりは謎ですが、1978(昭和53)年に刊行された伊良部村史を紐解いてみると、1971(昭和46)年7月に「復帰記念事業として、伊良部村トラバー海上道路着工さる」とありました。
トラバーとはこの場所の地元での通称名で、このヤマトブー大岩の前の浜のことを呼ぶそうですが、トラバーチンのトラバーなのではないかと思われます。なにしろヤマトブー大岩はトラバーチンの塊(一枚岩)ですからね(ちなみに、ヤマトブーのブーとは岩のことなので、直訳するとヤマト岩岩。チゲ鍋読みになっているのは秘密です)。
また、ここのトラバーチンが国会議事堂(実に五代目。実は何度も焼けている)の建材の一部として、利用されているという話も有名なのですが、少し調べてみると宮古島や来間島をはじめ、沖縄県内の各地でこうした話が痕跡が残っており、産地は相当数あったのではないか思われます(詳細は未明)。

ざっくりですが縮尺と方位を揃えたので、地図とか航空写真とかを駆使して比べてみようと思います。
第118回 「復帰記念事業の碑」まずは現代。地図は国土地理院の電子国土Webから拝借しました(URL)。
黄色の線で描かれた県道252号線こと伊良部大橋が目立っていますが、件の現場は橋を渡った突当りを右折し、島に沿って北(佐良浜方面)に進むと、両側を海に挟まれた短い道路があります(画像右端)。そこが石碑のある「トラバー海上道路」になります。
ちょうどこのあたりから北側は等高線の間隔が狭く、傾斜の強いことが判ります。そして境目にはヤマトブー大岩があり、左斜め上の「牧山」の文字に向かって崖のラインが伸びています(牧山は伊良部島最高峰で89.2メートル。あれれっ?)。
尚、伊良部大橋の開通に合わせ、2015年に橋の部分のみ航空測量が行われています。

第118回 「復帰記念事業の碑」続いては1962(昭37)年に米軍が撮影した航空写真(角が切れているのは方位を揃えるために写真を回転させているから。収蔵は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス)。
撮影時期が復帰前になるので、海上道路はありませんが、ヤマトブー大岩や牧山の佐良浜海蝕崖の影が見えているので、位置も特定しやすいです。牧山の少し西の方、丸く黒っぽく見えている森は比屋地御嶽。さすが信仰の場、ここへつながる道だけはいつの時代でも存在しています。
この年代の写真を見ると、佐良浜からヤマトブーに向かって道が伸び(次第に細くなる)、岩と崖の隙間に消えています。恐らく岩の隙間を抜けてトラバーの浜へ抜けているのではないかと考えられます。また、長山方面は台地の下にも耕作地が見え、現在の県道252号に沿った位置に道も通っているのが判ります(長山港は切れてしまった)。

第118回 「復帰記念事業の碑」再び地図に戻って、1940年代撮影の航空写真を元にして作られたとみられる米軍のカラーの地図。
もちろん、トラバー海上道はありません。実際に測量して作図されてはいないようなのと、地図の縮尺がかなり大きいので、細部の描き込みが少し甘く、ヤマトブー大岩などの記述がありません。しかし、戦中から戦後すぐにかけての時期に、こうした地図をすでに持つ(作る)米軍。どんな神風が吹こうともこれは勝てるわけがありませんね。
尚、戦中の牧山には平良港を守備するための陣地壕があり、戦跡として現在も残っていますが、地図上では北からの道と西からの道が比屋地御嶽あたりで合流し、壕のあった牧山の展望台付近へと伸び、最後はサークル状の道になっていて、そこになにかがあることを示しています。なにがあったのでしょうか、気になりますね。

第118回 「復帰記念事業の碑」最後は大正10(1921)年に測量して作られた日本の白黒の地図。参謀本部陸地測量部という記名がされていました。
伊良部島最高峰である牧山には、三角点が描画されており、88.8メートルと描かれています。記憶では確かずっとこの高さだったはずなのですか、最新のデータ(最初の地図)では標高が高くなっているようで、ちょっと驚かされました。
その三角点のまわりにある崖の記号が、牧山からヤマトブー大岩を廻り込んで、現在の採石場(鉱山)のあたりまで伸びています。
佐良浜(北)から比屋地御嶽の前を通り、牧山の駐車場から奥にある東屋あたりを通って、崖を垂直に下って台地を降り、島に沿って海沿いに西(長山)方面に続く、破線の道(現代の地図では幅員1.5メートル程度の徒歩道)が描かれています。これはかなり衝撃的な展開でした。ある意味、古道して復活させてみても面白いかもしれません(まず無理ですが)。
最初に伊良部に人が住んだと云われる積上(ツミャギ≒佐良浜元島遺跡)から、ヤマトブー大岩は浜に降りる目印だったとか、久米島からやって来て、比屋地御嶽の祭神となった「あからともかね」が上陸?したりとか、昔からこの界隈には道(のようなもの)があったと思われる節があります。
位置は少し異なりますが、崖を行く道は現在もあったりします。ヤマトブー大岩の北側(裏側)、牧山へと登ることのできる荒れた歩道が隠れています(実際には廃公園?の一部だったようで、途中には眺望の良い階段や、何も見えない東屋などがあります)。
健脚冒険向けではありまずか、隠れたオススメポイントだったりしますので、気になる方は装備に留意して自己責任でお楽しみください。
第118回 「復帰記念事業の碑」第118回 「復帰記念事業の碑」
【左】ヤマトブー大岩と佐良浜海蝕崖を石碑脇から望む。
【右】ヤマトブー大岩裏手の階段から隙間越しに、伊良部大橋を望む。





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