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2016年11月08日

第108回 「稲荷大神様」

第108回 「稲荷大神様」

「謎の石碑-未解明ファイル-」Part2の3回目、通算7回目です。今回取り上げる石碑は、以前、久松のミャーカ群の素材撮影に行った時に見つけて、気になっていた松原ミャーカ脇のガジュマルの根元に建立されている石碑です。
長らく調べようがなく、寝かせておいた謎の石碑だったのですが、これまた偶然、興味深い文献を見つけて光明が差し込んだかのように見えたのですが、御大をもってしても詳細は不明という未解明な石碑だったのでした。
第108回 「稲荷大神様」
今回のタイトル文には石碑に刻まれていた、三行の文のうちのひとつを代表としましたが、全文は
「稲荷大神様」
「御守護神様」
「誠心ヲ守ル」

と、書かれています。

建立された当時(大正15年)よりガジュマルは遥かに大きくなり(その頃からあったかは不明)、気根も太くなって支持根になりつつあるこの石碑周辺。あと数年もしたらガジュマルに石碑は呑みこまれてしまうかもしれません。
そんな石碑は宮古島ではとても珍しい「お稲荷さん」が記されています。厳密には大明神ではなく、大神様となっていますけれど、神を祀る石碑というのもちょっと不思議です。自然物が神格化されたものでもなく、御嶽が神社化したものでもなく、ましてやお稲荷さん(稲荷社)の赤い祠と鳥居もありません。
島の歴史の大家・仲宗根将將二著作「近代宮古の人と石碑(いしぶみ)-私家版-」という本の中に、「稲荷大神様」の碑について取り上げられており、興味深い論調が展開されていました。
“稲荷”とは五穀をつかさどる神、あるいはその神を祭った神社のことです。ふつうには“お稲荷様”ともよばれているもので、松原のこの碑はいつごろ、誰が何の目的で建立したものか、はっきりしていません。
と、いきなり御大に「判らん!」っと断言されてしまい、身も蓋もなくなってしまいました。
しかし、そこはとてつもなく引き出しの数の多い御大。きっちりフォローも入れてあります。けど、そこに出て来たソースは、稲村賢敷の著した「宮古島旧記並史歌集解」(1962年)という、聞いたことがないタイトルの本でした(勉強不足)。なんでもこの「史歌集解」にはも稲荷の碑の由来があると綴っているのです。もうぐうの音もでません。遥かなる高み、神々の頂のようです。
1897(明治30)年に有力者が庭を広げようと、屋敷の続きの丘を取り壊したところ、三猿の土偶が発見されたのだそうです。そこで小さな祠を建て土偶を祀り、「稲荷大明神」と刻した石碑を建立しました。しかし、残念なことに土偶は盗難に遭ってしまったとありました。

第108回 「稲荷大神様」なんかさらりと書かれていますが、三猿とはいわゆる「不見、不聞、不言」のこと。日本で一番有名なのは日光東照宮の「見ざる、聞かざる、云わざる」のアレです。そして知る限りになりますが、宮古で土偶が出て来たって話もこれまで聞いたことがありません。ま、想像ですが遮光器土偶のようなすんごいものではなく、こんな感じのモノだっんではないでしょうか。
ネットで知らべてみると三猿と土偶(のようなもの)は、中国、アンコールワット、インド、バグダッド、イスタンブール、エジプトにまで遡る三猿のネタ(タネ)のなようです。いったいどんな三猿の土偶だったのかはまったく判りませんが、ロマンとしては、この地外界と繋がる入口のひとつだったのではないかという想像。
そして石碑の建立されている場所は巨石墓のミャーカです。巨大な石造りの墓といったエジプトのピラミッドですよ(他にもあるけど)。ミャーカ文化については、未だはっきりとはしていないそうですが、なぜか下地(川満大殿ミャーカ、与那覇支石墓、ニャツミャーカ)、久松(ミャーカ群)、字・伊良部(スサビミャーカ、ナーザクミャーカ)といった宮古島の西側、それも下地間切方面に集中しています(他にも、まてぃだ劇場前の大立大殿ミャーカや、東仲の仲屋金盛ミャーカもあるけど)広がっています。なんかちりばめられたキーワードだけで、もう妄想で鼻息が荒くなりそうです。
『史歌集解』は明治三十年ごろ発掘した、と記していますが、現存する碑は「大正拾五年」と刻されており、三十年近いズレが出ています。実際は碑面通りの時期なのか、それとも盗難による再建時の年月を刻したのか、さだかではありません。
また「稲荷大明神」でなく「稲荷大神様」というのも面白い表記です。本来神社信仰は大正中期以降とみなされている宮古で、庚申信仰や稲荷信仰の伝来を明治以前にそ及させ得るとするなら、宮古の信仰史の上からも重要な意味をもつ石碑といえるでしょう。
また仮にも三猿の土偶が「史歌集解」が想定するようにみゃーかの副葬品となみせるならば、松原みゃーかの建造年代。使用時期の考証にも、あるいは大きな意味をもってくることが予想されます。
もしもこの謎が解明されたりしたら、歴史が大きく動くことを示唆していますので、妄想から始まるロマンというものは、あながち悪くないのかもしれません。
さらに追い打ちをかけるように、稲村賢敷の「宮古島庶民史」(1957年)から、宮古島の稲荷信仰らしきものを手繰っています。
下地町の与那覇の赤崎御嶽があげられます。御嶽の祭神が稲荷社と同じ五穀の神であり(中略)、御嶽所在地の原名“皆愛(んなーい)”は、稲荷の転訛であろうとしています。
ちょっと寄せてきている気がしなくもありませんが、「inari」が「mna:i」に転訛したという発想はあると思います。口語化(方言)された言葉を再び漢字へ直す際に、良い意味を持つ文字を当てはめてる例は多いので、皆愛としたとも考えられます。
少し話がそれましたが、三猿の土偶の謎、巨石墓ミャーカの謎も含め、この稲荷大神様の石碑の謎はタイムマシンでも発明されなければ、解かれることはないかもしれません。

最後に余談ではありますが、史跡にも指定されている、久松のミャーカを紹介しておきます。現場で謎とロマンの妄想をしてみてはいかがでしょうか。
第108回 「稲荷大神様」第108回 「稲荷大神様」第108回 「稲荷大神様」
【左】松原のミャーカ。やや小ぶりで迫力には欠けるものの、しっかりと石を使ったミャーカの構造を見ることが出来るもの(解説板あり)。稲荷大神の石碑の道向かいにある。
【中】稲荷大神様の碑の隣りにある松原ミャーカ。左のものより規模が大きいが、崩れかけ草生しているいるので全体の構造は見えづらい。石棺の蓋がずれているので中を覗こうと思えば見えます。
【右】久松地区公民館の隣にある久貝のミャーカ。こちらも規模は大きいが、全体に草生していて構造をみることが難しい。
※市指定の史跡なので、定期的にメンテナンスされていますが、撮影時の状況はこんな感じでした(2016.11.3)。




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