てぃーだブログ › ATALAS Blog › 続・ロベルトソン号の秘密 › 『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」

2016年08月19日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」

宮古で救助されたロベルトソン号の船長、エドゥアルト・ヘルンスハイムが、その後ドイツによる「南洋」の植民地化に貢献した、という内容の第十五話をお読みになって、ドイツにも植民地があったことを意外に思われた方も多いと思います。実はあまり知られていないことですが、ドイツも短期間ながら、世界各地に植民地を領有していました。今回は、本題からは少しそれますが、ドイツの植民地について紹介していきます。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」
【マーシャル諸島 ヤルートの港:ジャルート環礁の独語読み。南洋庁時代はマーシャル支庁のある中心地だったが、マーシャル諸島共和国の首都は北東約300キロにあるマジュロとなっている】

第十一話でも紹介したように、そもそもドイツは、統一国家を樹立したのが1871年で、他のヨーロッパ諸国に比べて国家統一が遅かったこともあり、統一以前の、領邦と呼ばれる小国が分立する状況下では、海外に植民地を獲得する動きはあまり見られませんでした(数少ない例として、1683 年から1717年にかけて、ブランデンブルク=プロイセン王国が、現在のガーナに交易拠点を領有していたことがあります)。

19世紀半ばになってようやく、勢力を拡大してきたプロイセン内部で、海外領土を獲得しようとする動きが生じます。その一環として編成されたのが「プロイセン東アジア遠征隊」(Preußische Ostasienexpedition)です。全権使節の名前を取って「オイレンブルク使節団」(Eulenburg-Mission)とも呼ばれるこの遠征隊は、1859年から1862年にかけて、東アジア各国との通商条約の樹立を目指してアジアに派遣され、日本、清国、シャム(タイ)との間でそれぞれ通商条約(不平等条約)を締結することに成功しています。今から5年前の2011年に、プロイセンと日本の間で通商条約が締結(1861年)されて150周年になるのを記念して「日独交流年」が祝われたのは、このことにちなんでいます。しかしこの遠征隊には、もうひとつのミッション、即ち植民地化の可能な土地を探す、という任務も含まれていました。そして実際に各地を調査した結果、特に台湾が有力な植民地として候補に挙がったこともありました。

このように、一時は植民地獲得を模索する動きもあったものの、その後プロイセンが中心となってドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立(1871年)した後は、諸外国との融和を目指す帝国宰相ビスマルクにより、当面植民地獲得は行わない、という路線が堅持されることになります(プロイセンはこれまでに、北のデンマーク、東のオーストリア、西のフランスと戦争をしていたため、これ以上の諸外国との摩擦は避けたいとビスマルクは考えていました)。しかし、諸外国に倣ってドイツも植民地を持つべきだ、という世論の高まりを受け、ビスマルクも1880年代に入ると方針を転換、植民地獲得に乗り出すようになりました。

この政索転換の背景については、まだ研究が不十分なのでよくわかっていないのですが、ビスマルク本人はあまり乗り気ではなかったようです。むしろ、植民地獲得を求める(特にハンザ都市ハンブルクやブレーメンの)商人たちの要求に引きずられ、現状を追認する形で植民地領有に踏み切ったものと考えられます。事実ヘルンスハイムの日記にも、イギリスやフランスなど、諸外国の商人たちとの競争が激しくなっていく様子が描かれており、彼もまた太平洋地域をドイツ本国が保護領化(=植民地化)することを望んでいました。ヘルンスハイムが宮古を出航後この地で繰り広げた交易活動は、ドイツによる「南洋」植民地化のひとつの布石となったと言えそうです。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」
【カヌー マーシャル諸島:乗船人数が多いので、大型のアウトリガー付のセイリングカヌーと思われます。大洋州では逆三角の帆が特徴です】

次に、ドイツのいわゆる「南洋」植民地(Deutsche Südsee)の詳細について見てみましょう。

ドイツ領の「南洋」植民地は、大きく分けて「ドイツ領ニューギニア」(Deutsch-Neuguinea、公式にこの名称が使用されたのは1899年から)と「ドイツ領サモア」(Deutsch-Samoa)の2つに分けられ、このうち「ドイツ領ニューギニア」は、大きく「ドイツ領ミクロネシア」と「ドイツ領メラネシア」に分かれています。

【前回掲載の概念図~クリックで拡大します】 
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」ドイツ領ニューギニア
【ドイツ領メラネシア】
●ビスマルク諸島(とドイツが1885年に命名した地域)
ニューギニア島東部の沖にある島々(ニューブリテン諸島、ニューアイルランド諸島など7つの諸島からなる、いずれも現在のパプアニューギニアの島嶼部の州群の一部。第十五話参照)。
●カイザー・ヴィルヘルムス・ラント
ニューギニア島の北東部地域(現在のパプアニューギニア。おおむねモマセ地方の州群)。
●(地理的な呼称としての)ソロモン諸島の北部
ブカ島とブーゲンビル島(現在のパプアニューギニアのブーゲンビル自治州)。
ソロモン諸島の領有をめぐり、イギリスとドイツが対立したが、1899年に「サモア条約」が結ばれ、(現在の国名としての)ソロモン諸島(ガダルカナル島を中心とする島々)はイギリス領に、(地理的呼称としての)ソロモン諸島北部のブカ島とブーゲンビル島がドイツ領になった。
wikpedia ドイツ領ニューギニアの領有域の地図 1906】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」【ドイツ領ミクロネシア】
●カロリン諸島(現在のミクロネシア連邦とパラオ共和国)
1899年にスペインから購入。東カロリン、西カロリン(パラオを含む)の2つの行政地域に分けられた。
●北マリアナ諸島(=マリアナ諸島のうちグアムを除く地域。グアムはアメリカ領)
1899年にスペインから購入し、1900年からドイツ領になる。
●マーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)
1885年にドイツが領有を宣言。
●ナウル(現在のナウル共和国)
1888年にドイツが領有。

ドイツ領サモア
現在のサモア独立国(旧西サモア)。
1899年に結ばれたサモア条約により、サモア諸島の西部がドイツ領に、東部がアメリカ領となる(東サモアは現在でもアメリカ合衆国の一部になっています)。

この他にも、一時的にソロモン諸島南部やガダルカナル島を領有した時期もあります。なおこれらの地域をめぐっては、ドイツの他に、イギリス、アメリカ、スペイン、フランスなど
様々な国の利害が錯綜しており、個々の地域の領有の経緯は複雑なのですが、以上がドイツの「南洋」植民地の概略になります。このうち、特にマーシャル諸島の領有とビスマルク諸島の領有には、ヘルンスハイム兄弟も大きく関与しています。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」
【ニューアイルランド島のヌサ:ニューアイルランド島の北端にある都市、カビエンの沖合1キロに、ヌサ・リク島とヌサ・ラワ島はある】

この他にもドイツは、主に以下の植民地を領有していました。

ドイツ領南西アフリカ(Deutsch-Südwestafrika)
現在のナミビア共和国に当たる地域。

ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika)
現在のタンザニア連合共和国の大陸部分(=タンガニーカ)及び現在のブルンジ共和国、ルアンダ共和国、モザンビーク共和国の一部。

ドイツ領西アフリカ(Deutsch-Westafrika)※リンク先は独語版
【カメルーン】
(ほぼ)現在のカメルーン共和国に相当。一時的に、現在のナイジェリア、中央アフリカ、コンゴ共和国、チャドの一部も含まれていた。
【トーゴラント】
現在のトーゴ共和国と、ガーナ共和国の東部。

膠州湾租借地(Pachtgebiet Kiautschou)
中国の山東半島の南部、黄海に面した地域。中心都市は青島。
1898年にドイツが清国から99ヶ年の期限で租借。ドイツ海軍の直轄地となり、東洋艦隊の中心地となる。
第一次世界大戦中は日本軍の攻撃を受け陥落、この地のドイツ人は日本各地に設けられた俘虜収容所に収容されたが、各地で現地の日本人との交流の機会も持たれた(徳島の板東収容所ではベートーベンの「第九」の初演が行われ、広島の似島収容所ではサッカーの親善試合が開かれた)。

またこの他に、ケニアの一部やソマリアの一部を領有した時期もありました。

しかしドイツは、第一次世界大戦(1914-1918年)に敗れたため、ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約。1919年)により海外の植民地を全て放棄することになります。カメルーンとトーゴラント東部はフランスの委任統治領に、トーゴラント西部とドイツ領東アフリカ(タンザニア)はイギリスの委任統治領に、ドイツ領南西アフリカ(ナミビア)は南アフリカの委任統治領となります。さらに「ドイツ領ニューギニア」のうち、赤道以北は日本の、赤道以南はオーストラリアとニュージーランドの、それぞれ信託統治領になりました。国際連盟の信託統治を任された日本は、赤道以北の地域を「南洋群島」と名付け、パラオ諸島のコロールに「南洋庁」を設置して統治を開始しました。

第十五話でも述べたことですが、宮古の人々によって救助されたヘルンスハイムが、ドイツによる「南洋」の植民地化に貢献し、その後このドイツ領が日本の信託統治領となったことで、宮古をはじめ沖縄各地からも多くの人々が移住した(「南洋群島」の各地が佐良浜の人々による南方鰹漁の拠点ともなった)というのは興味深い歴史の巡り合わせとも言えます。しかし同時に、これらの地が、アジア太平洋戦争の激戦地ともなり、多くの悲劇が生まれたという事実もまた、忘れてはならないでしょう。沖縄戦の悲劇さながらに、太平洋の島々もまた激戦地となり、民間人を含む多数の死者が出ました。また「南方」での日本軍の死者の多くが風土病や栄養失調、餓死によるものであった点も、最近の研究で指摘されています。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」
【北マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、ソロモン諸島の位置関係図 ※クリックで拡大】

「南洋群島」における戦争の惨禍については以下の本で詳しく紹介されています。
井上亮:『忘れられた島々――「南洋群島」の現代史』(平凡社新書、2015年)。
これまで見過ごされてきた「南洋」における戦争の真相に迫った良書です。

8月15日の終戦記念日、さらに沖縄では旧盆も迎えた今週、先の戦争について、皆さんも改めて思いを馳せていただきたいですし、様々な視点から戦争について考えていただけたらと思います。今回のお話がその一助になれば幸いです。

毎回の寄り道ですみません。それと、これまで16回にわたり、かなりマニアックな内容を「狭く・深く」紹介してきたので、ここまでの話に付いて行けなくなっている方も多くいると伺っていて、恐縮しています。そこで次回は、ここまでの内容を再度整理して、ザックリとわかりやすく紹介するとともに、登場人物の関係図なども作って、一旦まとめをしてみたいと思います。



同じカテゴリー(続・ロベルトソン号の秘密)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。