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2015年11月10日

第56回 「竹野寛才氏之像」

第56回 「竹野寛才氏之像」

宮古島にある石碑を巡る旅と題して進めている当企画ですが、これまでにも墓石や金属板、銅像なども対象として紹介させていただいております。今回は島で今のところ二体しか存在第56回 「竹野寛才氏之像」が確認されていない全身像のひとつです(もちろん、FRP製の宮古島まもる君シリーズは含めていません)。
しかも、単身の立像としては唯一の例となります。建立されている場所は下地の沖縄製糖の敷地内、与那覇湾沿いの国道からも見えるところにあります。

実のところサトウキビの収穫時期以外は、ほぼ門戸が閉まっており、銅像に近づくことすらままなりません。かといって収穫時期は収穫時期で、サトウキビを満載した巨大なダンプが何十台もやって来るので、それはそれで近づき難いのですが、最近、運よく(なにかの工事で)ゲートが開け放たれており、遂にお近づきになることが出来ました。
像の主は『竹野寛才』という人物でした。
ひとまずは像の台座に記されている解説から・・・。

氏は一九一六年 長崎大学の前身長崎高等商業学校卒業と共に沖縄製糖株式会社の前身たる台南製糖株式会社に入社され、爾来(じらい)五十有余年沖縄製糖の発展に盡瘁(じんすい) 就中戦後は逸早く沖縄製糖株式会社を復興再建し 続いて八重山製糖株式会社 並に八重山食品株式会社を創設され以て農村の振興沖縄経済の進展に残された足跡は偉大なるものがあり仍(よっ)て沖縄製糖株式会社の再建十五周年に当り其功績を讃え 茲(ここ)に像を建立して之(これ)を顕彰す
一九六八年九月一二日

(※1)作農家並有志   
沖糖社並八重山食品従業員
    ※1 正しくは「蔗」の異字体。旧字の草冠に广(まだれ・げんぶ)の中が共の足が人ふたつ) コチラ
    ※( )書きで読みの難しい感じにふりがなを追加。
    ※送り仮名などはそのままにした。

ひとことで云うなら、創業者の像ということになりますが、なんとなくちょっと物足りないので、もう少し独自に掘ってみました(一部繰り返しあり)。

竹野氏は1896(明治29)年10月3日、那覇(那覇区西村)の生まれの実業家。
1911(明治44)年に沖縄県立一中を卒業後、専修大学へ入学するも、中途で長崎高等商業学校へ転学。1916(大正5)年に同校を卒業し、台南製糖へ入社します。
彼が入社した翌年から台南製糖は、戦前に存在した同名三社の沖縄製糖それぞれと合併分離を繰り返して企業の合理化を図るも、1927(昭和2)年の金融恐慌のあおりを受けて縮小。
台湾における糖業を昭和製糖に売却し、1933(昭和8)年に沖縄の製糖部門を独立させた沖縄製糖を設立します。この台南製糖の分割劇の渦中に、竹野氏は工場長、本社総務部長、支配人などの要職を歴任していたそうです。
戦後になると竹野氏は、1952(昭和27)年にすべての債権債務を引き継ぎ、代表取締役となって現在の沖縄製糖を再建します。宮古の糖業の再興を成し遂げただけにとどまらず、1957
(昭和32)年に石垣島に大日本製糖と合弁で八重山製糖(1967年に大日本製糖系列の石垣製糖に合併)を設立。さらにパイン産業にも事業を拡大させ、1962(昭和37)年には八重山食品を設立している。

1969(昭和44)年には沖縄土地住宅を設立(wikiによればいわゆる軍用地主で嘉手納弾薬庫地区の115万坪の土地を所有しているらしい。これらは戦前の台南製糖と沖縄製糖に由来しているとのこと)し、不動産業に進出します。
その他にも、沖縄相互銀行(後の沖縄海邦銀行。一族と沖縄土地住宅が大株主である)、沖縄紙器、琉球製糖(現在は“りゅうとう”と社名を変えて不動産業に転業)、オリオンビールなどの役員を勤めています。また、商工会議所評議員をするなど沖縄の経済界に大きな影響力を持っていた人物だったと云えそうです。
1983(昭和58)年8月23日没、享年86才。
第56回 「竹野寛才氏之像」
※沖縄製糖宮古工場。煙突のマークは台南製糖の〇にTのままです。

そして色々とクグっていたら面白い記述を見つけました。
那覇生まれで竹野姓なので寄留商人の系譜かと思いきや、断定こそされていませんが、どうやら具志堅姓だったのではないとかと推察されており、なんとも興味深い人物であるというところまでは判ってきました。

「具志堅寛才」 グダグダ(β)
近代デジタルライブラリー/沖縄県立中学校生徒成績表(P11右下)

最後に、この像がご本人に似ているのかどうかという点にも触れてみたいと思います。
竹野寛才で画像検索して出てくるのは、USO(米軍慰問協会)が国際通りにある琉球製糖ビル(現在の場所が特定できず)の1階を情報センターにするための賃借借契約の様子として、署名する琉球製糖代表の竹野寛才氏(左)と、USO代表のクレバリー中佐(右)というものが出てきました(写真はリンク先をご確認ください)。

『USCAR広報局写真資料6-1』(撮影年月日1961/2/24)

竹野氏は琉球製糖の代表とのキャプションがあります。
彼が役員をしていたという記録は出てきたものの、代表権のある役員だったのかどうかまでは調べ切れませんでした。しかし、糖業一筋な竹野氏と関係が深いことは想像に難くありません。

第56回 「竹野寛才氏之像」ちなみにこの琉球製糖は、現在、「りゅうとう」と社名を変えて不動産業に転業しており、バヤンタウンの運営などを行っています(製糖業と不動産業は親和性がいいらしい)。
尚、1951(昭和26)年に沖縄南部製糖として設立され、1952(昭和27)年に琉球製糖に改称。1993(平成5)年に製糖事業を翔南製糖へ営業譲渡しています。
その翔南製糖は、中部製糖(さらにその前身は西原製糖と琉球農連第一製糖で、現在は不動産業に転業した新中糖産業として工場跡地にサンエー西原シティを建設した)と、第一製糖(現在は金秀グルーブの一員でホームセンターなどを運営する金秀興産)と、琉球製糖の三社の製糖部門から成立していた。
そんな翔南製糖も、今年9月に球陽製糖(農協系の沖縄県経済農業協同組合連合会と北部製糖からの事業譲渡により設立/1998年)と合併し、「ゆがふ製糖」となっている(猛烈に複雑な経緯なので、間違っていたらごめんなさい。誰か沖縄の製糖業の変遷をまとめてくれ~)。

さてさて、話を戻して似ているかどうかですが、写真は1961年の撮影なので65才くらいのお姿で、署名のためか眼鏡をかけています(その上小さい)。一方、像は1968年の建立なので、鋳造する段階で元画となったものがあるはずで、少し前のものではないかと推察されるので、おおよそどちらも近い時代あろうと考えられます。
ま、なんとなく似てるような似てないような・・・。なんとも微妙な感じを覚えました。アナタの目にはどう映りましたか?。




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