2015年10月16日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第六話

一部読者の方から、エドはいつなったら宮古に来るのか、じれったい、とのお言葉を頂戴しておりましたが、お待たせしました、今日はついに宮古漂着となります。
【下】うえのドイツ文化村のシンボル、マルクスブルク城とドイツ商船遭難の地の碑

中国からオーストラリアへ茶葉を運び、帰りに石炭を積んで中国に戻る、という交易スタイルに魅力を感じ、さらにあわよくば南太平洋での交易にも参入しようとの野心を抱き、エドゥアルト・ヘルンスハイムは再び中国の福州で茶葉を積んで1873年の7月3日に出航、オーストラリアのアデレードを目指します。
資金を援助してくれた彼のおじの名を冠したスクーナー・ロベルトソン号(R.J.Robertson)は、当初予定していた台湾海峡を南下するルートを変更し、台湾の北の沖から宮古諸島付近を通過する東寄りのルートを取ることにします。
7月6日の朝には、当時ヨーロッパ人がPinnacle Islands(ドイツ語ではPinnacle Inseln)と名付けていた尖閣諸島付近を通過します。
少し話が逸れますが、エドゥアルトが東寄りのルートを取ったという点は、異国船の宮古島漂着全般について考える上でも重要になりそうです。
彼は日記中で、ルート変更の理由として、台湾海峡を南下しようとして南風の逆風に見舞われたこと、また台湾海峡を北向きに流れる強い海流の影響を挙げています。となると、中国各地からアメリカ・オセアニア方面を航海する際に、北向きの海流を逆行して台湾海峡を南下するルートはあまり好まれていなかった可能性が高く、そうなると(まさにエドゥアルトが取ったように)宮古諸島と沖縄本島の間を抜けて太平洋に出るルートが、特に中国から出帆する場合にかなり一般的であったのではないか、と考えられます。ですから、近世の宮古に異国船が多数漂着した理由のひとつとして、中国大陸を出航した船の主要な航海ルート上に宮古島が位置していたという事情が浮かび上がります。

尖閣諸島付近を通過した頃から、順調だった航海に陰りが見え始めます。7月7日の夜になると、天候の悪化を告げる様々な兆候が現れてきます。エドゥアルトの日記によると、夜になると水平線上に多くの星が燃えるように光るのが見え、初めはこれを海上に浮かぶ船の明かりかと錯覚したそうです。また金星も太陽のように眩しく輝いていたのですが、これらはまぎれもなく海が荒れる兆候であるとエドゥアルトは予感します。
ともあれ、翌7月8日の朝6時、船は尖閣諸島を通過後に、最初に視界に入った島として宮古島を確認し、同日12時には船の西側に島の南端が位置していたと、エドゥアルトは記録しています。
なおTypinsan=太平山こと宮古島の「南端」が島のどの部分を指すのかはわかりませんが、これを島の東南端である東平安名崎と考えると、船は尖閣諸島から東南東方向へ舵を取り、宮古島の東の海上を通過していったものと考えられます。
ここで船長エドゥアルトは、これまで取っていた東に向かう進路を変える決断をします。
台風がフィリピンから琉球諸島の南東の海上を、琉球諸島と並行して北東に進むと考えた彼は、このまま船を東に進めれば台風に巻き込まれると判断、むしろ台風が先に去る南を目指そうとしたのです(しかも台風の西側にいれば、北からの強い風に乗って早くフィリピン着けると読んだようです)。船が島に接近して岩礁に乗り上げるのを何よりも恐れ、なるべく宮古島から離れようと、エドゥアルトは正午から夜8時まで、時速8海里(約15km)の速さで航海を続け、一度は宮古島の南東65海里(約120km)の海上まで離れます。これで岩礁に乗り上げるリスクはなくなったはずだったのですが、ここで彼にとって想定外の大きな誤算が生じます。南西から北東へと流れる海流、つまり黒潮の存在です。これではまさに台風に向かってしまう、と必死に舵を南に向けるエドゥアルト、しかしここに折からの台風に伴う東風が吹き付け、ロベルトソン号の南下を阻みます。
【下】ドイツ村の案内図には座礁位置の案内も!

エドゥアルトの予想に反して、風向きは依然東のままで、北東には変わらず、南西方向に舵が取れません。彼にできることは、暴風の影響を最小限に食い止めるために船の帆をすべてたたみ、船室に閉じこもることだけ。
しかしこの嵐で、10人の乗組員(中国人2人とドイツ8名)のうち、2人のドイツ人が波にさらわれて死亡し、ドイツ人2人が負傷しました(一人は水の力で押し上げられた円材に挟まれた舵手、もう一人は海に投げ出され救出されたものの足を骨折した船員)。
特に、若くて勤勉な大工のオルヘーフト(Olhöft)が亡くなったことはエドゥアルトにとっては大変な痛手でした。しかも風向きは、エドゥアルトの予想とは逆に、東南東から南東へと変わっていきます。つまりロベルトソン号は彼が最も望まない北西方向、つまり宮古島の南岸へと向かってしまいます。
7月10日、まだ波は高いものの、夜までに風はだいぶ収まり、エドゥアルトは48時間ぶりに夕食を取ることができたようです。
翌11日、どうにか台風を切り抜けた彼は、まずは台湾の基隆を目指そうと決意、船内の海水をくみ出し、帆を張って舵を直す作業に入ります。その直後、彼は水平線の先に黒い線、つまり島影を捉えます。しかも船は風に乗ってどんどん陸地へと近づいて行きます。このままでは船が座礁してしまう、ということで救命ボートを下ろしますが、この作業中にドイツ人船員1人が足を負傷、しかも運悪く救命ボートが壊れてしまいます。すぐに船から脱出できないことになったロベルトソン号の船員たちは、まずは船の転覆に備え、アンカー(碇)を下ろして船体を固定します。
その直後、大きな波が船を襲います(碇を下ろしていなければ、この時点で船が転覆していた可能性が大きかったでしょう)。この時、若い中国人が食料品の樽に叩きつけられて負傷する不運に見舞われ、これで負傷者は計4名にのぼり、動けるのは白人3人、中国人1人になってしまいます。


【左】矢印のあたりが、ロベルトソン号が座礁した宮国沖、ンナト浜のリーフエッジ 【右】国土地理航空写真(1995年)
不運に次ぐ不運が重なって、宮国沖に碇を下ろしたロベルトソン号。この絶体絶命のピンチを、船長エドゥアルトはいかにして切り抜けることができたのか、次回はロベルトソン号の乗組員救助の詳しい経緯やその際のエドの心境、さらに彼の宮古島滞在の様子なども追っていきたいと思います。とは言え、これら一連の経緯については、以下の書籍でも詳しく述べられていますので、詳しく知りたい方はこちらもご覧いただきたいと思います(どちらも宮古島市立図書館にも所蔵されています)。
『ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』
エドワルド・ヘルンツハイム著、上野村編纂・翻訳、上野村発行、1995年
※エドゥアルトの日記の日本語訳です。
『かがり火:ロベルトソン号救助物語』
新里堅進翻案・作画、上野村役場企画調整課発行、1996年
※ロベルトソン号救助を題材にした劇画です(やや脚色あり)。
今回のブログの参考文献
Jacob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2011.
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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