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2015年06月26日

その2 オクハラさんのカツオ節



『10キロ超えのトビダイが大漁!』
友人たちのFacebookやブログに、そんな話題が上る季節がやってきた。
トビダイとは特に大型のカツオのこと。近海のパヤオ(浮き漁礁)で、カツオは通年獲ることができるが、10キロ超えの大物が釣れるのは、5月から9月ごろまで。夏はカツオ漁師たちにとって勝負の季節だ。
その2 オクハラさんのカツオ節
伊良部島の佐良浜の港が武者震いにも似た活気に包まれると、オクハラさんも忙しい。オクハラさんは、佐良浜港近くでカツオ節工場を営んでいて、家族はカツオ船も操業する。つまり漁獲から、加工、販売までを一家で行っているわけだ。いわゆる家内6次産業化だ。
それはともかく、カツオの季節はカツオ節工場操業の季節でもある。夏、カツオ船の水揚げが始まると、オクハラさんはフォークリフトでふたつの工場と港の間を、日に何度も往復することになる。それはもう港沿いの道を5分も歩けば、必ずオクハラさんとフォークリフトに出会うくらいだ。

カツオを生のまま
その日のうちに加工する。
それが、昔からの方法なんだ。


近海で一本釣りされたカツオは、その日のうちに水揚げされる。刺身で食べたいような新鮮なやつを第1の工場で生切りにし、籠に並べて煮る。煮あがった後、丁寧に骨抜きをしたものが『なまり節』だ。なまり節は、そのままで島のソウルフードだが、それを燻し(焙乾)、乾燥させることで『荒節』になる。荒節を削ったのが花カツオで、大型のカツオを焙乾したものは『本節』とよばれる。

その2 オクハラさんのカツオ節そもそもカツオ節工場は、カツオ漁のはじまりとともにあった。冷凍技術のない時代、カツオを獲ってきたら、そのまま食べる以外には、すぐに調理加工する必要があったからだ。
昭和40年台まで、佐良浜にはカツオ節工場が7軒あり、男たちを乗せたカツオ船が、大漁旗を掲げて帰港すると、女たちは大急ぎで工場に走ったもんだよと、オクハラさんはいう。

記録をたどれば、昭和43年当時、池間、佐良浜地区あわせて16軒のカツオ節工場があり、カツオ節生産量358トン、生産額は6億4千万円にのぼる。
そして現在は17トン。当時のわずか5パーセントである。

窯で燻すときには
ものすごく煙がでる。
近所迷惑になると思ってね。


その2 オクハラさんのカツオ節なまり節からカツオ節にする作業は、少し離れた第2の工場でおこなわれる。
そのためオクハラさんとフォークリフトは、ますます行ったり来たりを繰り返すことになるのだが、昔は同じ場所ですべての作業をしていた。もちろんその方が効率がいいに決まっている。
ただ、燃料に薪を使う焙乾の工程では、窯の温度が上がりきるまで盛大に煙がでる。かつては、工場から白い煙が立ち上るのは当たり前の風景であったし、カツオの燻される薫りの中で、佐良浜のみんなは暮らしていた。誰もがなにかしらカツオの仕事で生きていた。
でも、今は違う。工場の煙ひとつにも気を使う。というわけで、工場を集落から少し離れた場所に移したのだと、オクハラさんは少しさびしそうだ。

時代とともに人の暮らしも食卓も変わったが、それでも沖縄県は屈指のカツオ節消費県だ。そして、その沖縄で獲れるカツオの7割から8割が佐良浜のカツオ船の水揚げだということは、あまり知られてはいない。
今年も西里の居酒屋に『トビダイ入荷しました!』の品書きが目につくようになった。
※記事内の画像はwriter提供のイメージ画像です。

《第四金曜担当》 きくちえつこ
池間島在住、足かけ 4 年のナイチャー。
宮古で出逢った「かいまい くいまい」から聞いた、ちょっと「へえ~っ!」となる話を、ゆる~ゆる~っとご紹介。
考察も、オチも、ありません。ごめんなさい・・・。

『かいまい くいまい』 = 「あの人やら、この人やら」



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