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2015年12月25日

その8 平良港で42年

その8 平良港で42年

スナカワさんが平良の港で働き始めたのは、復帰後間もない1974年。スナカワさんは19歳で、建築設計関係の学校に進むための、学費稼ぎのアルバイトだった。当時の宮古島は公共工事の建設ラッシュ。業界の将来は約束されたようなものだったから、同級生の多くが、設計や建築を学ぶために進学をしたという。
宮古島市史の資料『産業別従事者数』によると、建設業従事者が、1970年の865人から75年には2122人に急増。業界の好況ぶりが想像できる。

神戸の学校に行くまでの、ちょっとの間のつもりだった
あるとき社長に呼ばれて、本式採用だと
もちろん断ったけど、親が勝手に話をすすめた
こっちはたまったもんじゃないよ(笑)

その8 平良港で42年
島を出たい息子と、島から出したくない親。今でこそ本土は近いが、復帰直後の、ましてや離島だ。一度島から離れてしまえば、また戻ってくるという保証もない。息子をなんとか島にとどめたいという親の気持ちは強かった。その想いにスナカワさんは負けた。長男としての責任感もあり、しかたなく社員になったが、あきらめはなかなかつかなかった。

友人たちが次々と、大きな船で島を出ていく
万歳、万歳!と叫んで、ホタルの光が流れて
意気揚々と、五色のテープ握りしめてるわけ
俺は荷役をしながら、汗だらけになって、それを見てる


遠浅で、満潮時でも船の接岸がままならなかった平良港は、復帰後、急速に整備が進む。74年には、琉球海運の大型貨客船『ひめゆり丸』が、平良と那覇の泊を結んでいた。宮古から本土へ行くには、ひめゆり丸で那覇に行き、そこからまた船に乗った。那覇まででも12時間の長旅だった。
港湾が拡大し、人手がほしい港の会社で働く若者も、拡大した港から貨客船に乗って島を出ていく若者たちも、みな同じ激動の中にいた。
「五色のテープは希望の象徴みたいだった。海の向こうに果てしない夢があるような。どうして自分だけがここでと、悔しく思わない日はなかったよ」

荷物はひとつひとつ、船から釣り上げて陸揚げする
材木とか大きなものは、商人たちがトラックで取りにくる
生活雑貨や衣類、米豆など食料品は、馬車が運んだ
荷馬車は、8台くらいあったんじゃないかな


宮古丸や八汐丸が港に500から600トンの貨物を下ろす。コンテナのない時代、荷役はバラ積みされた貨物を仕分け、パレットに乗せてウィンチで陸に揚げた。島中で工事がおこなわれていたから、建築資材も多い。袋詰めのセメントの量も半端ではなかった。
それに加えて、島で使われる物資のすべては港を通過する。西里の商店街で扱われる商品の運搬には、荷馬車が大活躍していたという。
荷馬車は、1978年、貨物を積んだトラックが、そのまま船内外へ自走できる『RORO船』への切り替えで姿を消した。
その8 平良港で42年
馬車からコンテナに変わり、客船もなくなった
港の人の流れも荷物の流れも、その風景も変わっていく
大型トラックやトレーラーもどんどん導入された
大きな車両や重機を扱うことが楽しくなってね


近代化は急激にやってきた。荷役の仕事は人力から機械へとシフトする。巨大な車両を自在に扱う男は理屈ぬきにカッコいい。スナカワさんは片っ端から資格をとり、大型クレーンには6年乗った。
一方、人々は船よりも飛行機を選ぶようになり、港からホタルの光も五色のテープも、万歳の声も消えた。

平良港では、今また、新バースの建設が進み、来年には完成する。公共工事も堅調だし、外国クルーズ船の入港も大幅に増えることが見込まれる。物流の水際は、いつも時代と経済を反映し変化していく。

そうそう。42年前、汗まみれで荷役の仕事をしていたスナカワさんは、一昨年、その会社の社長さんに就任した。五色のテープを握ることはなかったが、夢と希望を港に見つけたという。

【参考資料】
平良港湾事務所 写真で見る平良港
平良港の「みなと文化」 仲宗根 將二(pdf)
琉球海運 沿革史
戦後 走り去った貨客船たち 琉球海運 ひめゆり丸 復刻2007 06 29

《第四金曜担当》 きくちえつこ
池間島在住、足かけ 4 年のナイチャー。
宮古で出逢った「かいまい くいまい」から聞いた、ちょっと「へえ~っ!」となる話を、ゆる~ゆる~っとご紹介。
考察も、オチも、ありません。ごめんなさい・・・。

『かいまい くいまい』 = 「あの人やら、この人やら」



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