2016年02月26日
その10 マリコさんの宮古大学 [前篇]
初めて会ったのは、沖大存続を支援する会の宮古集会
彼は沖大の自治会と一緒にやってきたんだと思う
なんだ、この変なおじさんは?って感じだった
学生たちに交ってふらりとあらわれた変なおじさん、その人こそ戦後日本を代表する写真家、東松照明だ。日本のアメリカニゼーションをテーマに、基地周辺で作品を撮りつづけていた東松照明は、19
73年、宮古島に居を移す。島の暮らしは、彼の作品を根底から変えたといわれ、後に『太陽の鉛筆』として結実した。
「太陽の鉛筆」 船出のシーンについて(右上)
これは、K子とKが進学のために島を離れるときだった。真ん中にいるのがMで、胸のところでテープ握りしめてるけど、実は女物の財布を抱えてるからおかしくって。手前の腕は私。思いっきり指さして笑ってる。(マリコ 談)
マリコさんは、宮古上布に魅せられて、19歳で名古屋から単身宮古にやってきた。東松照明との出会いとなった集会は、その2年後のことだった。沖縄返還前に、少女がたったひとり、上布を織るために宮古へ移住ということ自体がドラマで、当時の宮古上布界にとってはセンセーショナルなことなのだが、その話はまたいずれということで、本題に戻る。
沖大の先生たちが何度か宮古に来て
入試を受けてくれないかと。受けるだけでいいからって
沖大の学生だったOにも声かけられて、受験のまねごとしたんだよね
復帰にあたり、沖縄県の複数の私立大学は、日本の大学設置基準に達しないとされ、当時の文科省は大学の統合をすすめた。それに反発した沖縄大学は、存続のための闘争を開始。その動きは、県民全体に広がっていく。署名運動やデモも大々的におこなわれたが、同時に教授らは各地を回って、実績作りのための入試などを実施していたらしい。
マリコさんが織り手として通っていた上布工房『きゃーぎやー』は、Oさんの実家のそばにあり、一緒に働いていた同僚の中にも沖大出身者がいたことから、ご近所に沖大支援の輪が広がったとマリコさんはいう。
宮古島の沖大存続を支援する会が、いつ誰が立ち上げたのか、マリコさんははっきり覚えてはいない。ただ、その後の活動は、入試に参加したマリコさんら20歳前後の若者たちが中核を担うことになっていったという。
沖大のための集会とはいっても、沖大の下部組織ではないよと
だから集会は自由に誰もが言いたいことを話すことになったの
ほんとのところ、誰も沖大がなくなるとは思ってなかったしね
マリコさんたちは、現市役所の道向えにあった婦連会館で宮古集会を開催する。
「最初は多分大学の自治会が何かしゃべったんじゃないかな?そして、たまたま、私が、支援する会を代表して挨拶することになり、あとはみんな自由にしゃべりたいことしゃべってって、そんな感じだった。いろんな人が来て、好きなこと話したよ。気に入らない人の番が来ると、みんなサーッと部屋から出てね(笑)」
プログラムも司会もない、自由な集会だったとマリコさんはいう。そして、そこに居合わせたのが、冒頭の東松照明だったというわけだ。
お金を出し合って事務所を借りた
毎日集まって、ガーガー議論して。みんながーずーだったからね(笑)
東松さんは、私たちを見守るようにいつもいた
それは「うえすや」の向え側あたりにあった。東松照明は、パイナガマ近くの、もと家畜保健所として使われていたスラブヤーを借りて住んでいて、若者たちが集まる事務所に熱心に顔を出した。でも議論に口をはさむことはあまりなく、言い出したことはけして引かない意地っ張りな連中の熱いやりとりを、静かに見守っている風だったとマリコさんはいう。
それから間もなく、沖大存続の見通しもたち、支援する会は『宮古大学』と名前を変える。
「この名前が決まるまでが生みの苦しみ。みんなでうんうん考えて、やっと」
宮古大学は宮古を大きく学ぶという意味だという。その名のとおり、若者たちは、『自己の足もとを凝視し、宮古島の視点からすべての問題をとらえなおす』というテーマのもとに、過疎や離農の問題に向き合い、人頭税廃止運動について聞き取り、手づくり誌『すまりゃ(染人)』を発行する。
「東松さんは、私たちの議論を楽しんでいるみたいだった。お前ら、ほんとに面白いなと。私たちは誰も彼が写真家だということも知らなかったし、東松さんから写真の話が出ることもなかったと思う。ただ、課題や方法などは、いつも東松さんがアイディアやアドバイスをくれた。私たちの誰よりも、宮古島のことを知っていたから」
◆次回、[後篇]に続く-To Be Continued-
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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