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2018年10月16日

第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」

第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」

今回ご紹介する石碑は下地は嘉手苅の神社改築紀祀念碑というものです。はて、嘉手苅に神社なんてあったっけ?といいたげなところから始まります。まあ、周辺のネタをつまみ食いしながら、やや行き当たりばったりでお届けしてみたいと思います。さて、はて…。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
立派な石碑にはどーんっと、「神社改築紀祀念碑」と大書きされています。それもなんと大正九年九月と。西暦に換算すると1920年ですから、かれこれ100年近い昔のモノになります。もうこの石碑そのものを文化財に指定して欲しいくらいです。戯れ言はともかく、石碑には神社とされていますが、こちら、嘉手苅の集落の南方に位置する大御獄(ウプうたき)に建てられている石碑です。
これまで御獄の神社化については、何度かここでも取り上げていますので割愛させていただきますが、大正時代から戦前にかけてという時代は、御獄に鳥居を建てたり、社殿を設けたりと、神道が呑みこもうとする時代でした。特に名前の通った大きな御獄ほど、神社化の魔の手にかかって鳥居や社殿の建設がされたようには感じました。
そんな御獄不遇の時代にあって、この嘉手苅の大御獄は他とは少し違う状況にあったようです。というのも、石碑に神社改修と銘打っておきながら、この御獄には鳥居や社殿は一切なく、よくある中規模な御獄と同じように小さな祠と拝所(小屋)があるだけで、まったく神社の趣きがみられないのです。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
【左 斜面に鎮座する大御獄の祠】 【右 御獄の斜面から南方を望む】

もうひとつ面白いのは、この大御獄がある地形的なもの。少し広範囲に見てゆくと、嘉手苅集落は旧下地町の東端に位置し、旧上野村字上野(かつては同じ下地村字嘉手苅だったが、旧上野村の分村に伴って嘉手苅東部は新たに字上野として独立した)との境界となる、ウエノミネ~アガリミネ高地の南斜面に広がる集落で、そのまま緩く入江湾に向かって起伏の少ない平地が続いています、この大御獄はそんな集落の南外れにぽつんと島のようにある小山の麓にあるのです。
写真をよく見ると石碑よりも祠の位置がかなり高いことが見て取れるのではないでしようか。御獄には屋根つきのコンクリート製の拝所(籠り小屋)や、井戸もあったりと“ウプ”と称されるだけの設備があり、ある意味ではこの改修で派手に神社化されなかったのが不思議なくらいです。だからとって資金不足だったとは思えません。石碑の裏には「石碑奉納者」として37名の名前が刻まれているのですから。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
折角なので、少し嘉手苅周辺の話もしておきましょう。当たり前のことなのですが、大御獄以外にも嘉手苅集落周辺には御獄が点在しています。地図の緑の丸印がすべて御獄で、それぞれ①大御獄、②中御獄、③龍宮御獄、④ミズドゥ御獄、⑤ンマウビャウ御獄、⑨西の御獄、⑩上の嶺御獄、⑪里主前ぬ御獄となっています。
③の龍宮御嶽は「下地町伝説遺構(下地町教育委員会 2004年)」によると、大昔、嘉手苅が大津波に襲われた時、この龍宮御獄のある場所で津波が方角を変え、集落は守られたことから津波除けの神様として祀られた記されています。地形的にも確かに南の入江湾側から津波が嘉手苅の集落に向かって遡上して迫って来たら、津波の勢いにもよると思いますが、それはまさに恐怖でしかないでしょう(眺望よく目の前に広がっているほどなので)。それが方向を急に変えて逸れて助かったということになったら、やはり拝んでしまいますよね。
ただ、これ。神通力的なものではありません。実はこのあたりに入江湾と与那覇湾を分ける、宮古でおそらく1~2を争う低さの分水嶺があるのです。だから、丘を登りきれなかった津波が向きを変えて、与那覇湾の方へと流れて行ったのでした。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
【左 ④ミズドゥ御獄。繁茂していて祠が見えない】 【右 ⑬名称不明の井戸と拝所】


水にまつわる御獄としては、④のミズドゥ御獄もなかなか興味深いです。嘉手苅は集落の南方は背後地の高地から滲み出す湧水(ズクやバダ)が多く、古くから繰り返し治水が行われていた地域でもあります。この御獄は周囲より若干低い位置に祠があるのですが、だいたいいつも水没しているなかなか類を見ない面白い御獄なのです(治水の進んだ現在は水没率はやや低めとなってしまった)。
また、オレンジの丸印は畑の中に小さな集石と湯飲みなどが残されており、どうやら定期的に誰かがなにかを拝んでいる痕跡がありました。よくよく見てみると西方の畑の向こう側に、下地神社(ツヌジ御獄)の森が見えているのです。これはもう明らかにツヌジ御獄の遥拝していることが見て取れて、非常に面白く思いました(御獄というよりは遥拝所)。
そのオレンジの丸印の両サイドにある青い丸印(⑥⑧⑬)は掘り抜きの古井戸で、⑥の井戸はンミャーガーという名前が判明しています。前述したようにこのあたりは水の湧く場所であり、井戸のあるあたりから国道を越えると、そこには崎田川へと続く水路があるので崎田川の水源はこのあたりとも考えられます(もう少し西の川満と上地の字境にある宮星山(ンナフス)は下地町時代に水源地として整備され、その後、水質の問題もあって水道企業団入りして野原から水をもらうようになり、現在は中継タンクがあるだけですが、この丘の直下に枯れることのない湧水があり、親水公園としても整備されており、こちらが崎田川の水源とされていますが、河川延長は嘉手苅川の方が長くなります)。
また、⑬は集落外れの畑地にある井戸で、井戸の隣りには拝所があり、平良市史の御獄編にも掲載されているのでいすが、なんと「名称不明」という名前なのです。どうも、かつてあった家の井戸だったらしく、その家の縁者が時折拝んでいるらしいというだけで、詳細が判らないといういわくのある井戸(御獄編の発刊が1994)。
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【左 ⑦ツヌジ御嶽の遥拝所】 【中 ⑥古井戸、ンミャーガー】 【右 ⑧名称不明の畑の中の井戸】

嘉手苅と水に関連してもうひとつ。これはホントについ最近、知ったばかりなのですが、嘉手苅集落のさらに南方。だいぶ入江湾に近いあたりに、嘉手苅洞泉という洞穴の中に水の湧く場所があります。洞泉はそれほど大きくありませんが、パイプが洞奥へと設置されており、近年まで農業用水として取水されていたようですが、今は使われていないようです。洞穴の斜面を少し降りて穴を覗いてみると、透き通った水が満ちており、嘉手苅周辺がとても水に縁のある土地であることを感じさせてくれました。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
【嘉手苅洞泉】

最後は、水とはなんら関係はないけれど、大御獄の隠された秘密を妄想に乗せて締めたいと思います。
大御獄は集落南側の小山にあると書きましたが、この御獄のある小山の麓には、なんと小型の壕がいくつも確認されているのです。崩れて埋まっているところや、墓として二次使用されていると思われる場所もありますが、小山を取り囲むように壕があることから、大御獄は陣地として利用されていたと考えられます(御獄には井戸もあるので、兵が生息する環境にも適している)。しかも、小山の頂上付近には半ばつぶれていますが、円形の石組のようなものもあり、監視陣地か銃座ではないかと考えられます。
しかも、嘉手苅集落の背後地はウエノミネ御獄からイリノソコにかけて、大型の対空陣地があり、大御獄の小山はその前線基地のような位置になるからです。
第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」
【大御獄の小山に開いている壕郡の一部】

おそらく南方の入江湾方向から敵が上陸して来ると想定され、水際作戦(沿岸部に銃座や障害物などを構築している)に次ぐ、二次防衛線のそのまた前線基地のひとつなのではないかと、勝手に戦略的な想像をしてみます。大御獄の南方一帯はほぼ平地で、上陸した敵が進軍がして来るラインのひとつと考えられます。集落背後のイリノソコ陣地の後方は、陸軍中飛行場戦闘指揮所を含むナベヤマバラの陣地があり、さらには千代田カギモリ原の陣地(旧千代田CC)やヲナトゥの陣地(推定)などが広がる野原・千代田・豊原。その最奥の野原には、宮古島の軍の中枢となる野原岳司令部があります。
幸いなことに宮古島は空襲と艦砲射撃ばかりで、上陸戦は行われることはありませんでしたが、仮に宮古島上陸作戦が敢行されていたとしたら、この大御獄周辺はおそらく最前線のひとつとして、激戦地となっていたのではないかと妄想します。そのくらい戦略的な位置にある御獄だったのではないかと、現在までに判明している戦時中の痕跡や資料から、誇大妄想してみました。




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