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2018年07月10日

第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」

第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」

先々週の棚根のバス停、先週のイストゥマイの幸せ神社と偶発的に発見した、とれたて新鮮“産直”の石碑を紹介していますが、今週はその第三弾!。これだけ石碑を取り扱っていながら、さらなる新発見(自分的に)が出てくるのですから、宮古島の石碑文化は本当に奥が深いのです。そして先人たちが地道に記録をしてくれているのです。
今回もそうした新発見の石碑なのですが、さすがにそのままだとただの「記念碑」というタイトルで、ネタ的な広がりもちょっと薄そうなので、マシマシにしてみました(それだけちゃんと調べ切れてないともいう)。
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」
まずはタイトルの「飛鳥御嶽改築記念碑」です。こちらは既知の碑です。場所は宮原(増原)にある飛鳥(とびとり)御嶽の表参道から鳥居をくぐってすぐのところにあります。
ちょっと赤茶けたコンクリート製の石碑は、昭和13年に南増原集落の人々によって改修され、碑が建てられました。

【下:改修前、2011年4月の表参道】
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」飛鳥御嶽は平良は宮原(東仲宗根添)の増原と、城辺の長間(山川)の境にある東西に細長い小山で、御獄はその小山のほぼ中央にあります。小山を覆う御獄林は「飛鳥御嶽の植物群落」として宮古島市の天然記念物(植物)に指定されています。
この御獄がある場所は、かつてこの地域(西銘間切)を支配していた飛鳥翁の居城だって西銘城であり、翁の死後、御獄に祀られたといわれています。しかし、この飛鳥御嶽の北の海岸沿いには西銘御獄(北増原)があり、こちらも西銘城の跡に建てられた御獄とされています。
この西銘と飛鳥はそもそも血縁関係であり、飛鳥が子息が担当する支城であるとか、世代交代で移転した新しい居城であるなど、古文書の読み込みによって諸説が入り乱れており(伝承や書物も記載名の揺らぎが大きい)、郷土史研などて研究が行われている事象でもあります。
ざっくりとつながりを整理しておくと、まず登場するのは好青年、炭焼太郎(すみやきだる)です。色々あった野崎の真氏(もーす)と色々あって夫婦になり、西銘の主・嘉播親(かばにゃ)と名を変えて就きます。そして三男二女をもうけまが、三兄弟はとてもぼーちらーで、嘉播親は家督を譲らず、財産分与して分家させます。しかし、三兄弟は嘉播親を謀殺するプランを練るも失敗します。
また、姉妹の方は、姉・思目娥(うむいめが)は、根間(にーま)大按司の次男・角嘉波良天太氏(つぬがーらてぃだのうふむす)に嫁ぎ、のちに宮古島を統一する目黒盛豊見親を産みます。妹は保里天太の次男居士佐加利に嫁ぎ、眞徳金を産みます。この眞徳金は色々あって跡継ぎの男子がいなかった西銘按司(西銘城主)の家督を継ぎ、現在の飛鳥御嶽に城を移し、飛鳥翁となったなどなど(諸説あります)。
ご存知の通り、目黒盛豊見親子孫は宮古の超有名人、仲宗根豊見親であり、彼を養育した大立大殿は、目黒盛と覇権を争った与那覇原の一族(目黒盛と戦ったのは佐多大人)で、敗れた与那覇原の再興を目指した与那覇勢頭豊見親が、沖縄に出帆した白川浜(高野漁港のある浜)は、色々あって決闘して負けた飛鳥翁の最期の地だったりします。もう大河クラスの波乱万丈な物語が展開されるので、色々と妄想が捗る歴史と伝承が詰まっています。
詳しくはそう、宮古島市の通史「みやこの歴史」か、慶世村恒任の「宮古史伝」あたりが詳しいです。
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」
【左:改築された籠り小屋と奥の祠 2018年】 【右:2011年に撮影した、改修前の祠】

さてさて、御獄の方なのですが、実は先ごろ飛鳥御嶽の祠がリニューアルしました。スタイルはオーソドックスな従来の形状を踏破していますが、まっさらなコンクリート作りに変貌していました。
それと同時に、この御獄に通じる裏参道などがちょっと綺麗になっていました。
実はこの飛鳥御嶽はメインの大鳥居から続く立派な表参道(西)とは別に、祠の裏手(東)に続いてる裏参道があり、さらに南参道(現在は利用者がなく廃道)に加え、北にも小径があり(尾根線で裏参道に合流する)、4方向からそれぞれ御獄に参詣できるような構造になっています。これは周辺の集落(西≒南・北増原、東≒山川、南≒当根川・山田、北≒真良瀬嶺)から続いている道があり、強い信仰の対象となっていたのだと考えられます(南参道の集落からの参詣は途絶え久しく、今回のリニューアルでも道開けはされなかった。理由として、最近まで山裾に鳥居があったのだけれど、鳥居そのものが崩落してしまったため現在は撤去され、名残りとして石段がわずかに見えているだけとなっている)。
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」
【左:新しく改修されたことを祝す垂れ幕】 【右:御獄の北側に広がる圃場整備】

北側は御獄の森のギリギリのところまで、圃場整備が最近になって行われて風景が一変しました。そして圃場の中に強引に作った急坂の道(最早、北参道とは呼べないレベルと思ったので、小径と云い現わした)が造成されています。

さてさて、いよいよ、本題です。
この元・北参道てあった急坂が気になって登ってみたら、東からの裏参道に合流していたのでした。そしてすぐそばに裏参道の鳥居があり、その脇に今まで知らなかった記念碑を発見したのでした。
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」
コンクリートで作られた碑には、大きく「記念碑」とだけ刻まれ、年月日なども一切不明ですが、裏に仲間恕和、仲間真徳金、平良玄信、下地朝宗4名に加え、戸主会長、清年團長と書かれていました(漢字は原文のママ)。
恐らく、鳥居の建立を記念したものと思われます。ささやかな碑ではありますが、この飛鳥御嶽のいわれや、御獄の構造、信仰の力など、さまざまなものが見えてきてとても興味深いです(もしかしたら失われた南参道の鳥居にも建立記念の碑があるかもしれないと、ちょっと萌えます)。
第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」
【右:裏参道の鳥居と記念碑。北参道の分岐付近より】 【左:西端にあるシュガーカー】

最後にオマケとして飛鳥御嶽の西側の端、圃場整備された畑との境にあるカー(川≒湧水)。シューガカーも紹介しておきましょう。漢字で書くと「主が井」と思われるので、飛鳥主(とびとりしゅー)を意味するものと思わます。
大きな祭祀では供物を煮炊きして作ることもあり(この地域は今もミキを作っている)、そうした準備の場が近くにあることから、このカーの水が使われていたものと考えられます(現代ではもっと近代的に衛生的な作り方をしているようです)。

※御獄と御嶽。
基本、市史編纂などでも山冠のない獄を使いますが、固有名詞として使われている場合はその限りではありません。


※御獄の祠の位置を示しています。



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