2018年01月09日
第168回 「仲間御嶽 改築記念碑」

昨年後半から、ずっとニッチの中のニッチ的なネタをシリーズにしていたので、なんかこういうのは久しぶりのような気がします。とはいえ、やっぱり改修記念碑なのですが、これはこれでニッチなモノなので、まあ、なんか地味な流れからは逃れられないのかもしれません。生来が地味好き、地見好きだから仕方ありませんね。
えー、今回紹介します石碑は、平良の北方、西原集落にある仲間御嶽の改修記念碑です。
この仲間御嶽は集落最高位のウハルズ(大主御嶽)に次ぐ、格式のある御嶽なのだそうです。集落レベルの祭祀などではウハルズに御願したあと、この仲間御嶽に巡拝するのだそうです。そんな格の高い御嶽でありながら、御嶽の位置するフズ嶺(大浦との境にある丘脈)を背後に控えた、西原集落の東支部の支部御嶽(里御嶽)も兼ねているという、懐の広さは流石と云わずにはいられません。
ちなみに、この仲間御嶽がどのくらい格が高いのかというと・・・。
ウヌナイカニガウチャウヌシフヤグミ(大成金の御帳主大神)
バガバウガンンヌチヌシフヤグミ(若王神生命主大神)
ンマヌハウフユヌシフヤグミ(午の方の大世大神)
ヒヤジガンダヤジヌシフヤグミ(比屋地神畑の主大神)
ウイラムイウイカヌシフヤグミ(ウイラ社ウイカ主大神)
ナッブァガンティッブァフシフヤグミ(ナッブァ神ティッブァ主大神)
ジャラガンミイチヌシフヤグミ(ジャラが嶺息の主大神)
カギマシヌフヤグミ(美しい枡の大神)
カギミズヌフヤグミ(きれいな水の神)
という、9柱もの祭神が祀られています。
とはいえ、島ことばをカタカナに直しているので、なかなかどんな神様なのか理解するのが難しいのですが、西原の集落は池間島からの分村であることから、この仲間御嶽は池間島にある仲間豊見親の屋敷跡とされている、池間遠見台に登る手前あたりにある仲間根(ナカマニー御嶽)を遥拝しているものなのだそうです。祭神の名をよく見て見ると、他にも伊良部島の比屋地(佐良浜名:クナンマウキャー)の畑の神様がいたり、午の方御嶽(西辺小の南方にある、集落の祭祀には欠かせない大きな御嶽。午の方≒南の意)を遥拝するなど、“村”の信仰が厚い御嶽であることがよく判ります(それだけ神頼みが多いともいえる?)。
石碑が記念している御嶽の改修についてですが、石碑の裏面にやや摩滅していますが、
甲寅年 一九五十年旧八月二十日竣工と書いてあるように読み取れました。
1950(昭和25)年と西暦が書かれているで、改修が行われているのは戦後だと思われるのですが、この年の十干十二支は「甲寅(きのえとら)」ではなく、「庚寅(かのえとら)」なのです。
尚、十干十二支は木・火・土・金・水の5つのエレメント(五行)の兄弟(兄が~のえ、弟が~のと)の十干に、子丑寅…と続く十二支を組み合わせたもので、全部で60種類あります(60歳が還暦なのはこれがひと回りしたから)。
10×12なら60種類じゃなくて、120種類じゃないのかという問題点を、ひと言で説明するのはちょっとややしいのですが、常にエレメントの兄弟(陽と陰)がペアとなるので、兄の干支は兄だけ、弟の干支は弟としか組み合わせにならないために、5×12となってひと巡りが60種類になるのです(詳しくはこちら)。
そして1900年代で「甲寅」になるのは、1914(大正3)年と1974(昭和49)年だけ。また、1900年代の「庚寅」も1950(昭和25)年しかなく、どちらも西暦が一致しません。
で、よくよく石碑を見て見ると、表・・・というか石碑全体は、琉球石灰岩を削り出して作られていますが、どうも裏面の文字が記されている部分は、コンクリートを石碑に上塗りして記されているようなのです。
考えられるのはコンクリートの下に、なにかが記されていたと云うことになります。
妄想するに、おそらく御嶽の改修は二度行われて、古い改修日の上に二度の改修の日を上書きしたのではないかと考えました。しかし、気になるのは西暦と十干十二支が食い違うこと。
御嶽の改修ですから旧暦など暦に関しては馴染みがありそうな気がしますので、施工者の凡ミスとも考えにくく、石碑の記述を自分が読み違えている可能性もあります(旧八月のあとを二十日と読んでいますが、十の字がちょっと怪しい)が、正解は残念ながら闇の中です。
そしてここでもうひとつ。
石碑は集落の道沿いに建ち、すぐ脇にコンクリートの小屋があり、その奥に拝所の祠がありますが、なんとこの拝所が仲間御嶽なのではありません。こちらはマスムイヤー(枡盛り屋)御嶽といいます。
枡の名を冠しているということは、租税に関係する御嶽と思われます(ここでコンクリートの小屋を枡盛り屋と云い、籠りニガイをするのだとか)。この御嶽については詳細がいまひとつ判りませんでしたが、枡の名がつく御嶽の中は人頭税の徴収をする単なる役人を、神格化させていたりすることもあったりします。

では、どこが仲間御嶽なのかというと、マスムイヤー御嶽の建物の左脇を、少し奥へと進んだ森の中にある小さな祠です。その場に立つと、どことなく大きな木々に囲まれた広い空間全体が、仲間御嶽なのだという感覚を抱きました。流石に格式の高い素晴らしい御嶽でした。
【参考資料】
『平良市史 第九巻 資料編7(御嶽編)』 1994年
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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