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2016年09月09日

12冊目 「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」

12冊目 「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」

今回、江戸之切子は夏休みです。変わって、「島の本棚」を担当してくれるのは、童名(ヤラビナー)に「カニメガ」の名を持つ、宮国優子がまたまた代打で登場です。
なんでも「カニメガ」の「カニ」は「金」。遡ればそれは「鉄」であり、「太陽」であるという(恐らく鉄が太陽なのは、鍛冶屋が扱う赤々と熱せられた鉄と思われる)。そして「メガ」の語源は「女児(めご)」。これが転じて「~ちゃん」的な表現に。つまるところ「カニメガ」とは「太陽ちゃん」。そんな「カニメガ」こと宮国優子の書評ならぬ熱~い「読書感想文」が届きました。

書評にふさわしくない小説 荷川取雅樹「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」12冊目 「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」
タイトルにはふさわしくない言葉になってしまいましたが、書評なんか似合わない、書評なんかアカフスダイ(くそくらえ)の短編作品集です。荷川取さんの作品には書評なんか必要ないのです。

なぜ必要ないか?。それは荷川取さんの自身の存在が小説の中に色濃く、人の生き方に良い悪いも正しい正しくないもないからです。人の人生を評するなんて、まさにアカフスダイでしょう。
ですが、かろうじて、荷川取さんに肩書をつけるとすれば、そうですね、同時代の南島小説家でしょうか。ベタですが。

荷川取さんの小説は、どこまでも南の島の香りがする。そりゃそうですよね。宮古で書いているのですから。
この本には自伝的な小説が含まれていて、なぜ荷川取さんが書くにいたったかが、なんとなくわかる気がする。内発性という意味で。
気がするだけで、実際はそうじゃないのかもしれないし、ご本人にうかがったこともないので、実は間違いかもしれない。

外的要因とすれば、著者プロフィールにお書きになっている交通事故、リハビリ、執筆へとつながるけれど、きっといつかどこかで書き始めた人なんだろうと思います。もしくはちがった形のクリエイティビティを発揮したに違いない、と。

おっと、どんどんずれていく。

この本は、私にとってはレトリックからいくと、非常にメジャー感がある。誰にでも読める、平易な言葉遣いで、さらりと読める。でも、私たちの世代は(と、いっていいのかどうか悩みますが)引っかかりながら読んでしまう。何故か?それは私たちにとってのリアリティが迫ってくるからだ。

あぁ、その時代をこうして表現するのだな、と私なんかはドキリとするのだ。枝葉があるようでない。言い換えれば、彼は太い幹を書いている。その幹が丸々と育っている。あの時代はそういう時代だったと、あの当時を知っている、どの世代の宮古島の人も感じると思うのだ。

そういう意味で、わたしにとってはメジャー感がある。

ある人に「あれは私小説なんだよね」と聞かれて、「まぁ、そうですね」と実は30分前に答えた。
でも、今、まったく違うことを思っている。

あれは、宮古島の私小説なんではないか、と。荷川取さんは個人的なことを書いているようで、実は書いていない気すらするのだ。個々にたどり着くまで、なかなか考えがまとまらなかった。

実は本を頂いてから、「マクラム通り?」について、ずっと何か書きたいと思っていたのだけど、なかなか書けなかった。紹介文なんだから、作者、読み手にも有益な情報を!と思いながらも、書けずにいたのだ。この本の真の価値を、青の時代に宮古にいなかった人と共有できるかどうかがわからなかったから。

などなど、思っていることがたくさんあるので、書き起こすことが出来なかった。いいわけじゃなくて、ほんとに。そういう意味ではどの作品も宮古島に生まれ育った私にとっては重いのだ。

荷川取さんが書いている空気は、私にはとても馴染みが深い。 一時代のきらめきみたいなものかもしれない。

どんな時代背景かというと、1970~80年代は、宮古がはじめて物質的にゆとりを持ち始めた頃だったと思う。バブル前で、日本の地方はみんなそんなものだったかもしれないけれど。

島特有の豊かさへの道は、私たちの両親の世代に鍵がある。両親の世代は、日本の高度成長にかろうじて乗る。そして、本土復帰をして、ドルから円へ。不動産や教育への価値観がガラリと変わった頃かもしれない。自分の家の話で恐縮だけど、当時、父はその変化に対してアグレッシブで社会に対してドライだったが、母は旧態依然で湿度を含んだ物の考え方をしていた。子どもながらに、時代の変わり目ってこんな風じゃないだろうか、と思っていた。

その前の倭寇や密貿易の時代とは違う、新しい経済価値に大人たちも総踊りしたのだと思う。そこにただ佇む子どもたち。その子どもたちが感受性豊かにその時代を生きた実録・・・にも読める。

だから、ある人にとっては偽薬になり、ある人にとっては劇薬にもなりうる。
実は、この小説を読んでどう感じるかで、自分のアイデンティティや現在の立ち位置を占うことができるのではないか。
昔、荷川取さんに原稿を頂いた時に、メールを書いたことがあります。その一部をご紹介したいと思います。

「荷川取さんの原稿を読むたびに、自分の才能のないことを突きつけられているような気がしたのです。外に出て、たくさんの仕事を教えられ、たくさんの人に刺激を受け、それでも私はその才能も根気もない」

と、言うように、私もつきつけられたのでした。

そして、こうも書いています。

「時間がたてばたつほど、混乱して、どう荷川取さんと向き合えばいいかわからなかったのです。すいません」

まぁ、なんというか青いです。私には後光がさして見えていたんです。宮古にいつづけるということ、宮古で書き続けるということについて。私が本来はしたかったことなんだろうと思います。無意識下にずっと水脈のように眠っていて、荷川取さんの小説を読むことで相当な圧力で水が吹き出したのだと思います。

一番最初に、南島小説家と書きましたが、荷川取さんがこの御本で描いた世界はすべからく「宮古島南島小説」と冠したい。そう思うのです。
ってわけで、中身は何一つ紹介していない気がしますが、あなたを占う一冊として、私なぞの評論はいらないのです。まずは開いて、その世界にどっぷり浸かってください。

何故か、書評、かなり個人的な読書感想文になってしまいました。
(宮国優子) 


〔書籍データ〕
マクラム通りから下地線へ、ぐるりと
著者  荷川取雅樹
発行者 BCCKS(電子書籍オンデマンド出版)
発売日 2016/02/26(2016/07/23)

◆購入方法 BCCKSのサイトで購入することができます。
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Posted by atalas at 12:00│Comments(0)島の本棚
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