2015年12月18日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第八話

今回のテーマは、「エドが出会った愉快なみゃーくんちゅ(宮古の人)」です。

エドゥアルトをまず驚かせたのが、上陸から間もない4日目(7月15日)に出会ったおじぃ。気品にあふれ、島民が深い敬意を払っているこの老人は、いきなりフランス語で
Comment vous portez-vous? (ご機嫌いかがですか)
とエドゥアルトに聞いてきます。いきなりのフランス語に、さぞかし驚いたことでしょう。しかしこのおじぃ、知っているフランス語はこの1フレーズのみで、エド船長の返答も質問も一切理解できず、うろたえてしまいます。
日記から読みとれる限りでは、この時の老人に対するエドの印象は、「変わったおじぃがいるさいが」程度のものだったようですが、エドはこの人物に出発直前の大事な場面で再び会うことになります。
出発前日の8月16日、島の有力者たちはエドゥアルトに対し、彼が船の所有者であることを記した(と推測される)証書を交付します。厳粛な雰囲気のなか、「ダラニエ」とエドが呼んでいる官吏が、ひとりの老人の前にひざまずき、一通の折り畳んだ紙を渡します。どうやらこれが証書のようです。すると紙を受け取ったこの老人はエドのそばにやって来て、真剣な表情で彼の眼をのぞき込み、こう言いながら文書を手渡したのです。
How do you do? (はじめまして)
常識的に考えれば、この張りつめた空気のもと、老人は例えば「これをもって、船を貴殿に贈呈する。この文書は貴殿が船の所有者であることを証明するものである」などと威厳をもって伝えそうなもの。それが、いきなり「はじめまして」と挨拶して来たのですから、エドは拍子抜けし、笑いをこらえるのが大変でした。そしてこのやり取りを通してエドは、この偉い老人が、かつてフランス語で自分に「ご機嫌いかがですか」Comment vous portez-vous?と聞いてきたあの老人と同一人物であることに気付きます。
いきなりのHow do you do? の言葉がきっかけとなり、前回の突然のComment vous portez-vous? のフレーズが蘇って来たのでしょうか。それにしても、初対面なのにいきなりフランス語で「ご機嫌いかが?」とたずね、初対面ではないのに「はじめまして」と英語で挨拶してしまうこのお方、何とも愛嬌のあるおじぃではありませんか。

エドの日記には、Nui-Chanという人物がたびたび出てきます。この名前が最初に登場するのは、7月31日に居所を移ることになった時で、この時にエドゥアルトたちは、島に上陸(7月12日)して以来収容されていた「宮国村番所」から「野原村番所」に移動したと考えられています(なおその後、8月11日から8月17日の出航まで、エドたちは宮古の官吏から与えられた船の中で生活するようになります)。とは言え日記には「我々のトゥンツェン(注:役職あるいは身分の呼称か?)の中でいちばん勤勉なヌイチャンに起こされ、引っ越しの準備を始める」とありますから、おそらくそれ以前からずっとドイツ人一行の世話をしていたのでしょう。
なおロベルトソン号には中国人も乗っていましたが、中国語ができたとされる宮古の士族たちとはコミュニケーションが取れなかったようです。おそらく宮古の人々が、読み書きはできても会話に長けていなかったこと、またロベルトソン号の中国人クルーがおそらく中国南部の出身で、方言しか話せなかったことが原因だと思われます。
そのためエドゥアルトは、もっぱらヌイチャンの話すかなりブロークンな英語を介して、宮古の人々とコンタクトを取っていました。8月4日の日記には、「私がかなり理解できるようになったヌイチャンの話で、我々は島に来た最初の外国人ではないことを教えられた」とありますから、ヌイチャンの英語を聞き取るまでには時間がかかったことがわかります。
また8月6日の日記には「私はヌイチャンに島の親族関係や宗教的な習慣についてもたずねたが、お互いの言っていることがなかなか理解できなかった」とか「ヌイチャンに”Gott”<神>という概念を伝えることは全くできなかった」とあり、込み入った内容の会話に苦労していたことも伺えます。
それでもエドゥアルトは、辛抱強くヌイチャンと会話し、結婚や習俗や祭祀儀礼についての情報を引き出しています。
もっとも、ヌイチャンが伝えた情報が本当に正しかったのか、またエドが正確に情報を読み取っていたのかなど、さらに検証が必要でしょう。またヌイチャンの側でも、キリスト教の概念を本当に理解できなかったのか、それとも当時まだ続いていた琉球王府の禁教政策ゆえ、わからないふりをしたのか、疑問が残ります。さらに「漂着民に島の事情を話すな」という琉球王府のお達しの割には、ヌイチャンはエドに島の情報を伝えており、これは問題なかったのか、謎は尽きません。
しかしともかくも、ヌイチャンがかなり親切にエドゥアルトに接していたことは間違いなく、彼はドイツ人側の要望を、マンダリンやダラニエと呼ばれる島の上層部の人々に伝える役割も担っていました。
8月9日には、許可が下りたと言うことで、エドゥアルトはヌイチャンと共にお寺を見学していますし、8月13日にも再びここを訪れた際には、ヌイチャンは太陰暦の仕組みをエドゥアルトに教えたりもしています。
エドゥアルトの側も、ヌイチャンのためを思って英語を教えるなど、友好的に接しています。8月8日の日記にはこう書かれています。
「(中略)ヌイチャンを連れて一日中を森で過ごした。今後、船が島で座礁し、その船の人々が島に滞在する場合、船長に聞ける英語の質問で役に立つと思われるものをヌイチャンに全て教えた」
エドゥアルトは、今後も宮古に欧米の船が漂着する可能性があると考え、また自らも島民とのコミュニケーションで苦労した経験を踏まえ、ヌイチャンに英語のフレーズを伝授したのでしょう。
もっともこのふたり、時には利害が対立し、言い争いも起こっています。船への引っ越しをした8月11日、「十時頃にジャンク(船)の泊まる入り江に到着した。だが、見てみるとタイピンサン(太平山=宮古島)の人々の約束に反して船は手つかずのままだった。このことに関し、私はヌイチャンを真剣に責め立てた」とあり、エドゥアルトが貰い受けた船にバラストが積まれていないことに抗議した様子がわかります(全般的に、エドは宮古の人々のスローペースに苛立っていたようです)。
とは言え、こうやって真剣に抗議ができたというのは、裏を返せば、ある程度の信頼関係が両者に間にできていたことの証左でもあると言えるでしょう。

それによると、ヌイチャンの本名は本永幸敏といい、「内間仁屋」の名で宮古側の文書にも記載されています(仁屋は下級士族の称号・位階の名称)。
そしてロベルトソン号漂着から3年後の1876年に、いわゆる「博愛記念碑」が建立された時、彼のもまたドイツ人の救助・保護に功績のあった役人のひとりとして、ドイツ政府の派遣したチクロープ号船長のフォン・ライヒェ少佐から銀時計を受け取っています。
この他にもエドゥアルトは、宮古島での37日間に、実に様々な人に出会っています。何より、好奇心旺盛な島の人々が身分の差を問わず連日のように訪問してくるため、エドゥアルトは時にはその対応に気疲れすらしていたようです。
漂着の直後はもちろんのこと、7月31日に野原村番所に移るとそこにも訪問客が来る、8月5日に落馬して怪我をした後には多数の見舞い客がやって来る、8月11日以降は移り住んだ船の中にまで役人が訪れて来る、という次第で、エドゥアルトは時にはそれに飽きてしまい、来客を避けるためにヌイチャンと森に出かけてしまうほどでした。
出発一週間前の8月10日には、トゥンツェンと呼ばれる官吏たちが、エドゥアルトに”Typinsan good bye”と言って、最後の散歩に誘っています。また「小さなダラニエ」とエドが名付けた人物もたびたび日記に登場しますが、彼もまたドイツ人のために様々な便宜を図っていたようです。
ドイツ船救助に際しての島の上層部及び琉球王府の対応については次回以降に検討したいと思いますが、宮古の人々にとって、異国船の漂着とは、一方ではともすれば関係者の責任問題にも発展する厄介で神経を使う事件であったものの、他方で平凡な日常の中に降って湧いたお祭りのような性格も有していたのでしょう。出航前夜には、船内で盛大な宴が催されたようで、宮古の人々とエドゥアルトら乗組員らは、夜が更けるまで、ダラニエやビスマルクなど、琉独双方の人々を祝して杯を上げたとのこと。微笑ましい光景が目に浮かぶようです。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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