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2015年09月18日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第五話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第五話

前回は、我らが(?)エドことエドゥアルト・ヘルンスハイムの青年期までをたどってきましたが、今回は彼がどのようにしてアジアでの貿易に参入し、宮古島に漂着することになるのか、そのいきさつを紹介します。今回のキーワードはズバリというか文字通り、「ロベルトソン号(という名前)の秘密」です。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第五話
エドゥアルトの母が彼を産んだ時に亡くなったことは既に触れましたが、さらに彼がダルムシュタットで化学を学び始めた矢先の1863年の5月(ちょうど16歳になる時)、今度は父の死に見舞われます(手術の失敗が原因と言われています)。兄のフランツは、ハンブルクにいるいとこのブラッハ(Brach)の仲介で、イギリスのマンチェスターで仕事を得たのですが、勉学を続けられなくなったエドゥアルトは、マインツから東に50キロほど離れたバイエルン州北西端の小さな村、ヴァッサーロース(Wasserlos、現在はアルツェナウ Alzenau という町の一部)にある貴族の農場で働き始めます。この貴族の館の一角にあった図書館で、彼は海外旅行の紀行文や外国の解説書を読み、見知らぬ世界に興味を持ちます。

しかし「こんな田舎に埋もれてはいけない、海に出よ」という、いとこのブラッハの強い勧めにより、エドゥアルトは船乗りに転身、1866年4月にハンブルクの商船セレス(Ceres)号に乗り込み、アジア、オーストラリアに向かいます。
途中、オーストラリアで「金鉱がある」と山師にだまされて船を抜け出したところ、身ぐるみ剥がれて10日間の放浪の後に命からがら船に逃げ帰るなどの「冒険」もしたようです。
1867年に、2度目の航海で南アメリカに渡ったエドゥアルトは、翌1868年、当時ドイツ海軍の拠点であった港町キール(Kiel)で航海士と船長の試験に合格し(キールで受けたのは、受験の条件が厳しいハンブルクを避けるため)、オスヴァルト(O’Swald)というハンブルクの商社の航海士として雇われます。
1869年、エドゥアルトは成人(当時は22歳)に達したことから父の遺産を相続、さらに南ドイツのミュンヒェンでは、姉のロゼッテ(Rosette)とその夫、フリードリヒ・ティール(Frie
drich Thiel)の紹介で、この地の社交界ともつながりを得ることになりました(義兄にあたるこのティールさんが、後にエドゥアルトの宮古島漂着記を著書にして、出版することになります)。
そして1870年、父の遺産をもとに、自身初の船となるクリアー号(Courier)を購入し、南米に渡りますが、折しも勃発した普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争、これに勝利したプロイセンは1871年1月にパリ近郊のヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の建国を宣言します)の影響で思うように取引ができず、翌1871年4月にようやく毛皮を載せてヨーロッパに向かったものの、水漏れが発生し、修理費用が船の価格を上回ることからクリアー号を放棄しハンブルクに戻りました。

『続・ロベルトソン号の秘密』 第五話ここでエドゥアルトに援助の手を差し伸べたのが、彼の母方の伯父、ルーベン・ヨーナス・ロベルトソン(Rub
en Jonas Robertson)です。エドゥアルトの母方の祖父はポルトガル出身で、19世紀初頭にアムステルダムで宝石商しており、3人の息子と15人の娘をもうけたらしいのですが、その長女にしてエドの母ゾフィーの姉に当たるヘンリエッテ(Henriette)の夫がルーベン・ヨーナス・ロベルトソンで、ハンブルクで鉱石の輸入に携わっていました。
勘の鋭い方はおわかりになったかもしれませんが、宮古島沖で座礁した商船ロベルトソン号(R. J. Robertson)の名は、まさにこの伯父に由来します。
彼の会社の業績はかなりよかったらしく、「進取の気性に富んだ若者を支援するための基金」なるものまで設立して、今でいうベンチャービジネスの支援までしていました。そして甥にあたるエドゥアルトにも資金援助を行い、それによってエドゥアルトは、破船したクリアー号に代わる船を購入することができたのです。
さて、エドゥアルトの2隻目の船に当たるロベルトソン号は、かつてハンブルクともにハンザ同盟都市として栄えた北ドイツの都市リューベック(Lübeck)の船大工、ヤーコプ・シュテッフェン(Jacob Steffen)によって作られました。アンダーハント先生の本によると、ロベルトソン号は短い期日で仕上げられたために不具合が多かったとされますが、別の文献では、もともと(誰かの依頼で造ったのではなく)シュテッフェンが自分用に造船した船をエドゥアルトが買い上げたとあり、この点は少し詳しい調査が必要になりそうです。
いずれにせよ、1871年12月にイギリスのカーディフへ最初の航海をした時点で早くも水漏れが発生し、修繕を行っています。その後、カーディフで石炭を積み、翌1872年4月には香港に到着、ここで彼は、多数の船がボルネオ島やモルッカ諸島、ジャワなどを目指すのを目にするとともに、南方との交易がブームになっていることを知ります。
そこで彼は、交易の元手となる資金の調達と今後の南太平洋の島々での交易参入をもくろんで、まず中国とオーストラリアの間の貿易に参入することを決め、福州でウェールズ産の石炭を売却、茶葉を積んでオーストラリアに向かいます。1872年の12月にシドニーに到着した彼は、茶葉を高値で売った利益で今度は石炭を購入し、香港に向かいました。このアジア-オセアニア間の往復の途上で、彼は、当時まだ西洋列強の勢力が浸透していなかった太平洋の島々を目にし、この地域での交易活動を絶好のビジネスチャンスだと考えました。エドゥアルトの『回顧録』には、当時の彼の野心が赤裸々に述べられています。
この中国-オーストラリア間の航海中に、私は初めて南洋の島々という世界に接した。世界のあらゆる交通網から断絶した、ココヤシの木に覆われた孤高の島々がかすかに見えた。そして、持ち寄った産物と引き換えに鉄製品を手に入れようと、我々が航行する傍らへ簡素なカヌーで幾マイルもの距離を漕ぎ出してくる、これらの島々の勇敢なる住民にも出会ったのだ。こうして私は、南洋にはこの若い男[=エドゥアルト]によって切り拓かれるのを待っている土地がふんだんにあるにちがいない、と考えるようになった。
(Eduard Hernsheim: Lebenserinnerungen, S.11.)
このような野心を抱いて香港に戻ったエドゥアルトは、再び福州で茶葉を積み込み、1873年7月3日、アデレードに向けて出講します。南太平洋での交易にどうやって参入しようか、と一攫千金を夢見ていたに違いないエドゥアルト。しかし、その前に彼は大いなる試練にさらされることになります。この航海の途上で何か起こるのか、次回もお楽しみに。

【写真の解説】 ハンブルグ民俗博物館 Museum für Völkerkunde Hamburg
エドのおじ・ルーベン・ヨーナス・ロベルトソンは、若手企業家のみならず、ハンブルクの民族学博物館にも多大な貢献をしています。
冒頭の写真の建物は、1912年に建設された現在の博物館の建物で、そのエントランスにある柱に刻まれた支援者の名前の中に、『R. J. Robertson』の名前も見出すことができます(写真二枚目、赤枠加筆)。
なお、この博物館にはハンブルクのウムラウフという商社により、与那国島で1900年前後に収集された民具など53点も収蔵されています(参考資料)。

※主に地名のリンク先はGoogleMAPになっています。



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