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2018年10月19日

第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」

第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」

毎度おなじみ宮国です。
インターネットってほんとに便利ですね。今回は、まず目と耳でも楽しめる、大正から昭和初期をそのままお伝えします。なんと、当時の歌を当時の映像に乗せて、大工哲弘(だいく てつひろ)さんが歌っていらっしゃいます。どうぞ皆様、まずは、その雰囲気を味わいながらお読みいただければ幸いです。

さてさて、前回(第5回森比呂志の3)は、当時の作家や芸術家、漫画家などの雰囲気が薄っすらと味わえたと思います。

特に、凹天の高弟のひとり森比呂志(もり ひろし)が書き綴った、佐藤惣之助(さとう そうのすけ)やその周辺について、詳しく述べました。惣之助や凹天が生きた時代を書き上げた森比呂志は、ひとりの表現者として、とても見事だと思います。

第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」
【左から、下川凹天、室生犀星、佐藤惣之助】

前回の裏座は、その時代を裏話風に書きました。振り返ってみます。

青年の頃から、俳句を競い合って学び、互いに成長したはずの佐藤惣之助と室生犀星(むろお さいせい)。そこに、萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)も加わり、詩人として「三羽烏」と呼ばれるほど、傍からは良好な関係が生まれました。

しかし、萩原朔太郎が亡くなり、葬儀委員長を務めた佐藤惣之助も3日後に脳溢血で世を去ります。戦後、室生犀星は、自分の出会った詩人について評論を連載します。そこで、生まれも育ちも惣之助と真逆だったけれど、大の親友だった惣之助を偲ぶどころか、罵詈雑言を書き連ねるのです。
室生犀星から見ると、惣之助の死後の顛末が、あまりにも人でなしだったからのようです。それは惣之助の遺族から抗議がでるほどひどく、(連載記事が)初め本になった時には、惣之助の部分だけは削除されました。未だ、文庫本には載っていません。確かに、げに、怖ろしき文章です…。

しかし、ここは、また裏の裏があると前回書きました。その時代の立役者は、室生犀星、萩原朔太郎、高村光太郎(たかむら こうたろう)ばかりでなく、三好達治(みよし たつじ)、森茉莉(もり まり)、太宰治(だざい おさむ)、宇野千代(うの ちよ)、小林秀雄(こばやし ひでお)、辻潤(つじ じゅん)、山之口貘(やまのぐち ばく)、大杉栄(おおすぎ さかえ)、中野重治(なかの しげはる)、中原中也(なかはら ちゅうや)と有名な人ばかり。

そのうえに、漫画家の那須良輔(なす りょうすけ)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、佐野佐世男(さの させお)、果てはわれらが凹天などなど、詩人から、文学者、活動家、漫画家までさまざまな人間模様と感性の響き合いが絡みます。
その人間関係が裏の裏なのです。
【三好達治と周子】
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」判りやすい例のひとつが、佐藤惣之助と妻・周子(ちかこ。本名・愛子もしくはアイ)、三好達治との後日譚(ごじつたん)です。これは、室生犀星が罵詈雑言を書いたこととも、関係しているとも言えるでしょう。

前回述べましたが、朔太郎の妹周子は、惣之助が亡くなった後、三好達治と再婚します。達治は妻も子も捨て、初恋の相手だった朔太郎の妹周子と福井県に居をかまえましたが、1年ももたなかったそうです。

彼女にとって、4回目の結婚でした。達治との顛末は、朔太郎の娘である作家の萩原葉子(はぎわら ようこ)が『天上の花 三好達治抄』(1996年)として作品にしています。
ちなみに、この萩原葉子と、森鴎外(もり おうがい)の娘の森茉莉(もり まり)とは、後年とても仲良しだったようです。きっと可愛らしいおばあさん同士だったに違いありません。「天上の花」には、文学者同士の付き合いが色々書かれてあって興味深いです。

さて、周子ですが、贅沢をさせてくれた惣之助の後は、貧しき詩人で元婚約者の達治を選ぶあたり、トチ狂い感もありますが、それはそれで、その時代の最先端な生き方であったのではないかと思います。周子は、定職のなかった達治が立派な文学者になっていたことで、さらに自分に尽くしてくれるだろうという算段があったようです。

惣之助が亡くなって、周子が未亡人になった頃、達治は佐藤春夫(さとう はるお)の姪である智恵子と結婚していました。一男一女がいたようです。達治は、周子の実家に通いつめ愛を告白します。ですが、周子に「あなた結婚しているじゃないの」と言われ、その日のうちに離縁のため家に戻りました。
佐藤春夫も激怒りだし、住む場所も捨ててきたし、達二は周子にともに逃避行するように説得します。
【三好達治 「花筐」】
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」贅沢でお嬢さま育ちの周子と一本気な達治は、福井の三国で暮らしましたが、ドメスティック・バイオレンスで幕を閉じました。その時、周子が交番に駆け込んだことをきっかけにして、周りの人を存分に巻き込みながら、その生活は崩壊しました。わずか10か月の結婚生活でした。当時、達治は周子への恋心を描いた詩集、『花筺(はながたみ)』(青磁社、1944年)も刊行しています。

周子は達治からの再三の求婚に応じました。朔太郎はもちろん、自分の家族と仲良くしていたからだと思われます。ところが最後は、髪の毛を引きずり回され、血まみれになるほどの暴力を受けるのです。萩原葉子の『天上の花 三好達治抄』にはそう書かれていまます。

「言い終わらないうちに、私は三好に髪の毛を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。そして荷物のように足蹴にされたり、踏まれたりした。後頭部の疵口と目から血が吹き出ても、まだ打ち続けられた。気違いになったのだろうか。私は三好にこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。そして血まみれになった雪の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。雪の上に真っ赤な血痕がぽたぽた落ちるのが夜目にも見えたところまで、記憶していた」。

なぜ、そこまでふたりというか、達治の愛は激しかったのでしょうか。 また、周子は何を達治に言い、追い詰めたのでしょうか?。

その理由は、17年ほど前にさかのぼります。実は、周子と達治は、1928年に婚約していたのです。ですが、貧乏詩人で帝大を卒業したばかりで定職なしの達治は、萩原家に破談させられてしまいます。達治が就職したところまでは良かったのですが、その出版社が倒産し、失職したことを朔太郎の母から疎まれたからのようです。

17年後、若き日の恋を実らせた達治ですから、周子への異常ともいえる愛情は、達治自身が後年まで独身を貫き通し、周子と別れた後も萩原家とつながりをもっていたことからもうかがえます。達治の死後の荷物の中には、周子の襦袢の片袖が入っていたそうです。
ところで、周子と達治が婚約していた頃、われらが凹天はどうだったのでしょうか?。

ある意味、働き盛りでもありました。しかし、病身のためか、讀賣新聞から始まって、中央新聞、東京毎夕新聞、新愛知新聞嘱託、漫画雑誌などを渡り歩き、きちんとした仕事もできずにいました。

その暮らしは厳しく、転々とする凹天を見かねた川端龍子(かわばた りゅうし)が、お金を貸してくれたりしたこともあったようです。最初の妻・たま子は借りたお金を見て、有難さのあまり涙を流しました。

【北原白秋】
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」さて、達治と周子が破談になった原因となった出版社は、北原白秋(きたはら はくしゅう)の弟が経営するアルス社でした。北原白秋は、すでに惣之助の亡くなる数か月前に故人になっていたのですが、惣之助の追悼集の巻頭を飾るほど、当時の詩壇の大御所でした。なお、アルス社は惣之助の第2詩集『颱風(たいふう)の眼』(1923年)を出版しています。これも奇縁としか思えません。
そして、達治と周子が離別した頃、凹天は、太平洋戦争前の1940年に結婚した2番目の妻・なみをと生活をしていました。当時、53歳。達治は、45歳。周子は40歳くらいだったようです。
 こんにちは。『19の春』を繰り返し聴きつつ、じっと一番座から離れぬ「漢」(おとこ)片岡慎泰です。
【「19の春」 砂川恵理歌】

 つい、佐藤惣之助と彼をめぐる同時代人に力が入り過ぎてしまったようで。というのも、森比呂志が、後に凹天の高弟といわれるような漫画家への途(みち)を開いたのが、佐藤惣之助。そして、惣之助が常人では測れないスケールの人物。

 ここが肝心なのですが、凹天もそんじょそこらの物差しで測れる人物ではないのです。ふたりに縁をもった森比呂志を語るのは、凹天と惣之助が、現在調べるかぎり直接の知己でないとしても、時代背景を知る上で、とても大切なことなのです。

 佐藤惣之助は、「沖縄学の父」伊波普猷(いは ふゆう)の南島に関する著作を手に入れ、南島への関心を深めたようです。この時代は、第一次世界大戦(1914年~1918年)でヨーロッパが戦場になっているうちに、大日本国帝國がドイツ第二帝国の南方植民地領を手に入れた時代でした。
 日本国中が、南方への関心で沸き立っていた時代といっていいでしょう。

 1922年、佐藤惣之助は「漂流覚悟」で、鹿児島港から太平丸(ドイツから奪った船です)に乗りこみます。惣之助が伊波普猷の甥っ子を頼って、無事、沖縄の旅をした前後には、第4回に裏座で出てきた古代学の折口信夫(おりぐち しのぶ)、そして染織家の鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう)や建築家の伊東忠太(いとう ちゅうた)を始めとして続々と沖縄を訪れます。

 鎌倉芳太郎には、初めて当時の宮古の女性の手の甲を彩っていたピーツキ(沖縄本島ではハジチ)を写真に記録します。その数年後には慶世村恒任(きよむら こうにん)の名著『宮古史傅』(1927年)が誕生したのでした。
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」「宮古史傅」の歴代3バージョン(左) 「南島針突紀行」(中上) 文中にある、裏座担当の宮国優子の曾祖母のピーツキ(中下) 宮古群島の針突文様(右)】

 このような時代背景のなかで、佐藤惣之助は南島に旅行します。かれの目的はふたつありました。ひとつは南島に旅行して、海についての詩を書きたいということ。1922年1月4日付『讀賣新聞』には、「海の村にて」という題の詩を発表しています。その詩の内容からすると、前々からあった南島へのあこがれをなんとか詩で表現したいという気持ちをもっていたようです。また、趣味の釣りを南海でしたいということも付言してもいいかもしれません。

 もうひとつは、当時、先島諸島に唯一あった石垣島の気象台にいた岩崎卓爾(いわさき たくじ)に会おうと思ったからです。1922年8月7日付『讀賣新聞』には、「颶風(たいふう)の眼」いう題の記事が掲載されます。そこからうかがえるのは、岩崎卓爾が、先島諸島に関する気象、地理、謡曲など、まさに博覧強記ともいえる生ける事典そのもの。そのふたりの情報交換は、佐藤惣之助の詩集『琉球諸嶋風物詩集』(東京書肆京文社、1922年)、『颱風(たいふう)の眼』(東京書肆アルス社、1923年)として結実。

 さすが、多趣味な惣之助。
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」
【初版本『颱風の眼』国会図書館デジタルコレクションより】

 さて、その頃、川崎にいた森比呂志は、『キング』に投稿が載ったり、報知新聞夕刊で麻生豊が描いた『ノンキナトウサン』の切抜きを集めていましたが、漫画家という職業があることを知りませんでした。
 時代は移り、関東大地震(1923年)、そしてその影響から起こった昭和金融恐慌(1927年)と、大変な時代を日本は迎えますが、川崎市の中心街にも小美屋デパートができ、近代化の波が押し寄せてきます。『川崎新聞』が創刊されると、森比呂志は、新聞配達を始めました。その販売店近くにマキノプロダクションの直営店があり、無料で映画を観ることができたからです。1927年、川崎小学校高等科を終えると、本格的に石工修業に。一方、東京三田にあった慶應義塾商業高等学校にも、母の命令で通うことになりました。石工の仕事は、1930年頃からさっぱり取引がなくなり、「森工務店」の職人さんは羽田のコンクリート工場に。

 森比呂志も、多摩川の六郷橋を渡ったところにある製菓工場に。それには、通学の途中で読んだ佐多稲子(さた いねこ)『キャラメル工場(こうば)から』(1928年)からの影響も大きいようです。そして、石工の仕事を決定的に斜陽にしたのは、石材の販路がすべてコンクリートに代替されてしまったからです。ラジオ放送で寄席は衰退し、下駄の歯入れ屋や女髪結いの仕事も消えていきました。
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」【現在の六郷橋写真】

 石工の仕事も石碑一本に限られてしまいます。ある日、東京側の等々力で父と仕事をしている時のことでした。仕事を一休みしてゴールデンバットを吸ったら、父が「この野郎、タバコを吸ってやがるのか」「ああ吸ってるよ、もう夜学はやめたし、することもねえから」と職人同士のたわいのない話をしていたら、縁台に報知新聞がありました。なにげなく読むと、漫画の懸賞をしている社告が。なんと600円。四コマ漫画60回分。当時、大卒初任給が73円ですから、その金額は法外なものといっていいでしょう。森比呂志は10日で書き上げると、書留郵便で報知新聞に。首尾よく採用された作品は、1932年1月から2か月にわたり連載されます。題名は「サラさん」。

 森家は、一人息子の比呂志が、漫画家になるか石工になるか悩みます。母は漫画家、父は石工が将来の希望でした。

 縁は奇なるもの。そこに佐藤惣之助から、手紙が届きます。東横線の花火大会の宣伝パンフレットの編集を東急から委嘱されていた佐藤惣之助が、漫画を3枚3円で書いてくれとのこと。毎晩たむろしていた喫茶店で知りあった青年詩人の詩集の巻頭を見て、この似顔絵は「これはよく似ている。君の特徴をよく掴んでいる。どういう男か。一度連れてこないか」と語ったとのこと。佐藤惣之助は、出会うなり森比呂志にこう述べました。「君は文学青年だそうだが、漫画は玄人の腕だ。漫画家になりたまえ」。家に帰ると、母はにっこり。

 昭和金融恐慌の時代は、エロ・グロ・ナンセンスの時代でもあります。漫画がポンチ絵と呼ばれていた頃からの大御所・北澤楽天(きたざわ らくてん)、東京美術学校出のエリートであった岡本一平(おかもと いっぺい)は、この流れについていけませんでした。唯一、この流れにも平気の平左だったのが、われらが凹天。当時、凹天は病身を押して『東京毎夕新聞』日曜日版で漫画ページを主幹したり、『ユウモア』や『漫画』の創刊に携わったり。凹天の風刺エロマンガ「熊とモダンガール」は、治安維持法(1925年成立)下で、名誉ある発禁第一号をくらうのですが、凹天はそれにめげもせず、諷刺漫画やエロマンガを描き続けます。というのも、それが逆に次号の部数を伸ばすことなったからです。『東京毎夕新聞』の漫画ページは、凹天の作品以外は投稿作品で作られていました。これに森比呂志は投稿。『東京毎夕新聞』に投稿した「二人寝」は、大きく取り上げられました。

 1932年7月から、森比呂志は、北澤楽天が始めた白金台の自宅にあったクロッキー教室で腕を磨きます。この教室に集まったのが、長崎抜天(ながさき ばってん)、小川武(おがわ たけし)、田中比佐良(たなか ひさら)など。
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」
【左:明治時代 右:現在 ピンクの塗りが北澤楽天の自宅住所(芝区白金台三光町二六三番地)のあったエリア。現在の港区白金台4~5丁目】

 もちろん、敬愛する凹天の主催する例会にも参加しました。「慧星会」(すいせいかい)という名の会は、番頭格が山口豊専(やまぐち ほうせん)で、石川進介(いしかわ しんすけ)、益子しでおこと益子善六(ますこ ぜんろく)、黒沢はじめ(くろさわ はじめ)、村山しげる(むらやま しげる)、石川義夫(いしかわ よしお)こと利根義雄(とね よしお)など。

 この時代に、若き森比呂志は、ようやく天職を見つけたといっていいでしょう。森比呂志の育ての親が下川凹天だとすれば、生みの親が佐藤惣之助なのです。

 一番座からは以上です。
さてさて、裏座から再登場の宮国です。

この時代における表現者の人間関係には、戦前のモダンボーイ・モダンガールからエロ・グロ・ナンセンスをへてマルクスボーイ・エンゲルスガールをみずから体現したような前衛性を感じさせます。

凹天は、この時代をさまざまなメディアに描き続けました。

それにしても、この時代の人・・・パない。いぎゃん(仰天、圧倒されること)してます。おかげで、ついつい裏の裏を続けてしまいます。

萩原朔太郎の妻・稲子は宇野千代(うの ちよ)とダンス仲間でした。宇野千代は、夫がありながら尾﨑士郎(おざき しろう)と同棲し、その後、結婚。しかし、梶井基次郎(かじい もとじろう)とニアミスしながら、尾﨑士郎を置き去りにし、東郷青児(とうごう せいじ)と暮らしたり。その後、当の稲子も、18歳の画学生と恋に堕ち、萩原家から追い出されます。実は、その付き合いは朔太郎のすすめがあり、追い出すのは萩原家の画策だったのではないかとすらいわれています。

その画学生と萩原稲子はカフェを経営します。そこに集っていたのが太宰治(だざい おさむ)、林芙美子(はやし ふみこ)ら。めくるめく恋愛醜聞は世間にダダ漏れだった時代でした。文春砲も真っ青です。

【甘粕事件で殺された、大杉栄と伊藤野枝】
第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」また、その少し前には、大逆事件として知られていますが、1910年には幸徳秋水(こうとく しゅうすい)らが殺され、1923年には関東大震災のどさくさに紛れ、伊藤野枝(いとう のえ)は、憲兵らに殺されて、井戸に放り投げられます。この甘粕事件は、代表的な戒厳令下の不当な弾圧事件でした。

その夫で、ともに殺された大杉栄(おおすぎ さかえ)は、宮澤賢治(みやざわ けんじ)とつながりがあり、伊藤野枝の前夫である辻潤(つじ じゅん)のダダイズム思想に山之口貘(やまのぐち ばく)は傾倒していました。

辻潤と佐藤惣之助は、宮沢賢治を初めて評価したふたりです。そして「反戦詩人」と呼ばれる金子光晴(かねこ みつはる)は、山之口貘を詩壇に引き上げました。

面白いことに、金子光晴は、惣之助のことをボロクソに書いています。惣之助は戦争加担者の詩人としても、有名作詞家としても活躍したからではないかと思われます。実は、金子光晴は戦争加担したけれど、戦後「反戦詩人」として持ち上げられました。何か複雑な詩人の心境があったのかもしれません。

詩人だけでなく作家、漫画家は、自己実現、恋愛、芸術、飯のタネ(戦争加担)、どれをとるか、引き裂かれた時代だったようです。加えて、当時の人間関係は魑魅魍魎(ちみもうりょう)。その世界は、いろんな表現者が入り乱れて、狭いんだか広いんだかさっぱりわからない様相でした。

うばいがうばい(大変さ、面倒くささを表す感嘆詞)。圧倒されまくっております、はい。
-つづく- 


大工哲弘(だいく てつひろ) 1948年~
沖縄県石垣市新川出身の八重山民謡の唄者(歌手)。八重山民謡を基本にしながら世界のさまざまな音楽要素を取り入れて奥行きのある音楽世界を作り出し、海外公演歴も数多い。http://www.daiku-tetsuhiro.com/

森比呂志(もり ひろし) 1910年~1999年
1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれ。詳しくは、第3回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」

佐藤惣之助(さとう そうのすけ) 1890年~1942年
詩人。現在の川崎市川崎区生まれ。詳しくは第4回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その2」を参照。

室生犀星(むろお さいせい) 1889年~1962年
詩人、小説家。金沢市生れ。本名は照道。生後まもなく貰い子に出され、高等小学校を中退して金沢地方裁判所に給仕として勤めるうちに、上司らに俳句を指導され、やがて詩人を志す。退職して上京・帰郷を繰り返すが『青き魚を釣る人』(1912年)あたりから初期抒情詩の花が開く。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる「小景異情」(1913年)などが続々発表され、後に『抒情小曲集』(1918年)にまとめられた。この間、同じく無名であった萩原朔太郎と親交を結び、詩誌『感情』(1916年~1919年)を刊行するなど、互いに影響を受けあいながら、近代詩の完成に大きな役割を果たした。

荻原朔太郎(はぎわら さくたろう) 1886年~1942年
詩人。現在の前橋市生まれ。幼少時代は、神経質で病弱な子で孤独を好み、学校ではひとり除け者にされていたという。1900年、旧制県立前橋中学校に入学し、従兄弟の萩原栄次に短歌の手ほどきをうける。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。1903年には、與謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首が掲載され、「新詩社」の同人となる。主な詩集には、『月に吠える』、『蝶を夢む』、『青猫』、『純情小曲集』、『氷島』、『定本青猫』、『宿命』などがある。「日本近代詩の父」と称される。

宇野千代(うの ちよ) 1897年~1996年
小説家、随筆家。編集者、着物デザイナー、実業家でもあった。山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)生まれ。著名人との交流と恋愛が世間を騒がせるとともに、常に前向きで自由闊達な作風で多数執筆を行った。代表作『色ざんげ』、『おはん』、『生きて行く私』など。日本芸術院賞、菊池寛賞などを受賞し、文化功労者にも選出された。

三好達治(みよし たつじ) 1900年?1964年
詩人、翻訳家、文芸評論家。大阪市西区西横堀町生まれ。中学は、俳句に没頭し『ホトトギス』を購読。第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)では、ニーチェやツルゲーネフを耽読し、詩作を始める。代表作は、『測量船』『駱駝の瘤にまたがつて』など。

萩原葉子(はぎわら ようこ) 1920年~2005年
小説家、エッセイスト。萩原朔太郎と最初の妻、稲子(旧姓上田)との長女として東京本郷生まれる。1959年にデビューし、その頃の顛末を『天上の花――三好達治抄』(1966年)で発表。その三好達治とアイの物語は、新潮社文学賞と田村俊子賞を受けた。

山之口貘(やまのくち ばく) 1903年~1963年
沖縄県那覇市出身の詩人。本名は山口重三郎。薩摩国口之島から琉球王国へ帰化人の子孫。その業績を記念して、山之口貘賞が創設される。尚、名前の表記は、ケモノ偏の獏ではなく、ムジナ偏の貘である。

川端龍子(かわばた りゅうし) 1885年~1966年
戦前の日本画家、俳人。和歌山県和歌山市生まれ、10歳で家族とともに上京。読売新聞社の『明治三十年画史』の一般募集で入選し、画家のスタート。1913年に渡米し、西洋画を学ぶが、ボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。大作主義で、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在。大田区にある龍子記念館では、アトリエと旧宅庭園も公開されている。

北原白秋(きたはら はくしゅう) 1885年~1942年
詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ。商家の息子で、『明星』などを濫読(らんどく)し、文学に熱中。父の反対があったため家出し、早稲田大学英文科予科に入学し、新進詩人として活動し、文壇での交流を深める。稀に見る多作さと同時に、発禁処分、姦通罪、国粋主義者と、ドラマティックな一生を送った。

砂川恵理歌(すなかわ えりか) 1977年~
歌手。沖縄県宮古島市出身。デビュー前は老人福祉施設にて介護リハビリ助手として働くかたわら、沖縄県内のCMソングを担当するなど、デビュー前から有名であった。2009年に発表したシングル「一粒の種」が話題となり、注目を浴びる。ある末期がん患者の言葉を宮古島の人々がリレーして生んだ実話が歌声と合わさって、深い感動を呼び起こした。http://sunakawaerika.net/

伊波普猷(いは ふゆう) 1876年~1847年
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者。言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に亘る学問体系の研究により、「沖縄学」が発展したことから、「沖縄学の父」とも称される。

折口信夫(おりくち しのぶ) 1887年~1963年
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった。柳田國男と出逢い、沖縄を旅したことから、沖縄に古(いにしえ)の日本文化の面影を見出し、古代研究に系統する。詩人・歌人としては、釈超空の名で知られる。

鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう) 1898年~1983年
染織家、沖縄文化研究者。重要無形文化財「型絵染」の人間国宝。紅型技術の継承者。第二次世界大戦の前に、沖縄のフィールドワークを精力的に行い、現在も多くの資料が残っており、沖縄戦により打撃を受けた沖縄文化の保存と伝承に貢献した。

慶世村恒任(きよむら こうにん) 1891年~1929年
大正-昭和時代前期の宮古の郷土史家。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる「宮古史伝」を刊行した。詳しくは、第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」

岩崎卓爾(いわさき たくじ) 1869年~1937年
気象観測技術者。石垣島測候所の2代目所長を勤めるかたわら、八重山の生物や民俗、歴史、歌謡の研究を行う。日本最小の蝉、イワサキクサゼミの命名者。

佐多稲子(さた いねこ) 1904年~1998年
小説家。長崎市生まれ。自身の少女時代の経験を描いた『キャラメル工場から』で、プロレタリア文学の新しい作家としてデビューする。創作活動と文化普及の運動など、その紆余曲折(うよきょくせつ)を作品にし、終生、社会的な発言も続けた。女流文学賞、野間文芸賞、川端康成文学賞、毎日芸術賞、読売文学賞など受賞も多数。

北澤楽天(きたざわ らくてん) 1876年~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田区駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。
近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)を創刊。キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。後進を育て、後年住んでいた大宮市の「楽天居」を大宮市に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。

岡本一平(おかもと いっぺい) 1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。

宮澤賢治(みやざわ けんじ) 1896年~1933年
詩人、童話作家。岩手県花巻市出身。生前は無名であったが、辻潤、草野心平に発掘され、世の中に知られるようになった。貧困に苦しむ農民に稲作指導をしながら、創作が行われた。代表作は『春と修羅』、「銀河鉄道の夜」、「雨ニモマケズ」など。

辻潤(つじ じゅん) 1884年~1944年
翻訳家、思想家。ダダイスムの中心的人物の一人。東京市浅草区向柳原町(現台東区浅草橋)生まれ。宮沢賢治の詩集『春と修羅』を取り上げて高く評価した。晩年は放浪の生活を送る。

金子光晴(かねこ みつはる) 1895年~1975年
詩人。本名は保和(やすかず)。現在の愛知県津島市生まれ。早大・慶大・東京美術学校いずれも中退。1919年から2年間、ヨーロッパへ留学。帰国後、1923年、詩集『こがね虫』で詩壇に登場。1928年、妻とともに日本脱出、5年間の放浪を経て帰国。旅の中で得た「世界人」的な眼をもって日本の文明と社会を相対化する詩集『鮫』(1937年)は、当時の軍国主義への抵抗詩として注目された。『人間の悲劇』、『非情』などの詩集、自伝小説『どくろ杯』がある。戦後は、日本近代化路線について批判的に論じた。


【2019/10/09 現在】



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