2018年09月21日
第5回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その3」

まずは裏座から。
最近、明治大正文化に心奪われまくっている宮国です。
早速ですが、この頃の芸術家の関係は、複雑だったようです。いろんな意味で。
森比呂志(もり ひろし)によると、佐藤惣之助(さとう そうのすけ)は「自分ではプライベートをほとんど書かなかった」ようですが、ゴシップには事欠きませんでした。
『詩之家』の門弟だった藤田三郎(ふじた さぶろう)は、それを「明るく伸びやかな人間的魅力」と讃えています。
ですが、惣之助の遊びっぷりは、室生犀星(むろお さいせい)からひどくこき下ろされたことも書いています。門弟の藤田からみれば、それは「きわめて悪意のこもった生前への親友への無慈悲な人物評」でした。
室生犀星は、1958年『婦人公論』に連載された「我が愛する詩人の傳記」で、佐藤惣之助について「ふたを開ければ、世のつね人の商家のおやぢ」「文學者のすることではない」「熱情と純度の濃やかな佐藤があれほどの俗物風の事務を平然と行うてゐたかに、未だに疑ひを私は持ってゐる」などと書き連ねています。

惣之助と犀星は大親友で、いや、親友だったからこそ、犀星は、惣之助が許せなかったようです。あまりにも辛辣に書ききったので、惣之助の遺族から抗議されました。そのせいか、連載が『我が愛する詩人の傳記』(中央公論社、1958年)という本になった時、佐藤惣之助の連載分は省かれてしまいます。
【“大”親友の室生犀星:金沢市白鳥路】
葉山修平(はやま しゅうへい)編著『我が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(龍書房、2000年)では、「正規の学業を積まず、独学で詩人になったふたりは、境遇の面で通じるものがあった」と書かれています。ふたりは、詩の世界では、同志として確かに切磋琢磨していました。
ただ、詩人になるまでの生育環境は大きく違っていました。川崎宿本陣に生まれ、落ちぶれたとはいえ「後ろ盾を持った惣之助」に比べ、室生犀星は「貰い子として血の繋がりのない植民地部落で生育した」からです。加えて「惣之助は三味線の師匠をしていた花枝婦人に囲われるように生活していたが、犀星は半身不随のとみ子夫人を抱えて自活することに固い決意と誇りをもっていた」のでは雲泥の差があります。
実は、犀星が、「死人に口なし」になった後の惣之助に悪意のこもった文章を書いた決定的な理由があったのです。
それはまた後ほど。まずは惣之助の詩歌にまつわる人間模様へようこそ!。
こんにちは。一番座から片岡慎泰です。ここまでで惣之助を巡る賛否両論っぷりはご理解いただけたと思います。芸術家や学者、政治家、行政官のお歴々が出てくるあたりは、惣之助の人脈のすごみがわかるってもんです。
藤田三郎と同じく 『詩之家』の門弟だった永瀬清子(ながせ きよこ)は、佐藤惣之助を荻原朔太郎(はぎわら さくたろう)、室生犀星と並べて「三羽烏」と名づけています。
【萩原朔太郎(wikipediaより)】
佐藤惣之助と室生犀星の出会いは、川路柳紅(かわじ りゅうこう)が主宰していた句会の門弟になったことから始まります。川路柳紅が俳句ではなく、詩人として「詩話会」(1917年~1926年)を立ち上げました。そこで、萩原朔太郎との新たな出会いがあり、3人はいっしょに詩作に励みました。尚ここには、後に有名になる西条八十(さいじょう やそ)も加わっています。
惣之助、犀星、朔太郎の「三羽烏」は、個人的にも親しく、1933年、佐藤惣之助が妻の花枝を失うと、同年、萩原朔太郎の妹・周子(ちかこ 本名・愛子あるいはアイ)と再婚します。また、佐藤惣之助最後の詩集『わだつみの歌』は、萩原朔太郎が装丁。
さらに、萩原朔太郎が亡くなると、佐藤惣之助が葬儀委員長を務めます。その 葬儀の3日後、1942年5月15日、義兄となった佐藤惣之助自身が後を追うように脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人に。妻の周子は、臨終に駆けつけることもできなかったと記しています。
【高村光太郎(29歳の頃)wikipediaより】交友があった高村光太郎は、佐藤惣之助を「詩魔に憑かれた魔性の人」と表現しました。なぜなら、最初の詩集『正義の兜』(1916年)から最後の詩集『わだつみの歌』(1941年)の22編、それぞれが1冊といえども似たものはなかったから。「それは殆ど不可測の練磨の掌中から前後左右に投擲された珠玉の感がある」と激賞しています。
より近しい友人であると同時に、裏座にあるように真逆ともいえる境遇にあった室生犀星でさえ、惣之助の才能について「行くところ絢爛とめどもなかった。日本のいままでの詩人あられほど豊富な形容をたくはへ、つねに鮮度を失はず、惜気もなくうたいまくつた詩人は、先づ佐藤の他にはない」と書かざるを得ませんでした。そして、佐藤惣之助がつけた詩集の表題や一篇の小詩のネーミングセンスを絶賛しています。
後に、藤田三郎は、佐藤惣之助の詩集を5期に分けました。
1.初期思想詩『正義の兜』(1916年)『狂える歌』(1917年)など。
2.前期感覚主義詩『満月の川』(1920年)『荒野の狼』(1922年)など。
3.後期感覚主義詩『琉球諸嶋風物詩集』(1922年)『颱風の眼』(1923年)など。
4.新技術主義詩『トランシット』(1929年)『西蔵美人』(1931年)など。
5.新古典主義詩『怒れる神』(1939年)『わたつみの歌』(1941年)など。
では、なぜこのような詩人が、忘れ去られたのでしょうか。藤田三郎は3つの理由を挙げています。
①流行歌の多数の作詞によって、詩人としての評価がゆがめられた。
②詩集の多くが小出版社によっていたため散逸した。
③詩法のめまぐるしい変貌により、詩業の全体が評者につかみにくい。
これは、現在から視点からすると、凹天についてもきわめて似通った状況であるように考えられます。
①については『楽天パック』のデビュー以来、凹天がいわゆる「漫画家」であったことが、表現者としての評価を低いものに。2番目の妻なみをが隠そうとしたのも、そのあたりに理由があるのではということは、この第2回「“なみを”と墓~凹天の生前にすでに準備されていた!?~」で述べました。
②についても、凹天の代表作が、第二次大戦後には残っていないような小出版社から出たことが、全集を作りにくくしたのでは。凹天自身が1970年頃書いた自筆年譜で、みずから代表作に挙げている『日本人の性生活』のように、現在のところ見当たらないものもあります。この作品は、当時、オーストリア人のフリードリヒ・S・クラウスから依頼を受けたものでした。
【日本人の性生活 凹天自身の作品ではありませんが、クラウスの著書そのものは、後年訳されました】
③に関しては、凹天は、ポンチ画から、新聞の風刺漫画、肉筆の宗教画まで、あらゆる題材と技法を使い分けることができました。宮古島に生をうけてから、さまざまな住居を転々としつつ終焉の地となる野田市に至るまで、庶民の生活から目を離さず、漫画や絵から離れず、時代に合わせて作品を描き続けました。これが、目まぐるしい世界なので、いつも目の前に新しい課題があったことが長生きの秘訣だったのかもしれません。
それに加えて、ふたりともその人脈の広さにも共通点があったことも強調しておきたいところです。佐藤惣之助は上記の人物の他にも、すでに歌壇の大御所であった與謝野鉄幹・晶子(よさの てっかん・あきこ)夫妻とも知己でした。夫妻が1928年、満州と内モンゴルを旅行し、その時の様子を『横浜貿易新報』に寄稿します。その後『満蒙遊記』(大阪屋号、1930年)として、まとめられるのですが、この著作において、佐藤惣之助は、與謝野夫妻と途中で同行し、写真も含めて、なんと30回も名前が登場。「此の若い快活な詩人」と好感をもって記されています。『満蒙遊記』は青空文庫で読むことができます。
凹天も、次回以降に述べる予定ですが、少し名前を挙げるだけでも、北澤楽天(きたざわ らくてん 1876年~1955年)、頭山満(とうやま みつる 1855年~1944年)、東郷青児(とうごう せいじ 1897年~1978年)、手塚治虫(てづか おさむ 1928年~1989年)、山口且訓こと旦訓(やまぐち かつのり 1940年~)などと交流がありました。
話を戻します。
佐藤惣之助の実家のあった川崎宿本陣は、当時ではどこの宿も同じですが、遊郭と隣合わせにありました。 西条八十によると、惣之助は、義太夫や踊りなども玄人の域に達し「詩壇」という狭い世界に棲むようなスケールの人物ではなかったとのこと。確かに、惣之助の詩集に感激し、後に『詩之家』の門弟となる若者が、川崎の住居に訪ねます。すると、ご近所さんは誰のことかもわからず、しばらくして「本陣のドラ息子」のことかと述べて、びっくりした逸話が残されています。また、釣りの名人で、何冊か著作も残しています。
萩原朔太郎、室生犀星と並び「三羽烏」と呼ばれるほどの佐藤惣之助が、他のふたりと比べて、今の世では詩人としてさほど知られていないのは、当時よくあった芸術至上主義のためにゆがめられた大衆文化への蔑視のように感じてもいいと思います。サブ・カルチャーやポップ・カルチャー全盛の現代なら、時代のヒーローになっていたことでしょう。
なにしろ、多数の流行歌を作詞したために、惣之助の詩集22篇が、芸術的評価を低くくするとは。『赤城の子守歌』『人生の並木路』、『人生劇場』、阪神タイガースの応援歌で通称『六甲颪(ろっこうおろし)』なった『大阪タイガースの歌』や東京読売ジャイアンツの初代応援歌『巨人軍の歌(野球の王者)』、『湖畔の宿』etc.
ちなみに、佐藤惣之助の詩歌にまつわるエピソードは枚挙にいとまがありませんが、ここでは3つだけ。
【末広庵の“惣之助の詩”】2011年3月4日付『東京新聞』夕刊版によると、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)の疎開先の思い出の歌は『赤城の子守歌』。
また、『六甲颪』こと『大阪タイガースの歌』がいまだタイガースファンから愛唱されるのは、2017年付11月8日付『サンケイスポーツ』によると、昭和40年代に当時の中村鋭一(なかむら えいいち)アナウンサーが、タイガースの勝利の翌日に熱唱した時からとあります。
さらに、和菓子店「菓子匠 末広庵」は、佐藤惣之助の処女詩集出版100周年を記念して、「佐藤惣之助の詩(うた)」という名の和菓子を発売(2017年3月29日付『日本経済新聞』)。
ところで、佐藤紅禄の弟子(俳句ではなく弓術)であった頃から知り合いで、反戦詩人で有名な金子光晴(かねこ みつはる)は、佐藤惣之助を「貧食者」の典型として述べています。引用が少し長くなりますが、ご勘弁。
「リューベンスであると同時にダヴィンチであり、レンブラントであると同時にゴヤであると非望に身を焚かれているのである。それは日本の大正文化という圧縮された時代の時代病であり、何物も身につかない程の慾望の焦燥に駆られる不幸な××の一範例である。彼が生まれ、彼が住んでいる川崎市という町は、東京と横浜の中途である工業都市で、田園を背負って、漁村をひかえて、横浜からは異邦的刺戟、東京からは大都市の叫喚をあび、人間の心情も風景も、まとめて捕捉することが頗る困難である」
※「××」は、本文で伏せ字になっています。
作家や作品を複眼視する重要性は今でこそ当たり前ですが、前述した日本を代表する高村光太郎や室生犀星が褒め称えた佐藤惣之助の多面性や柔軟性に、戦前すでに、そのような評価を下した、これまた日本を代表する金子光晴のような詩人もいました。
富岡多恵子(とみおか たえこ)は、佐藤惣之助のこうした常人では理解しがたい振れ幅を「詩と歌詞の谷」と名づけ、この深い谷を軽々しく飛んでみせた惣之助の態度を「おおらかさ」という言葉で表現しています。
ところで、佐藤春夫(さとう はるお)という、文壇での権力を思うがままに振りかざしました同時代人がいました。小説を書きたいという佐藤惣之助に対しても、「叙景叙事は巧みであるが、人間を書くには多くの手落ちがある」という理由で、受け取った10篇の作品を世に出しませんでした。
富岡多恵子は、佐藤春夫を「『描く』方より『描かれる』方に適したところがあるから」と述べて、次の言葉を導き出します。「『描く側』は『描かれる』側の人生を必ず羨望するに至る。惣之助にそういったひねくれた羨望は最初からない」。惣之助にとって、書くという行為は、最後には言葉として歌ったり歌われることで実現し、そこに気難しい御託宣は必要なかったのです。
とりあえず、一番座はここまで。
さて、「大」親友の室生犀星が惣之助の死後にボロクソ書いた理由の種明かしです。
1933年に惣之助の妻花枝は、惣之助を16年間支えた末、41歳の若さで亡くなりました。惣之助は43歳でした。その10ヶ月後には、萩原朔太郎の妹である29歳の周子と再婚。谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)もプロポーズしたといわれるほどの美貌の人でした。



【左 朔太郎と周子】 【中 周子】 【右 三好達治(wikipediaより)】
ふたりが再婚した8年後には惣之助が亡くなってしまいます。その時の惣之助の遺言状には、周子への財産分与の件が書かれてあり、現在の家だけが周子の財産になりました。惣之助の財産にしたら、ごくわずか。それも惣之助の母親付きです。惣之助は、財産を周子に公平に分与したのではなく、財産のほとんどを姪に相続させました。歌詞でもらえる多額の印税は一銭たりとも周子にはわたらなかったようです。
数ヵ月後には、周子は実家へと戻ります。そのことに犀星は、惣之助が新婚の頃から女遊びをしていることも知っているせいか、ますます怒りに思ったようです。
「あれほど愛していたわかい周子さんに(中略)人間の愛情といふもののあさはかさを感じた」「わが愛する詩人佐藤惣之助は寝るときだけ、ぺちゃくちゃと夫人を愛していて」などかなり強烈な言葉が並んでいます。
周子にしてみれば、贅沢をさせてくれ、愛してくれたはずの夫は、自分の将来のことなど何も考えていなかった。きっと失意のまま実家に帰ったのでしょう。なんだか不憫な気もしてきます。
さて、冒頭で述べましたが、プライベートなことをほとんど書かない惣之助が周子と再婚したあたりを書いた珍しい記述があるそうです。妻との生活にふれた文章で、その様子を知る文章を読んだ藤田三郎は「精神的な断層を埋めるためには、物質的に豊かな生活水準がいやが上にも必要だったのではないか」と推測しています。
しかし、ここは、また裏の裏があったりします。そこには、三好達治(みよし たつじ)、萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)、森茉莉(もり まり)、太宰治(だざい おさむ)、高村光太郎(たかむら こうたろう)、宇野千代(うの ちよ)、小林秀雄(こばやし ひでお)、辻潤(つじ じゅん)、山之口貘(やまのぐち ばく)、大杉栄(おおすぎ さかえ)中野重治(なかの しげはる)、中原中也(なかはら ちゅうや)、果ては我らが凹天などなど、詩人から漫画家、活動家、までさまざまな人間模様と感性の響き合いが絡みます。
主要人物といえば、1882年生まれの凹天、1886年生まれの朔太郎、1889年生まれの犀星、1890年生まれの惣之助。
青春時代から壮年期まで、皆が同じ時代の風を受けて生きていたかと思うと、感慨深いことしきり。人生においては、うりずんの季節だったのではないでしょうか。
誰もが個性的な仕事やプライベートを生きていたのです。そこに、当時の東京周辺や沖縄が美しく背景となっています。凹天が、彼らをどう眺めていたのか気になるところです。
※うりずん 沖縄の季語。「潤い初め(うるおいぞめ)」が語源とされ、沖縄の冬が終わり大地に潤いが増してくる2〜4月頃のことをいう。
-つづく-
<主な登場人物の簡単な経歴>
佐藤惣之助(さとう そうのすけ)1890年~1942年
詩人。現在の川崎市川崎区生まれ。詳しくは第4回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その2」を参照。
藤田三郎(ふじた さぶろう)1902年~1990年
詩人・行政官。現在の高知県香美市生まれ。佐藤惣之助が主宰した『詩之家』の門弟。明治大学を卒業し、当時の農林省に入省。彼が書いた『佐藤惣之助 ー詩とその展開』(1983年、木菟書館)は、佐藤惣之助を知るための貴重な資料になっている。
室生犀星(むろお さいせい)1889年~1962年
詩人、小説家。金沢市生れ。本名は照道。生後まもなく貰い子に出され、高等小学校を中退して金沢地方裁判所に給仕として勤めるうちに、上司らに俳句を指導され、やがて詩人を志す。退職して上京・帰郷を繰り返すが『青き魚を釣る人』(1912年)あたりから初期抒情詩の花が開く。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる「小景異情」(1913年)などが続々発表され、後に『抒情小曲集』(1918年)にまとめられた。この間、同じく無名であった萩原朔太郎と親交を結び、詩誌『感情』(1916年~1919年)を刊行するなど、互いに影響を受けあいながら、近代詩の完成に大きな役割を果たした。
荻原朔太郎(はぎわら さくたろう)1886年~1942年
詩人。現在の前橋市生まれ。幼少時代は、神経質で病弱な子で孤独を好み、学校ではひとり除け者にされていたという。1900年、旧制県立前橋中学校に入学し、従兄弟の萩原栄次に短歌の手ほどきをうける。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。1903年には、與謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首が掲載され、「新詩社」の同人となる。主な詩集には、『月に吠える』、『蝶を夢む』、『青猫』、『純情小曲集』、『氷島』、『定本青猫』、『宿命』などがある。「日本近代詩の父」と称される。
川路柳虹(かわじ りゅうこう)1888年~1959年
詩人・美術評論家。現在の東京都港区生まれ。名は誠。幕末の傑士川路聖謨の孫。東美校日本画科卒。詩雑誌『詩人』に発表した「塵溜」は、口語自由詩の先駆となる。代表作に『路傍の花』、『現代美術の鑑賞』、『詩学』。
西条八十(さいじょう やそ)1892年~1970年
詩人。仏文学者。現在の東京都新宿生まれ。早大教授。象徴詩集『砂金』で注目された。童謡詩人としても著名。詩集『蠟人形』、童謡集『鸚鵡と時計』など。「青い山脈」や「蘇州夜曲」など歌謡曲作詞でも活躍。金子みすゞを世に出したことでも有名である。
高村光太郎(たかむら こうたろう)1883年~1956年
詩人・彫刻家。現在の東京都台東区生まれ。東京美術学校卒。仏師・建築家で名高い光雲(こううん)の子。彫刻を学びロダンの影響を受ける。また、早くから詩を発表。詩集『道程』、『典型』、『智恵子抄』、美術評論『美について』、訳書『ロダンの言葉』、彫刻に『手』など。
フリードリヒ・S・クラウス1859年~1938年
オーストリアの民俗学者。ハンガリー王国(現クロアチア)のポジェガ生まれ。性科学、スラヴ学を専門とした。ウィーン大学で言語学と民族学を修める。1890年代より南スラヴ人の民間伝承の収集に力を注ぐ。シーボルトをはじめとする欧米人の日本報告を読んだことで日本に関心を持ち、『古事記』など、当時ヨーロッパで手に入る日本関連の文献を読み、論文『信仰、慣習、風習および慣習法からみた日本人の性生活』をアントロポフィテイア誌にて発表。訪日することはなかったが、ドイツ留学中の日本人らの協力を得て、日本の性風俗を分析した。
與謝野鉄幹(よさの てっかん)1873年~1935年
歌人。本名は寛。現在の京都市左京区生まれ。1900年『明星』を発刊し、北原白秋、石川啄木(いしかわ たくぼく 1886年~1912年)などを見出し、日本のロマン主義を主導した。後に、夫人となる鳳晶子の『みだれ髪』(1901年)をプロデュースし、世にデビューさせる。1919年に慶應義塾大学教授となり、佐藤春夫などを育てた。
與謝野晶子(よさの あきこ)1878年~1942年
歌人。現在の大阪府堺市生まれ。子どもの頃から、古今の文学に親しむ。與謝野鉄幹と不倫関係になるも、正式に結婚し、六男六女に恵まれる。『みだれ髪』で鮮烈なデビューを飾る。日露戦争(1904年~1905年)の反戦歌として世間を騒がせた「君死にたもうことなかれ」を『明星』に発表したり、女性解放運動の先駆けとなる雑誌『青鞜(せいとう)』の創刊号(1911年)に寄稿する。1921年に、夫の鉄幹らと日本初の男女共学となる文化学院を創設する(2018年閉校)。
倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)1941年~
日本の女優、歌手、声優。現在の東京都豊島区生まれ。愛称は「チコちゃん」。実妹は女優の倍賞美津子。弟は猪木事務所社長の倍賞鉄夫、日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明。夫は作曲家の小六禮次郎。
中村鋭一(なかむら えいいち)1930年~2017年
朝日放送の元アナウンサー、タレント、政治家(元衆議院・参議院議員)。現在の滋賀県栗東市生まれ。1951年に同志社大学商学部を中退し、朝日放送にアナウンサーとして入社。愛称は「えいちゃん」。1980年に政治家となるも、2000年に引退。その後は、昭和プロダクションに所属し、タレント活動を行う。
佐藤紅禄(さとう こうろく)~1949年
作家・俳人。現在の青森県弘前市生まれ。サトウ・ハチロー、愛子の父。日本新聞社入社後、俳句は子規に学ぶ。多くの作品の他、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』などの翻訳も手掛ける。
金子光晴(かねこ みつはる)1895年~1975年
詩人。本名保和(やすかず)。現在の愛知県津島市生まれ。早大・慶大・東京美術学校いずれも中退。1919年から2年間、ヨーロッパへ留学、帰国後、1923年詩集『こがね虫』で詩壇に登場。1928年、妻とともに日本脱出、5年間の放浪を経て帰国。旅の中で得た「世界人」的な眼をもって日本の文明と社会を相対化する詩集『鮫』(1937年)は当時の軍国主義への抵抗詩として注目された。『人間の悲劇』、『非情』などの詩集、自伝小説『どくろ杯』がある。戦後は、日本近代化路線への批判を評論などで行った。
富岡多恵子(とみおか たえこ)1935年~
詩人・小説家・文芸評論家。現在の大阪市西淀川区生まれ。作品は文壇から高く評価され、H氏賞、川端康成賞、読売文学賞、毎日出版文化賞など多数。日本芸術院会員。上方お笑い大賞選考委員。静岡県伊東市在住。現代美術家の菅木志雄が夫。
佐藤春夫(さとう はるお)1892年〜1964年
詩人・小説家。現在の和歌山県新宮市生まれ。与謝野寛などに師事する。抒情詩に才能を示し認められたが、のち文学に転じた。文化勲章受章。著作に『田園の憂鬱』、『晶子曼荼羅』など。
谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)1886年~1965年
小説家。現在の東京都中央区生まれ。一高、東大に進み、小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。『象』、『刺青』などの作品で永井荷風(ながい かふう)に認められ、文壇に登る。震災後関西に移住し、『卍』、『春琴抄』など、谷崎文学の頂点ともいえる作品を著す。耽美主義の代表者とされるが、実際には、作風や題材は変わり続けた。
【2019/10/09 現在】
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│Ecce HECO.(エッケヘコ)