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2017年10月20日

第参號 「サーカス団、宮古へ」

第参號 「サーカス団、宮古へ」

たまたまなのですが東方大サーカスが台湾で販売していたであろう、公演パンフレットが手に入りました。
第参號 「サーカス団、宮古へ」発行日などは一切書いていないので不明ですが、掲載された写真に1965年、沖縄公演の前年に撮られたものがあるので、ほぼ同時期と推測できます。写真はモノクロ、カラーも単色ですが、楽しげな雰囲気を作り出そうとする気持ちが分かるデザインです。
ページをめくると、今まで断片的だった団員や動物の数、演目などがより具体的に分かりました。新聞広告には「猛獣二十数頭、美女団員七十名余」と記されているのですが、これはちょっと眉唾かもしれません。全団員集めれば70人程度にはなるので、正確には「美女 団員~」でしょうか。このあたりは昔の宣伝らしいご愛嬌。
猛獣は「象2頭、虎2頭、ライオン5頭、オラウータン1頭、オウム6羽、猿6匹、犬10匹、馬6頭」と具体的な数が挙げられており、こちらはなんとか「二十数頭」といえるかもしれません。

さて、成功裏に那覇公演を終えた東方大サーカス。次なる公演地宮古島へと進めます。
宮古島の新聞にサーカスに関係する広告が初めて掲載されたのは、1966年8月13日(宮古毎日新聞1面)、「東方大サーカス近く大挙来島」と写真入りで載りました。以後の動きをまとめると、広告と記事で日時の合わない点もあるのですが、8月21日に来島、翌22日に市街地をパレード、24日から公演開始予定も、大雨で準備が遅れ25日から開始、という日程でした。28日には旧盆入りする忙しいタイミングですが、それでも珍しいサーカス団を一目見ようと、沢山の人が港に詰めかけたようです。
22日付けの宮古毎日新聞には、「きのうのみなとはライオンや象、サルなどを一目見たいと大勢の人たちがドツト押しかけときならぬにぎわいをみせた」と、記しています。宮古毎日新聞は、宮古時事新報よりも広告掲載期間が長く、来島時の様子を記事化しているので、勧進に関係しているのかもしれません。
第参號 「サーカス団、宮古へ」
上陸を伝える記事には、サーカス団長のコメントも掲載されていました。
一部を抜粋すると、
「宮古の皆さんがサーカスをゆつくり楽しんでもらえればそれに越したことはない、宮古はテレビもまだだと聞いたし、生のサーカスに接したことは少ないと思い、動物を見てもらうだけでもいいと思っています」
実はこのコメント、台湾のサーカス団が沖縄で、特に宮古や石垣で公演を行ったであろう理由が含まれています。それが「テレビもまだ」の部分。
第参號 「サーカス団、宮古へ」第参號 「サーカス団、宮古へ」
台湾も1962年にテレビ局が開局し、徐々に放送局が増えていきます。新しいメディアが登場すれば、衰退するのがこれまでの娯楽。
台湾でも同じく、テレビ局開局とともに、当時隆盛を誇った台湾語映画や「台湾オペラ」とも呼ばれる歌仔戲(かざいげき)は徐々に影響を受けて衰退し始めました。映画や歌仔戲の俳優は仕事求め、ホテルなどのショータイムで出し物を演じ始めました。それがこの時期に台湾でサーカス団が活動し始めたひとつの要因です。
しかし、みなが同じような仕事求めればどうなるか。そのような状況で、東方大サーカスは観客を求めて沖縄公演を行った考えられます。また当時の台湾の新聞で、東方大サーカスの紹介に「日本や琉球にも足を運んで公演した」という表記もあり、台湾外でも公演を行い差別化を図ろうとしたのかもしれません。これは推測ですが。ちなみに東方大サーカスの団長だった郭鎮華という人物は、前述の台湾語映画製作に関わっていたようです。彼にとって「テレビもまだ」という発言は、常に自分の仕事を脅かしてきたテレビから逃れられた安堵からくる言葉だったのかもしれません。

【メモ】
歌仔戲(かざいげき)
20世紀初頭、宜蘭地区で誕生した台湾の伝統芸能


一柳 亮太(ひとつやなぎ りょうた)
1978年生まれ。神奈川県川崎市出身。2001~2015年にかけて沖縄に在住。タイムス住宅新聞「まちの記憶」連載(城辺の「瑞福隧道」について書いたりしました)など、ライターとしての活動を行うも、現在は東京で会社員。興味関心は乗り物一般、ちょっと昔の出来事、台湾など。

「島の小さな大きい放送局」()



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