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2020年01月18日

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」

あけましておめでとうございます!
裏座の宮国です。

まずは、お詫び申し上げます。
このニッチな凹天研究を読んでくださったドイツのアニメ研究者のリッテンさんがせっかくコメントを書いてくださったのですが、なぜかそのコメントが消えてしまうという不手際がありました。

First of all, I would like to apologize.
Mr. Litten, a Japan ANIME researcher who read this niche 凹TEN study, wrote comments, but there was a mistake that the comments disappeared for some reasons. I apologize for that.

当初、このブログは、複数の人で管理していたため、パスワードはそのまま使っていました。それで、事故が起きたと思います。ですので、パスワードを変更いたしました。ですが、コメントの下書き等残っておりますので、2、3ヶ月のうちにできる限り再現したいと思います。

We used the original password that started this blog. Because this blog was managed by many people, the password was used as it was. I think an accident occurred for that.
Now, we changed that.However, there are draft comments left, so I'd like to reproduce them as much as possible within a few months.

リッテンさんには、深くお詫び申し上げます。また、いろいろなやり取りができたことをとてもうれしく思います。いつかぜひお会いしたいと思っています!

I apologize to Mr. Litten deeply. I am also very glad that we were able to exchange opinions. I want to see you :) SOMEDAY!!

と、リッテンさんにも分かるように、お詫びだけ、つたない英語でいたしました・・・。お付き合いありがとうございました。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」

さて、いきなりですが、新年早々、凹天を大きな枠からとらえ直したいと思います。
私、宮国が凹天を最初に知ったきっかけは、小学校の頃からの宮古の友人からでした。前回、ちょろっと書きました。その友人が凹天の足跡をたどって東京に訪ねてきた十年以上前の話です。

当時は、宮古出身の漫画家というぼんやりしたものでしたが、彼の生きた時代を追いかければ追いかけるほど、彼のいぶし銀のようなきらめきが私の心をとらえて離しません。

漫画の当時の立ち位置は、ジャーナリスティックでもあり、アナーキズムでもあり、エンターティメントでもあり、コマーシャリズム。激動の時代に寄り添いつつ「特異な」発展を遂げました。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
また、凹天の生きた頃は、メディアが静止した表現から、動的な表現への移行期に立ち会うことができた稀有(けう)な時代でもあります。新聞社に働き、政治家などの風刺画だけでなく、新聞、広告、書籍の挿絵、そして漫文も書いていたからかもしれません。

そして、今のようなメディアの細分化の分岐点であったため、漫画家はジャーナリストであり、芸術家であり、批評家であり、イラストレーター、物書きであったのです。カオスな時代状況ともいえます。

現在、手塚治虫(てづか おさむ)は漫画の神様。ここでの「神」とは、人間に隔たりがあるということが前提で使われていると思います。手塚治虫のような作品は誰も真似することができない、ということでしょう。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」

では、その以前の漫画家であった凹天たちは、全知全能の神ではなく、道祖神のような立ち位置かもしれません。より泥臭く、土と風の香りがする、道端でそっと人びとを眺めながらも、それぞれが個性的な風貌で。

現代の人工知能 (AI)が登場するような社会では、漫画家はメディアに対する本質的な力をもった人びとだと思います。手塚治虫のようなマイルストーンがありつつ、百年以上たって、テクノロジーが進化してまたゼロイチの表現者、批評家、時代の担い手になりつつあるような気がします。

今も昔も、漫画家たちはどれだけテクノロジーが進化しても人間にしかできない「生の表現」に直接リンクしているように思います。凹天たちの時代の漫画家たちを取り巻く状況、メディアが当時どのようであったか、今回も柴田勝(しばた まさる)を中心に、漫画、トーキー、アニメーションとお伝えします。


 一番座から片岡慎泰です。

 今回はまず謝辞を述べたいと思います。このブログに、バイエルン州立図書館司書F・リッテンからコメントをいただきました。リッテンの議論そのものやその進め方については、私としても思うことがいろいろあります。しかし、遠くドイツから、日本の商業アニメーション映画について、研究してくださったことに対して、名前をここで記して、感謝したいと存じます。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
 大阪で順調に仕事をする柴田勝の話を続けます。

 1927年には、次女の寿子(としこ)誕生。この年は、そうです。われらが凹天と山口豊専(やまぐち ほうせん)が、『東京毎夕新聞』で出会った記念すべき年でもあります。

 前述しましたが、帝シネ(帝國キネマ演藝株式會社)には、『籠の鳥』で大当たりした豊富な資金がありました。それを元手に、現在の東大阪市の長瀬駅近くの長瀬川河畔に敷地面積約30,000平方メートル、そして3000平方メートルの屋内ステージ2棟を備え「東洋のハリウッド」と呼ばれた「長瀬撮影所」が完成します。それは、1928年のことでした。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
 柴田勝は、1929年には帝シネ監督作品58作目『波浮の港』を制作。これは日活(日本活動冩眞株式會社)と東亜(東亞キネマ株式會社)と競作になりました。『波浮の港』は、伊豆大島を舞台とした作品で、川端康成(かわばた やすなり)の初期代表作『伊豆の踊子』にも描かれています。

 しかし、もう帝シネには、体力がありませんでした。トーキー時代の到来や長瀬撮影所、撮影機材への投資が経営を圧迫し、ライバルである日活や松竹(まつたけ)の現代劇の映画製作が、帝シネ以上の資本投資で洗練された映画作品を送り出すようになったため、帝キネの映画興行も窮地に陥ります。同社は1929年以後、松竹(松竹シネマ株式會社)と提携し映画製作をするように。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
 1930年には、厳しい検閲の鋏をかいくぐり完成された左翼映画『何が彼女をさうさせたか』が大ヒットし、学生やインテリ層の間でも評判になりますが、長瀬撮影所が焼失。以降、同社の映画は京都太秦の松竹太秦撮影所を借りて撮影が行われます。柴田勝は、この長瀬撮影所の焼失についてこう記しています。

 「あさ、スタジオへ行くと、門の前で高見組が『素晴らしい奴』を鍋本君のカメラで撮影していた。あとで思えば、これが長瀬スタジオの姿を最終に撮影した映画だった。夜、寝てから暫くすると烈しい半鐘の音がするので、窓をあけて、南の方を見ると、真赤に空が焦げている。どうも長瀬らしい。寝巻をの上にオーバーコートを羽織って家を飛び出す。(略)鉄骨の建物は一面の火の海だった。しまった、瞬間情けなくなって、足が重くなったが、こころを、はげまして非常線を突破。技術部の建物も火と煙りで一杯、焼付室のマチポプリント機も駄目だ。手のほどこしようが無いので、火のついていないフィルム倉庫に飛び込んで、フィルムを持ち出す(略)。
 夜があけて焼跡を見ると、東京の震災の跡そのままであった」。

 こうして、一世を風靡(ふうび)した帝キネも、その終焉は、はかないものでした。柴田勝は、「帝シネ改め新興シネマ」と記しています。内紛や火事、時代背景ばかりでなく、内部事情はそんなに単純ではなかったようです。それは、帝シネが映画会社として、プロ意識に決定的に欠けていたから。そこの背後には、松竹がいました。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
 田中純一郎(たなか じゅんいちろう)は、帝キネから新興シネマ(新興シネマ株式會社)に移った事情事情をこのようにまとめています。

 「日本トーキーの初期時代から、戦前の一時代を画した絢爛期へかけて、日本の映画界には数限りない興亡の歴史があるが、平凡な大衆嗜好のあぐらをかいて、何らかの指向性も前進性も持たぬ娯楽映画を、今日的常識のみを唯一の手がかりとして作って来た一部の映画会所の歩んだ道は、ただにトーキー資本に圧迫されたというだけでなく、それも重要な理由であろうが、現状維持から退嬰へ、退嬰から没落への、単なる歴史的段階を辿ったとしか見られない場合が多いとしか見られない場合が多い。その代表的な会社に新興キネマがある」。

 帝キネ、そして新興シネマの問題点を田中純一郎の著作から記しておきます。

 「新興キネマは、(略)帝国キネマの持つ若干の配給市場と、製作機構を合流せしめて、自己企業の拡充を図ろうとした松竹によって経営を代行され、後に社名を解消して松竹資本の一翼に列なった映画会社であるが、一時相当の人材を擁したにもかかわらず、ついに他社映画のレベルを突破することを得ず、不得要領な第二級作品を目標にせざるを得なかったという不幸な運命を持っていた」。

 「(略)帝国キネマ以来、適当な製作指導者を持たなかったから、この系統から生え抜きの優秀な映画芸術家も生まれず、つねに他社の芸術家を引き抜いたり、独立プロダクションの映画を購入したりして、経営を糊塗し、会社本来の製作陣を整備育成することができなかった」。
 
 さまざまな資本関係の内紛がありながらも、新興キネマは、1942年戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画(大都映畫株式會社)と合併、同年、創立総会をもって大日本映畫製作株式會社(現・株式会社KADOKAWA)に。新興キネマの本社は、大映(大日本映畫株式會社)に引き継がれます。創立登記は、同年消滅し、2つの撮影所、11館の直営劇場はいずれも大映が引き継ぎました。

 さて、われらが凹天はどうしていたでしょうか。凹天とならび日本アニメーション映画の始祖といわれる幸内純一(こううち じゅんいち)や(きたやま せいざぶろう)は、紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、アニメーション映画を製作していました。そして、その次世代である村田安司(むらた やすじ)、山本早苗(やまもと さなえ)、正岡憲三(まさおか けんぞう)、大藤信郎(おおふじ のぶろう)、大石郁雄(おおいし いくお)など、現在のアニメーション業界からすると神々のような存在が登場した時代でもあります。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
 煙り草物語
A Story of Tobacco
製作年:1926年 監督:大藤信郎
お嬢さんに対して小さな男が煙草の由来を物語る、アニメと実写の合成による大藤信郎の試作品


 残念ですが、この時代、われらが凹天は、商業アニメ―ション映画には右眼を失明した(諸説あります)ため、一切関わっていません。アニメーション制作による職業病第1号だったのです。須山計一著『日本漫画100年』(芳賀書店、1968年)によると、1937年『マンガ王国』を個人雑誌として創刊しました。ここでのペンネームは下川平馬。凹天の得意とするエロマンガやプロレタリア漫画が、軍国主義の足音とともに自由に描けなくなったことがうかがえます。

 しかし、トーキー映画についてずっと関心をもっていました。それは、自分が日本初の商業アニメーション映画を製作したという自負心があったためではないでしょうか。それは、『新漫畫派集團 漫画年鑑』を読むと、分かります。凹天は「新漫畫派集團」には属していなかったのですが、岡本一平とともに、この本に寄稿しています。


第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
『新漫畫派集團 漫画年鑑』(文座書林、1933年)より。

 「今日の漫画界には判然として大家の仕事と小家の仕事が區分されてゐる。大家の仕事はとは新聞の日曜漫畫と諸雑誌の諸雑誌の漫画頁執筆である。それは質の上での區別ではなく種類の上での區別である。今日の所謂小家の仕事なるものはほとんどナンセンス漫画に限られてゐる、それは現代の只笑ふにあるからとも一つはトーキー漫画の影響である『ノラクロ兵隊』が最も人氣があるのを觀ても如何にトーキー映画に似たものが現代の要求であることが判る。そこで小家乃ち新進漫画家の悩みであるが、トーキーの方には聲と動きが有る故に如何にナンセンス漫画がフン張つたとて3/1だけ力の足りない事は當然である、僕がナンセンス漫画の非存在性を主張していゐのはそれが為で、機械力の勝利は如何に笑ひの要素があつてもナンセンス漫画を以てしては讀者を満足し得ないのである」。
 終戦直前から戦後にかけても、凹天はずっとアニメーションに関心をもっていたことが、記録に残されています。

 一番座からは以上です。



再び、宮国です。いやはや、内紛やら没落やら、当時の混沌は読んでいるだけでも心が折れそうです。ですが、そのなかにいた人たち、特に漫画家たちは、それぞれ独自の道を歩んでいることが他の資料でもよく分かります(これは次回くらいに!)
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
さて、今後ロボットや人工知能といったテクノロジーが、どれほど発展していっても、代替できない「人間の仕事」があるとしたら、このふたつは大きな要素になるでしょう。これは、私の妄想ですが、多くの人もすでに同じように感じていると思います。

その人らしさという唯一無二の創造性。
人としての北極星を掲げ、ともに生き抜くリーダーシップ。

そのふたつを凹天たちは、すでに百年以上前に漫画を通して体現していたと思うのです。そんな大げさではないかもしれませんが、時代と対話し、表現をする人たちで「できることを、できる人が、できる時に」と自然的な集団がいたとすれば、この時代を生きた漫画家たちではないかな、と思うのです。ジャーナリスティックな政治漫画から芸術的なエロマンガ、アナーキズムに根ざした社会風刺本、社会風俗を生きる芸能活動まで、守備範囲の広さは驚くばかりです。

彼らは生粋の生けるコンテンツホルダーだったのでしょう。

さて、芸能、コンテンツ、メディアについて、少し考えたいと思います。「芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち人間の身体をもって表現する技法」。大衆芸能から伝統芸能まで幅広く、もちろん人工知能では今のところできないこと。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
コンテンツとは、contents。一般的には、電子的な情報の中身のこと。コンテンツは、直訳すれば「内容」や「中身」。現段階では意味は大きくふたつに分かれると思いますが、「デジタルコンテンツ」とは、映画や音楽、アニメ、ゲーム、漫画、キャラクターなどの創造性を持ついわゆるソフト面と、単にデジタルサービスとしてのスピードを重視した情報発信でしょう。

ですが、最近はさらにWebサイトでも後者のスピードとサービスの情報発信でなく、前者の具体的な「情報の中身」に焦点が向かいつつあります。また、そこに含まれる情報が重要視されている傾向が顕著で、グーグルなどの優先順位もその指針でシフトしていっていると言われています。

どの時代もいわゆる情報、芸術、芸能はコンテンツとして、メディアを通して表現されます。1960年代のスマホやPCがない時代からすでに現在のメディアの発展を予言し、まさしくメディアの本質を言い当てた人物がいます。カナダ出身の英文学者マーシャル・マクルーハンです。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
「コンテンツはメディアにあたり、メディアとはメッセージである」という名言を残しています。メディアとは、媒体。情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置。言葉の語源は、ラテン語のmedium(メディウム)から派生した言葉で、16世紀の初期においては、シャーマン、巫女と神と人とを「媒介」する人たちを指していました。まさしくメッセージ、ご信託です。

現代は、ITを通して「コンテンツはメディアにあたり、メディアとはメッセージである」。

そっか、今も昔も、本質はメッセージなのか。そして、このITの便利さは、昔の人から見れば、神の領域。そして、言葉がITを通して、メッセージというよりも集合知による御信託かもしれません。

形あるものは壊れてしまいますが、メッセージを受けて、人の心に灯った炎は可逆性があって、いつでも戻ることができます。薄れたとしても、また何かあれば再燃することもあるでしょう。喜怒哀楽、なにかしらの感情は、思い出とともに心に灯りやすいからです。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作

たとえば、私が8歳の頃、沖縄本島に住む祖父母との久しぶりの再会を思い出すと、脳内ワープして、今でも胸がほっこりします。そして、彼らが語っていた言葉や歌っていた神謡、選ばざるを得なかった生き方は、私の考え方の雛形にしっかりとなっています。

そして、宮古の芸能であるあやぐ(綾語)や神歌を聴いていると、言葉にできない感情が湧き上がります。私は、完全な方言話者ではないにもかかわらず、です。言っている意味も、ところどころ分かりません。

ですが、言葉で表現できないような懐かしいような、恋しいような不思議な感情がわきあがります。私はそれが先人たちが残してくれた種火であり、灯火のような気がしています。
第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
崎田川(サキタガワ)| 與那城美和 が歌う宮古島の民謡

太古の昔の自然とともに暮らした時代、人頭税の頃のような厳しい時代、数世代前は波乱万丈な歴史を生き抜いて、歌謡があります。それはどの地域でも一緒でしょう。島の言葉にする必要のない暗黙のルールである「何が大事か」ってこと。

「歌や踊り」いわゆる芸能として伝えてきてくれたことは、この場で呼吸をし、脈を打ち、魂のままに自由であること。いくら苦しいことがあっても、喜びを分かち合うこと。

「複雑性を抱えた現代を生き抜くためには、この本質さえたがえなければいい」と、最近はよく思います。

そこで、ふと、私たちがなぜこの凹天の記事をネット配信という道を選んだのか、ということを考えます。それは時代。ただの偶然です。ですが、このコンテンツは、現在の自分たちでできること。私自身は宮古の歴史を掘ることは「継ぐべきこと」のひとつだと思っています。誰から頼まれたわけでもありません。私は、島の共同体的公共性に基づいて動いているのに過ぎません。

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」
愛しゃ(かなしゃ) (沖縄 宮古島 下地暁 しもじさとる)
https://youtu.be/kd-U7A-CUOQ


凹天を通して時代を学びながら、凹天の心情や信念を学んでいるのかもしれません。土壌のないところで、どう表現し、後世に残すか、彼らの思いをすくい上げて共振することができるか。

でも、決して誰かのためではなく、自分のため。島の先輩を見るようで、楽しくて、喜ばしいのです。過去を振り返ることで、先人の知恵を礎(いしずえ)にして、自分が未来を生きるためです。

島的に言うと、過去に生きるように未来を生きる、もしくは未来を生きるように過去を生きる、私たちの心は自由自在なのです。そのためには、島の芸能の灯火を、凹天、そして凹天をめぐっての表現をこれからも深堀りしていきたいと思います。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

手塚治虫(てづか おさむ)1928年~1989年
漫画家、アニメーター、アニメーション監督。現在の大阪府豊中市生まれ。本名は治。大阪帝国大学医学部卒。5歳の時に、現在の兵庫県宝塚市に移住。小林十三(こばやし いちぞう)が作った行楽施設の中心に宝塚少年歌劇団(現・宝塚歌劇団)があった。この歌劇団と周りの人工的な風景は、治虫の作品に大きな影響を与えたといわれる。1946年『小国民新聞』に『マアチャンの日記帳』でプロデビュー。1947年に『新寶島』が、当時異例の大ヒット。赤本ブームを起こす。本格的SF漫画を手がけ、戦後漫画のトップランナーである横井福次郎の影響を受ける。映画的構成とスピーディーな物語展開をもつ『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点として考えられている。代表作に『鉄腕アトム』、『火の鳥』など。仕事への異常なまでの取り組み、そして後進の育成にも努め、それは今なおトキワ荘伝説として語られる。1963年、日本で初めてテレビで放映された漫画『鉄腕アトム』の翌年には、当時凹天の住む野田市の住処に訪ねたことが記録に残っている。元々、手塚治虫は、凹天の似顔絵のうまさを認めていた。漫画界、アニメ界に大きな足跡を残す。胃がんのため亡くなる。受賞多数。しかし、昭和天皇崩御のため、国民栄誉賞受賞はもらえなかった。

ハーバート・マーシャル・マクルーハン1911年~1980年
英文学者、文明批評家。カナダアルバータ州エドモントンに生まれ。ケンンブリッジ大学大学院修士課程卒。元は英文学教授だったが、あらゆる視点からのメディア論を展開。「ポップカルチャーの大司祭」とも呼ばれる。著書に『グーテンベルクの銀河系』、『人間拡張の原理――メディアの理解』、『メディア論――人間の拡張の諸』など。カナダ勲章受賞。カナダオンタリオ州トロントで死去。

フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。

山口豊専(やまぐち ほうせん)1891年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」

川端康成(かわばた やすなり)1899年~1972年
大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名をもつ。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立。人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築く。日本人として初のノーベル文学賞受賞。代表作に『伊豆の踊子』、『雪国』、『山の音』、『古都』など。逗子の別荘で、ガス自殺。

田中純一郎(たなか じゅんいちろう)1902年~1989年
映画史家、映画評論家、編集者。本名は松倉寿一。群馬県新田郡生品村(現・同県太田市新田地区)に生まれる。東洋大学卒。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂で、映画雑誌によく投稿していた。当時の投稿仲間には、飯島正、古川緑波がいた。1919年、16歳のころに流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよう。在学中に批評家としてデビュー。1925年に雑誌『映画時代』、1930年に雑誌『キネマ週報』をそれぞれ創刊した。。主著に『日本映画発達史』全5巻がある。老衰のため、石神井台桜井病院で、死去

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。大阪府泉北郡高石町北(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。
【2023/04/15 現在】












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