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2019年10月19日

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

こんにちは。裏座から宮国です。
さてさて、今回はタイトルの通り、関東大震災(1923年9月1日)が背景としてのテーマになっております。なぜかと言うと、やはり自然災害は人の人生を大きく変えるファクターでもあると思うからです。

今回もたくさんの台風の被害があり、いまだ大変な人も多くいると思います。
台風を子どもの頃から経験してきた私としては「備えあれば憂いなし」という言葉が浮かびます。

今回、SNSで「怖がらせるな!」という声がありましたが、そんな気持ちは毛頭ありません。なぜなら、いちばん大事なのは命だからです。

がんずーさどぅぬ いちばん。健康こそ宝です。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」
外苑前での関東大震災時の様子

そして、まさしく「天災は天の災い」なのか、個人の人生を揺り動かし、フォーカスさせる理由があるかもしれません。個人的なことですが、私は2011年の東日本大震災のとき、三女をみごもっていて臨月間近でした。

今、考えると、私の人生は一変したように思います。宮古島の活動に力が入り始めたのは「このままでは私が娘たちに何も伝えることができない」という焦りからでした。死ぬほど嫌いな歴史(勉強的にっていう意味で)に手を付け始めたのも、不思議といえば不思議です。

私はいつも現在でいっぱいいっぱいなので、基本的に過去は振り返りません。無意識に過去が反映するようなこともありますが、ほとんど「現在」のことで脳みそが99%で満タンです。

でもひとつだけ、歴史に興味がもてることがあるとすれば「人」を介して、歴史がまなべるんじゃないか、と一筋の光が、笑。

宮古の歴史を学ぶにあたって、凹天はほんとに勉強になります。さて、それは後述するとして、凹天たちの時代の立役者でもある柴田勝(しばた まさる)も関東大震災という激動を乗り越えてきたひとりなのです。

今回は、震災に直面した柴田勝(しばた まさる)の仕事ぶりやプライベート、そして周りの人びとの行動に迫ります。その当時の映画人がどのような暮らしだったかも透けて見えます。ほんと、筆まめな人って、有り難いです。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 1922年、帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)で順調に仕事を続けていた柴田勝に息子が生れます。名前は勝美。

 「六時半頃床を出る。妻は腹が痛いとて苦しんでいた。柴田の父が来て一緒に食事をした。心配にはなるが産婆の角南さんが夕方頃生まれるというので母に頼んで撮影所に行く。唐沢君が『水戸黄門』の試写をやっていたので見る。そしてカメラの掃除をしたりする。然し何をしていても妻が苦悶している姿が眼の先にちらついて堕ちつかない」。

 「家の格子をあける時、堪えいるような苦悶の声が聞えるような気がしたが、入ると静かだ。母が『生れたよ』という。男か女かと聴くと男の子だという。まだ見ぬ我児に一種の不気味さを感じて奥の間に行く。産婆さんが『おめでとうございます』と祝ってくれた。赤いキモノを着て布団へくるまっている赤ん坊、頭が馬鹿に長いので気になったが自然に直ってくるというので安心する。オギャアオギャアと高く泣いている顔をジッと見ているうちに、ああ己もとうとう親になった。今まで子供のような気持でいたのが急にこの子の親になったのが不思議に思われた。そして、子を持って知る親の恩ということをツクズク思った。妻もがっかりしたようだが元気がいいので安心した。夜、各氏にあてて出産通知のハガキを書いた」。 

 翌年、関東大震災が起きます。柴田勝は、淡路島で『島新太郎』を撮影中でした。ラジオもテレビも、ましてやインターネットもない時代。

  「(略)忍術のトリックで家が動くところがあるので、カメラを横にして三脚をグラグラと動かしていたら、なんだかほんとうに大地がゆれているような気がして目まいがして来た。どうしたのかと思って近くの溝を見ると溝の中の水が波を打っている。本物の地震だ」。

 翌日、柴田勝は、横浜を中心とした地震の号外が、帝シネの撮影所があった小阪(こさか)にも出ます。「東京は大した事はあるまいと思って」、昨日は大きな長い地震がありましたが、東京は如何でしょうかという内容を妹に書こうとしたら第2の号外が。

 「それには、東京横浜の震災につぐ大火災とて神田区を中心に焼けているとの事であった」。「浅草も十二階が倒れたという。一日だから弟は公休日だ。浅草でも遊びに行っていたらどうしたか知ら。どうぞ、みんな何事もなくいてくれと祈るばかりであった」。

 通称「十二階」こと淺草凌雲閣とは、1890年に竣工(しゅんこう)されました。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置。現在エレベーターの日という記念日の由来になっています。当時の淺草の繁栄ぶりを象徴する建築物でした。



第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」
第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

凌雲閣の震災前と震災後

1923年の関東大震災で崩壊した東京・淺草の凌雲閣。「淺草12 階」とも呼ばれ、西洋式の摩天楼として人気を集めたが、激しい揺れでよって8階から崩れた=日時は地震発生=(1923年09月01日) 【時事通信社】

 その日の夕方、また号外が。「『丸の内ビルテイング』は全部倒れた。警視庁帝劇も焼けた」と驚く記事ばかり汽車、電信、汽船もおぼつかない」。

 淡路島から大阪に行き、次々と出る号外を読んで、柴田勝は「江戸文化、東京文化が焼けていく。泣いて来てたまらなかった」。柴田勝は江戸っ子人としてのプライドをもっていました。

 いてもたってもいられず、柴田勝は東京に行くことに。東京は戒厳令が公布され、警察の証明書が必要でした。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

 そこで御厨(みくりや)署から、「御証明願、大阪府中河内郡小阪村下小阪六百七十五帝国キネマ社内技師、大森勝、明治参拾年五月二十六日生、右ノ者東京市神田区表神保町四番地ニ現戸主兄大森清次郎、母並ニ下谷区仲根岸町三十三番地ニ弟大森光住居致シ居リ今回ノ震災ニテ生死ノ程モ判明致サズ候ニ付至急上京致シ度何卒入京ノ証明書御下附相成度御願候也、大正十二年九月四日 右御厨文書御中」という証明書をもらいます。いくつか押印(おういん)ももらい、翌日、柴田勝は上京するつもりでした。

 しかし、大阪では激しい雨が降っていました。近所の老人の意見を取り入れて、出発は翌6日に。梅田駅から名古屋駅まで東海道本線。そこから中央本線に乗り換えます。東海道本線は、関東に入ると壊滅状態だったからかと。

 電車で、「一人の老人は軍人あがりらしく戒厳令というものの趣旨を語って、自分は大阪師団の許可を得たから大丈夫だが、刑務所位では入京することは出来ないだろう」などと述べて、柴田勝を不安がらせます。七日に篠ノ井駅、軽井沢駅、翌日に大宮駅到着。そこで証明書を銃剣を突き付けられながら見せます。「大宮へついていよいよ証明書調べだ。銃付鉄砲をもつ軍人の姿は物々しく戦場に近づいたという感じがしたか許可された時はうれしくて涙が出た」。

 そこから翌日の夜明けに田端駅へ。彼の家族は、幸いにも無事でした。

 9月9日の日記。「本所の被服省跡へ行くと三万二千余の焼死体を、いくつも重ねて火葬にしているところであった。あまりの悲惨さに通り抜ける事が出来ず。引返して国技館前から両国橋を渡る。橋は片側落ちていた。川を見ると、九日を経過した今日でも無数の焼死体が流れて行く。これではほんとうに罹災した人の実数は分からないと思った。柳橋から代地を通って雷門へ行く。仲見世は、ほとんど倒れていた。然し倖ひにして残った仁王門、五重塔、観音道、六区へ出ると十二階は八階から上が倒れていた。活動館は全部あとかたも無かった。最も人の出る土曜日の朔日だったからその騒ぎは大変だったろうと思った」。

 その後、東本願寺跡、車坂、御成道、須田町、小川町、九段、三番町、市ヶ谷、四谷塩町と歩きます。そこで市電に乗るつもりでしたが、終電は出ていました。

 「重い足を曳きづって練兵場を抜けて青山通りへ出る。人力車があったが渋谷迄、二円だという。馬鹿高い値段だが、あまりにも疲労したので乗って帰る。おそいので母は心配していた。私が青っぽい色のアルバカの洋服を着ていたので朝鮮人と間違えられて殺されはしないかと母は心配していたが、私は故郷の東京で殺されたら本望だとばかり平気だった」。

 「アルバカ」ことアルパカとは南米原産の動物で、体毛が、洋服やカーペットに用いられました。


第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

 ここからも、当時の大衆文化を支えた映画館、寄席、劇場などハコモノが壊滅的打撃を受けたことが分かります。しかし、映画は不死鳥のように復活。関東大震災前の東京周辺の映画館は112ほど。入場者は年間1740万人。それが、1927年には映画館数178。入場者は2487万人。警察が厳しく取り締まっていた映画館建築制限が撤廃されたのもその大きな要因です。

 ところで、われらが凹天の当時の活動を記しておきます。

 1921年に中央新聞社に入社。『中央新聞』は、1883年、『絵入朝野新聞』として創刊。1889年に『江戸新聞』と名を変えます。1890年、大岡育造(おおおか いくぞう)がそれを買収して『東京中新聞』と改名し、さらに1891年8月16日、『中央新聞』とした。紙面は大岡育造の政治的足取りに合わせ、1892年から国民協会、1900年から立憲政友会の機関紙的存在として編集。立憲政友会が大岡から買い取って機関紙とし、合資会社組織に変え、鶴原定吉(つるはら さだきち)が社長に就任。社屋(しゃおく)は、麹町區内山下町(現・内幸町1丁目)の政友会の場所へ。その後、第二次世界大戦中の1944年に廃刊。

 また、凹天は、新聞社に所属した漫画家を中心に結成された東京漫畫會の一員として、「漫画祭」に参加し、日本各地で悪ふざけ。1922年の第9回「漫画祭」でのレポートを『中央新聞』にも載せています。東京漫畫會とは、漫画家に風刺された人びとの恨みを和らげようという趣旨で、1915年、岡本一平(おかもと いっぺい)を中心に結成。この漫画集団の代表作が、『東海道五十三次漫画絵巻』。このブログの第4回で述べましたが、凹天担当の場所が川崎宿でした。凹天は、川崎にご縁があるようで、ここでは彼の筆になる六郷橋(ろくごうばし)の絵を紹介しておきます。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」
第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

 1922年、第10回の帝国ホテルと箱根をもって東京漫畫會は、日本漫畫會に発展解消。凹天は、1923年には幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)のため入院。しかし、ずっと日本漫畫會に所属し、『大震災画集』(金尾文淵堂、1923年)で、「逃げる一家」を制作。この画集は、漫画家が当時新聞社の政治部に所属し、ジャーリストとして義務感をもって活動していたことの証言となっています。

 箱根の方は、京谷金介(きょうや きんすけ)の具体的な証言が残されています。『漫画百年』第6号(東京漫画スケッチ会、1969年)2ページからの引用です。
 「漫画祭というものも毎年行ってきた。自分は殆ど記憶がない。箱根ででやったときだけだが、恐らくあれが最後かもしれない。箱根振興会や何かの招待で、小田原駅前には漫画会歓迎という人形が立っていたり、中々物々しく、まづ第一日は宮ノ下富士ホテル見物、夜は底倉の宿の宴会・隣の栄治さん、芸者と相手になっている。『どこから くるの、』『富士屋の裏の山の方、』『狸みたいだわ』芸者の手踊りや『松づくし』キョトンとした狐つき見たいな顔の半玉の『浅い川』などあり、服部さんのラオコーン式裸踊りも披露された。
 二日目は元箱根、湖尻、仙石原宿泊、かへり御殿場まで汽車の時間におくれるというので運転手はフールスピードで長尾峠の七曲りを飛ばす。『ヒャー、運転手さん、ゆっくりやってくれ、汽車遅れてもいヽよ。』大きな悲鳴を挙げるのは服部亮英さん、清水対岳坊さんなどの悲鳴が大きい。ゆきの塔の沢から宮の下へあがる崖ふちの幾曲りも大声をあげて悲鳴をあげたがこれは漫画でなく、本気で皆こわがっている。本音である。バスの窓からのぞくと道はみえなくてすぐ谷底ばかり見えるからこわい筈である」。

 さて、中央新聞での活動をまとめた本が、凹天の第2作『凸凹人間』(新作社、1925年)。東京漫畫會と日本漫畫會が連続する同グループと当時認識されていたことの証(あかし)として、ここでの凹天の文章を引用しておきます。

 「日本漫畫會は創立以來、今年で、拾壹年になる、創立當時の人は、何人も居無くなつた、平福百穂氏も、會員の一名だつたことがある。今日の會員は左の通りだ。
 岡本一平、池部釣、小川治平、前川千帆、幸内純一、山田みのる、宍戸左行、柳瀬正夢、麻生豊、田中比佐良、宮尾しげを、北澤楽天、近藤浩一郎、水島爾保布、清水對岳坊、細木原靑起、代田収一、池田永治、服部亮英、在田稠、中西立頃、小林克己、森島直三、牛島一水、森火山、下川凹天(以上二十六名)
 漫畫会は、議員閉會後に、漫畫祭を必ず行ふことになつて居た、第一回は東京多摩川で、最後の一昨年は、箱根でやつた、其間大阪の寳塚温泉でやつたり出雲の國でやつたり、別府や、赤倉でやつたりした。第一囘當時の靑年も今日は、ちら/\白髪が混り、子供は小學中學へ行く様になり、カツポレも少々遠慮氣味になつてきて、誰云ふとはなく、漫畫祭は自然、一昨年限り廢止される事になつて了つた。

 一番座からは以上です。


第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

1923年9月1日11時58分32秒ごろに起きた関東大地震は、お昼頃だったため、大火災に結びつき、関東大震災という言葉になった、ということを聞いたことがあります。

資料を眺めていると、その時代の人にどれだけインパクトがあったか、想像の域を超えます。多くの資料が残る「東京都復興記念館」は、東京都墨田区にあり、1931年に建設されました。

関東大震災の状況を永く後世に伝えるため、当時の被災品や遺品、写真などを保存陳列されています。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」
東京都復興記念館
http://visit-sumida.jp/spot/6155

さて、関東大震災からあと4年もすれば、100年になります。この一世紀の間、未曾有の震災は東京では起きていませんが、思い出してみれば、神戸や福島、北海道、新潟、熊本と、頭にすぐに浮かびます。

今回の柴田勝もそうですが、凹天も、多分、その他の人たちも「今、自分にできること」に集中している様子がわかります。家族の安否や生活を立て直すこと、仕事で表現することです。きっと、私たちと同じに違いありません。

凹天にいたっては、入院までしています。その頃の凹天は、自分が齢80歳まで生きるとは思っても見なかったのではないでしょうか?

冒頭に書きましたが、2011年の地震は、個人的に、自分を振り返ることになりました。と、いうか、自分自身が「命」に対してどう思っていたか、ということを思い出しました。

大方の宮古の人は、まわりに親戚縁者が多いので、幼い頃から葬式も多かったと思います。私も類にもれずそうでした。

なので、明日の命が保証されている、とは、あまり思ったことがありません。どんなに元気な人でも急に亡くなったりします。年齢順という感じもなかったです。

そのメンタルのまま、東京で暮らしていると「宮国さん、生き急いでいるよ!」と突っ込まれることも多かったです。でも、なかなか「明日も私は生きている!」と自信満々な気持ちにはなりません。

そして、この関東大震災を考えるとき、さらに私の心は戒厳令にどうしても目が行ってしまいます。よく知られているのは「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人暴動」というデマを信じた住民らによって、およそ7000もの人が殺されたという事件です。

沖縄タイムスでは、2017年にも島袋和幸(しまぶくろ かずゆき)さんという方がしっかりと取り上げていますから、ご知の方も多いのではないでしょうか。有名な「検見川(けみがわ)事件」です。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」
デマに殺された沖縄出身者ら 「信じ込む力、今も拡大」沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/165810

実際は、いろいろ調べてみると、沖縄県の人だけではなく、三重県や秋田県、香川県出身の人も殺されています。要は、素性のよく知らない人、訛っている人など、様々な要素がからみあって、「やられる前にやれ」と思う集団から暴行を受けたのでしょう。

時期も時期なので、アナキストの大杉栄(おおすぎ さかえ)やその愛人で婦人解放運動家の伊藤野枝(いとう のえ)も殺害されています。かの有名な甘粕事件です。ほぼ全裸で古井戸に投げこまれ、馬糞やレンガで埋められるという恐ろしさ。

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

犯行を指揮した甘粕正彦(あまかす まさひこ)は「上官の命令だからやりそこなうな」と証言したと言われ、私は、ついあのアイヒマンを思い起こしました。甘粕たちの「政府転覆の恐れのある人を殺した」という言い訳は、大杉らといっしょに殺された大杉の甥の6歳の橘宗一(たちばた そういち)を殺した理由にはなりませんから。

「変わったことを言う」「自分たちとは違う」というような人たちは、今より少数だったのでしょう。そして、危険視されて、はじかれるならいいけれど、命まで失ってしまう。その怖さは、普段から言いたい放題の私でも恐怖を感じます。なぜなら、前述の絶対多数の「信じ込む力」や世間や国やマスコミは「どんな危害を加えても良い」というお墨付きを与えてしまうからです。

凹天が晩年になってから宮古島のことを語りだしますが、それは、関東大震災あたりのときはボヤかしておきたかったのではないでしょうか。私ならそうします。命に関わりますから。

関東大震災の時期は、すでに下川凹天は有名人でした。だからこそ、ジャーナリズム精神を発揮した作品を描いたのではないかと思うのです。他の漫画家たちもそうです。彼らは、翻弄されながらも自分なりの思想や表現を深め、作品を作っていったのではないかと思います。実際に、柳瀬正夢などは、事故とはいいながら不審な死をとげています。

それは、実は表現者仲間の作家たちも同じで、殺されないまでも自分の立ち位置や生活を守るために、試行錯誤したはずです。「いつ殺られるかわからない」からです。だからこそ、信用できる人や仲間を大事にしたのではないか、とも思うのです。ただのパーティではなく、結束する会を何度か作ったり、壊したりするのはその現れではないでしょうか。

さて、その頃の宮古島はどうだったでしょうか?

実は、宮古郡織物同業組合が発足しています。翌年にあたる1924年に平良村が町制施行。同年に野村安重が西里で酒造所をスタートさせています。

1925年には、宮古神社が鎮座祭。その翌年には、沖縄県宮古島庁、宮古支庁となります。

ここから何がわかるかですが、勝手な仮説ですが、人頭税廃止から四半世紀近くなり、ゆるやかにしっかりと日本化が進んだとも言えます。その間、特別町村制施行、電線開通、コレラ大流行、マラリア、台風襲来、とさまざまなことがありますが、島が日本化にともなって、急速に近代化していくのです。

その後、1927年には慶世村恒任( きよむら こうにん)の『宮古史伝』が発表されます。奇しくも南洋漁業がスタートした年でもあります。ここからさらに宮古の人たちの官民一体の活躍がはじまります。いや、苦難の歴史を乗り越える人材が、生み出されていったとも言えるでしょう。それは、特に肩書がある人ばかりではなく、民衆も同じように生き抜いていく力強さを見せていきます。
第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」

宮古は宮古の世界がありながら、東京で起こることは決して別次元ではありません。現在も形は違えども、自衛隊誘致や観光爆発など、宮古島はまだそのなかにいるような気がします。いまだ荒い波をサーフィンしているようです。たまに突風も吹きながら。

だからこそ、その時、宮古の人はどう考え、どう動いたか、わたしたちに大きな示唆を与えていくれるような気がしています。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

大岡育造(おおおか いくぞう)1856年〜1928年
弁護士、政治家。長門国(ながとのくに)豊浦郡(とようらぐん)(現・山口県下関市)生まれ。講法学館、司法省法学校などに学び、1890年『中央新聞』を発刊。同年帝国議会開設に際し山口県より衆議院に当選、政界界に入った。以来当選12回。 1900年伊藤博文の立憲政友会創設に参加、政友会総務となる。東京市参事会員、東京市会議長などを歴任。 12年衆議院議長となり、14年には山本内閣の文相に就任した。

鶴原定吉(つるはら さだきち)1857年〜1914年
官僚、実業家、政治家。筑前国(ちくぜんのくに)福岡雁林町(がんりんのちょう)生まれ。東京帝國大学卒。外務省に勤める。1882年、日本銀行に入行。1900年、関西鉄道社長。同年、政友会創立に参加、翌年大阪市長。1905年、伊藤博文の推薦で韓国統監府の総務長官となり、第3次日韓協約締結を推進した。1909年から実業界に入り、1910年に中央新聞社長になる。1912年、衆議院議員。1914年に死去。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。北海道函館区汐見町生まれ。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。同級生に、田邊至、田中良、安宅五郎、加藤静兒、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治、香田勝太、新井完、九里四郎、池部釣、望月桂(犀川凡太郎)がいる。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。凹天の処女作『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)の序言を書く。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。疎開先の岐阜県美濃加茂市で脳内出血のため死去。

京谷金介(きょうや きんすけ)
漫画家。本名は橋村金介。京屋金介とも。鋭意調査中。

慶世村恒任(きよむら こうにん)1891年~1929年
郷土史家。砂川間切下里村大原(現・宮古島市下里)生まれ。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる『宮古史傳』を刊行した。詳しくは、「 んなま to んきゃーん 」第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」。
【2023/04/15 現在】



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