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2019年06月21日

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その2」

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。
東京は、ツツジから紫陽花に花の季節が移ったように思います。宮古は、梅雨晴れなのでしょうか?

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」


皆さんは、宮古が亜熱帯なのか、熱帯なのか、ご存知でしょうか?
中学生の頃のことを思い出してくださいませ。

さて、近年、地球規模の温暖化の影響で、気候図がどんどん変わっているようです。

Wikiで、宮古島についてはこう書いてあります。

日本の沖縄県宮古島は1971 - 2000年の平年値では、1月の平均気温が17.7℃、2月が17.8℃とかろうじて温帯に含まれていたが、1981 - 2010年の平年値ではそれぞれ、18.0℃、18.3℃に上昇したため、定義上は熱帯雨林気候に変更されたことになる。


そうです。

あわわわ、私たち、亜熱帯から熱帯雨林に変わってしまったんですね・・・。どうでもいい、豆知識ですが。

なので、まさしく「熱帯植物園」になってしまったのです!ガーン!なんでかわからんけどさいずショックさいが(何故かとてもショックだよね)。とりばりています(呆然としています)。

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

http://www3.miyakojima.ed.jp/shokubutsuen/

子供の頃は「平良市熱帯植物園」でしたが、2005年の10月1日の「宮古島市」誕生とともに、「宮古島市熱帯植物園」になりました。
このページは必見です。あーこうして、市町村合併したのねぇ、とよく分かるようになっています。

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

https://www.city.miyakojima.lg.jp/syoukai/gappei.html

それって、それって、もうすでに、宮古の人たちが、現在のリゾート意識があったってことではないでしょうか?亜熱帯の地域が熱帯に振り切ることで、イメージ操作をしたとも言えます。

そして、そしてですよ!実際に亜熱帯から熱帯に変わっていった・・・。現実が追いついたのかもしれません。

宮古の人たちの未来を読む才覚は、恐るべし(なのか?)。先見の明があったのか、それともただの気まぐれか。冷静になって、ここでは問わないことにしましょう。なにせ昔の話ですから。

と、言いつつ、百年以上前のアニメ成立に関して、相変わらず、しこしこ調べています。今回も、そのディープさを御覧ください。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 凹天が商業アニメーション映画制作を支えた時期の撮影技師だったとされる柴田勝の話を続けます。

 これまでは、『映畫評論』1934年7月号の凹天の回顧録「日本最初の漫畫映畫制作の思ひ出」に基づいて、『芋川椋三玄關番の卷』が、第1作目とされてきました。「漫畫映畫乃ち其頃の『凸坊の線畫帳』は日本で其前に誰もやつた話を訊かないところをみると私が一番最初だつたかもしれない」。「第一回作品『芋川椋三玄關番の卷』他二本はキネマ倶樂部で封切りされました」。

 このブログで取り上げた山口旦訓(やまぐち かつのり)が、渡辺泰(わたなべ やすし)と著した日本アニメーション映画研究の古典である『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)にも、この作品が第1作だと書かれています。

 しかし、アニメNEXT_100の中間報告にあるように、公開第1作目は凹天の『芋助猪狩』というのが現時点では定説となりました。


第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

2016年のシネマ倶樂部跡はパチンコ屋さんを建設予定でした。


 凹天は、アニメーション映画を制作した時代をこう回顧しています。

 当時、東京パック社の広告部の人と天活の太田専務との間にアニメーション映画の話があり、広告部の人が凹天を推薦。

 凹天は太田専務と面会し、淺草の料亭で50円プラス歩合制で契約。しかし、凹天の記述によれば、外国雑誌がたった1冊月刊であるだけで、手探りのうちにスタートしたと。なお、この外国雑誌の記述に関しては、現在の研究では否定されています。

 「最初は神田錦輝館前に在る天活工場に通ひ撮影技師を前に立たせて黒板に白墨で一々描いたものです。手を動かす處は手の部分を移動させ、要らない部分を消してゆくと云ふ方法ですが、どうしても不便で完全にいかないので、助手を一名雇って貰ひ、背景を三種類位印刷して置き人間や動物は其上へブツつけに描くことにしました。そして人間の居る部分だけ背景をホワイトで消して行くといふ方法です。私は助手の分と二つ造り箱みたいな物で中に電燈をつけ机の上を畫の大さだけに硝子張りにし繒が電燈で引寫しになる様にしたのですが、半年もやつている間に電燈を下から直射していたので眼を害し、(略)約一年半で赤十字病院入社と同時に此仕事を止めざるを得なくなったのです」。


第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

 神田錦輝館は、現在は神田税務署になっています。

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」


 ここで、私としては、アニメNEXT_100の報告に関し、前回の封切り日の検証に続き、ひとつの補説を提示しておきたいと考えます。

 先述の凹天の回顧録には、天活、つまり天然色活動寫眞株式會社にいた専属の撮影技師と新たに雇った助手が出てきます。

 一般的には、最初の撮影技師が柴田勝と考えられています。『映画史研究』第3号「活動写真を主にした私の自叙伝(連載第一回)」で、柴田勝は、自ら記した撮影日記を基に、このように回顧しています。

 1917年4月7日~9日に『三人太郎』を妙義山で撮影。「妙義山から帰京したら私に下川凹天氏のマンガ映画『凹坊新画帖』を撮影しろと云われる。その時は黒板に凹天氏が絵を書いて一コマ写しで画を消したり書いたりするやり方で太陽の直射光線で撮影したからレンズの絞りの調節に苦労した。しかしこれが天活マンガの第一作である」。

 アニメーション映画の手法については、凹天と柴田勝の記述は一致しています。しかし、作品はさておき、凹天の第1作は1917年1月に劇場公開ですから、制作の時期が合いません。

 すでに、前々回のブロクで述べた山口旦訓が、指摘していますが、凹天のアニメーション最初の映画制作年は1916年です。前回絞りこんだ公開日が1917年1月3日から5日であることからも、制作が前年であることは明らかです。

 凹天の回顧録にも、ちょうど自分がアニメーション映画を辞めた時期に、幸内純一(こううち じゅんいち)、北山清太郎(きたやま せいたろう)が各自独時な方法で始めたとあります。

 北山清太郎の初作品『サルとカニの合戦』が1917年5月公開。幸内純一の初作品『塙凹内名刀之巻刀(なまくら刀)』は1917年6月公開。凹天と天活の契約時期は、凹天の記憶によれば、1年半。

 ということは、凹天と天活との間には、1916年のかなり早い時期に契約が交わされて、作品制作に取り掛かったのではないでしょうか。凹天の回想録の最後は次の言葉で締めくくられます。

 「『凸坊の線畫帳』!私には何ともいへない思ひ出です私の新婚生活はこの漫畫映畫製作と共に始められたからです」。最初の妻たま子との結婚が1916年という事実からも、それを裏付けていると考えられます。

 では、どうして、このような齟齬(そご)が生じたのでしょうか。その理由としては、私見によれば、次のような可能性が挙げられます。

 ①記憶違い、その1説。柴田勝の単なる記憶違い。
 ②記憶違い、その2説。柴田勝の意図的な時期ずらし。
 ③第三の男説。凹天の記述における撮影技師は、柴田勝と別人。

 そのうち、①は、以下の記述から退けられます。

 柴田勝の回顧録の前には、Yの署名で「本邦最古参の映画人のひとりである。その記憶のたしかさなこと、筆まめなことはおどろくばかりで、特に大正初期から現代にいたる半世紀の間、休むことなくつけられてある日記は日本映画界の資料としても、風俗史の資料としても極めて貴重なものである」とあります。また、印刷ミスなどの可能性も、改めてチェックする必要があるのですが、ミスだとするとここでの考察そのものが成り立たないので、とりあえず、ここでは問わないということで。

 ということは、②か③か。それとも別の可能性があるのでしょうか。現時点では、分からないというのが正直なところかと。

 最初の数作は、太陽の直射光線で撮影したというところまでは一致していますが、凹天の記述は1934年、他方、柴田勝の回顧録は、凹天が亡くなった翌年の1974年。

  Yは「活動写真を主にした私の自叙伝(連載第一回)」について、「この『自叙伝』はその日記をもとに、氏自身が書き直されたものである。日記原文そのままの発表は行いたくないという氏の希望により、こういう形式のものになった」とあります。日記そのものが手に入れば、すべては白日の下にさらされますが、ここは、もう少し調査と考察の時間が欲しいところです。

 柴田勝の名誉に関わるようなことをここで書き連ねるのには、躊躇(ちゅうちょ)もありました。しかし、問題提起をしても、柴田勝の多くのすばらしい業績がなんら変わることはありません。それ故、このブログで述べることにしました。

 しかも、調査と時間が欲しいと書いたのには、理由があります。それは1973年、柴田勝が私家版として書いた小冊子『天活、国活の記録ー大正時代の映画会社』に、以下のような記述があるからです。

 大正五年、つまり1916年の記録として、「マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天、岡部繁之撮影」。大正六年度マンガ映画作品、つまり1917年の記録として、「『芋川椋三宙返りの巻』作画下川凹天、撮影大森勝。黒板へ白墨で画を書いて行く方法で、光線は 太陽光線であった。その批評は、椋三君空中旅行と洒落込んで空中より墜落するという線画、中々和製としては上手なもんだが、線が時々太くなったり細くなったりするのが非常に目立って見える。まだまだ研究する余裕が多々ある。(キネマレコード六年六月号)其後、一枚一枚紙に書いて行く方法で撮影も台の上へカメラを乗せ、左右に電球を取つけてコマ写しすることになり、岡部繁之専任になった。『凸坊釣りの巻』『文展の巻』『お鍋と黒猫の巻』を撮影した」。

 岡部繁之(おかべ しげゆき)とは、天活の撮影部にいた撮影技師。大森勝とは、柴田勝の旧姓名。なお、この資料が、私の述べた文脈とは違った意味で貴重なのは、凹天作のアニメーション映画が合計で7作品という記録になっていることです。

〇『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』撮影技師:岡部繁之か
〇『凸坊新畫帖 明暗の失敗』撮影技師:岡部繁之か
〇『芋川椋三 玄關番の卷』撮影技師:岡部繁之か
〇『芋川椋三 宙返りの巻』撮影技師:大森勝こと柴田勝
〇『凸坊新畫帖 釣りの巻』撮影技師:岡部繁之
〇『凸坊新畫帖 文展の巻』撮影技師:岡部繁之
〇『凸坊新畫帖 お鍋と黒猫の巻』撮影技師:岡部繁之

 なお、柴田勝は、1970年代から80年代にかけて、精力的に映画初期の回顧録を私家版として出しています。

 1986年3月29日付『讀賣新聞』には、それを支えた久米利一という人物の特集が組まれていることも、ここで記しておきます。印刷機用ゴムローラー製造会社に勤務しつつ、自宅兼印刷所で『文芸雑魚(ぶんげいざこ)』という小冊子を発行し続けました。ここから、柴田勝、そして初期の無声映画に関わった人びとに関する私家版が続々と出版されたのです。その成果を認められ、1985年には、第6回山路ふみ子文化財団特別賞を雑誌編集者として受賞。

 一番座からは以上です。


裏座の宮国です。

今回も熱量が高いので、何がなんだかの皆さんも多いことでしょう。私たちは(特に一番座担当の片岡さんが)探偵のように、ひとつずつ、資料を丁寧に読み合わせています。

大河ドラマ的に時代考証さながらです。

この柴田勝さんは、相当筆まめな方で、いろんなところにいろんなことを書いています。今で言えば、超ブロガー気質ですね。

おかげさまで、凹天に関しても、有用な証言がいくつかあります。凹天自体が、残したものも多くありますが、作品以外にも第三者がこうして見つめる目というのが必要だと思わざるを得ません。

そして、それは、何事に関しても同じかもしれませんね。

凹天がアニメ制作を始めたのは、最初の妻たま子との結婚した頃でした。すでに有名ではあったけど、漫画家として、風刺画家として身を立てるには、周りの人びとと比べて貧乏過ぎたのかもしれません。たま子の詳細はつかめていませんが、身なりや雰囲気を考えると、お金持ちのお嬢さんだったように思います。現在、結婚のきっかけになったこととして分かっていることは、凹天の処女作『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)にクレジットされている出版社名の妹である磯部たま子だったことだけです。

食い詰めの新進アーティストは、ハチャメチャで、それでも結婚したのですから。しかも漫画家のお嫁に来ることにプライドをもっていました。

実は、川崎市市民ミュージアムの凹天展に訪れたとき、私が一番衝撃的だったのは、ふたりの記念写真でした。4年間くらいにわたって、写真館で写真を撮っているのですが、どんどん、たま子の美貌は失われ、最後の写真は、目がうつろでした。

あくまで私の印象ですが、率直にたま子をかわいそうと感じたのでした。どんないめーじかというと、高村光太郎(たかむら こうたろう)の妻、智恵子です。1886年(明治19年)5月20日生まれですから、多分同世代人と言えるでしょう。

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」


御本人は優れた洋画家でしたが、世間的には、光太郎の奥さん智恵子になってしまいます。心を患ったところも似ているような気がします。

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/page003220.html
現在、智恵子記念館として二本松で公開されています。一度は行ってみたい。

38歳の頃の智恵子に、関東大震災と実家の破産は耐え難いものだったのか、その後から、心を病み始めます。53歳で没した頃には、遺作紙絵千数百点が残されたそうです。

高村光太郎が書いた「智恵子の半生」という文章が青空文庫にあります。
第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻   その2」

https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46376_25633.html

その頃の芸術家の暮らしというのがなんとなく見えてきます。お時間のある方はぜひ。

智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。

私は、凹天とたま子は、このような環境であったのではなかろうか、と感じいるところがあるのです。実は、先述したアニメーションの三大始祖と言われる北山清太郎は、凹天とも旧知の仲だったようですが、1912年(大正元年)9月に高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援したとも言われています。

みんなつながっているんですね・・・。

その当時、宮古に芸術家がいたとしたら、どんな風だっただろう、と思いをはせます。当時の宮古の文献を読むと、1917年は宮古電灯株式会社が設立している頃でした。その前年に宮古朝日新聞が創刊しました。芸術家は、いたのか、いないのか、そして凹天が宮古生まれ初の芸術家と呼んでいいのかどうか・・・新しい謎が出てきました。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。2020年3月まで宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。詳しくは、第10回「凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~2020年
アニメーション研究者。大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの歴史研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、新聞制作に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。2017年に、山口旦訓に絶縁の手紙を送る。近親者のみで葬儀が執り行われる。喪主は、長男の渡辺聡。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。1945年大阪府泉北郡高石町北55番地(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。

高村光太郎(たかむら こうたろう)1883年~1956年
詩人、歌人、彫刻家、画家。現在の東京都台東区生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。仏師・建築家で名高い光雲(こううん)の子。本名は、「みつたろう」と呼ぶ。彫刻を学び、ロダンの影響を受ける。1912年、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第1回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年、塑像『今井邦子像』制作(未完)。この頃、ブロンズ塑像『裸婦裸像』制作。1918年、ブロンズ塑像『手』制作。1926年、木彫『鯰』制作。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、後に統合失調症を発病した。1938年に智恵子と死別し、その後、1941年に詩集『智恵子抄』を出版した。智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した『記憶せよ、十二月八日』など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。『歩くうた』など歌謡曲の作詞も。1945年の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮澤清六方に疎開(宮澤清六は宮澤賢治の弟で、その家は賢治の実家)。しかし、同年には宮澤家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦直後に、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現・花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。1952年、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、智恵子のことを残したい一念から記念碑の塑像2体を制作。この像は『乙女の像』として翌年完成。受賞多数。1956年、自宅アトリエにて肺結核のために死去。
【2020/09/09 現在】



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