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2019年04月20日

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

毎度おなじみ、宮国でございます。

凹天研究を始めて、はや何年でしょう。もう3年くらいでしょうか。最初に、小中学生でも分かる本を作ろう!と意気込んだのですが、研究を重ねるうちに、どんどん新情報が出てきて、今も追加しているような状況です。ですが、もうそろそろ紙モノか電子版か、どちらかを数ヶ月以内に売り出す予定です。なぜなら、NHKの朝ドラが始まったからです。きっと凹天が出てくるに違いありませんから。

さて、そんなこんなの手探りの中で、私たちはいろんな旅を重ねていますが、凹天に会ったことのある人物である山口旦訓さんにお会いできたのは、本当にうれしいひとときでした。2017年10月22日の「国産アニメーション100周年記念イベント 初期アニメーション作品上映&記念講演」に登壇された山口さんは、公演後、私達の質問に快く答えてくださいました。ほがらかで、素敵な紳士という印象でした。

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
*講演会当日は雨の日にもかかわらず、会場は熱気に包まれていました。

「最初の頃は、何もわからなくて。僕は若かったからねぇ」と謙遜されていて、自然な雰囲気と人柄の良さを感じました。詳しくは一番座で書かれていますが、山口氏はアニメーション史の金字塔として知られる『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)の共著者であり、当時の漫画家たちを訪ね歩いた人物です。
 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、凹天が最後の日々を送った野田市の安楽邸(あらくてい)を取材した山口旦訓(やまぐち かつのり)を取り上げます。安楽邸とは、2番目の妻なみをの洋裁仲間だった桑田ことが、キッコーマンの第5代目社長(在任期間1958年~1962年)茂木房五郎五代目(もぎ ふさごろう)の妹だった縁で、凹天のために建てたアトリエ兼住居と、一般には紹介されています。

 山口旦訓は、日本のアニメーション映画の歴史を研究するために不可欠とされる『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を渡辺泰(わたなべ やすし)とともに著しました。一昨年開催された川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』(2017年9月2日~12月3日)に、何度か私は足を運びました。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
 パイオニアとして名を連ねたのは、われらが凹天、幸内純一(こういち じゅんいち)、前川千帆(まえかわ せんぱん)、北山清太郎(きたやま せいたろう)です。日本アニメ映画のパイオニアに前川千帆が入っているのは、不思議に思う向きもいるかと。しかし、現在では、幸内純一が前川千帆と『なまくら刀』を制作したという記録に基づき、彼もパイオニアのひとりとして、名前を連ねるのが通説となってきました。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
 川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示「にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』で、記念講演「アニメーションを史を訪ねた男、100年を語る」をしたのが、山口旦訓です。裏座の宮国優子(みやぐに ゆうこ)、プロダクツの名手野口晶子(のぐち あきこ)と一緒に、私は勇んで出かけました。『日本アニメーション映画史』の刊行当時の話は非常に面白く、時にご自身の裏話をするなどユーモアたっぷりで、会場からは笑いも漏れることも。私が感謝のメールを送りますと、元気なお嬢さんがふたりいましたねとすぐに返信をいただきました。

 アニメーション専門家にとって周知の事実だったのでしょうが、『日本アニメーション映画史』には、山口且訓と記されています。ご本人の話によれば、当時は旦訓を「カツノリ」と読めないので、且訓と表記したとのこと。私事で恐縮ですが、私の名前も慎泰と書いてノリヤスですが、DMにはシンタイ、シンヤスなどと、未だにやってきます。私の亡父が何を思ってそう名付けたのか、今となっては聞いておけばよかったと悔やまれます。私の人生で、シンタイ、いいぇ、シンヤス、いいぇ、じゃぁノリヤスかな、と呼べたのは、ただひとりだけです。それが、なんと、私の修論の主指導。ところで、山口旦訓の記念講演以来、賀状をお送りすると、お返しの賀状をいただいていますので、ここで披露します。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
 さて、『日本アニメーション映画史』の執筆動機は、この本の後書きにあります。「昭和三十六年夏。東京の近代美術館で日本のアニメーション映画特集をみた。これが縁で、私は、卒業論文のテーマを『日本アニメーション映画史』と決めた。決めたのはよいが、これという参考書はみつからなかった。このため、自分の足で調べあげることにした。早大の演劇博物館をはじめ、あちこちの図書館を回り、プロダクションを回り、老いたアニメーターたちをたずね歩いた。そして、なんとか全容をつかむことができたところで、翌春、卒論は書きあげた」。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
 山口旦訓は、宝くじコレクターとして知られる山口繁樹(やまぐち しげき)の子として、1940年、この世に生を受けます。早稲田大学第一文学部を卒業し、『東京タイムズ』に勤務。その後、ジャーナリスト畑を渡ります。その一方で、父譲りの宝くじ研究者という側面も。『東京タイムズ』の学芸部記者として、宝くじの記事も書きます。その後、フリーになっても、宝くじの本を著したり、現在でもいくつかの週刊誌に、記事を書いています。そこでの名は「山ちゃん」。宝くじの記事を書くと、父が喜んでいたことを今でも鮮明に覚えているとのこと。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」 
 今回はご存命の方なので、凹天晩年の貴重な記録として、山口旦訓が、凹天をインタビューした1973年1月5日付『デイリースポーツ』の記事を紹介します。凹天は、『デイリースポーツ』企画の「日本列島奇人・変人めぐり」のトップバッターとして登場。山口旦訓が用いたペンネームは井伊多朗でした。この当時、『デイリースポーツ』の知り合いの記者が、「日本列島奇人・変人めぐり」の企画をもって、該当する人物がいたら、紹介してほしいとのこと。すぐに山口旦訓は、かねてから知っていた凹天を思い出します。当時、『東京タイムズ』に勤めていたため、名前は出せません。そこで、ペンネームに井伊多朗、つまりイイダロウと。隣人に飯田という方がいたことがヒントになりました。ちなみに、この『デイリースポーツ』は、いつも大阪阪神タイガースを一面にもってくる例のスポーツ新聞ではなく、当時東京上野の池之端にあった『東京デイリースポーツ』。取材は1972年12月中旬。これが現段階で判明している限り、生前の凹天を取り上げた最後のメディア関係者の取材です。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
ジャーナリスト山口旦訓が撮った「凹天最後の勇姿」
 野田市にある小高い丘の上に、住民から「安楽邸」と呼ばれる広大な邸宅がありました。これが野田醤油の5代目社長だった茂木房五郎の邸宅です。「樹木がしげる路地に沿い屋敷のヘイが百㍍にも及ぶ。角を曲がるとがっしりとした門。ここが奇人変人列伝のトップバッターとして登場する漫画家・下川凹天(ヘコテン)大先生の住み家だ」。書物などでは、凹天自身の離れ家だけを「安楽邸」と呼ぶことも多いのですが、実際には、野田醤油創業8族の内、茂木房五郎家の大邸宅そのものを「安楽(あらく)」と呼んでいたのです。

 「ところで間違えてくれては困るのだが、凹天先生がこの屋敷内に住んでいることは確かである。しかし凹天先生が家主ではない。家主だったら六畳と四畳半の離れに住んでいるはずがない。ここの主人は野田しょうゆの前社長・茂木房五郎氏だ」。

 ここで、野田の醤油の歴史をかいつまんで紹介します。野田に醤油業が発達したのには、まずもって立地条件が良かったことが、挙げられます。現在の千葉県野田市には、西側に利根川と東側に江戸川と大きな川があります。醤油を作るのには、大豆、小麦、食塩が必要です。大豆は現在の茨城県、小麦は、現在の群馬県や埼玉県、食塩は、江戸川の河口に近い現在の千葉県行徳市から。それを醤油にして、江戸川から江戸に運んでいました。前史は措くとして、1661年に、上花輪(かみはなわ)村(現・千葉県野田市上花輪)名主であった高梨兵左衛門(たかなし ひょうざえもん)が醤油醸造を開始し、翌年には、茂木佐平治(もぎ さへいじ)が味噌製造を開始。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
上花輪歴史館HPより
http://kamihanawa.jp/
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
googlemapより
 その後、続々と醤油作りが始まりました、江戸の人口の増加と利根川水運の発達とともに野田の醤油醸造は拡大します。1871年には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けて「野田醤油仲間」を結成しました。1800年代中頃には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けます。

 1873年ウィーン万国博覧会が開催されると、茂木佐平治家が亀甲万印の醤油を出品し、名誉賞を受賞します。以降、博覧会や品評会などへの出品と受賞歴が重なっていきます。1887年には、「野田醤油醸造組合」が結成。この背後には、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)がいました。そうです、凹天と山口豊専を語る上で欠かせない下田憲一郎(しもだ けんいちろう)を支えた、かの大実業家です。

 野田醤油と渋澤家は、その後も関係が続きます。1917年には、茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立。「亀甲萬(キッコーマン)」のロゴは、茂木佐平治家が使用していたものに決まりました。このロゴは、香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとも。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」キッコーマンHP「キッコーマン六角形マークについて」より
https://www.kikkoman.com/jp/quality/ip/topics3.html
 1922~28年には、「野田醤油事件」と呼ばれる大ストライキが起きます。最初は、小さな火種が大きくなっていきます。紆余曲折を経て、この時、このストライキを収めたのが、またもや澁澤榮一でした。
 その大ストライキの間にも、1927年、東京市場で商標をキッコーマンに統一。そして、1940年、全国で商標をキッコーマンに。
 
 その後、ここで作られていた「亀甲萬御用蔵醤油」は、1939年から宮内庁へ納め続けられている御用達品に。 御用蔵では、国産の丸大豆と小麦だけを使って、木桶で1年間じっくりと熟成させた天然醸造の醤油が造り続けられているものです。手作りに近い少量生産のこの醤油は、「御用蔵醤油」という名前で一部が限定で販売されてきた、いわば「醤油の大吟醸」。今ある「キッコーマン特選丸大豆しょうゆ」の原点とも言える醤油です。

 その後も、キッコーマンは商標を KIKKOMAN、kikkomanと変えながら、世界に広がるグローバル企業に成長。その裏には、澁澤家の後ろ盾のあったことが、記録に残されています。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
渋沢社史データベース
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=1030&query=&class=&d=all&page=5
 さて、1936年、後に第6代目社長となる若き日の茂木啓三郎二代目(もぎ けいざぶろう)が教養部長の頃に、高尾山の夏期研修を開催しました。この背後には、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎の意向があったからもしれません。なぜなら、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎が、凹天ファンでした。この夏期研修には凹天も加わっていたことが記録に残っています。あるいは、妹の友人として出会った2番目の妻なみをとの関係から、すでに知り合っていたかもしれません。その微妙な人間模様は、このブログの第2回で述べました。

 話を晩年の凹天に戻します。凹天のアトリエ兼住居は、茂木房五郎の大邸宅の離れにある、6畳と4畳半でした。「早い話が凹天先生はこの居候である。が、そんじょそこいらの居候とは、ちとわけが違う。なにしろ先生の場合は、部屋代は無論タダ、そしておまけにお手伝いさんまで付いているのだから豪勢だ。部屋のすみにあるボタンを押すと『ハイ、先生、なにかご用でしょうか』と、お手伝いさんすぐに姿を見せる」。悠々自適な凹天の姿が浮かびます。

 「下川凹天といえば、知る人ぞ知る漫画界の大御所だ。明治二十五年生まれだというから、すでに八十余歳。とはいえ、もうろくどころか、少し耳が遠いのと足腰が弱くなった程度で元気なものだ」。

 戦前は、あらゆる漫画を中央紙上で発表して大活躍。時代の寵児であったが「終戦。世の中は混乱し体の調子を崩した凹天先生は、急に都会の生活がイヤになってしまい、野田市内へと引っ込んでしまった。それからは中央とのつながりをキッパリ切って、ひたすら仏教漫画にこりだした」。

 1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊に、「仏画をひっさげて十年ぶりに登場 あす個展、奮起の下川凹天氏」のリードとともに、このあたりの事情をこう記しています。「”男やもめの凹天”にはじつは恋愛結婚した恋女房があった。そんなたま子夫人がある日突然家出した。厳さんの人気が最高潮に達したころから夫人の行動がおかしくなり、医者に見せたところ精神分裂病だという。病院に入れたり、精神医にみせたり手当をつくしたがさっぱり快方に向かわず、戦争がひろがって防空演習がはじまりかけたある日、突然姿を消したまゝ今もってゆくえ不明という。この夫人の家出が気になって凹天氏はあれほど人気のあった漫画の筆を一切折った。それからもんもんと心の遍歴をつゞけること十数年、ようやくたどりついたのが仏画の世界だというのである。終戦後は千葉県野田市清水公園のわびずまいにこもり貧苦とたたかいながら仏画をかきつゞけようやくこんどの個展を開くまでにこぎつけた」とあります。しかし実際には、このブログの第2回で述べたとおり、一番目の妻たま子が亡くなると、すぐに二番目の妻なみをと結婚しています。なにより、凹天は「漫画の筆を一切折った」どころか、「日本漫畫報公曾」に属して国策に協力。宮城県の疎開先から戻っても、1946年に『日曜漫画新聞』を創刊したり、1947年には、三越のポスターを描いているのですから。この時期の凹天に関しては、改めて深掘りする必要があると感じます。

 「三十八年に奥さんが病没。子供のいない凹天先生はひとりぼっちになってしまった。そのときである。茂木氏から、『なにも心配しなくていいから、うちでのんびり暮らせ』といわれた。以来、今日まで”のんびり”が続いている」。

 「凹天先生いわく。『わしは食客じゃ。しかも高等食客だな。ワッハハ』先生は、居候とはいわなかった。居候と食客とでは言葉のニュアンスが違う。芸術家である凹天先生は茂木氏を評して『文化人』を大切にしてくれるありがたい人だ』という。そして自らはその庇護のもとにある食客だと思う。だから凹天先生は威風堂々としているのだ」。

 日課の記録も残されています。机の上に一片の紙切れを貼り、食べ物の目標は「朝=コーヒー、ポテト、ホウレン草、酵素十粒。昼=玄米、野菜食、運動一時間。夜=玄米、海草食」。もっとも、山口旦訓が、実行しているかと尋ねると、「目標だからな。なるべく実行しとるよ」とのこと。また、毎日欠かさないものは、「タバコとコーヒー。それに新聞とテレビのニュース」。山口旦訓が凹天と話し込むと「アメリカの大統領選からベトナム戦争まで、現代サラリーマン気質からヒッピーまでと、キリがない」。

 漫画界のことも忘れずにいます。「安楽亭食客はえらくごきげんである。去年は曲がり角にきた日本の漫画界の方向を探るため、門下生と新しい運動を起こすという。『なぜ、漫画はいつまでたっても娯楽の域から出られないのか。漫画を芸術の一つにするにはどうしたらいいのかを考え、実践に移すんだよ』」。ここからは、山口豊専(やまぐち ほうせん)とやっていた「慧星会」や「野田漫画クラブ」を思い起こさせます。

 「安楽亭食客はいまや野田市の名士である。この名士をたずねて、ときおり東京から若い漫画家志望者が訪れるそうだ。『どういう風の吹き回しかねぇ』ツエをついて散歩する凹天先生の足元はおぼつかないが、意気は盛ん」。

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
野田市郷土博物館館蔵資料データベースより 
https://jmapps.ne.jp/ndskdhk/sakka_det.html?list_count=10&person_id=10
 身体は弱って調子を整えようとするものの、気分だけは、まるで「慧星会」での荒行の総指揮者だった頃を思い出させるような姿が目に浮かびます。

 最後に、凹天自ら記した言葉を引用しておきます。「一人物で病弱なので野田キッコーマン前社長の邸内に引取られ高等食客をやっているので喰べるには困らくなった。過日は教え子の石川進介君、山口豊専君が得意の似顔と女の帯絵で同邸を訪問、家族親類を喜ばせたので、この高等食客も鼻高々であった。次はこの春の富士山療養センターに私が滞在中、両君が見舞いに来て、看者達に奉仕したので私は特別扱い、先方で出資して私にサービス五湖めぐりやらカニ料理など御馳走するありさま、次は群馬県の女流書家から、この人は、八十才であるが読売時代の『男やもめの巌さん』のファンで、四五日泊りで招待を受けている。また両君は遊びがてら奉仕してくれることになっている」。

 「若い時分、日本画の全盛で、漫画を何度やめようかと思ったかしれなかった。亡妻が『私はマンガ家の処へ嫁に来たのです。日本画になるなら別れます。』と、言われたことさえあった。これは先妻のことだが、二度目の妻は漫画家の家へ嫁入りすることを秘密にしてきたのだ。それはみんなにけいべつされるからであった。
 それがどうです。名誉会員で世間的の地位ができ、なんにもならないと思った教え子からは肉親の親子以上の世話になり、一生貧乏とあきらめていたのに、縁もゆかりもない人から生活を保証され、漫画の暴騰で自分がビックリする程の市価が自分の作品に付いてしまった。
 長生きしたというお蔭もあるが、根本的には自分な好きな仕事を摑んだら金儲けや環境に左右されないでやり通すことだと思う。そうすると、教え子も、金持ちも、幸運も、先方からやってくる。私はこの年になってやっとそれが判ってきたのです。私はその喜びでまごまごしています」。

 山口旦訓は、凹天晩年に関するエビデンスを取りに、安楽邸に自分の足を運んで調べました。このジャーナリスティックな姿勢は、見事だと感じます。

 一番座からは、以上です。
再び、裏座から宮国です。先にも書きましたが、凹天研究を進めていくうちに、東京と宮古島の近代史をひもといてみると、面白いことに気づくことが多くなりました。まるで無関係だと思われた事柄がひとつひとつつながっていくのです。

私が住んでいるのは、大岡山というところで、田園調布は電車で3分。凹天のお墓のある不動前は7分、東急電鉄のお膝元のようなところです。その前身となる「田園都市株式会社」の創設者のひとりは、渋澤栄一なのです。

そして、東急といえば、宮古では東急リゾート。1984年の4月20日にオープンした宮古島東急リゾートは、当初151室だったようです。島外の大規模ホテルとして先陣を切ったとも言えます。そして、この年は、観光客数が10万人超えした年でもあります。去年には100万人を超えた宮古島。観光客数が10分の1だったのです。雰囲気は、私が編著した『読めば宮古!?』(ボーダーインク、2002年)に描かれています。意外と閑散とした孤島の雰囲気を漂わせていました。現在、宮古のレンタカー事業所は、66業者、2305台です。1988年は7業者82台だったのですから、推して知るべしです。
第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
東急リゾートがある前浜から臨む夕景、海、来間島。

島民の私は、東急リゾートに宿泊する機会はついぞやありませんでした。ですが、変わった思い出があります。1988年の夏、ファッションショーのお手伝いをしたのです。モデルさんの洋服を着替えさせるサポートで、友人の母からの紹介で、友人4人と夜の東急ホテルにすがりて(おしゃれして)働いたのです。私たちははじめてモデルさんを見て、感動に打ち震えていました。それは、当時の宮古の高級ブティックの主催でした。

今は、なんとなくありそうな感じがしますが、その頃はなにせ観光客が今の10%ですから、高校生だった私には目もくらむような東京の香りがしました。ちなみに、1987年の7月4日にNHK-BS1が24時間放送開始しました。そこには、表参道の風景と音楽がただただダラダラ流れるという番組があって、高校生だった私たちは受験勉強もせず、TVの向こうの幻想かもしれない東京に憧れたものでした。

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」
旧所名跡であるドゥオーモのそばにある路地。歩く人はみな美しかったです。

ちなみに、先日、仕事でミラノコレクションに行ってきました。30年たつと、宮古島の東急リゾートファッションショーからミラコレにいけるんだ・・・と感慨深いのです。ちなみに、そのお仕事をくれた会社はがある奥沢は2分です。現在の自宅から歩くと30分くらいでしょうか。あの東急リゾートと同じくらいの距離なのが何か不思議な感じがします。

人はどこに行っても、同じようなことしかしないのかもしれません。われらが凹天の老後は、かつて宮古島に住んでいた按司(あじ)、そして、凹天自ら書いていた「令息」という言葉をどこか思い起こさせます。

【主な登場人物の簡単な略歴】

茂木房五郎五代目(もぎ ふさごろう)1894年~1973年
実業家。千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木房五郎四代目の長男。本名は三千蔵。慶應義塾大学卒。1926年、家督を相続し、三千蔵を改め房五郎を襲名。銀行会社の重役であった。1958年、キッコーマン社長となる。晩年の凹天を「食客」として邸宅の離れに住まわせる。老衰のため、キッコーマン附属病院(現・キッコーマン総合病院)で死去。

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~
1934年、大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、写植に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。この初版の貴重なアニメーション年表資料では、山口旦訓を名をはずすなど権威主義的な側面もある。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家。アニメーション演出家。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。最初は画家を目指しており、太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、水彩画家の三宅克己から学び、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人となり、北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。アニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を製作。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに前書きを書く。老衰のため、自宅で死去。

前川千汎(まえかわ せんばん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市で生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に、亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年には新聞社に入り、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。その傍ら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味を持ち、生活的な風景画など個性的なものであった。川崎市市民ミュージアムでは、1917年の常設展で、凹天、幸内純一とともにポスターに、似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
和歌山県生まれ。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。水彩画家、雑誌編集者、美術雑誌を発刊し、若い画家たちを育てた。アニメの世界に転向後は、北山映画製作所を設立した。

宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年〜
宮古島生まれ。事務所兼コミュニティスペースTandy ga tandhi(たんでぃがーたんでぃ)主宰。フィールドワーカー、コンテンツディレクター。法政大学沖縄文化研究所国内研究員。テーマは、宮古島、教育、女性。執筆、ライティング、映像制作、webなどのコンテンツ制作やマーケティングが生業。県立宮古高校を卒業後、アメリカ、カナダを放浪。上京後、時代劇制作会社から脚本家事務所後、宮古毎日新聞社記者(1992〜2014)宮古島関係者を100人集めた超ローカルコラム本「読めば宮古!」「書けば宮古!」編著書。一般社団法人ATALASネットワークとして2015,16年に沖縄文化振興会の助成で「島を旅立つ君たちへ」という冊子を作るプロジェクトなどを行い、ワークショップを通じて、高校生とクリエイター、研究者などとの交流をしながら、宮古島の文化の掘り起こしをした。

野口晶子(のぐち あきこ)
埼玉県生まれ。グラフィックデザイナー。宮国優子とともに一般社団法人ATALASネットワークとして2015年度から2016年度に沖縄文化振興会の助成で『島を旅立つ君たちへ』という冊子を作るプロジェクの中心となった。ワークショップを通じて、高校生とクリエイターとして関わった。

澁澤榮一(しぶさわ えいいち)1840年~1931年
官僚、実業家。次回の一万円札の肖像となり、話題となる。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父親の澁澤市郎右衛門元助、母親のエイの長男として生まれた。幼名は栄二郎慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。同年には、大蔵省に入省。しかし、予算編成で大久保利通達と対立。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われている。渋澤が三井高福、岩崎弥太郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋澤財閥」を作らなかったことにある。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、澁澤は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現・二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。国士舘の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わる。1890年貴族院議員。1927年、1928年にノーベル平和賞の候補にも。著作は国会図書館デジタルコレクションで読める。

下田憲一郎(しもだ けんいちろう)1889年~1943年
編集者。平鹿郡山内村(現・秋田県横手市)に生まれる。詳しくは、第10回「凹天の盟友 山口豊専の巻その2」

茂木啓三郎二代目(もぎ けいざぶろう)1899年~1993年
実業家。千葉県海上郡富浦村(現・旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。本名は飯田勝次。成東中学(現・千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、野田醤油(現・キッコーマン)に入社。入社後まもなく、渋沢栄一と共に労働争議を解決した。房五郎五代目の次女とき子と結婚。茂木啓三郎家の養子となる。教養部長の頃、凹天と鈴木大拙を高尾山の夏期講習で呼ぶ。先代茂木啓三郎の養子となり、1935年に家督を相続。1962年から1974年まで社長。1972年にはアメリカ合衆国にしょうゆ工場を建設。醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大した。キッコーマン中興の祖。社団法人如水会理事長、千葉県経営者協会名誉会長、千葉県教育委員会委員等も歴任。 旭市名誉市民。 1993年、脳出血のため千葉県野田市の病院で死去。

山口豊専(やまぐち  ほうせん)1891年~1987年
漫画家。画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」


【2020/04/19 現在】



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