2019年03月15日
第11回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その3 」

毎度おなじみ、裏座から宮国でございます。今回も山口豊専(やまぐち ほうせん)人生を辿ります。豊専の巻は、これで最後になります。
「時代と凹天」を今ここにあるテーマにして考える時、豊専と対比して考えるとさらに深い感慨が湧いてきます。
人が時間や距離を超えるとは、どういうことなのか・・・。
前回の回をはさんで、米軍基地建設のために辺野古湾(へのこわん)埋立て関して、「沖縄県民」自身の賛否を問う「県民投票」がありました。これには、なんの法的拘束力はありません。でも正直、心境の変化がありました。
この回を読んでいただいた時、非常にポリティカルな側面が心に残り、語弊(ごへい)を恐れずに申し上げれば「自分には関係ない」と思われるかもしれません。もちろん、私は、ここで、「県民投票」の経緯や結果について、賛成か反対かを語るつもりはありません。そして、その答えよりも大事なことは、人頭税(にんとうぜい)のあった私の曾祖父母の時代とは違い、私は、自分の言葉を公然と口に出し、こうやってブログなどで書けることを記しておきたいのです。
現代は、一般庶民の私でも、時代の風を公的に受ける立場にある政治家や知識人、文化人、そして凹天、豊専らと同じように、ポリティカルなことが自分の人生にも大きく関わることができるということです。そして、次世代はさらに加速するのではないかと感じます。
しかしそこに、私はあまり悲観的ではありません。加速しながら、減速して、生きつ戻りつしつつ、子ども達の時代はトライアンドエラーを存分に繰り返せるだけのインフラを先人たちが積み上げてくれたと信じているからです。私と人頭税時代の曾祖父母とは、メンタリティに大きな違いはない気がします。喜んでいる人がいれば、一緒に喜び、辛い人がいれば、一緒に泣く。亡くなった友人は、いつも私のことを見守ってくれる。そんな強い確信とともに今も宮古の人は島に暮らしているのではないでしょうか。
ところで、生涯に渡り「宮古に心を寄せて生きた」谷川健一(たにがわ けんいち)の本に、こういう一節があります。
「(略)個人の内面生活を意識化する中世が先島に欠落していたことを意味する。すなわちその文化は集団の表層としての文化であり、個人の文化ではない。それには先島の歴史的、地理的な位相が大きく関わっている」。

【『沖縄 辺境の時間と空間』(三一書房、1970年)40ページ】
確かに、そうした側面はあるでしょう。一見、島人の心はそういった性質をもつ、しかも特徴的にもつように外から見えるかもしれません。宮古を含めた先島諸島の「文化は集団の表層としての文化であり、個人の文化ではない」と断言していますが、私的には首をかしげてしまいます。島の個人のメンタリティは、日本人からは見えにくいのかもしれません。
私は宮古の先人が遺した「個」のさまざまな表現、その中で、ひそやかに包まれた「言語化できない何か」を大切にしたい、と日々、思うのです。そして、それは「個人の創造性に絶対の信頼をもつ」という島の精神文化の中にいない人からは、非常に分かりにくいかもしれません。なぜなら、私が述べるのもなんですが、「島の個」はエッジが効いていて、本当に多様だからです。個人にまつわる、ありとあらゆるエピソードは、島にいれば誰もが耳にしていると思います。
凹天も山口豊専も先人を敬う心がありながら、「個人のもつ創造性」を発揮した素晴らしい芸術家です。その分かりにくさは島に近いかな、と思います。その生き方は、ダブルスタンダードにも見えるからです。ですが、その真価は、多様な価値観が生まれてきた現代において、今こそ再評価されても良いのではないでしょうか。
今回は、山口豊専ゆかりの土地マップまで作ってしまいました。お時間がある方、ゆかりのある方は、豊専散歩をどうぞお楽しみ下さい。

【山口豊専ゆかりの地マップ 画像をclickするとマップへ飛びます】
こんにちは。一番座より片岡慎泰です。ふたたび! 裏座の宮国です。
日本は1945年8月15日ポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦は、実際には戦闘が続いた地域もあったり、講和条約もすぐには結ばれませんでしたが、ひとまず「停戦」ということになりました。
山口豊専が、終の住処と定めた地元のために、まず手がけたのは、1929年頃から地元にあった五香六実(ごかむつみ)の句会の復活。「松東(しょうとう)俳壇」と名づけました(1946年)。翌年には「松東文化連盟」を組織。美術、文芸、芸能、手芸、社会科学、体育、少年指導、華道、謡曲、囲碁の各部が華々しく発足。もっとも、「松東俳壇」以外は、徐々に消えていったのですが。この年には、孫娘の光子も生まれます。
この頃、山口豊専は、東葛飾郡風早村(かざはやむら)藤ヶ谷(現・柏市沼南町)に駐留した連合軍白井(しろい)基地(現・海上自衛隊下総航空基地)に呼ばれます。そこでの作品を見て、白井基地の将校は大絶賛。噂はあっという間に広がり、関東進駐軍の各キャンプ施設へ次々と招かれました。
凹天の高弟であった石川信介(いしかわ しんすけ)は、このあたりの事情をこう記しています。
「これも古い話になりますが、終戦直後、私の家にジープが停まり、米軍二世が、ドヤドヤと玄関に入ってきました。驚く私に・・・日本語でHQに来て絵を画いてくれまいか・・・と言いました。絵の用具は何一つ無い実情を伝えると・・・総て調達するから・・・・・・とのことで、雀躍して引受けました。ところが、引受けたことは良かったが、結果が良くないことになりました。下川先生を始め漫画家を次々と部隊へ動員したのですが、作品テストでOKになりませんでした。思うに、下川先生の鋭くデフォルメされた似顔絵は米兵将校たちの嗜好に合わなかったのでしょう━━━。将校待遇で、数年来見たこともない料理を飽食しただけで皆んなパスしませんでした。途方に暮れた私は最後に山口さんを部隊へ誘いました。山口さんは似顔絵でなく、食堂やクラブ等の大壁画をお願いする手筈としました。他の一方の壁面には私がヌードを描くことにしました。二人で部隊に一週間宿泊、ついに完成し、将校たちの何やら駿々しい賞賛を受けた時は、やっとホッ ━━━━ とする思いでした。殊に、山口さんの春夏秋冬の絢爛豪華美には私も度肝をぬかれた程でした。それに私が今だに感銘深く覚えていることに、粛然と、金ピカの大男の中に立っても動ぜず構えです。その頃の日本人は一様に浅ましく卑屈さに比べて山口さんは『戦争も敗戦もオレの知ったことではない』━━━━ といった風でした。尾上松之助みたい ━━━━ だと私を嬉しがらせました。私共唯二人だけのそうした平易さが、アメリカ側に好感を与えたのでしよう関東進駐軍の各キャンプ施設へ次々と誘導されて、室内装飾を担当しました。また、似顔絵では写実派の精鋭田代光、御正伸の両氏に応援を頼みました」
1954年に対日平和条約が発効すると、豊専の作品は、進駐軍の兵士が、駐留のお土産に次々ともち帰ったとのこと。化政文化の流れを汲み、十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)の『東海道中膝栗毛』や式亭三馬(しきてい さんば)の『浮世床』挿絵や、歌川貞重(うたがわ さだしげ)の浮世絵の流れを汲む山口豊専の画風は、当時の兵士には、確かに異国情緒たっぷりのお宝に見えたに違いありません。現在も世界のどこかで残っていることを祈るのみです。貴重な芸術作品として、絶賛されることでしょう。
ところで、今でも日本各地で議論の続く駐留米軍ですが、最初に置かれたのは、1945年10月、岐阜県各務原市(かがみはらし)でした。名前は「キャンプ岐阜」。1950年に朝鮮戦争が始まると、米兵海兵隊基地として機能します。みるまに治安が悪くなり、街の各所で米兵絡みの事件が増えました。米兵による喧嘩の吹っ掛け、地元民へのひき逃げ、女性に対する性犯罪も相次ぎます。夜間、地元の女性や子どもは外出を控えるように。岐阜県では、渡邉嘉蔵(わたなべ かぞう)を中心として市民運動が巻き起こり、1958年米兵海兵隊は、沖縄本島に基地を移します。山梨県でも、同時期に米兵海兵隊基地ができました。名前は「キャンプフジ・マックネア」。これも治安の悪化に市民運動が起き、1956年米兵海兵隊は、沖縄本島に。
このブログで、深入りする問題ではありませんが、岐阜県大垣市出身の私としては見逃すことができない問題だと受け止めています。このふたつの例は、今の沖縄の現状を考えると、素直に「市民運動の勝利」と受け止めることは、きわめて難しい問題を孕(はら)んでいます。当時、沖縄はアメリカ統治下にあったとはいえ、宮古島出身の凹天は、このことをどう思っていたのでしょうか。そして、化政文化の粋のたそがれを生きた山口豊専と、このことについて、どのような話をしたのでしょうか。肝胆相照らす仲であったふたりとはいえ、このことを話題にしたこと自体も疑問です。それは、山口豊専の性格を考えての上です。
凹天は、1973年に亡くなる寸前の遺稿に「私は鹿児島県人だが、生まれは沖縄宮古島の平良小学校校長官舎であった。れっきとした教育家の息子である」と記しています。受け取りようによっては、これと同じニュアンスの言葉が『ユウモア』1927年1月号にもあります。「私の生地は琉球で沖繩縣宮古島の一孤島なる小學校内に小學校長の令息として生れたのであります」。この記録から分かるように、いくら激変の時代を経たとしても、凹天の宮古島への微妙なスタンスは変わりませんでした。しかし、「下川先生」と呼ばれる自分が、日本漫画の始祖のひとりである北澤楽天第1号の弟子から始まるたたき上げで、しかもその師匠から3回も破門。それでも、破門された後に、独力で腕を磨き、師匠に詫び状まで書きました。そして、時代とともに寄り添いながら、やっと身に付けた画を描く技法を白井の米軍キャンプからNGを出され、山口豊専が白井どころか、関東各地で次々と仕事をこなしていくのを横で見るはめになるとは。しかも、凹天の弟子とはいえ、子どものような若者から、かたや「下川先生」、こなた「山口さん」。もちろん、戦前に「豊玉」、「豊明」と、豊専から名前をもらうくらいですから、凹天にも山口豊専の凄みが分かるだけの器があってのことです。それは、豊専の方も凹天を認めていたからこそ、自分が主宰したはずの慧星会を凹天と下川凹天先生ともち上げる若者を中心に回っていても黙っていたのでしょう。
石川進介は『東京毎夕新聞』で初めて会った凹天と豊専の関係をこう記しています。「当時の同人軍といいますと、山口さんの匹頭に黒沢、益子、内田、原田、八木原、富山、武井、鈴木(利三)、石川というメンバー。慧星会という名の会でした。会の毎月の例会(銀座五丁目出雲亭)をはじめ・・・クロッキー会、観桜、ピクニック、祭礼行事、ダンスと大騒ぎの催事がつゞき、漫画家というものはこんなにすさまじいものなのか・・・・・・と私は目を見張らされたものでした。しかし、こうした荒行の総指揮者は下川先生でしたが、山口さんはいつも傍役で静観しているのが常でした。(略)下川先生の底抜け企画で、時により脱線したり、赤字になったりすると、山口さんは黙って不足分を埋めたり、始末をしてくれりしてくれるのでした。有難いスポンサーと一同は感謝しておりました」
しかし、1970年に、山口豊専は、戦後25年間、『千葉新聞』や『千葉日報』で書き溜めたものを集めた処女作『まんが随筆・明治ちば百話』を出版します。その序言を凹天が書いて、称賛したことは、今回の「山口豊専の巻 その1」で述べました。凹天はこの本を「見る随筆漫画の試作」と呼んでいます。
地元の人々に愛された豊専の逸話には事欠きません。例えば、結婚式に呼ばれて都都逸を唄い、満場の喝采を浴びます。
ちょいと住もうと六実に来たら今じゃ話さぬ人が居る
洒脱な豊専を物語るエピソードのひとつです。
下川凹天は1973年5月26日に亡くなりますが、その時には何かの事情があったのでしょう。山口豊専は、お葬式に出ることはできませんでした。しかし、1975年、凹天の三周忌法要が長應寺で営まれると、山口豊専は、84歳という高齢を押して、石川進介らと出かけます。豊専は、「生きている死者」凹天と何を語らったのでしょうか。宮古では、このような形が今でも残されています。
「宮古の御嶽が神社風に変容したのは大正時代中期ごろからといわれている。(略)外観や名称に一定の変化はあっても、そこを詣でる人びとの信仰のありようには、いささかの変容もないようにみうけられる。宮古ではいつのころからか人は死んだら神となってその子、その孫…を守護するとの根強い土俗信仰がある」。
仲宗根將二(なかそね まさじ)著『宮古風土記』(ひるぎ社、1988年)275ページ。
「顔見知りの老女が、四、五人中庭に出てきた。私たちの姿を見つけると、その一人が言った。━━━━ 聞こえるでしょう。あの遠くで歌う神歌(にーり)が。しかし、私には中の家の雨戸ごしにひびく合唱のほかは何も聞えない。聞こえないですか?いま遠くでうあたっているのは去年死んだ神女(つかさ)です」。
『沖縄 辺境の時間と空間』(三一書房、1970年)30ページ。
この「出会い」が最後です。山口豊専は、高齢のためか、凹天の七回忌法要に、もう出席することができませんでした。
この年の10月には、長男喜久治が56歳で死去。横木健二(よこぎ けんじ)は、「下川先生の没後、慧星会の集いも皆無となりましたが、千葉市の大手デパート、ニューナラヤに在職していた伊藤公平さん(漫画家、歌人)と、千葉新報にいた内田清三さんのあと押しで、千葉県漫画連盟が生れ、漫画展や、新聞の座談会、テレビ出演などの行事の時、豊専さんに参助の出品や、出席などをお願いし、その作品と、博学な座談の話題が半ば素人ばかりの県漫連の格付けともなって、会の運営にも随分と助けになりました。豊専さんは、下川先生よりも何才か年上で、先生とは兄弟のような交流でした。下川先生に先立たれ、悲しみの消えぬ内に働き盛りだった、たった一人の息子さんにもガンで先立たれて・・・・・・老いの身の、大きなショックにグチル事もなく、亡くなる晩年まで絵を描き続けられた豊専さん。本当に偉大と云わざるを得ません」
「山口豊専の巻 その1」で述べた通り、豊専の第2作目の著書『明治風俗百話』(いれぶん出版、1975年)が1月に出版。松東俳壇同人は、豊専自身の筆になる句碑を高寵(たかを)神社境内に建立されます。
【左 『明治風俗百話』(いれぶん出版、1975年)】 【右 自筆のサインと落款】
粛としてもの静まりまりぬ冬の月
他にも、第3作目『終日一日うき世の絵ばなし』(デモス出版、1979年)の出版、東京柴又のゑびす家に大壁画の完成(1980年)、豊専米寿を寿(ことほ)ぐ会が、1980年、ゑびす家で開催。
【左 『終日一日うき世の絵ばなし』 (デモス出版、1979年)】 【右 柴又の料亭 ゑびす家】
同年から翌年にかけて初の個展が、千葉県香取郡多古町の多古サロンで開催されます。1984年には、房総芸術文化賞の受賞を記念して、再び千葉県香取郡多古町の多古サロンで個展が開かれます。個人的は、「ゼニ勘定と肩書きが大嫌い」な山口豊専が、どういう態度で、この個展に臨んだか知りたいところです。なにか洒落た都都逸か俳句、漫文などが残されていそうですが、現段階の調査では分かりません。
【多古美術サロン 多古町商工会】
同年には、前回このブログで述べた『六実音頭』を作詞・作曲します。YouTube でも見られるように、現在でも地元の人に楽しまれています。また「松戸文学かるた」にも、豊専の名が見えます。
名もいらぬ絵を描き句を詠み 豊専翁
【『松戸の文学散歩かるた』より】
1986年、生まれ故郷の白井でも個展開催に応じてほしいと鈴木普二男(すずき ふじお)の頼みに、山口豊専は、3年前からガンに罹病していることを打ち明けます。しかし、さすが明治男の気概。不安感を微塵も見せずに、快諾します。しかし、時はもう待ってくれませんでした。同年、尿毒症で急変し、小板橋病院に入院。この病院の当時の院長は、妻よしと共に、老齢になった山口豊専をいつも見守り続けたのでした。そして、翌年の1987年1月27日に、同病院で亡くなります。
【医療法人社団松和会 小板橋病院】
初めての白井での個展は、遺作展として、西白井複合センターにおいて開催されました。強制されることなく自由に入場記帳(奉賀帳)するだけでも、白井内で395名、それ以外にも160名に達しました。会場で、多くの人から早くも画集の企画の有無を尋ねられたとのこと。「山の爺さん」、「豊専翁」と、いかに地元の人々に愛されていたかが分かります。
【白井市西白井複合センター】
1988年、千葉県香取郡多古町の多古サロンで3度目の個展が開催。山口豊専が亡くなった後、発見された作品が中心でした。
1991年には『生誕100周年記念 山口豊専画集』(山口豊専画集編集委員会、1991年)が出版され、松戸市六実支所に顕彰碑も建てられました。
【上 『生誕100周年記念 山口豊専画集』(山口豊専画集編集委員会、1991年)】 【下 没後4年の松戸市六実支所で顕彰碑が建てられたことを紹介する『広報まつど』1997年4月15日号 pdf】
最後に、豊専が生まれ故郷で生きて臨めなかった個展に、横木健二に送った案内状の言葉を引用します。それは、自画像と思しき仙人姿の老人が、左手にもった巻物を指して。
ようく嚙んで食べる。
早く寝て、早く起きる
頭を使え、手を使え、足を使え。
腹を立てるな、心配の種を作るな。
人の言葉にさからうな。
吾がまま言うな、吾がままするな。
いつもニコニコ、いつも明るく。
そうして暮せと、此の宝の巻き物に書いてあるのじゃ。
九十翁 豊専
一番座からは以上です。
歌のような言葉で終わった一番座から、思い出す宮古の歌と踊りがあります。それは、クイチャーです。宮古の代表的な集団舞踊であり、古謡でもあります。仲宗根將二は、『宮古風土記』の中でこう書いています。
「円陣をつくりながらうたいつつ、踊る。両手を上下に振り、手拍子をうち、足を踏み、はねる。初めはゆるやかで、次第に激しく、リズミカルであると同時に、ダイナミックなくり返しは、一見単調そうだが、必ずしもそうではない。興至れば夜を徹して大地を踏みしだき、歌い、踊り明かす」

【『宮古風土記』 仲宗根将二(ひるぎ社、1988年)307ページ。
種類は雨乞いから、島の英雄や人頭税の叙事まで幅広く歌われています。今では定型化していますが、かつては替え歌のような形で、その人なりのクイチャーがあったようです。今も各集落で違うクイチャーを見ることができます。今年で18回目を迎えるクイチャーフェスティバルは、その在りし日の片鱗を現代の私たちも見ることができます。もちろん、踊ることも!集落によってバラバラな踊りですから「こう踊らなきゃいけない」ということもありません。自由に踊り、歌うのが最優先です。楽しいのが一番なのです。
【比嘉のクイチャー クイチャーフェスティバル2011より】
比嘉では、男性が瞬発力のある飛び跳ね方をします。女性はまた別の踊りで、踊る手は肩から下には下がりません。
そのなかで「かんしーきゃーぬ みゃーく」という言葉があります。クイチャーの本歌が始まる冒頭で、まるで合言葉のようにその場にいる全員で静かにコーラスされます。私は、この言葉を聴くと「島特有の切なさ」を感じます。言葉の日本語訳は「今、このときが宮古なのだ」。さらに解釈すると「今、このときこそ(歌い始める、歌っている時)わたしたちは宮古(現世)にいるのだ」ともとらえられます。
そして、その現世が何なのか。それは楽しさであり、恋心。もともとクイチャーは、一種のお祭りであるミャークヅツ(宮古月、宮古節)で歌われていました。踊り、歌い、自分の心と身体を存分に発揮させ、伴侶となる異性を探し当て、楽しむことだったのです。男女互いがコーラスをして、次第に盛り上がり、アーグ(綾語)が始まるのです。アーグとは、古謡の意味でも用いられます。
裏を返せば、その時は二度と戻らないし、刹那的でもあります。その楽しさも恋のときめきも永遠ではないから楽しもう、ということかもしれません。もしくは、その「楽しさ」が何においても、人間の歓喜なのだ、と。宮古の人が一番大事にしている核は、その個人的な歓喜の源泉であるような気がします。でも、それは徹底した「個人」のみが知る感情なのかもしれません。
現代の宮古人は、人頭税時代のような苦しみの下にはいません。クイチャーの只中にいるような歓喜は、私の想像上のこと。今、多くの宮古人がどのような気持ちでクイチャーを踊っているかは知る由もありません。この観光の激動期に、経験したことのないような問題があっても、あの頃の「個」も「集団」も身に付けていたであろう宮古人の力強さがいまだ息づいているように思えます。そして、なぜか凹天と豊専の中にも同じ息吹を感じるのです。
なぜなら、多くの人が望む「日常」を凹天も豊専もどこか手放した感があるからです。仕事に腐心せざるを得なかった、表現者としての孤独が透けて見えます。ですが、そこに誰とも共有できない孤独があるからこそ、作品の中には、芸術家ならではの歓喜の表現が溢れ出ています。
ふたりの仕事の積み重ねを見ていると、今では立派な人に思えますが、当時は絵で食えるか食えないかという死活問題にもかかわらず、表現することを選んだ覚悟があったのでしょう。心に灯る「表現の炎」というものをずっと燃やし続けた稀有なふたり。この盟友関係のことを考える時、なぜか「かんしーきゃーぬ、みゃーく」という歌が聴こえて、彼らの生の厳しさや喜びを思わずにいられません。
現代は「毛遊び」を合コンのようにとらえ「沖縄の人は感情的な男女のやりとりが豊か」だという文脈のように言われることもあります。ですが、実際は「かんしーきゃーぬ、みゃーく」と高らかに歌わざるを得なかった時代が、宮古はどれほど長く続いていたのか、ということも意味しています。
私は、実は今も違う形で続いているように思えます。それは、外から押し付けられたリゾートという軸ではなく、本質的には自分たちが立ち上がらなければどうにもならないことを皆が知っている南の孤島だからです。それは、凹天と豊専が抱えた「覚悟をしたうえでの辛抱」や「表現者の孤独と歓喜」に少し似ているのではないかと思うのです。
彼らの作品は「人間なら誰もがもっているであろう本質的な生命の輝き」のニュアンスに溢れています。それが時代を経ても、人の心を打つのではないかと思うのです。
【主な登場人物の簡単な略歴】
山口豊専(やまぐち ほうせん)1891年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」
谷川健一(たにがわ けんいち)1921年~2013年
民俗学者。熊本県水俣市生まれ。宮古諸島に関する著作多数。 姪に吉田麻子ないし谷川ゆにがおり、現在活躍中。第136回 「谷川健一歌碑」
石川信介(いしかわ しんすけ)1906年~1995年
漫画家。東京市生まれ。小学校の頃は、明大前の住宅地、神田甲賀町に住む。青山学院中等部卒。本名は忠雄(ただちか)。あだ名はチカちゃん。初めて読んだ漫画は、岡本一平の『良友』に載った「珍助物語」。父は神田の駿河台警察署長。警視庁勤務を経て漫画家となる。昭和初期より、ナンセンス漫画から風俗美人、水墨画へ。似顔絵も好きで、老人ホームで似顔絵を描くのが好きだった。森比呂志と並ぶ凹天の高弟。関東大震災後に『東京毎夕新聞』に載った凹天の漫画に魅せられる。近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄が中心となって作った新漫畫派集團に参画。代表作に『エムさん』、『ドレミさん』など。戦後は「漫画集団」や「日本漫画家協会」に所属。漫画広告賞受賞。凹天が晩年過ごした野田市で主宰した「野田マンガクラブ」に在籍する。下川凹天顕彰会会長。凹天の遺品を預かり、娘の手を経て、現在川崎市市民ミュージアムで所蔵されている。腎臓癌を患い、肝硬変で上尾市藤村病院に入院。自宅で、呼吸不全で死去。
十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)1765年~1831年
戯作者、絵師。駿河国府中(現・静岡市葵区)生れ。本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。江戸に出て武家奉公をし、1783年、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)、「近松与七」の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作。1794年、江戸へ戻り、通油町(現・中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。1795年、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けた。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材に。一九は独学で、黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集など、さらには教科書的な文例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手伝いも続けた。寛政から文化期に自ら、「行列奴図」や、遣唐使の吉備真備を描いた「吉備大臣図」などの肉筆浮世絵を残している。1802年に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。1822年までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。これらの作品がヒットした背景には、当時寺子屋の増加により、人々の識字率が高まっていたという時勢上の理由もあった。それまでは文字の読み書きは公家や僧侶など知識階級の特殊技能に属し、一般庶民が読み書きできる時代は、それまで存在することがなかった。一九は作品執筆による収入だけで生活した日本初の職業作家ともいわれるが、それは職業的著述業の成立を可能にする規模の市場が、日本に史上初めて成立した時期だったとも言える。1810年に眼を病み、しばしば再発した。1822年には、中風を患い、その後は「名を貸しただけなのでは」と疑われる、一九らしくない作風の「著書」も混ざった。晩年を貧しく過ごした後、死去。
式亭三馬(しきてい さんば)1776年~1882年
地本、薬屋、浮世絵師。浅草田原町(現・東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師、菊地茂兵衛の長男として生れる。名は菊地泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。戯号は四季山人・本町庵・遊戯堂・洒落斎しゃらくさいなど。名が久徳で字が泰輔とする文献もある。晴雲堂と号する父は、後に三馬の作品の版木を彫った。祖先は八丈島の神官という伝説をもつ。1784年から1792年まで、本石町(現・中央区日本橋本石町)の地本問屋翫月堂掘野屋仁兵衛方に住み込み、出版界の事情を知った。戯作者へと歩み、寛政6年18歳のとき、黄表紙『天道浮世出星操』などを、親友の春松軒西宮新六から初出版した。平賀源内・芝全交・山東京伝を慕った。1797年頃、本屋の蘭香堂万屋太治右衛門の婿養子となり、作家と出版屋を兼業した。寛政11年に出した『侠太平記向鉢巻』で火消人足らが騒ぎ、処罰され、翌年は新刊を出せなかったものの、名は広まった。妻が亡くなって1806年万屋を去り、古本屋を開き、戯作に励んだ。故掘野屋仁兵衛の娘を後妻に迎えた。1809年に書いた『浮世風呂』が大ヒット。1892年、一子虎之助を得た。古本屋をやめ、1810年から売薬の販売製造を始めた。著書で薬を宣伝し、薬の客が読者にもなり、暮らしが豊かに。酒にも親しむ。その結果として、前からの病弱が募った。にもかかわらず、戯作を書き続けた。三馬は戯作の執筆をする傍ら、自ら肉筆浮世絵も描いている。代表作として「三味線を持つ芸妓図」が挙げられる。本図は、立てた三味線を持つ大島田の芸妓が、片膝を立てて振向いている様子を描いており、自画賛を入れている。
歌川貞重(うたがわ さだしげ)生没年不詳
歌川国貞(三代目歌川豊国)の門人。姓は太田、通称は金次郎。五蝶亭、新貞亭、独酔舎、一雄斎、雄斎、一泉斎、一心斎などと号す。作画期は文政から安政の頃。初めは歌川貞重と称し、弘化4年1848年頃まで子供絵、教訓絵などの錦絵を多く描く。改印が名主単印のみであった1843年から1847年にかけて、錦絵『花のえん日商売のあきうど』において「貞重改国輝画」と落款しており、この時期に貞重から国輝に名を改めたと考えられる。国輝と改めてからは嘉永から安政にかけて合巻の挿絵を多く手がけ、美人画、役者絵も描いた。さらに1855年以降は二代国彦と名を改め、『当世美人花之賑』などに「国輝舎国彦画」と落款している。また歌川芳艶と競って刺青の下絵を描いた。
渡邉嘉蔵(わたなべ かぞう)1926年~2016年
政治家、実業家。岐阜市木挽町生まれ。本名は渡邉嘉藏。金華小学校卒業後、すぐに上京。大崎にて生計を立てる。 旧帝国陸軍に志願し飛行第75戦隊に搭乗員として配属され本土防衛の任務に就く。その後、浜松航空隊等に所属し、八戸航空基地(現・海上自衛隊八戸基地)で終戦を迎える。 復員後は岐阜に帰郷。 その後は労働運動に従事し、1955年に岐阜市議会議員選挙に出馬、初当選を飾った。 岐阜県議会を経て1983年に行われた衆議院議員総選挙で日本社会党公認で旧岐阜1区から出馬し初当選、以後通算して3期務めた。自由民主党・社会党連立政権下で、第1次橋本龍太郎内閣の内閣官房副長官を務め、ビル・クリントンアメリカ合衆国大統領とのサンタモニカに於ける協議に立ち会う。その後、1996年の民主党結党に関しては組織固めに関して中心的な役割を果たし、岐阜県においても民主党岐阜県連結党に大きく手腕を発揮。 初代民主党岐阜県連合会代表にも就任するなど、その政治的存在感を国政の場にて大きく示した。労組出身で行動力に富んだ実力派の代議士ではあったが、選挙に関しては自民王国の壁に阻まれ苦戦が続き、小選挙区制導入後の1996年以降は国政復帰できないまま2000年の衆議院選挙落選後に政界を引退。国政引退後も民主党岐阜県総支部連合会顧問として県内の非自民勢力・労働組合に対して大きな影響力を及ぼすとともに、協同組合ゼイケイ岐阜会長、日本リースカ―株式会社代表取締役、全国外国人研修生受入組合連絡会議議長などに就いて幅広く活動していた。2016年、心筋梗塞のため自宅で死去。
仲宗根將二(なかそね まさじ)1935年~
郷土史家。沖繩縣平良市西里(現・沖縄県宮古島市西里)生れ。1944年鹿児島縣姶良郡加治木町(現・鹿児島県姶良市加治木町)に疎開。鶴丸高校を経て、1956年宮古島に帰郷。宮古毎日新聞、日刊沖縄新聞、宮古教育委員会で、市史編纂や文化保護事業に従事。他方で、平良市役所税務課にも勤務。他にも宮古の所属機関多数。前宮古島市史編さん委員会会長。『宮古風土記』(1988年)他、著作、論文多数。宮古の生き字引と呼ばれる。『軌跡』(2016年)で、東恩納寛惇賞受賞。現在も精力的に、宮古の歴史や文化財に関する研究や発表を行っている。
横木健二(よこぎ けんじ)1917年~1989年
漫画家。東京市深川生まれ。6人兄弟の4番目。そのうち3人は早逝し、事実上の長男として育てられる。深川時代の友に、酒井不二雄や大川博(弘)がいる。最初の奉公は、映写技師。次は小学校の給仕で時給は50銭。校長の月給が120円、教頭100円、クラス主任が60円、普通教諭が40円、代用教員が30円の時代。次に町工場勤め。この当時の心の支えが、投稿漫画だった。次いで、江東楽天地にあった吉本興業の花月劇場での映写技師になる。三光スタヂオで腕をみがく。1935年、牛島一刀(一陶)に見出され、『國民新聞』へ初の連載物を描く。せんば太郎、牧とらをらと「東京漫畫社」結成。同集団とそりが合わず、慧星会に入り、凹天門下生に。大沼博らと「東京マンガクラブ」を作る。『キング』、『富士』、『日の出』などに作品発表。映写技師の資格も取得し、1940年から1944年まで後楽園スタヂアムにあったスポーツシネマに勤める。印象に残るのは、当時須田博と名乗ったスタルヒン。ここでの楽しみは、好きな『ポパイ』などアメリカの漫画映画に接することだった。『ポパイ』は白黒だったが、多くはオールカラー。フィルムを3コマほど失敬することもしばしば。当時トーキーフィルムは3コマでは、音声が出なかったため。勤め始めた頃に失恋。しばらく、女性不信に。東京市が東京都となった1942年、召集令状が来た友人に誘われ、吉原で初体験。その後、空襲がひどくなったため映画場も閉鎖。松竹、大映、東宝などに配属。その後、終戦まで日映(社団法人日本映畫社)美術部のあった練馬製作所へ。村田安寿、政岡憲三、杉浦一雄、安井小弥太、田中寿太郎、瀬尾光世と知り合う。戦後は、千葉新聞社に入る。下川凹天の媒酌で、1958年に富美江と結婚。富美江の言葉によれば、「何事にも妥協の出来ない人で世渡りの下手な人でしたがその分純粋な心の持主で貴重な存在」。「若い人達とグループを作ってみても時代のずれにいつも失望していた」。「何かことを始めようとすると必ずカベにぶつかり、それが病気であったり、其他何か不都合が出来たりで皆挫折ばかりが多く、失望を味って」いた。野田漫画クラブなどに属す。凹天の葬式にも列席する。少年漫画や『千葉新聞』で漫画を多く描いている。晩年は古川柳やことわざに深い関心を寄せて、ノートに描き抜きを作成していた。肺腫傷により死去。
鈴木普二男(すずき ふじお)1928年~没年鋭意調査中
郷土史家。千葉県白井市で郷土研究会を主宰する。著作に『白井町の文化誌:野ざらし紀行』(1979年)、『白井町の文化財ノート』(1984年)、『白井の文化遺産史 : 野ざらし紀行』(2004年)などがある。「山口豊専画集編集委員会」会長を務める。
【2020/04/19 現在】
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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