2018年08月12日
第7話 「近くて遠い絶海の小島」

八丈島に暮らそうと決めたのには、1年前。
夏休みの旅行で訪れた際に、息子がこの島を気に入ったことが大きい。
特に、西側の海に浮かぶ八丈小島は、八丈島から沖合いおよそ4キロのところにある。
手が届きそうな、目を凝らせば島にいる生き物まで見えそうな距離で、形もこんもりと愛嬌があって、息子はなぜか、その小さな島に親しみを抱いたのだ。
親離れの時期でもあり、小島に一人で住みたいなどと夢をぼやいて、私も、行ってみたいなぁと思っていた。
あの夏休み旅行から、ちょうど1年経ったのだ。
そして今は、ここに、暮らしている。

現在の八丈小島は無人島だ。
室町時代から人々が住んでいた。電気も水道もなくそこに暮らしていた。
しかし、1966(昭和41)年に島民全員で島を離れることを決定し、1969(昭和44)年に八丈島へ移り住んだ。
集落の形はそのまま残して来たのである。

八丈島の西側、大賀郷(おおかごう)という集落の、八重根(やえね)という港から、まっすぐ坂を上った見晴らしのいい場所に、空と八丈小島へ向けてせり出すように建っている家がある。
いつもそこの細い裏道を通りながら、こんな眺めの良い家って、他にないよなぁ・・・と思っていた。
隣近所や、目下にも目ぼしい民家はなく、その辺りの景観を独占する広々とした家だ。
つい最近、厳密に言うと、実は昨日。
その家は、八丈小島の村長の家だと知った。家の前のかなり広い土地も。なるほどと思った。
先見の明、この場所なら、どんなに時代が流れても、同じように、家の中のどこからでも八丈小島を眺めることができるだろう。
ふたつあった集落のひとつ、鳥打(とりうち)という村の最後の村長だった鈴木文吉さんは、島を離れるときに、小中学校の壁に赤いペンキで自作の詩を書いたそう。
「五十世に暮らしつづけた我が故郷よ 今日の限りの故郷よ かい無き我は捨て去れど 次の世代に咲かせて花を」
「ともしびの如く消え去る故郷かな 花咲く色は変りなく ちりて誰かを待つごとし」
『惜別の詩』一部抜粋


さて、2018年7月22日である。
私は子供たちの自然体験の一環で、八丈小島に上陸することができた。
結果から言ってしまうと、学校は朽ち果ててすでに影も形もなく、石積みの門だけは確かにあり、ぼっとん便所の穴というのも確かにあり、けれどもそこは、山の中にぽっかりと現れた、ただの草むらだった。
島に桟橋はないので、船の頭につけたタイヤをクッションがわりにして、船の頭を岩場に接岸し、上陸。
山の裾野の、なだらかな平地がしばらく続いており、船着場からすぐ上ったところに、自然ではない形の石が積まれたり、並べられたりしている場所があった。
尖った石や丸い石、これが拝所であることを告げられた。
集落に入るずっと手前、港の入口といったあたりの位置で、確かにその場所でその石を見ていると、空と、海が一体で、そしてこの島も、その、何ていうか、宇宙と一体。そういうことを体感できるような気がした。
どんな神様なのか、空、海、陸の、無重力の世界に見守られている気がした。

集落の入り口には教員住宅もあった。
離島と言っても定期船のある島と違い、教員は集落で一緒に暮らしたのだ。
住民がお風呂を沸かすと、呼んでもらって入ったのだと、聞いたことがある。
水は雨水を貯めて使うので、とても貴重なものだ。
五右衛門風呂に、そうやって、みんなで浸かったのだろう。
学校までの道は、今でも都が管理している。
だから埋もれずに、かろうじて今も歩けるようになっているのだ。
しかし、遠目に見たらただの山肌である。
とても道など目視できず、歩いていくときにも、よく見分けないと、判らなくなる。
道幅がかなり狭いところもあり、下生えで足元が見えにくく足を踏み外したら滑り落ちる。
そういう道だった。
この島は山だ。
平地と言っても、なだらかな丘陵。
人々の生活は、いつも、山道を行っていたのだろうなぁと思った。

学校跡地を探索したあと、船着き場に戻って来たところで、ドボンと海に入った。
海はいきなり深さ8~10メートルくらいある。
岩場なので、海に入ったは良いが陸に上がれない。
そのために、自然体験ツアーの猛者がハシゴを持ってきており、ロープで岩場に取り付けてくれた。
深さのおかげで、どんな場所から飛び込んでも大丈夫。
子供たちは思い思いの岩場へ登り、飛び込んではまた登っていた。
大人たちは、その道の猛者揃いで、まずは素潜り隊が魚を捕りに潜る。
やがてフグがあがった。
そのあとさらに、とても大きなフグが捕れた!
あっという間に、2匹の立派なフグが手に入ってしまった。他にも、様々な魚が水揚げされてくる。
続いて調理隊がまな板の上で、出刃包丁を使って器用に次々と魚を捌いていく。
そしてさっきまで、道案内ガイドをしていた方が、普通にフグを解体し始めた。
グローブとハサミだけで、瞬く間にフグがバラバラだ。
剥がされた皮が、石の上にマスクのように綺麗に干されている。
ほかにもここは「亀の手」と呼ばれる貝がよく捕れる。
子供たちが次々とフジツボだらけの岩場から、ドライバー1本で亀の手を捕ってくる。
いつしか火が焚かれており、鍋が出来あがってゆく。
こうして魚や貝を入れた磯もの汁とフグ汁に、持参したおむすびとで、海の幸をいただくとびきり贅沢な島のランチとなった。

海の中は透明で、黒い岩がゴツゴツと良く見えた。
珊瑚も少しある。
熱帯魚のような魚も、岩や珊瑚のそばで遊んでいた。
シュノーケル的にはあまり面白くないのかもしれないけれど、魚を捕るという視点で捉えたら、本当に豊かな海だと思う。
小島は釣り船で訪れるというのをよく聞く。
八丈島から小島は、一番近いところで対岸から4キロだが、海流があって、泳いでは渡れないそうだ。
船でもぐるっと回って行くので、八重根港から、そんなに近くはなかった。
船頭さんが、八丈小島出身だった。
島を離れて50年が経っている。
当時10歳だったら、今は60歳。
小島で教師をしていたという方が、今まだ八丈島にいる。
20年前に小島の学校跡を見に行ったという人に、今行ったらもうなくなっていました、と告げると、当時でも崩れかけていたけれど、よくこんなところに暮らしていたなぁと思ったよ、と。
私が見た「今」は、ほとんどもう、なにもなかった。
道も都が管理しているので、ある程の草刈りをして保たれるのだろうが、もう、その先の学校が、跡形もないのであるから、それを見に行こうという人も、これからはいなくなるはず。
そうして、人の暮らした跡は、山の緑に飲み込まれて、擦りむいた膝小僧の傷が癒えるように、消えてなくなっていくんだろうと思う
近年、クロアシアホウドリの繁殖が確認されたと。
人間たちの代わりに、今度はクロアシアホウドリが、棲家としようとしている。
そうやって、続いていくんだ、いい島だな。

八丈小島(はちじょうこじま)
行政上は東京都八丈町に属する伊豆諸島の無人島。面積3.07キロ平方(来間島が2.84キロ平方)。八丈島の西、八重根港からおよそ7.5キロの沖合にある。島の周囲は海食崖に囲まれており、海岸線の大半は急斜面を成している。そのため面積に比べて標高が高く、616.6メートルの大平山(おおたいらさん)がそびえている。
室町時代から定住集落があったと考えられており、江戸時代には島の北西部に鳥打、南東部に宇津木の2か村が置かれていたが、1908(明治41)年に島嶼町村制が施行されたが八丈小島には施行されず、1947(昭和22)年の地方自治法施行で、鳥打村および宇津木村が置かれるまで名主制が存続していた(法的な村となるまでの村名は通称であった)。
特に宇津木村は名主制度にかわって地方自治法施行が施行されたのちも、1951年に宇津木村議会を廃止して町村総会が村が設置された。八丈村(当時)に合併される1955年までの8年間は、直接民主制が実施された地方制度史上極めて珍しい自治運営がなれさた村であった。
【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
バックナンバーはコチラから。
扇授 沙綾(せんじゅ さあや)
1976年 東京生まれ。
2003年から2011年まで、宮古島・狩俣に住む。
伊良部島へフェリーでの1年間の通勤を経て、東京へ。
現在、東京在住→2018年、八丈島へ。
12歳の息子と二人暮らし。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法