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2018年10月30日

火曜特集 「サトジュンの灯台お遍路旅」



本日のATALAS Blogは、いつものあの“石碑”の奴ではなく「火曜特集」です。ATALASの特集は通常では金曜掲載ですが、色々あっての火曜特集となりました(10月5週目火曜でもある)。掲載を決めたものの看板を作ってなかったので、金曜特集を借りた仮設タイトルです。ごめんなさい、次回までには・・・。
でもでも、本日お届けするのは、ATALASの旅モノの新機軸、灯台にフォーカスを当てたなかなか濃いめの旅モノです。ライターは全国津々浦々の灯台を目指す、「自称、灯台ファン・お遍路派」のサトジュンさん(from 横浜)です。
宮古島は大海原のただなかにある島なので、流通の大半を海運に依存しています。海をゆく船の道しるべである灯台の恩恵を受けていることは、誰もが馴染み知るところです。
それなのになぜ今、灯台なのか。実は今、灯台がとても熱いのです。今年2018年は日本に灯台が築かれて150年目。さらに来月、11月1日は「灯台記念日」という、そんな絶妙な推しのタイミングに彗星のごとく現れたサトジュンさん。これはもう、まずがーと、名刺がわりの1本をお届けするしかありません。ということで、タイトルど~ん!。


『サトジュンの灯台お遍路旅』(観音埼灯台@神奈川県横須賀市)

こんにちは。
三度の飯より灯台大好きの“サトジュン”です。

灯台ファンで、自称・お遍路派(数多ある灯台をひたすらに巡礼し続ける趣味)として、西へ東へ南へ北へと、国内の灯台を訪ね歩いているだけの私が、おこがましくもこの場を借りて灯台について語らせて頂くことになりました。

まず、一番最初に知って頂きたいのは、日本の洋式灯台が、今年の灯台記念日2018年11月1日で150年周年を迎えることです。9月には「灯台150周年」の記念切手も発売されました。
なにをもって150年かというと、神奈川県横須賀市にある観音埼灯台の工事起工日、明治元年11月1日が150周年のはじまりなのです(点灯開始は翌年の1869年だけど)。

【観音崎灯台 全景】
このように多くの灯台は記念銘板(初点プレート)を持っていて、そこには初めて灯台に灯りが点された年月日が刻まれています。
ちなみに観音埼灯台の初代の銘板は、灯台横にある横長の1メートルくらいの石で、おしゃれにもフランス語併記で刻まれています。

ということで、灯台好きの自分勝手な観点から、地元神奈川県の観音埼灯台をご紹介します(実は観音崎灯台というのは、能登半島と石垣島にもあるんです^^;)。

現在の観音埼灯台は、1925(大正14)年に再建された3代目のコンクリート造りとなっています。
初代の灯台はレンガ造りで、フランソワ・ヴェルニーというフランス人技術者により建てられましたが、1922(大正11)年に地震で被災したため取り壊しとなります。
翌年、2代目のコンクリート造りの灯台が完成しますが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊しています。
そうえいば横須賀にヴェルニーの名前の付いた公園がありますね (いつかは行きたい)。



【上から、フランス語併記の初代、2代目、3代目の初点プレート】

倒壊と改築の歴史については、灯台入口の初点プレートからも読み取ることが出来まして、灯台の入口上部に一番新しい3代目のプレートが、内側の螺旋階段の入口上部に2代目のプレートがあります。特に3代目には「震災改築」の記載もあって、2度の地震で倒壊し再建されたことが判ります。

灯台の入口の前に広がるスペースは、灯台職員の官舎が建っていた場所であり、その一角に大正天皇の皇后・貞明皇后の行啓訪問を記念した碑も建てられています。
皇后は灯台職員を労うために、国内のいくつかの灯台を訪れていたようで、三浦半島の剱埼(つるぎさき)灯台にも同様の碑があります。

灯台ファンたち(ほぼ中高年)は、映画「喜びも悲しみも…」でお馴染みの海岸の遊歩道から、灯台へ続く階段を息を切らせながら上がり、絶景には目もくれず敷地内へ行き、かつての官舎跡を妄想し、灯台に昇り、灯室内やバルコニーからレンズを眺めます。
どこの灯台に行っても、まず景色よりレンズに目を向けているのは、コアな灯台ファンと思って間違いないでしょう。
知識不足で上手くは語れないけど、確かにフレネルレンズは美しいと思うし、見てほしい推したいポイントでもあります。

【2代目バルコニーの残骸と、横須賀製鐵所の刻印がある煉瓦(発掘)】

そして彼らは灯台と灯台資料館を堪能した後、潮の引いた磯へ降りて行き、砂に埋まった初代の観音埼灯台のレンガを探し、2代目のバルコニーの残骸に触れてノスタルジーに浸るのです。

この灯台の魅力は、浦賀水道を一望出来る眺望はもちろん、小ぶりながらも貴重なフレネルレンズを超間近で見学できる参観灯台(いわゆる施設に入れる灯台のこと)であることや、初代と2代目の面影を現灯台下の磯に見ることが出来ることなど、歴史を肌で感じられるところにあります。

また対岸には房総半島の眺め、さらに東京湾に入るすべての船舶を見おろすロケーションにあるので、第一・第二海堡(明治大正期に東京湾防衛のため構築された人工島)、横須賀に入る潜水艦や空母の類はもちろん、横浜や東京に入るクルーズ船やタンカー、時には南極観測船「しらせ」なども見ることが出来る(偶然だったけど)ため、船舶ファンにも人気のスポットとなっています。

【左:たたら浜から遊歩道に向かうトンネル 右:灯台近くの砲台跡】

灯台の周辺は県立公園となっているため、たたら浜のゴジラの足跡を見たり、古の砲台跡を散策したり、地層を見学したり、磯遊びやBBQを楽しむなど、思いのままに一日過ごせたりします。

ちなみに灯台の本領発揮は陽が落ちてからの点灯となるわけですが、観音埼灯台の点灯を眺めるには、若者がたむろする公園入口のロータリーを通過し、街灯はあるものの、ほぼ真っ暗な道を進んでいく必要があるため、一人で行くのはかなり勇気が必要です。

私のイチオシの見方としては、夕暮れ時の東京湾フェリー(金谷-久里浜)からの眺め。
夕陽をバックにした富士山のシルエットに加えて、観音埼だけでなく剱埼、城ケ島、洲ノ埼(千葉)の各灯台も点灯を開始するため、とてもテンションが揚がります。
たとえば、千葉をツーリング(ドライブでも可)した後に、フェリーで久里浜に帰ると神奈川の灯台が一斉に「お帰り~!」と迎えてくれる…そんな感じ。
これはもう乗船中ずっと甲板にいるしかないのです。

【左:沖縄からはるぱる東京湾までやって来たA_LINE(白い貨物船) 右:偶然現れた、南極観測船しらせを見送る】

観音埼灯台のような参観灯台と呼ばれる、「のぼれる灯台」は日本に16基あり、2018年6月から、青森の尻屋埼灯台も仲間入りしました。
沖縄では平安名埼灯台と残波岬灯台の2基、参観灯台があります(入道埼と尻屋埼は冬期間はお休みになります)。

是非、海に近くにお出かけの時は灯台を探してみては如何でしょうか?
灯台は船舶の航行はもちろん、陸から目指す者達も暖かく迎えてくれます。

それではまた、何処かの灯台でお逢いしましょう!

『参観灯台への心がまえ』
一、灯台内にトイレやエレベーターはなし。
  事前にきっちり用は済ませ、階段を登る体力を温存しておきましょう。
一、小銭で200円を用意しておくべし。
  参観灯台は寄付金で成り立っています。釣銭のいらぬよう努めましょう。
一、記念スタンプも楽しむべし。
  スタンプ蒐集家でなくとも、訪問の記念になるのでスタンプは押しましょう。


【灯台のいろは】(clickで拡大します)


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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2018年10月28日

第12話 「ススキが海風に靡いている」



いつの間にか、ススキの穂だらけになってしまった、島のどこもかしこも。
シュッと伸びた柔らかなアイボリーのふわふわ。
綺麗だな、特に夕日を浴びたとき、海を背にしているとき、青空の下、もしくは、明るい月の夜。

ススキは絵になるなぁ。
そして、あっという間に冬を運んでくる。

島の冬は普通に寒いそうだ。
雪が降るのは稀だとしても、暖房はもちろん必要で、着るものも都内の冬と同じような感じだと。
セーターとか、梅雨時期の猛烈な湿気に、衣装ケースの中で傷んでしまうのではないかと心配だったけれども・・・。

11月になる。
今年はもう、残すところあと2か月。

運動会や文化祭、地元の神社のお祭りなど、10月は行事の多い月だった。
伸び放題の髪にかまう暇なく、金八先生みたいな髪型になっている、私。

コンタクトレンズを落としてしまった。
円錐角膜で、普通のレンズでは視力矯正がむずかしいので、特殊なハードレンズを使っている。
そのため、なかなか取り寄せられない。
眼科の処方箋がないと・・・ということなのだ。

島に眼科はない。
月に1回程度の、町立病院での臨時診療のみだ。
仕方がないので、眼鏡で過ごしている。
眼鏡では矯正しきれなく、段差が見えない。
だから、慣れないところへ行くのは怖いのだが、八丈島内であれば、なんとかなっている。


都内は看板や表示など、街に文字が溢れていて、文字が見えないと迷う。
例えば地下街なんかは、どちらへ進めばいいのか、さっぱりわからない。
けれどもこちらでは、文字を見つけることの方がレアだ。
よくよく見ようとして目を凝らすのは、スーパーで食材の値段を見るときくらい。
あとは、人を見て、誰か判別できるくらいの視力があれば、暮らしていける気がする。
ただし、夜の暗闇はとても深いので、日が暮れてからの車の運転だけは、自分の目の力の弱さが心もとない。


夏から秋にかけて、雨が多かった。
9月は6月よりも降水量が多いのだそう。
今年は少し後ろにずれて、10月の頭くらいまで、常に雨が降るつもりで計画をしていた。
秋の長雨だった。

いつの間にか雨が少なくなって、太陽が頻繁に顔を出し、秋晴れの日が続くようになったなぁ、と思ったら、中秋の名月も過ぎていた。


衣替えをした。
長袖や上着など、ウール素材のスカートやスラックスが、そろそろちょうどいい気温になってきたな。
仕舞っていた息子の制服のシャツ、長袖を出した。
ハンガーに掛けてみたら、なんだか袖が短い。
着させて見たら、いつの間にか、腕がこんなに伸びていたんだ。
腕だけじゃない。肩も、胸も、シャツが狭そうになっていて。
季節が、春から秋になるだけの間に。

大人である私はもう、同じものを20年も着ているというのにな。
伸びている。
今が、大事なんだ。

大人である私はもう、身長が伸びたりはしないけれど、こんな人間になりたい、と思う憧れだけはある。
それに向けて心は伸びやかに、たおやかに、謙虚さを、忘れずに、日々、変容していきたい。

人生の、春から秋に、なるように・・・。  続きを読む



2018年10月26日

Vol.30 「トックリキワタの花に」



10月も中旬を過ぎると朝晩、ひんやりとするようになった。
寝るのにタオルケットでは心もとなく、毛布を出してきた。
ついこの間までクーラーなしではいられなかったのに、夏の色は小さくなっていく。

11月上旬くらいになると、ひときわ目立つピンクの花が咲く。トックリキワタの花だ。
私が子どもの頃は、宮古で見かけることはなかったが、最近市内のあちこちで見るようになった。
青空に映え、まるで秋の桜のよう。

トックリキワタの原産地は、中南米などでウィキペディアによると日本では1964年に沖縄県に導入されたとのこと。
宮古に渡ってきたのは、それから20~30年後くらいだろうか。
トックリキワタという名前は聞いたことはあったが、どんな花か知らなかった。
10数年前、下地の元役場近くの民家で満開のピンクの花を初めて見た。青空に映え何とも美しい。
後でこの花だったことが分かり感動したのを覚えている。
名前の由来は、幹がとっくりのようにふっくらとしていて、キワタは木綿。花が咲いた後、実がなり、そこに綿ができるため付いた名前らしい。実が割れて、中の白い綿がふっくら現れるのもまた目を奪われる。

トックリキワタの花を見ると、思い出す人がいる。
母の妹(叔母)だ。
小さい頃からいろいろお世話になり、大人になってからは叔母の言葉に救われ、励まされた。温かくて、優しい人だった。叔母は9年前の11月に亡くなった。
その頃、東京に住んでいた私はすぐ宮古に飛んだ。斎場に向かう車中、ずっと外を眺めていたら、山林の中にひと際目立つピンクの花がある。トックリキワタの花だ。車窓はすぐに変わったが、花は目の奥に残り、心が慰められるようだった。あれから、トックリキワタの花を見ると叔母の顔が浮かぶ。

今ではトックリキワタの花はあちこちで見られる。下地線の馬場団地のあたり、カママミネ公園、レストラン「ばっしらいん」前、袖山付近、空港駐車場等々。綿ができるのは4月~5月頃だ。

そろそろトックリキワタの花が咲く。今年も道行く人を楽しませてくれることだろう。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年10月23日

第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」



島にそこそこ多い事業竣工記念系の石碑。内容が意外と地味な割に、結構、自己主張が強いものが多いものが常なのですが、今回ご紹介する石碑もなかなかに自己主張が強めです。なんたって急傾斜地の崩壊を防止する事業の竣工記念碑ですからね。力強い単語のオンパレードです。
石碑は島で一番の急傾斜地に人々が住まう、伊良部島は佐良浜地区の丘の上にあります。思い浮かべてみると、佐良浜の街並みは、車社会の島でありながら徒歩優先の細道と階段が入り組み、まるで迷宮のような佇まい。まさに崖にへばりついて住んでいるといっても過言ではないくらい急峻な地形に位置する集落です。

石碑は海を埋め立て整備された漁港に完成したばかりの漁協(おーばんまい食堂)の直上、佐良浜児童館の並びにあるモモタマナが茂る公園の中にあります。石碑の形もなかなかユニークで、自己主張が強めなので、きっとすぐに判ると思います。余談ですが、崖上なのでとても眺めのよい公園で、対岸の宮古島(平良北部の狩俣から池間島)までよく見渡せます。それではまずは、碑文から紐解いてみようと思います。
急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑

海抜40m地点の急傾斜地に横たわる危険断崖は、この地を基点に約600m東西に走り、その昔地震や大雨等によって崩壊し、人命及び家屋に甚大な被害が出たことから、昭和51年急傾斜地崩壊防止事業を導入し、危険崖地を撤去し公園化した。

工期 昭和51年~56年
工費 2億6千万円
平成6年7月設置
伊良部町長 川満昭吉
平成もそろそろ終わろうとしている昨今、どうも元号での計算が複雑で煩わしくなって来ているので、勝手ながら、碑文に出て来た元号を西暦に変換して計算しやすくしてみました。1976(昭和51)年に工事を初めて、1981(昭和56)年に工事が完了して、1994(平成6)年に石碑が建立されているということらしいです。
完成から随分と経過してから、建碑されているのがちょっと気になりますが、国土地理院の空中写真を覗いてみると、ちょうど事業開始直後の1997年と、建碑された1994年の空中写真があったので、ちょっと見比べてみたいと思います。

【左:1977年 中:1996年 右:地形図(赤丸は事業後に変化したとみられるエリア)】

池間島から伊良部に渡って来た、池間民族の人たちが暮らし始めたと云われ、地域名の佐良浜の語源となっている(小字)佐那浜(さなはま)から、ひとつ上の段にあがった断崖が、急傾斜地崩壊防止の事業が対象となった場所のようで、海側(今は防波堤が突き出ているので、少し沖合いから集落が望める)から見上げても、岩々しくちょっと尖って見えています。ここらへんを600メートルほど帯状に岩を削り取ったようです。
地元の人に話に聴くと、子供の頃、大岩に乗って遊んでいたそうですが、その岩は乗っかっただけでもぐらぐらと不安定に揺れていたと云います。つまり、集落の上に、巨大な浮石がゴロゴロとあったということですね。改めて考えてみると、牧山の大和ブー大岩からサバオキを経て、フナウサギバナタ展望台、白鳥崎の西海岸公園まで続いている、佐良浜断層涯の大きな連なりの一部になっているのですが、ここ佐良浜の部分だけが、少しだけ崖の高さが低くなっていることが判ります。ということは、おそらく佐那浜のあたりは、かつて崖が大崩落したために周辺より低くなっているのではないでしょうか。さすれば露岩や巨岩の浮き石などがあったとしても不思議ではありません(佐良浜集落の南方、旧フェリーターミナル周辺の埋め立て地は、海ぎわにゴロゴロと岩が転がっているのもその一例か?)。

【池間添の公園に設置されている「佐良浜地区急傾斜地崩壊危険区域」を知らせる看板】

そんな人々が暮らしている中での岩の除去というは、かなりな神経を使った工事になると思われ、それゆえに工期が長期化したのでしょうか。工事が行われたとみられる場所が、空中写真から4エリアほど確認できるので南から順に見てみましょう。
まず、一番南に位置し、石碑が建立されている公園のエリア。岩場は平地に作り替えられていますが、公園の西側には岩盤が残っています。硬い地盤を生かしてなのか、携帯電話のアンテナ鉄塔が建てられています。
公園の北隣、佐良浜児童館の道向かい。ここで字が池間添から前里添に変わりますが、ここの崖地は緑に包まれていて、あまり大きな変化を見ることが出来ません。しかし、もうひとつ北側の崖地に挟まれた谷になっており、谷の末端(海側)はミャークヅヅが行われるムトゥが位置する場所なので、恐らく池間民族はこのわずかにひらけた谷に伊良部への第一歩を記したのだろうと妄想します(小字は確かに佐那浜)。
谷の北側にあたる崖地の上は、公園として整備されていますが隣接した海側に「んぬつにー(命根)御嶽」があります。この御獄は航海安全や豊漁祈願といった、津佐良浜の海の民が日常的な祈る場所で、生活に深く溶け込んでいます。
崖上にずらりと住宅が並び、宅地の裏手に接している一番北側は、かなり岩は削り取られていますが、今も崖地は露岩しています。その昔、子どもは学校へ早道として、崖の裂け目のような細道を上り下りしていたそうです。
いずれの場所も生活と隣り合わせで、崖の下には歩いてしか近づけない岩の迫る小径が残っており、佐良浜の街の険しい一面を体験することもできます。

【左:居酒屋「でんみ」の写真 中:豊島貞夫「佐良浜の三角屋根」(1969) 右:同、部分拡大】

そんな中、たまたま偶然に見つけたのが、字伊良部にある居酒屋「でんみ」の壁に掲げられていた、一枚の古い佐良浜写真。
今の佐良浜児童館のあたりでしょうか。白い岩肌がむき出しになっており、どうやら岩山が崩落しているようです。その様子を人々が遠巻きに見守っている様子が見えます。
気になって、写真の履歴をちょっと調べてみたら、どうやらこの写真は、上野は野原出身の写真家、豊島貞夫さんが撮った「佐良浜の三角屋根」というタイトルの作品(の一部分)ではないかと判明しました(キャプションには1969年とあり)。
 豊島貞夫写真展「風の島・宮古」①
 豊島貞夫写真展「風の島・宮古」②
 ※宮古島市総合博物館 豊島貞夫写真展「風の島・宮古-魂の原郷-」より

工事期間も年代的にもかなり近いことから、この崩落事件が起因して、急傾斜地崩壊防止事業が採択されたものと考えられます。さらにこの崩落事件を追いかけてみると、2016年11月25日~27日に伊良部公民館で行われた、沖縄県公文書館の移動展「公文書館所蔵資料にみる伊良部」で、『佐良浜傾斜地の「危険岩石」』と題して、特集されていたようで、崩落と事業の概要が見えてきました。
沖縄県公文書館 過去の展示会特集「伊良部島移動展」


【左:空から見た佐良浜(沖縄県公文書館) 右:参考資料 1959年にサムエルキタムラが撮影した佐良浜。崩落は不明(宮古島市総合博物館)】

崩落は1958年(昭和33)年3月(みやこの歴史より補足)に発生した大きな地震により、崖上の岩石が崩壊して2軒の家屋を破壊したというもの。さらに、1966年9月の第2宮古島台風(コラ台風)の豪雨によって、一部の地盤が緩み崩落の危険性が増大しており、周辺住民は日夜、恐怖にさらされているという情報を知り得ることが出来ました。
時間が許すなら新聞記事などを追いかけたいところですが、猶予がないので今回は飛ばしちゃいます。ごめんなさい、いずれ機会を見て再放送が出来たらいいな(てか、ここまで割り出すのにかなり時間を費やしてしまった)。


【上:沖縄県公文書館 佐良浜の急傾斜地のパノラマ 1963年 下:岩の調査位置(7群に分けられている)】

公文書館の記事によると、岩の箇所は4か所ではなく7か所あり、1967年9月16から20日まで、岩の危険性の調査がおこなわれています。
調査資料も公開されており、かなり細密な調査がなされたことが判ります。

【左:太田主席の視察(1963年) 右:ランパート弁務官の視察(1969年)】

また、公文書館の写真資料によると、1963年11月6日には、琉球政府の第3代行政主席(琉球政府のトップ)大田政作行が、1969年7月9日には、ランパート高等弁務官一行が佐良浜の崩落現場を視察しているようです(関連:第79回「弁務官道路」)。
ただ、ちょっとここで気になることに気づきました。当初、「でんみ」で見つけた豊島氏の写真は、岩の崩落現場の写真と思い込んでいましたが、事象と写真を時系列で並び直してみると。。。

1958年 地震により岩が崩落
1963年 大田主席が佐良浜を視察
1966年 第2宮古島台風(コラ台風)が襲来
1967年 岩石の危険性の調査
1969年 ランパート弁務官が佐良浜を視察
1972年 沖縄復帰
1976年 崩落防止工事が開始
1981年 工事が完了
1994年 完成記念の石碑を建立

後半はまとめの意味も含めて足しましたが、大田首席の視察時の写真では、崩落箇所の上にカヤヤー(茅葺の家)が建っています。。一方、ランパート弁務官の視察の時の写真にある、崩落はでんみの写真と同じ。キャプションの年号も1969年と合致した。となると、この崩落はコラ台風のもので(しかも弁務官の写真にはもう一か所崩れているところも見えている)。
これから推察するに、地震で岩が崩落したのは別の場所であると考えられます。ただし、それがどこなのかは未だ残念ながら判っていません(ご存知ならご教示下さい)。


やはり沖縄県公文書館の写真は、何度眺めても発見と驚きがあって面白いです。
最後は今回見つけた写真から。
ランバート弁務官が佐良浜(この時は、どうやら伊良部島内を巡っている)に視察に来た(写真番号的に付番が次なので)帰りなのか、崖の上に鈴なりになっている人々の写真があった。岩の感じと階段からして、サバオキと思われる。きっと弁務官(の船)見たさにやって来たのでしょう。ある意味、場所は違えどもフナウサギバナタの伝承が垣間見れた気がしました。

【付記】
崖崩を想定し訓練/佐良浜(宮古毎日新聞 2015年6月14日)

土砂災害計画区域 佐良浜、狩俣など9カ所指定(宮古新報 2018年8月28日)

急傾斜地崩壊危険箇所 (宮古島市役所) ※pdfの地図
佐良浜池間添佐那浜・前里添佐那浜  続きを読む


2018年10月19日

第6回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その4」



毎度おなじみ宮国です。
インターネットってほんとに便利ですね。今回は、まず目と耳でも楽しめる、大正から昭和初期をそのままお伝えします。なんと、当時の歌を当時の映像に乗せて、大工哲弘(だいく てつひろ)さんが歌っていらっしゃいます。どうぞ皆様、まずは、その雰囲気を味わいながらお読みいただければ幸いです。

さてさて、前回(第5回森比呂志の3)は、当時の作家や芸術家、漫画家などの雰囲気が薄っすらと味わえたと思います。

特に、凹天の高弟のひとり森比呂志(もり ひろし)が書き綴った、佐藤惣之助(さとう そうのすけ)やその周辺について、詳しく述べました。惣之助や凹天が生きた時代を書き上げた森比呂志は、ひとりの表現者として、とても見事だと思います。


【左から、下川凹天、室生犀星、佐藤惣之助】

前回の裏座は、その時代を裏話風に書きました。振り返ってみます。

青年の頃から、俳句を競い合って学び、互いに成長したはずの佐藤惣之助と室生犀星(むろお さいせい)。そこに、萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)も加わり、詩人として「三羽烏」と呼ばれるほど、傍からは良好な関係が生まれました。

しかし、萩原朔太郎が亡くなり、葬儀委員長を務めた佐藤惣之助も3日後に脳溢血で世を去ります。戦後、室生犀星は、自分の出会った詩人について評論を連載します。そこで、生まれも育ちも惣之助と真逆だったけれど、大の親友だった惣之助を偲ぶどころか、罵詈雑言を書き連ねるのです。
室生犀星から見ると、惣之助の死後の顛末が、あまりにも人でなしだったからのようです。それは惣之助の遺族から抗議がでるほどひどく、(連載記事が)初め本になった時には、惣之助の部分だけは削除されました。未だ、文庫本には載っていません。確かに、げに、怖ろしき文章です…。

しかし、ここは、また裏の裏があると前回書きました。その時代の立役者は、室生犀星、萩原朔太郎、高村光太郎(たかむら こうたろう)ばかりでなく、三好達治(みよし たつじ)、森茉莉(もり まり)、太宰治(だざい おさむ)、宇野千代(うの ちよ)、小林秀雄(こばやし ひでお)、辻潤(つじ じゅん)、山之口貘(やまのぐち ばく)、大杉栄(おおすぎ さかえ)、中野重治(なかの しげはる)、中原中也(なかはら ちゅうや)と有名な人ばかり。

そのうえに、漫画家の那須良輔(なす りょうすけ)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、佐野佐世男(さの させお)、果てはわれらが凹天などなど、詩人から、文学者、活動家、漫画家までさまざまな人間模様と感性の響き合いが絡みます。
その人間関係が裏の裏なのです。
【三好達治と周子】
判りやすい例のひとつが、佐藤惣之助と妻・周子(ちかこ。本名・愛子もしくはアイ)、三好達治との後日譚(ごじつたん)です。これは、室生犀星が罵詈雑言を書いたこととも、関係しているとも言えるでしょう。

前回述べましたが、朔太郎の妹周子は、惣之助が亡くなった後、三好達治と再婚します。達治は妻も子も捨て、初恋の相手だった朔太郎の妹周子と福井県に居をかまえましたが、1年ももたなかったそうです。

彼女にとって、4回目の結婚でした。達治との顛末は、朔太郎の娘である作家の萩原葉子(はぎわら ようこ)が『天上の花 三好達治抄』(1996年)として作品にしています。
ちなみに、この萩原葉子と、森鴎外(もり おうがい)の娘の森茉莉(もり まり)とは、後年とても仲良しだったようです。きっと可愛らしいおばあさん同士だったに違いありません。「天上の花」には、文学者同士の付き合いが色々書かれてあって興味深いです。

さて、周子ですが、贅沢をさせてくれた惣之助の後は、貧しき詩人で元婚約者の達治を選ぶあたり、トチ狂い感もありますが、それはそれで、その時代の最先端な生き方であったのではないかと思います。周子は、定職のなかった達治が立派な文学者になっていたことで、さらに自分に尽くしてくれるだろうという算段があったようです。

惣之助が亡くなって、周子が未亡人になった頃、達治は佐藤春夫(さとう はるお)の姪である智恵子と結婚していました。一男一女がいたようです。達治は、周子の実家に通いつめ愛を告白します。ですが、周子に「あなた結婚しているじゃないの」と言われ、その日のうちに離縁のため家に戻りました。
佐藤春夫も激怒りだし、住む場所も捨ててきたし、達二は周子にともに逃避行するように説得します。
【三好達治 「花筐」】
贅沢でお嬢さま育ちの周子と一本気な達治は、福井の三国で暮らしましたが、ドメスティック・バイオレンスで幕を閉じました。その時、周子が交番に駆け込んだことをきっかけにして、周りの人を存分に巻き込みながら、その生活は崩壊しました。わずか10か月の結婚生活でした。当時、達治は周子への恋心を描いた詩集、『花筺(はながたみ)』(青磁社、1944年)も刊行しています。

周子は達治からの再三の求婚に応じました。朔太郎はもちろん、自分の家族と仲良くしていたからだと思われます。ところが最後は、髪の毛を引きずり回され、血まみれになるほどの暴力を受けるのです。萩原葉子の『天上の花 三好達治抄』にはそう書かれていまます。

「言い終わらないうちに、私は三好に髪の毛を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。そして荷物のように足蹴にされたり、踏まれたりした。後頭部の疵口と目から血が吹き出ても、まだ打ち続けられた。気違いになったのだろうか。私は三好にこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。そして血まみれになった雪の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。雪の上に真っ赤な血痕がぽたぽた落ちるのが夜目にも見えたところまで、記憶していた」。

なぜ、そこまでふたりというか、達治の愛は激しかったのでしょうか。 また、周子は何を達治に言い、追い詰めたのでしょうか?。

その理由は、17年ほど前にさかのぼります。実は、周子と達治は、1928年に婚約していたのです。ですが、貧乏詩人で帝大を卒業したばかりで定職なしの達治は、萩原家に破談させられてしまいます。達治が就職したところまでは良かったのですが、その出版社が倒産し、失職したことを朔太郎の母から疎まれたからのようです。

17年後、若き日の恋を実らせた達治ですから、周子への異常ともいえる愛情は、達治自身が後年まで独身を貫き通し、周子と別れた後も萩原家とつながりをもっていたことからもうかがえます。達治の死後の荷物の中には、周子の襦袢の片袖が入っていたそうです。
ところで、周子と達治が婚約していた頃、われらが凹天はどうだったのでしょうか?。

ある意味、働き盛りでもありました。しかし、病身のためか、讀賣新聞から始まって、中央新聞、東京毎夕新聞、新愛知新聞嘱託、漫画雑誌などを渡り歩き、きちんとした仕事もできずにいました。

その暮らしは厳しく、転々とする凹天を見かねた川端龍子(かわばた りゅうし)が、お金を貸してくれたりしたこともあったようです。最初の妻・たま子は借りたお金を見て、有難さのあまり涙を流しました。

【北原白秋】
さて、達治と周子が破談になった原因となった出版社は、北原白秋(きたはら はくしゅう)の弟が経営するアルス社でした。北原白秋は、すでに惣之助の亡くなる数か月前に故人になっていたのですが、惣之助の追悼集の巻頭を飾るほど、当時の詩壇の大御所でした。なお、アルス社は惣之助の第2詩集『颱風(たいふう)の眼』(1923年)を出版しています。これも奇縁としか思えません。
そして、達治と周子が離別した頃、凹天は、太平洋戦争前の1940年に結婚した2番目の妻・なみをと生活をしていました。当時、53歳。達治は、45歳。周子は40歳くらいだったようです。
 こんにちは。『19の春』を繰り返し聴きつつ、じっと一番座から離れぬ「漢」(おとこ)片岡慎泰です。
【「19の春」 砂川恵理歌】

 つい、佐藤惣之助と彼をめぐる同時代人に力が入り過ぎてしまったようで。というのも、森比呂志が、後に凹天の高弟といわれるような漫画家への途(みち)を開いたのが、佐藤惣之助。そして、惣之助が常人では測れないスケールの人物。

 ここが肝心なのですが、凹天もそんじょそこらの物差しで測れる人物ではないのです。ふたりに縁をもった森比呂志を語るのは、凹天と惣之助が、現在調べるかぎり直接の知己でないとしても、時代背景を知る上で、とても大切なことなのです。

 佐藤惣之助は、「沖縄学の父」伊波普猷(いは ふゆう)の南島に関する著作を手に入れ、南島への関心を深めたようです。この時代は、第一次世界大戦(1914年~1918年)でヨーロッパが戦場になっているうちに、大日本国帝國がドイツ第二帝国の南方植民地領を手に入れた時代でした。
 日本国中が、南方への関心で沸き立っていた時代といっていいでしょう。

 1922年、佐藤惣之助は「漂流覚悟」で、鹿児島港から太平丸(ドイツから奪った船です)に乗りこみます。惣之助が伊波普猷の甥っ子を頼って、無事、沖縄の旅をした前後には、第4回に裏座で出てきた古代学の折口信夫(おりぐち しのぶ)、そして染織家の鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう)や建築家の伊東忠太(いとう ちゅうた)を始めとして続々と沖縄を訪れます。

 鎌倉芳太郎には、初めて当時の宮古の女性の手の甲を彩っていたピーツキ(沖縄本島ではハジチ)を写真に記録します。その数年後には慶世村恒任(きよむら こうにん)の名著『宮古史傅』(1927年)が誕生したのでした。
「宮古史傅」の歴代3バージョン(左) 「南島針突紀行」(中上) 文中にある、裏座担当の宮国優子の曾祖母のピーツキ(中下) 宮古群島の針突文様(右)】

 このような時代背景のなかで、佐藤惣之助は南島に旅行します。かれの目的はふたつありました。ひとつは南島に旅行して、海についての詩を書きたいということ。1922年1月4日付『讀賣新聞』には、「海の村にて」という題の詩を発表しています。その詩の内容からすると、前々からあった南島へのあこがれをなんとか詩で表現したいという気持ちをもっていたようです。また、趣味の釣りを南海でしたいということも付言してもいいかもしれません。

 もうひとつは、当時、先島諸島に唯一あった石垣島の気象台にいた岩崎卓爾(いわさき たくじ)に会おうと思ったからです。1922年8月7日付『讀賣新聞』には、「颶風(たいふう)の眼」いう題の記事が掲載されます。そこからうかがえるのは、岩崎卓爾が、先島諸島に関する気象、地理、謡曲など、まさに博覧強記ともいえる生ける事典そのもの。そのふたりの情報交換は、佐藤惣之助の詩集『琉球諸嶋風物詩集』(東京書肆京文社、1922年)、『颱風(たいふう)の眼』(東京書肆アルス社、1923年)として結実。

 さすが、多趣味な惣之助。

【初版本『颱風の眼』国会図書館デジタルコレクションより】

 さて、その頃、川崎にいた森比呂志は、『キング』に投稿が載ったり、報知新聞夕刊で麻生豊が描いた『ノンキナトウサン』の切抜きを集めていましたが、漫画家という職業があることを知りませんでした。
 時代は移り、関東大地震(1923年)、そしてその影響から起こった昭和金融恐慌(1927年)と、大変な時代を日本は迎えますが、川崎市の中心街にも小美屋デパートができ、近代化の波が押し寄せてきます。『川崎新聞』が創刊されると、森比呂志は、新聞配達を始めました。その販売店近くにマキノプロダクションの直営店があり、無料で映画を観ることができたからです。1927年、川崎小学校高等科を終えると、本格的に石工修業に。一方、東京三田にあった慶應義塾商業高等学校にも、母の命令で通うことになりました。石工の仕事は、1930年頃からさっぱり取引がなくなり、「森工務店」の職人さんは羽田のコンクリート工場に。

 森比呂志も、多摩川の六郷橋を渡ったところにある製菓工場に。それには、通学の途中で読んだ佐多稲子(さた いねこ)『キャラメル工場(こうば)から』(1928年)からの影響も大きいようです。そして、石工の仕事を決定的に斜陽にしたのは、石材の販路がすべてコンクリートに代替されてしまったからです。ラジオ放送で寄席は衰退し、下駄の歯入れ屋や女髪結いの仕事も消えていきました。

【現在の六郷橋写真】

 石工の仕事も石碑一本に限られてしまいます。ある日、東京側の等々力で父と仕事をしている時のことでした。仕事を一休みしてゴールデンバットを吸ったら、父が「この野郎、タバコを吸ってやがるのか」「ああ吸ってるよ、もう夜学はやめたし、することもねえから」と職人同士のたわいのない話をしていたら、縁台に報知新聞がありました。なにげなく読むと、漫画の懸賞をしている社告が。なんと600円。四コマ漫画60回分。当時、大卒初任給が73円ですから、その金額は法外なものといっていいでしょう。森比呂志は10日で書き上げると、書留郵便で報知新聞に。首尾よく採用された作品は、1932年1月から2か月にわたり連載されます。題名は「サラさん」。

 森家は、一人息子の比呂志が、漫画家になるか石工になるか悩みます。母は漫画家、父は石工が将来の希望でした。

 縁は奇なるもの。そこに佐藤惣之助から、手紙が届きます。東横線の花火大会の宣伝パンフレットの編集を東急から委嘱されていた佐藤惣之助が、漫画を3枚3円で書いてくれとのこと。毎晩たむろしていた喫茶店で知りあった青年詩人の詩集の巻頭を見て、この似顔絵は「これはよく似ている。君の特徴をよく掴んでいる。どういう男か。一度連れてこないか」と語ったとのこと。佐藤惣之助は、出会うなり森比呂志にこう述べました。「君は文学青年だそうだが、漫画は玄人の腕だ。漫画家になりたまえ」。家に帰ると、母はにっこり。

 昭和金融恐慌の時代は、エロ・グロ・ナンセンスの時代でもあります。漫画がポンチ絵と呼ばれていた頃からの大御所・北澤楽天(きたざわ らくてん)、東京美術学校出のエリートであった岡本一平(おかもと いっぺい)は、この流れについていけませんでした。唯一、この流れにも平気の平左だったのが、われらが凹天。当時、凹天は病身を押して『東京毎夕新聞』日曜日版で漫画ページを主幹したり、『ユウモア』や『漫画』の創刊に携わったり。凹天の風刺エロマンガ「熊とモダンガール」は、治安維持法(1925年成立)下で、名誉ある発禁第一号をくらうのですが、凹天はそれにめげもせず、諷刺漫画やエロマンガを描き続けます。というのも、それが逆に次号の部数を伸ばすことなったからです。『東京毎夕新聞』の漫画ページは、凹天の作品以外は投稿作品で作られていました。これに森比呂志は投稿。『東京毎夕新聞』に投稿した「二人寝」は、大きく取り上げられました。

 1932年7月から、森比呂志は、北澤楽天が始めた白金台の自宅にあったクロッキー教室で腕を磨きます。この教室に集まったのが、長崎抜天(ながさき ばってん)、小川武(おがわ たけし)、田中比佐良(たなか ひさら)など。

【左:明治時代 右:現在 ピンクの塗りが北澤楽天の自宅住所(芝区白金台三光町二六三番地)のあったエリア。現在の港区白金台4~5丁目】

 もちろん、敬愛する凹天の主催する例会にも参加しました。「慧星会」(すいせいかい)という名の会は、番頭格が山口豊専(やまぐち ほうせん)で、石川進介(いしかわ しんすけ)、益子しでおこと益子善六(ますこ ぜんろく)、黒沢はじめ(くろさわ はじめ)、村山しげる(むらやま しげる)、石川義夫(いしかわ よしお)こと利根義雄(とね よしお)など。

 この時代に、若き森比呂志は、ようやく天職を見つけたといっていいでしょう。森比呂志の育ての親が下川凹天だとすれば、生みの親が佐藤惣之助なのです。

 一番座からは以上です。
さてさて、裏座から再登場の宮国です。

この時代における表現者の人間関係には、戦前のモダンボーイ・モダンガールからエロ・グロ・ナンセンスをへてマルクスボーイ・エンゲルスガールをみずから体現したような前衛性を感じさせます。

凹天は、この時代をさまざまなメディアに描き続けました。

それにしても、この時代の人・・・パない。いぎゃん(仰天、圧倒されること)してます。おかげで、ついつい裏の裏を続けてしまいます。

萩原朔太郎の妻・稲子は宇野千代(うの ちよ)とダンス仲間でした。宇野千代は、夫がありながら尾﨑士郎(おざき しろう)と同棲し、その後、結婚。しかし、梶井基次郎(かじい もとじろう)とニアミスしながら、尾﨑士郎を置き去りにし、東郷青児(とうごう せいじ)と暮らしたり。その後、当の稲子も、18歳の画学生と恋に堕ち、萩原家から追い出されます。実は、その付き合いは朔太郎のすすめがあり、追い出すのは萩原家の画策だったのではないかとすらいわれています。

その画学生と萩原稲子はカフェを経営します。そこに集っていたのが太宰治(だざい おさむ)、林芙美子(はやし ふみこ)ら。めくるめく恋愛醜聞は世間にダダ漏れだった時代でした。文春砲も真っ青です。

【甘粕事件で殺された、大杉栄と伊藤野枝】
また、その少し前には、大逆事件として知られていますが、1910年には幸徳秋水(こうとく しゅうすい)らが殺され、1923年には関東大震災のどさくさに紛れ、伊藤野枝(いとう のえ)は、憲兵らに殺されて、井戸に放り投げられます。この甘粕事件は、代表的な戒厳令下の不当な弾圧事件でした。

その夫で、ともに殺された大杉栄(おおすぎ さかえ)は、宮澤賢治(みやざわ けんじ)とつながりがあり、伊藤野枝の前夫である辻潤(つじ じゅん)のダダイズム思想に山之口貘(やまのぐち ばく)は傾倒していました。

辻潤と佐藤惣之助は、宮沢賢治を初めて評価したふたりです。そして「反戦詩人」と呼ばれる金子光晴(かねこ みつはる)は、山之口貘を詩壇に引き上げました。

面白いことに、金子光晴は、惣之助のことをボロクソに書いています。惣之助は戦争加担者の詩人としても、有名作詞家としても活躍したからではないかと思われます。実は、金子光晴は戦争加担したけれど、戦後「反戦詩人」として持ち上げられました。何か複雑な詩人の心境があったのかもしれません。

詩人だけでなく作家、漫画家は、自己実現、恋愛、芸術、飯のタネ(戦争加担)、どれをとるか、引き裂かれた時代だったようです。加えて、当時の人間関係は魑魅魍魎(ちみもうりょう)。その世界は、いろんな表現者が入り乱れて、狭いんだか広いんだかさっぱりわからない様相でした。

うばいがうばい(大変さ、面倒くささを表す感嘆詞)。圧倒されまくっております、はい。
-つづく- 


大工哲弘(だいく てつひろ) 1948年~
沖縄県石垣市新川出身の八重山民謡の唄者(歌手)。八重山民謡を基本にしながら世界のさまざまな音楽要素を取り入れて奥行きのある音楽世界を作り出し、海外公演歴も数多い。http://www.daiku-tetsuhiro.com/

森比呂志(もり ひろし) 1910年~1999年
1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれ。詳しくは、第3回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」

佐藤惣之助(さとう そうのすけ) 1890年~1942年
詩人。現在の川崎市川崎区生まれ。詳しくは第4回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その2」を参照。

室生犀星(むろお さいせい) 1889年~1962年
詩人、小説家。金沢市生れ。本名は照道。生後まもなく貰い子に出され、高等小学校を中退して金沢地方裁判所に給仕として勤めるうちに、上司らに俳句を指導され、やがて詩人を志す。退職して上京・帰郷を繰り返すが『青き魚を釣る人』(1912年)あたりから初期抒情詩の花が開く。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる「小景異情」(1913年)などが続々発表され、後に『抒情小曲集』(1918年)にまとめられた。この間、同じく無名であった萩原朔太郎と親交を結び、詩誌『感情』(1916年~1919年)を刊行するなど、互いに影響を受けあいながら、近代詩の完成に大きな役割を果たした。

荻原朔太郎(はぎわら さくたろう) 1886年~1942年
詩人。現在の前橋市生まれ。幼少時代は、神経質で病弱な子で孤独を好み、学校ではひとり除け者にされていたという。1900年、旧制県立前橋中学校に入学し、従兄弟の萩原栄次に短歌の手ほどきをうける。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。1903年には、與謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首が掲載され、「新詩社」の同人となる。主な詩集には、『月に吠える』、『蝶を夢む』、『青猫』、『純情小曲集』、『氷島』、『定本青猫』、『宿命』などがある。「日本近代詩の父」と称される。

宇野千代(うの ちよ) 1897年~1996年
小説家、随筆家。編集者、着物デザイナー、実業家でもあった。山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)生まれ。著名人との交流と恋愛が世間を騒がせるとともに、常に前向きで自由闊達な作風で多数執筆を行った。代表作『色ざんげ』、『おはん』、『生きて行く私』など。日本芸術院賞、菊池寛賞などを受賞し、文化功労者にも選出された。

三好達治(みよし たつじ) 1900年?1964年
詩人、翻訳家、文芸評論家。大阪市西区西横堀町生まれ。中学は、俳句に没頭し『ホトトギス』を購読。第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)では、ニーチェやツルゲーネフを耽読し、詩作を始める。代表作は、『測量船』『駱駝の瘤にまたがつて』など。

萩原葉子(はぎわら ようこ) 1920年~2005年
小説家、エッセイスト。萩原朔太郎と最初の妻、稲子(旧姓上田)との長女として東京本郷生まれる。1959年にデビューし、その頃の顛末を『天上の花――三好達治抄』(1966年)で発表。その三好達治とアイの物語は、新潮社文学賞と田村俊子賞を受けた。

山之口貘(やまのくち ばく) 1903年~1963年
沖縄県那覇市出身の詩人。本名は山口重三郎。薩摩国口之島から琉球王国へ帰化人の子孫。その業績を記念して、山之口貘賞が創設される。尚、名前の表記は、ケモノ偏の獏ではなく、ムジナ偏の貘である。

川端龍子(かわばた りゅうし) 1885年~1966年
戦前の日本画家、俳人。和歌山県和歌山市生まれ、10歳で家族とともに上京。読売新聞社の『明治三十年画史』の一般募集で入選し、画家のスタート。1913年に渡米し、西洋画を学ぶが、ボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。大作主義で、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在。大田区にある龍子記念館では、アトリエと旧宅庭園も公開されている。

北原白秋(きたはら はくしゅう) 1885年~1942年
詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ。商家の息子で、『明星』などを濫読(らんどく)し、文学に熱中。父の反対があったため家出し、早稲田大学英文科予科に入学し、新進詩人として活動し、文壇での交流を深める。稀に見る多作さと同時に、発禁処分、姦通罪、国粋主義者と、ドラマティックな一生を送った。

砂川恵理歌(すなかわ えりか) 1977年~
歌手。沖縄県宮古島市出身。デビュー前は老人福祉施設にて介護リハビリ助手として働くかたわら、沖縄県内のCMソングを担当するなど、デビュー前から有名であった。2009年に発表したシングル「一粒の種」が話題となり、注目を浴びる。ある末期がん患者の言葉を宮古島の人々がリレーして生んだ実話が歌声と合わさって、深い感動を呼び起こした。http://sunakawaerika.net/

伊波普猷(いは ふゆう) 1876年~1847年
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者。言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に亘る学問体系の研究により、「沖縄学」が発展したことから、「沖縄学の父」とも称される。

折口信夫(おりくち しのぶ) 1887年~1963年
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった。柳田國男と出逢い、沖縄を旅したことから、沖縄に古(いにしえ)の日本文化の面影を見出し、古代研究に系統する。詩人・歌人としては、釈超空の名で知られる。

鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう) 1898年~1983年
染織家、沖縄文化研究者。重要無形文化財「型絵染」の人間国宝。紅型技術の継承者。第二次世界大戦の前に、沖縄のフィールドワークを精力的に行い、現在も多くの資料が残っており、沖縄戦により打撃を受けた沖縄文化の保存と伝承に貢献した。

慶世村恒任(きよむら こうにん) 1891年~1929年
大正-昭和時代前期の宮古の郷土史家。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる「宮古史伝」を刊行した。詳しくは、第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」

岩崎卓爾(いわさき たくじ) 1869年~1937年
気象観測技術者。石垣島測候所の2代目所長を勤めるかたわら、八重山の生物や民俗、歴史、歌謡の研究を行う。日本最小の蝉、イワサキクサゼミの命名者。

佐多稲子(さた いねこ) 1904年~1998年
小説家。長崎市生まれ。自身の少女時代の経験を描いた『キャラメル工場から』で、プロレタリア文学の新しい作家としてデビューする。創作活動と文化普及の運動など、その紆余曲折(うよきょくせつ)を作品にし、終生、社会的な発言も続けた。女流文学賞、野間文芸賞、川端康成文学賞、毎日芸術賞、読売文学賞など受賞も多数。

北澤楽天(きたざわ らくてん) 1876年~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田区駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。
近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)を創刊。キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。後進を育て、後年住んでいた大宮市の「楽天居」を大宮市に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。

岡本一平(おかもと いっぺい) 1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。

宮澤賢治(みやざわ けんじ) 1896年~1933年
詩人、童話作家。岩手県花巻市出身。生前は無名であったが、辻潤、草野心平に発掘され、世の中に知られるようになった。貧困に苦しむ農民に稲作指導をしながら、創作が行われた。代表作は『春と修羅』、「銀河鉄道の夜」、「雨ニモマケズ」など。

辻潤(つじ じゅん) 1884年~1944年
翻訳家、思想家。ダダイスムの中心的人物の一人。東京市浅草区向柳原町(現台東区浅草橋)生まれ。宮沢賢治の詩集『春と修羅』を取り上げて高く評価した。晩年は放浪の生活を送る。

金子光晴(かねこ みつはる) 1895年~1975年
詩人。本名は保和(やすかず)。現在の愛知県津島市生まれ。早大・慶大・東京美術学校いずれも中退。1919年から2年間、ヨーロッパへ留学。帰国後、1923年、詩集『こがね虫』で詩壇に登場。1928年、妻とともに日本脱出、5年間の放浪を経て帰国。旅の中で得た「世界人」的な眼をもって日本の文明と社会を相対化する詩集『鮫』(1937年)は、当時の軍国主義への抵抗詩として注目された。『人間の悲劇』、『非情』などの詩集、自伝小説『どくろ杯』がある。戦後は、日本近代化路線について批判的に論じた。


【2019/10/09 現在】
  


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2018年10月16日

第205回「神社改築紀祀念碑(嘉手苅)」



今回ご紹介する石碑は下地は嘉手苅の神社改築紀祀念碑というものです。はて、嘉手苅に神社なんてあったっけ?といいたげなところから始まります。まあ、周辺のネタをつまみ食いしながら、やや行き当たりばったりでお届けしてみたいと思います。さて、はて…。

立派な石碑にはどーんっと、「神社改築紀祀念碑」と大書きされています。それもなんと大正九年九月と。西暦に換算すると1920年ですから、かれこれ100年近い昔のモノになります。もうこの石碑そのものを文化財に指定して欲しいくらいです。戯れ言はともかく、石碑には神社とされていますが、こちら、嘉手苅の集落の南方に位置する大御獄(ウプうたき)に建てられている石碑です。
これまで御獄の神社化については、何度かここでも取り上げていますので割愛させていただきますが、大正時代から戦前にかけてという時代は、御獄に鳥居を建てたり、社殿を設けたりと、神道が呑みこもうとする時代でした。特に名前の通った大きな御獄ほど、神社化の魔の手にかかって鳥居や社殿の建設がされたようには感じました。
そんな御獄不遇の時代にあって、この嘉手苅の大御獄は他とは少し違う状況にあったようです。というのも、石碑に神社改修と銘打っておきながら、この御獄には鳥居や社殿は一切なく、よくある中規模な御獄と同じように小さな祠と拝所(小屋)があるだけで、まったく神社の趣きがみられないのです。

【左 斜面に鎮座する大御獄の祠】 【右 御獄の斜面から南方を望む】

もうひとつ面白いのは、この大御獄がある地形的なもの。少し広範囲に見てゆくと、嘉手苅集落は旧下地町の東端に位置し、旧上野村字上野(かつては同じ下地村字嘉手苅だったが、旧上野村の分村に伴って嘉手苅東部は新たに字上野として独立した)との境界となる、ウエノミネ~アガリミネ高地の南斜面に広がる集落で、そのまま緩く入江湾に向かって起伏の少ない平地が続いています、この大御獄はそんな集落の南外れにぽつんと島のようにある小山の麓にあるのです。
写真をよく見ると石碑よりも祠の位置がかなり高いことが見て取れるのではないでしようか。御獄には屋根つきのコンクリート製の拝所(籠り小屋)や、井戸もあったりと“ウプ”と称されるだけの設備があり、ある意味ではこの改修で派手に神社化されなかったのが不思議なくらいです。だからとって資金不足だったとは思えません。石碑の裏には「石碑奉納者」として37名の名前が刻まれているのですから。

折角なので、少し嘉手苅周辺の話もしておきましょう。当たり前のことなのですが、大御獄以外にも嘉手苅集落周辺には御獄が点在しています。地図の緑の丸印がすべて御獄で、それぞれ①大御獄、②中御獄、③龍宮御獄、④ミズドゥ御獄、⑤ンマウビャウ御獄、⑨西の御獄、⑩上の嶺御獄、⑪里主前ぬ御獄となっています。
③の龍宮御嶽は「下地町伝説遺構(下地町教育委員会 2004年)」によると、大昔、嘉手苅が大津波に襲われた時、この龍宮御獄のある場所で津波が方角を変え、集落は守られたことから津波除けの神様として祀られた記されています。地形的にも確かに南の入江湾側から津波が嘉手苅の集落に向かって遡上して迫って来たら、津波の勢いにもよると思いますが、それはまさに恐怖でしかないでしょう(眺望よく目の前に広がっているほどなので)。それが方向を急に変えて逸れて助かったということになったら、やはり拝んでしまいますよね。
ただ、これ。神通力的なものではありません。実はこのあたりに入江湾と与那覇湾を分ける、宮古でおそらく1~2を争う低さの分水嶺があるのです。だから、丘を登りきれなかった津波が向きを変えて、与那覇湾の方へと流れて行ったのでした。

【左 ④ミズドゥ御獄。繁茂していて祠が見えない】 【右 ⑬名称不明の井戸と拝所】


水にまつわる御獄としては、④のミズドゥ御獄もなかなか興味深いです。嘉手苅は集落の南方は背後地の高地から滲み出す湧水(ズクやバダ)が多く、古くから繰り返し治水が行われていた地域でもあります。この御獄は周囲より若干低い位置に祠があるのですが、だいたいいつも水没しているなかなか類を見ない面白い御獄なのです(治水の進んだ現在は水没率はやや低めとなってしまった)。
また、オレンジの丸印は畑の中に小さな集石と湯飲みなどが残されており、どうやら定期的に誰かがなにかを拝んでいる痕跡がありました。よくよく見てみると西方の畑の向こう側に、下地神社(ツヌジ御獄)の森が見えているのです。これはもう明らかにツヌジ御獄の遥拝していることが見て取れて、非常に面白く思いました(御獄というよりは遥拝所)。
そのオレンジの丸印の両サイドにある青い丸印(⑥⑧⑬)は掘り抜きの古井戸で、⑥の井戸はンミャーガーという名前が判明しています。前述したようにこのあたりは水の湧く場所であり、井戸のあるあたりから国道を越えると、そこには崎田川へと続く水路があるので崎田川の水源はこのあたりとも考えられます(もう少し西の川満と上地の字境にある宮星山(ンナフス)は下地町時代に水源地として整備され、その後、水質の問題もあって水道企業団入りして野原から水をもらうようになり、現在は中継タンクがあるだけですが、この丘の直下に枯れることのない湧水があり、親水公園としても整備されており、こちらが崎田川の水源とされていますが、河川延長は嘉手苅川の方が長くなります)。
また、⑬は集落外れの畑地にある井戸で、井戸の隣りには拝所があり、平良市史の御獄編にも掲載されているのでいすが、なんと「名称不明」という名前なのです。どうも、かつてあった家の井戸だったらしく、その家の縁者が時折拝んでいるらしいというだけで、詳細が判らないといういわくのある井戸(御獄編の発刊が1994)。

【左 ⑦ツヌジ御嶽の遥拝所】 【中 ⑥古井戸、ンミャーガー】 【右 ⑧名称不明の畑の中の井戸】

嘉手苅と水に関連してもうひとつ。これはホントについ最近、知ったばかりなのですが、嘉手苅集落のさらに南方。だいぶ入江湾に近いあたりに、嘉手苅洞泉という洞穴の中に水の湧く場所があります。洞泉はそれほど大きくありませんが、パイプが洞奥へと設置されており、近年まで農業用水として取水されていたようですが、今は使われていないようです。洞穴の斜面を少し降りて穴を覗いてみると、透き通った水が満ちており、嘉手苅周辺がとても水に縁のある土地であることを感じさせてくれました。

【嘉手苅洞泉】

最後は、水とはなんら関係はないけれど、大御獄の隠された秘密を妄想に乗せて締めたいと思います。
大御獄は集落南側の小山にあると書きましたが、この御獄のある小山の麓には、なんと小型の壕がいくつも確認されているのです。崩れて埋まっているところや、墓として二次使用されていると思われる場所もありますが、小山を取り囲むように壕があることから、大御獄は陣地として利用されていたと考えられます(御獄には井戸もあるので、兵が生息する環境にも適している)。しかも、小山の頂上付近には半ばつぶれていますが、円形の石組のようなものもあり、監視陣地か銃座ではないかと考えられます。
しかも、嘉手苅集落の背後地はウエノミネ御獄からイリノソコにかけて、大型の対空陣地があり、大御獄の小山はその前線基地のような位置になるからです。

【大御獄の小山に開いている壕郡の一部】

おそらく南方の入江湾方向から敵が上陸して来ると想定され、水際作戦(沿岸部に銃座や障害物などを構築している)に次ぐ、二次防衛線のそのまた前線基地のひとつなのではないかと、勝手に戦略的な想像をしてみます。大御獄の南方一帯はほぼ平地で、上陸した敵が進軍がして来るラインのひとつと考えられます。集落背後のイリノソコ陣地の後方は、陸軍中飛行場戦闘指揮所を含むナベヤマバラの陣地があり、さらには千代田カギモリ原の陣地(旧千代田CC)やヲナトゥの陣地(推定)などが広がる野原・千代田・豊原。その最奥の野原には、宮古島の軍の中枢となる野原岳司令部があります。
幸いなことに宮古島は空襲と艦砲射撃ばかりで、上陸戦は行われることはありませんでしたが、仮に宮古島上陸作戦が敢行されていたとしたら、この大御獄周辺はおそらく最前線のひとつとして、激戦地となっていたのではないかと妄想します。そのくらい戦略的な位置にある御獄だったのではないかと、現在までに判明している戦時中の痕跡や資料から、誇大妄想してみました。  続きを読む


2018年10月14日

第11話 「虹色の魚」



夢を見た。
サバニの船底は、虹色の魚でいっぱいだった。
大漁だ。

いつかの、虹色の魚。

友人に、八丈で釣ったばかりだというアカハタをもらった。
お宅まで取りに行くと、縁側に出された大きなクーラーボックス。
宝箱のように蓋を開けると、揺れる海水の中に赤とオレンジのヒレを広げて、綺麗な魚があった。
それを手で掴んでビニール袋に入れた。

新鮮な魚が2匹。
ビニールの口を閉めないで、そのまま車に乗せて、
運転していたら、ふと、海の匂いがした。

いつだったか、小さかった息子が、後部座席で、魚を詰めたビニール袋と一緒に座って、
「いいにおい…!」
と言ったのを思い出した。

あれは10年くらい前。
私は宮古島の狩俣という集落に住んでいて、車で、西の浜に向かっていた。
漁港に魚が揚がったと、防災無線で放送が流れたからだ。

息子はまだ4、5歳で、私も魚を捌(さば)けなかった。
けれども、なんの気なしに、漁港へ行ってみたい気持ちになったのだ、その時。

着いてみると、白いビニール袋に、ぎゅうぎゅうに、いろんな魚が一緒くたに入っていて、一袋いくらだったかな。。。

息子と2人だから、1匹でいいんだけれど・・・。
と行っても、とにかく魚をはけたいのか、袋売りだという。
値段は激安だ。
ひと袋で1匹くらいの値段。

じゃあ仕方がない、と。
なるべく少ない袋を探そうとして、いちばん端にあった袋を覗いて見た。

驚いた。

夢で見た、虹色の魚がいる。。

不思議だった。。。
けれども、
漁港に誘われて来た理由がわかった気がした。

虹色の魚がいます。
宮古島には。

漁港からの帰り道。
「いいにおい!」と、息子はうれしそうだった。

自分が子供の頃、東京下町の魚屋は、生臭い匂いと、血を洗う床の水は流しっぱなしだ。
魚の見た目も私には怖くて、よくおばあちゃんに連れられて買い物に行ったけれど、魚屋だけは苦手だった。
でもなぁ。。
私も、息子くらいの時に、新鮮な、ほんとに海から揚がったばかりの魚に触れていたら。
きっと、絶対、魚が好きだったと思う。

今は魚を、釣るのはそれほど興味はないけれど、捌いて美味しく料理するのは大好きだ。
八丈島に来てから、出刃包丁と柳包丁を揃え、初めて自分で魚を捌くことに挑戦した。
まだまだ下手で、時間もかかるのだけれど。。。

海の魚。

当たり前だけれど、魚は海にいるんだ、ってことを実感できるのだ。

宮古島で、西の浜から帰る道。
子供の無垢な言葉に、車に満たされる海の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、今晩のおかずを手に入れたんだっていう、満足感。
しあわせだな、って感じたことを、思い出した。

八丈島のアカハタは、ぷっくりとして、釣った本人は、こんなの小さいよーと言っていたけれど、30センチ以上はあるかな。

刺身と、マース煮。それとマース煮の後、みそ汁でいただきました。
ついでにいただいたカツオの刺身も、新鮮で美味しかった。
息子は魚を本当によく食べる。
それは魚が美味しいから。
ほんとにしあわせなことだ、と。

感謝しています。  続きを読む


2018年10月12日

金曜特集 「島の本棚-2018-」特番



新旧さまざまな島の本を紹介している「島の本棚」。今週は特番の総集編です。
2015年10月から月イチでスタートた「島の本棚」では、先月までに36冊の本を取り上げてきました。2017年には特番として、それまでの17冊を振り返りましたので、今回はその2018年版として18冊目から36冊目までを総ざらいしてみたいと思います。

18冊目 「太陽の棘」
19冊目 「水の盛装」
20冊目 「読めば宮古」 しづく

21冊目 「ぼくの沖縄〈復帰後〉史」 阿部ナナメ
22冊目 「狂うひと」
23冊目 「キジムナーkids」
24冊目 「楽園の花嫁 宮古・来間島に渡った日々」 上地幸子
25冊目 「青青の時代」

26冊目 「ウプシ 大神島生活誌」
27冊目 「テンペスト」
28冊目 「ヒストリア」
29冊目 【特別編】第1回宮古島文学賞
30冊目 「あの瞬間ぼくは振り子の季節に入った」 宮国優子

31冊目 「平良市史第9巻 資料編7(御嶽編)」 モリヤダイスケ
32冊目 「沖縄の水中文化遺産―青い海に沈んだ歴史のカケラ」 ツジトモキ
33冊目 「カフーを待ちわびて」 阿部ナナメ
34冊目 「南琉球宮古語伊良部島方言」
35冊目 「琉球 美の宝庫-図録-」 宮国優子

36冊目 「上井幸子写真集 太古の系譜 沖縄宮古島の祭祀」

17冊目までをまとめた2017年の特番はこちら。

金曜特集 「島の本棚-2017-」特番

リスペクトという便利な言葉で包み込んだ、「島の本棚」の前史的な余談もあわせて掲載されていますので、お時間があればこちらもチェックしてみてください。


本の世界は広く、深く、とても大きな世界です。
たとえ、どんなに凄い愛書狂-ビブリオマニア-であっても、そのすべてを読みつくすことなど、到底できることはありません。

「島の本棚」では(沖縄、宮古の)島の本を中心に紹介しています。
広い本の世界を“島”というジャンルで縛ってみても、本当に数多の本が出ています。
いえいえ、それだけではありません。日々、生み出版(だ)され続けているのです。
近年は、インクと紙の本だけでなく、デジタルなスタイルの本も誕生し、人々の叡智を潤しています。

そんなあまりにも巨大な世界(島の本限定)に挑むには、多くの人たちの力が必要だと、「島の本棚」では考え、ぜひ、アナタのお力を借してほしいと熱望するのでした。
アナタが選んだ、人に薦めたくなる島の本をATALS Blogで紹介してくれませんか?
ひとつひとつは小さな一歩、一冊ですが、多くの叡智を集めて積み重ねて、たくさんの人たちにお薦めして、島の本の環を広げて、みんなで楽しみをわかちあいませんか?。

オトナの読書感想文こと、推し本紹介者を積極的に大募集したいと思います。
自薦・他薦は問いません。本好きのアナタと一緒に「島の本棚」を作って行きたいです。

島の本棚 -primary bookmarker-
まずがーと、一冊。
オススメしてみませんか?
ご協力、よろしくお願いいたします!
詳しくはメールにて!
 atalasnet(a)gmail.com
 ※(a)を@に置き換えてください
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年10月09日

第204回  「大地報恩」



えー、毎度おなじみ「島の石碑を巡る旅」でございます。連載200回を越えてもなお健在しつづける、驚愕の自由研究です。とりあえず、自爆気味のお祭り三部作もどーにかこーにか終わり、通常運転の再開です(三部作、全部読み切った人なんているのかなぁ~感想が聞きたい)。
さてさて、再開の一発目です。また初手で地味な井戸まわりをやってしまうと、またですか~?っとため息が聞こえてきそうなので、そこはぐっとこらえてコチラをチョイス。えっ、なにそれ~っと別の悲鳴が聞こえて来そうですが、まあまあ、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ!(といいつつ行き当たりばったりの拙筆)。

と、いうことで「大地報恩」です。この石碑はなんなのかと申しますと、ひと言でいえば土地改良が完成したことを記念して建てたられた石碑にすぎません。これまでもこの系統の石碑はいくつか取り上げてきましたが、自己主張がとても強い事が多いのに、ここの石碑はとっても奥ゆかしいです。ともすれば雑草に埋もれ、見えなくなっていることもあるくらいなのです。
もうし遅れました。この石碑の位置ですが、伊良部島です。字は佐和田、神山原とか野福原と呼ばれるあたり。県道204号長山港佐良浜港線の佐和田と前里添(佐良浜)の間あたりです。
まあ、ぶっちゃけこの碑そのものにはこれ以上の情報がありません。なので隣に建っている農林水産省補助による県営総合農地開発事業の説明板の力を借ります。
面積や事業費や負担区分とか、それほどここでは重要ではないので、画像を参考していただくとします。この説明板から欲しかった情報は工期です。昭和53年度から平成5年度までと、かなり長い期間になっています。西暦に換算すると1978年度から1993年度ですから、工期は16年間(年度末は1994年となるので)ほどかかってたようです。そこから察すると、石碑は工事が終了した1994年頃に建立されたと類推できます。

【左 1970年代】 【右 2000年代】 (clickで大きくなります)

国土地理院の1970年代の空中写真と、ほぼ最新と同等の2000年代のGoogleMAPを見比べると、ちょうど年代的にも開発のビフォーアフターといったところになります。判りやすく、看板の事業区域に絞って確認してみると、綺麗に四角く区画された中にふたつの大きな森と、右に左に湾曲した古い道が部分的に残っていることが判ります。
道はかつて佐和田の集落方面から、島の東側に向かって伸びる、畑小屋(パリバンヤー)の往来に古くから使われていそうにローカルルートのようです。なぜこの区間だけが、古いまま残されているのかははっきりしませんが、なんらかの禁忌があったのかもしれません。しかし、特に御獄や墓があるようにも見えません。若干、土地が低い区域があり排水池が大きく取られているような場所もあります。空中写真では畑も見受けられるので、極端に土地が悪い訳でもなそさぅなので、なにかを残さねばならない見えないなにかがあるのかもしれません。
また、ふたつの森ですが、このあたりは松の林が広がっていたそうです。といっても戦前の話で、戦時中に軍が資材として接収したため、今はひょろりとした形の悪い松が僅かに残っているだけです。
ちなみに当時の軍は、集落そぱにある嵩原御獄(佐和田ユークイ)や、腕山御獄(長濱ユークイ)周辺。県道を挟んだ南側(字長濱)の屋原や小禄(ころく)。もう少し南の大多良や、北方の白鳥原(字佐和田)あたりに駐屯していたといわれています。


そんな森うちのひとつ(東側)は、大竹中(ウプタキナカ)と呼ばれる実は大きな穴(ドリーネ状)になっており、シカの骨や人の歯の化石などが見つかった洞穴もある市指定の天然記念物(地質)となっています。
ここがなかなか野趣に富んでいてなかなか面白いのです。畑の脇の小径から穴へ下って行くと、徐々に植生が変化して地上とはちょっとだけ雰囲気の異なる穴の底面に到着します。穴の壁面に沿って奥へと進んでゆくと、鍾乳石をたずさえた横穴があったりと、地形的な面もなかなかに興味深いものかあります。
奥の方まで進んで行くとと小さな広場があり、やっと空が少し開けます(緑の茂り具合で変化)。どことなくジュラシックパークを彷彿させる気がするので、恐竜が覗き込んで来るのではないかと妄想させてくれます。
穴の壁面に沿って進んでゆくと、大きな岩の裂け目や潜りたくなるような岩穴など冒険気がを盛り上ります。また、ドリーネの底というやや特殊な植生環境は、地表であまり見られないオオクサボク(ウドノキ)の群落があったりします。

このウプタキナカは伝承によると、沖永良部島から流れ着いた人々にがここに暮らしていたとされ、北から南からあちらこちらから人がやって来たと云われている伊良部島に、人が住み始めたきっかけのひとつとなっています。伊良部島の民俗移動については「字佐和田村落生誕五百五十年記念之碑(第112回)」でも語っています。余談ついでのどさくさで、浪漫あふれるこちら、「字伊良部・仲地 村落生誕七〇〇年記念之碑(第113回)」も紹介しておきますね。

尚、ウプタキナカへの冒険についてですが、草木が生い茂り足元が悪い場所もあるので、訪れる際には長袖、長ズボン、靴、軍手、帽子など肌を守る服装でおでかください。  続きを読む


2018年10月05日

log17 「台風~今昔よもやま話~」



こんにちは!。
今年の宮古は台風の当たり年ですね。24号が去ったと思ったら間髪入れず25号が襲来。いったい何号まで発生することやら。はぁ~、厄介!。

離島のイチ主婦としては、家や農作物の被害の心配もさることながら、家族の食料確保が懸案事項の第1位であったりします。
というのも、島の物流は沖縄本島からの船便が頼り。台風で海が荒れると欠航してしまうので、牛乳やヨーグルトといった日配品はあっという間に売り切れてしまうのです(2018年春、島唯一の酪農牧場が廃業し、島内での牛乳の生産が終了)。
その他にも、島外から届くすべてのものが品薄になります。ガソリンも含めて(今回は2号連続だったことから、一部ではガソリンの購入制限も)。

台風はだいたい1日もあれば過ぎるでしょ?、と思っている内地の方も多いと思います。しかし、暴風域を出たからと言ってもすぐに船が来るわけではありません。しばらくは“うねり”があって海況は荒れたままです。しかも、こちら側(宮古島)が穏やかになったとしても、約300キロも離れた、あちら側(沖縄本島周辺)の海況が荒れていれば、やはり船は来ないのです。はぁ〜、難儀!。

そして停電を見越しての買い置き食品ナンバーワンは、なんと言ってもカップ麺ですが、これもすぐにスッカラカンになります。SNSでもスッカラカンになった商品棚の写真をたくさん見かけました。もう離島における台風時の風物詩と言っても良さそうです。

私の頭の中も台風で掻き乱されたかのように、とっ散らかっていますが、今月の「見聞録"」も、私のドゥーカッティーな考察を交えて紐解いていきたいと思います。

【厄介】やっかい。
意味も用法も日本語と一緒です。
面倒なこと・扱いに手数がかかり煩わしいこと、ですが、宮古では使う頻度が高いように感じます。面倒くさい事柄や人に対して「はぁ~、厄介!」と吐き捨てるように言うとネイティブな感じになります。

【難儀】なんぎ。
くるしみ悩むこと。苦労すること。
面倒なこと。迷惑なこと。処理をするのが難しいこと。
これももちろん日本語にある言葉ですが、「難儀するなよ~」「難儀させてごめんね」など、宮古では日常で良く使われます。
「難儀!」とひと言で言い放つ場合もあります。
そうそう、関西でも「難儀やなぁ」などと使いますね。

さて、こんなに便利な現代でも台風の襲来となると右往左往してしまうのに、いったい昔の人はどのようにやり過ごしていたのでしょう?。
職場の利用者さんに聞いたところ、昔は茅葺きの家(カヤヤー)がほとんどで、コンクリートの家(スラブヤー)はお金持ちだけだったそうです。

そしてカヤヤーは大きい台風の度に飛ばされるので、大事なものを抱えてはスラブヤーに避難させてもらっていたとか。
では、ご近所さん達の避難所となったスラブヤーでは、みんなの食事をどうしていたのでしょう?。
スラブヤーに住んでいたおばあちゃんに聞くと、「時間が短かったり夜中だったら特に食事は作らなかったけど、そうね、ウプナビで芋を炊いたり、ナビパンピン(沖縄で言うヒラヤーチ。チヂミみたいなもの)やソーメンを食べたりしたよ」と教えてくれました。
ご近所さんみんなが家族みたいですね。

中には「台風のときは手打ちうどんを作って食べた」という方もいました。小麦粉と水を捏ねて作ったそうです。するともうひとりの90代の女性は、うどんの話に頷きながら「そうよ。手打ちうどんと、天ぷらも作ったよ」と涼しい顔で言っています。
台風で停電するから手抜き料理でいいや、とインスタント食品を買いだめしている自分が恥ずかしくなりました。
手打ちと手抜き、似ているけど全然違いますね。反省。

【ウプナビ】
「ウプ」大きい。「ナビ」鍋。
お祝いや行事では無くてはならない大きな鍋。揚げ物から汁物まで何でも作る。
当たり前だけどフタも巨大。
洗うときは野外のホースでワイルドに洗う。そして、その辺の外壁なんかに立てかけてワイルドに水を切る。
場所によっては、「シンメー鍋」とも呼ばれています。「シンメー」とは4枚の意味で、かつて鉄板4枚を叩いて鍋を作っていたことから名付けられています。

【家を葺く】
やーをふく。
家を建てることの意味のようです。
「葺く」を辞書で調べると「かわら・板・カヤなどで屋根を覆う」とあり、家そのものを建てることではなくて、あくまでも屋根ですね。「茅葺き屋根」という言葉もありますもんね。

現在は茅葺き屋根の家は皆無で、コンクリートの建物がほとんどです。そして暴風に飛ばされる心配のある看板は比較的少なく、建物自体にお店の名前や会社名をペイントしていることが多いです。
今後、内地にも強い勢力の台風が上陸することが度々あるかもしれないと考えると、この、直にペイントする式は危険予防に有効だと思うんだけどなぁ。

さて、宮古では新築の家を建てている途中で「スラブ打ち」というお祝いがあります。内地で言う「上棟式」に相当するものとのこと。
天井部分にコンクリートを流し込む作業が終わると、職人さん達を労ってご馳走を振る舞う風習だそうです。近所の人や友達も招かれます。招かなくても建築中の建物の側でテントを立ててお祝いしているので、気配を察して来るパターンもあると思われます。
私も友人の「スラブ打ち」に行ったことがありますが、テントの下に会議用テーブルとパイプ椅子が並べられ、大勢の人が来ていてビックリしました。

家が完成した際には、もちろん新築祝いも盛大に行われます。
余談ですが、「スラブ」は宮古口かと長年勘違いしていたけど英語(slab)なのですね(笑)。

ところで。
「台風で茅葺きの家が飛ばされてた後ってどうするんですか?」と尋ねたら、おばあちゃん達「また作るさ」と涼しい顔で答えてくれました。何という逞しさ!。
私も宮古の方々を少しは見習いたいと思います。手抜きうどんならぬ、手打ちうどんも今度の台風のとき作ってみようかな。

ではまた来月!
あとからね~。

※今回の白黒写真は沖縄県公文書館よりお借りしました(1966年の第2宮古島台風コラの実際の被害の様子です)  続きを読む