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2017年04月28日

金曜特集 「宮古口見聞録"~みゃーくふつけんぶんlog」(3)


こんにちは。
宮古島中を熱くしたトライアスロンも終わりましたね!。選手の皆さん、ボランティアの皆さんお疲れ様でした。
私はテレビや沿道でゆる~く応援をし、夜は家族でお弁当を持ってゴールの陸上競技場へ行って来ましたが、鉄人たちが最後の力を振り絞って陸上競技場に入って来るのを見ながら食べるお弁当は、なんだか罪悪感の味でした。来年はもう少しちゃんと応援します。

さて、前置きが長くなりました。
宮古島在住15年にして未だ宮古口が聞き取れないし話せない、こんな私・川上良絵が普段着の宮古口を見つめる「宮古口見聞録"」。なんと、まさかの第3回目を迎えることが出来ました。ありがとうございます。
今回もドゥーカッティー(自分勝手)な考察を交えて、紐解いていきたいと思います。
※これまでの掲載 その1 その2


【~べき】
命令や義務づける意味ではなく、「~する」「~したほうが良い」というような意味です。
「今日傘持って行くべき?」、「そうだね」くらいの軽いニュアンスです。
「~するべきはず」は、さらに和らげた言い方です。
よく使われる言葉なので、移住者の方々は早く慣れるべきはず。

このように語尾に色々とくっついて、長くなるのも宮古口の特徴かもしれません。

【あがい】
言い方や表情によって、様々な表現になる感嘆詞で、無限に近い(たぶん)活用形がある語彙だと思います。
「あがっ」
痛っ!。鈍痛ではなくテーブルに足の小指をぶつけたときなど咄嗟の痛み。
「あがい」
言い方によって様々な意味に。「アーガーイ~ッ」と語尾を強めつつ伸ばすときは、相当に呆れて怒っています。
「あっがい」
相手にイラついて非難するような意味。
「あがーい」
はぁ~(ため息)みたいな感じ。
「あがががが」
痛たたた。
「あがあがあが」
痛い痛い痛い。
高齢の方が体の節々の痛みを感じながら歩くときなどに言います。
「あがいがあがいー」
同じく高齢の方が歩きながら歌うように唱えています。おそらく自分を奮い立たせるため、痛い体をなだめるためなのでしょう。口癖のようでもあり、「ヨイショヨイショ」といった掛け声に近いのではないでしょうか。ちょっと切ない「あがい」の活用法です。
「あっがいたんでぃ」
様々な場面で使います。ちょっと意味を絞り込めないので引き続き調べてみます(汗)。
「あっがいたんでぃがま」
感謝の意味。
「あっがいたんでぃよーい」
物事を要領が悪くやってる人などに対してとてもイラついているとき。
「あっがいたんでぃがま、いぎーまーん~」
さらにイラついて本当に呆れ返っているとき。

【どんなにして】
「どんな風にして」が略されたのでしょうか?。
「これどんなにして食べるべき?」とスーパーの野菜売り場で知らない方に聞かれたら、「こんなにこんなに~として食べると上等ですよ」と答えましょう。

【上等】
良いもののこと。
最高級ではなくても、合格点以上であれば「上等!」と使われているようです。

【ズミ!】
最高!、素晴らしい!。
「上等」より「ズミ!」のほうがズミ!です。多分。
「ダイズ ズミ!」は、とっても最高!です。
「上等」も「ズミ!」も言うときは親指を立て、今は亡き高島忠夫の「イエ~イ」をのようにグッと前方へ出します。
決してエド・はるみのように両手で連発してはいけません。

【だいず】
とても
沖縄本島だと「でーじ」ですね。昔、次男が保育園帰りにファミチキを初めて食べて「だいず辛っ!」と言ったのが忘れられません。
ちなみに、大豆は何と言うのか調べたら「大豆豆(だいずまみ)」だそうです。
だいずややこしや。

場所をスーパーの野菜売り場に戻します。

【あんたが分かる】
「じゃあどれが1番上等かねー?」と聞かれ、「お好きなの選んだらどうですか?」と答えても、「あんたが分かるさぁー」と言われる場合があります。
「じゃあ…」と上等と思われるものを選んでニッコリ別れるわけですが、次回バッタリ会ったとき、「あんたが選んだの、だいず辛かったよ」と責められる場合があります。
保険や金融関係の商品だけではなく、何事も自分でよく選んだほうが良いですね。

【ぱじける】
はじける
友人は幼い頃「シャボン玉がぱじけました」と書いたら、先生に書き直すよう言われたそうですが、他の言葉には置き換えることが出来ず、途方にくれたそうです。
個人的にはパピプペポが頭に付く言葉って、ダイズ可愛い響きだと思います。

【ぱがす】
「剥がす」
ちなみに「怪我した」は「ぱがした」と言います。
骨折・捻挫などではなく、あくまでも擦りむいたりして皮膚がパガれたときに使います。
余談ですが「貼る」は、「ぱる」ではなく「はる」のままだそうです。不思議。

【ぱげ・ぱぎ】
ハゲ(剥げ/禿)
ハゲも破裂音になると可愛いですね。
10円ハゲより小さいハゲ、怪我した…いや、パガした痕、毛が生えてこないハゲを「プティ」と言うよ、という方もいました。それってもしかしてフランス語の「petit 小さい」と関係があるのでは?と考えるのは深読みし過ぎでしょうか。
また、「コケる」ことも、「ぱぎる」と言うそうです。
そして面白いのが「センスパギ」
センスの無い人のことを指すそうです。
「ダサい」より温かみがありますね。言われたくないけど。

【ハゲキラーズ】
宮古島の素敵なおじさまたちによる民謡バンド。
現在は残念ながら活動休止中だそうですが、西里通りの島唄居酒屋「喜山」にて、メンバーのひとりである清志さんの演奏を聴くことが出来ます。
ハゲキラーズのメンバーは島尻出身ですが、この島尻地区はパギが多いのだそうです。
なぜかと尋ねると「パーントゥに泥を塗られるから」と皆さんおっしゃいますが、年に1度、泥を塗られただけでそんなに効果があるならエステや別の用途にも使えそうです。
本当の理由は分かりません。そもそもどのくらい他の地区より、パギの割合が多いのかも気になるところです。まさか統計を取るわけにもいかないし、悩ましいですね。


それでは今回はこの辺で。
またいつか第4回目の「宮古口見聞録"」をお届けする日が来るかもしれません。それまで私は勉強するべき~。
あとでねー!


【島唄居酒屋 喜山 -kiyama-】
OPEN/17:00~24:00
TEL・FAX/0980-72-6234
定休日/火曜日
〒906-0012
宮古島市平良字西里244(MAP)  続きを読む



2017年04月25日

第132回 「海上挺進基地第四戦隊駐屯地跡」



先週から続く陸軍海上挺進隊ネタです。今回は攻撃部隊である本隊です。石碑が建立されているのは仮称・荷川取川(東仲荷川取雨水幹線)の下流部。24ノースと元ステーキ屋の間にある遊歩道の奥になります。この遊歩道は湾岸道路(北環状線)を境にして、下流部の荷川取漁港側は開渠に、上流側の遊歩道の一部が暗渠となっています。その遊歩道を上流に少し歩いたところに、この石碑は建立されています。

【1977年:国土地理院撮影 / クリックで拡大】
もう少し詳しく考察すると、この付近はかつては小さな入江が連続した荷川取の船溜まり(漁港というほどの規模はなく、浜辺にサバニを引き上げているような感じ…1963年)でした。その後、丸金ストアの向かいの入江を改良して小規模な漁港に改修されます(1977年)。この頃はまだポー崎やサッフィも埋め立てられておらず、人頭税石も海沿いに位置しています。荷川取川河口付近には養鰻場が作られており、今とは大きく趣きが異なっています(北の丘を登ったところには東急のゴルフ場が広がっています)。80年代に入ると港湾部の埋め立てが進み、荷川取漁港も北側へ拡張され、荷川取川の河口が現在のように水路化され、地形に沿って北に向かって流れが作られてゆきます(1981年)。90年代には現在の湾岸道路もほぼ完成し、漲水方面から下崎方面に至る海岸部はほぼ埋め立てられ、海がさらに遠くなっています(1995年)。
時系列で国土地理院の航空写真を閲覧するだけでも、この付近の変貌は大きく、かなりの情報量が得られるので、ついつい時間を忘れて眺めてします。

さて、こちらの石碑ですが、建立は平成10(1998)年と記されており、この周辺一帯が新たに整備されたタイミングと考えられます。
石碑の背面に紹介分がありましたので、まずはこちらをご覧ください。
昭和十九年秋、大本営は連合軍が南西諸島を攻撃する算大なりと判断し、陸軍海上挺進隊(通称・水上特攻隊)を同方面に配置することを決定した。この部隊は長さ縦約六米幅約二個目の木製一人乗りのモーターボートに二百五十屯の爆雷を装着。敵艦船に体当たり攻撃を行うことを目的に一個戦隊百四名舟艇百隻で編成された。
宮古島配備の第四戦隊は海上輸送中多くの犠牲を出しつつ、昭和二十年一月戦隊長陸軍少佐金子富功以下隊員が上陸。以後、終戦までこの付近一帯の海岸線に掘られた洞窟に舟艇とともに駐屯した。
 平成十年十月
 元陸軍海上挺進隊第四戦隊勇士之を建つ
読みやすくするために句読点を挿入しました
ざーっと記録を確認してみますと、昭和19(1944)年8月に小豆島船舶幹部候補生隊(船舶司令部隷下にあり、特別攻撃隊要員として15歳以上20歳未満の男子志願者で構成された促成士官)を主体として、広島県宇品(一部に江田島説もあるが、こちらはそもそも海軍施設であり、陸軍の兵站拠点があった宇品が順当と思買われる)において海上挺進第一から一〇戦隊として編成されます(最終的に50隊ほど編成される)。主にフィリピン、台湾、沖縄を中心に配備され、第一から四戦隊は第32軍に派遣されました(32軍は沖縄方面の直轄軍ですが、厳密にいえば陸軍の船舶隊は別系統となるので、第7船舶司令部の隷下にあったではないかと思います。ただ部隊数が大きくはないことなどもあり、宮古島においては総合的な指揮系統は、第28師団が握っていたものと思われます)。尚、後設される戦隊も沖縄への配備が行われました。

第一戦隊(球16777)が座間味島、第二戦隊(球16778)が阿嘉島、第三戦隊(球16779)が渡嘉敷島に配備されます。第四戦隊(球16780)も一度は慶良間諸島に配備されますが、昭和20年2月に宮古島へ転属となります。
海上挺進隊が使用よる四式肉薄攻撃艇は、そもそもが特別攻撃を行う小型艇であり、外海走行などは考慮されていないため、別の船で運搬しなくてはなりませんが、転属にあたっては機帆船(本来は帆船に補助的な焼玉エンジンを取り付けた船であったが、後に木造船にエンジンを取り付けた戦時標準船として局地輸送に徴用されていたものと思われる)に分乗し、船団を組んで宮古島へ向かうことになります(物資輸送を担う輸送船は本土沖縄島間を優先して使われているため)。

しかし、敵航空戦力による空襲に加え、折からの台風接近による荒天で、多くの機帆船が難破遭難してしまいます(一部は台湾に漂着して、22名は原隊に戻ることができなかった)。最終的に宮古島に着任することが出来たのは、104名の隊員のうち63名と、47隻の四式肉薄攻撃艇(配備は100隻)だけであった。
けれど、それはある意味では僥倖だったのかもしれません。
なぜなら座間味諸島に配属された第一から第三戦隊は、3月後半から始まった米軍の本格的な沖縄攻略の初戦となる、上陸作戦の最前線に立たされることになるからです。敵艦艇の猛攻から、本来の任務である本島防衛の嚆矢となる四式肉薄攻撃艇(マルレ)での出撃が出来ないまま、各島内で上陸する米軍との肉弾戦を強いれる結果となり、各部隊とも全滅とまではいかぬものの、多くの戦死者を出すととなるのでした。

宮古島に展開した第四戦隊は基地隊とともに、荷川取川の河口部の両岸と平良港北端の海岸部にある洞穴を利用して駐屯します(ウプドゥマーリャ秘匿壕群)。川沿いに荷川取公園へ続く遊歩道からかつて利用されていた洞穴を見ることが出来ます。また、旧東急ゴルフ場跡地(工事前は駐車場のコンクリートが遺構として残存していた)に、現在、大米建設の宮古新社屋建設の建設工事が行われている元海岸部(荷川取漁港の埋め立ててで海からは離れてしまっている)の側面にいくつか秘匿艇壕が残っていますが、工事が進むと崩されてしまうかもしれません。他にも下崎の沖縄電力そばの崖にも秘匿艇壕が残っています(下水処理場の北端の堤防から遠望できます)。
第四戦隊は宮古島から特別攻撃をするために、その時を待ちこの地に秘匿されてきましたが、肉薄しなくては特別攻撃の効果がないことから、連合軍は艦砲射撃や空襲といった、非接近の攻撃を繰り返して来たことで、彼らは一度も出撃することなく終戦を迎えます(地上戦もなかったことから、慶良間諸島の本隊とは結果が大きく異なった)。

【大米の工事現場北端の壕(南西ヤンマー前)】
宮古島にはこの挺進第四戦隊の他にも、トゥリバー地区(マリーナ南方)、大浜地区(伊良部大橋取付道路)に、陸軍海上挺進基地第30大隊が、マルレを秘匿する壕を構築するも、特別攻撃を担う部隊が到着せず、壕を掘っただけで終わってしまった。
また、狩俣西岸の七光湾(現・海中公園)には海軍第三一三設営隊が「震洋」を配備したが、こちらも終戦まで一度も出撃することがありませんでした(海中公園が造成される以前は、秘匿壕からビーチまで石敷きのレール痕が残っていました)。

【関連Blog】
第117回 「殉国慰霊之碑」
第131回 「海上挺進基地第四戦隊戦没者勇之碑」

第一~三海上挺進隊の戦闘記録
海上挺進第1戦隊(座間味)球16777
海上挺進第2戦隊(阿嘉)球16778
海上挺進第3戦隊(渡嘉敷)球16779

【参考資料】
新版 宮古の史跡を訪ねて(宮古郷土史研究会 1999年)  続きを読む



2017年04月21日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」



まずご報告があります。今回の「続ロベ」第24話で、このシリーズの連載から丸2年を迎えました。長期にわたりご愛読いただき、感謝しています。ドイツや沖縄本島や内地の歴史も参照しながら、1870年代から1930年代までの70年ほどの期間を中心に、ロベルトソン号や博愛記念碑に関連する隠れた史実などを、24回にわたり長々と紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。こんなニッチなテーマにお付き合いいただいた数少ない読者の皆様、たんでぃがーたんでぃー(ありがとうございます)。

さて、この「続ロベ」ですが、ここで一旦、連載を休止させていただきたいと思います。その理由ですが、研究者は新しい研究成果をまず論文で発表することになっていて、そこでは原則的に未発表の内容を掲載することになっているため、まずはここ数年間で得た最新の知見を論文の形で発表しないといけない、という事情があるからです(言い換えると、先にここに載せてしまうと、論文が書けなくなるのです)。ということで、しばらくの間は論文の執筆に専念させていただき、ご要望があればまた来年以降、戻って来たいと思います。ご理解のほど、お願い致します。

そんなわけで、休止前の最後の連載となる今回の「続ロベ」、テーマは「博愛記念碑のその後」です。京都のトラウツ博士をドイツ政府代表に迎えて、1936(昭和11)年11月14日に記念碑の建碑60周年式典が盛大に祝われた直後から、日独両国は大規模な戦争へと突き進んでいきます。記念式典直後の1936年11月25日、日独両国はドイツの首都ベルリンにおいて防共協定を締結、この協定は翌37年には日独伊防共協定に発展し、1940年9月の日独伊三国同盟へとつながっていきます。ドイツはまた1938年にオーストリアを併合、さらにチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲も要求し、イギリスとフランスがミュンヒェン会談で譲歩したことでこの地方も併合、そして1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した直後の9月にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦へと突入します。日本も、1937(昭和12)年7月の盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件を機に日中戦争に、そして1941(昭和16)年12月から太平洋戦争に突入していきます。世界大戦の詳細を述べる紙幅はありませんが、この大戦の戦死者は約2500万人、民間人の犠牲者が約2500万人、戦傷者は約3500万人といわれています(『日本大百科全書』より)。さらに1945年までの間に、ナチスドイツの人種政策(絶滅政策)により、ヨーロッパのユダヤ人(正確にはニュルンベルク法により「ユダヤ人」とされた人々)約600万人以上が殺害されました。

宮古島もまた、この世界大戦の影響を受け、戦争末期には日本軍の地上部隊3万人が駐留していたとのこと。また空襲も激しかったと聞いています(ちなみに「獨逸商船遭難之地」碑も機銃掃射を受けて何か所かが欠けています)。戦後の宮古は、1945(昭和20)年12月に琉球列島米国軍政府の支配下に入り、1947(昭和22)年3月には宮古民政府が成立、1950(昭和25)年8月には宮古群島政府が設立しますが、その後間もない1952年4月には、沖縄全体(1953年12月までは奄美諸島も)を統括する琉球政府(USCAR≒ユースカー:編注)の管轄下に入りました。

なお、博愛記念碑に(少しだけ?)関連するこの時代の動きとして、1947年に「博愛せんべい」で有名な与座製菓が設立されています。この、島外では決して買えない(はず、少なくとも私は島外で目にしたことはない)宮古土産の横綱「博愛せんべい」の成立背景などについても、今後十分に研究の余地があると思われます。

かたやドイツはどうだったか、と言いますと、まずナチスドイツは1945年5月8日に連合国に無条件降伏します。東方の領土はソ連により大幅に縮小され、残った土地は米・英・仏・ソの4か国に分割、占領されました。またベルリンは、周囲はソ連占領地域ながら、市内はやはり4カ国に分割されています。東西冷戦の激化に伴い、米英仏の占領地域とソ連の占領地域とが分断されてしまい、前者の占領地域(ドイツの西部・南部と西ベルリン)はドイツ連邦共和国(西ドイツ)として、後者の占領地域(ドイツ東部)はドイツ民主共和国(東ドイツ)として、いずれも1949年にスタートを切ることになりました。その後、東ベルリンから西ベルリン(東ドイツの中にある離島のような存在)への人口流出を止めるために西ベルリンの周囲約160キロを囲む形で1961年8月に突如建設されたのが「ベルリンの壁」です。この壁は、1989年11月9日に事実上崩壊するまで、東西分断の象徴となりました(ちなみにこの壁の一部は、「うえのドイツ文化村」にも展示されています)。1990年に、東ドイツが西ドイツに編入される形で再統一が実現し、現在に至っています。

この間の宮古とドイツの交流としては、1972(昭和47)年の沖縄返還の年に行われた「博愛記念百年祭」でしょう。実は本当の100周年は、1873(明治6)年のロベルトソン号の漂着の100年後に当たる1973年なのですが、本土復帰の年がドイツ船漂着から100年目に当たる(やや厳しいですね)ということで、11月13日から3日間にわたり開催されました(1936年の60周年祭と同じ期間です)。これに先立つ1972年7月には、宮古の教育者の下地馨氏が西ドイツ政府の招待で渡独しています(博愛記念祭に向けて古文書の収集することが目的)。また11月の記念祭には、駐日西ドイツ大使のヴィルヘルム・グレーヴェ氏や日独協会会長の三井高陽氏が参加、博愛記念碑が再び注目されるきっかけとなりました。

この他、復帰前後の時期の特筆すべき出来事として、『南島』第三輯の「宮古特集号」(江崎悌三氏による、博愛記念碑設置に関する交渉の詳細な資料なども収録)の復刊があります。この本は、戦時下の台北で1943(昭和18)年に刊行されたため、ほとんど日の目を見ることがなく、「まぼろしの書」と言われていましたが、須藤利一、川平朝申、下地馨らの尽力により1969(昭和44)年に復刊されました。この復刊が、博愛記念碑への学術面・メディア面での関心を喚起し、博愛記念百年祭につながっていったとも言えるでしょう。

ドイツ再統一(1990年)以降の、ドイツと宮古の交流に関する一番のビックイベントは、何といってもゲルハルト・シュレーダー首相(当時)の宮古訪問でしょう。2000(平成12)年7月21日から23日まで、名護市の「万国津梁館」でG8首脳会合(いわゆる九州・沖縄サミット)が開かれましたが、この期間中の7月21日にシュレーダー首相は宮古を訪問、うえのドイツ文化村を訪れて記念式典に参加し、上野村の小中学生とも交流しています。この時、宮古空港から「うえのドイツ文化村」までの県道190号線(平良・新里線)をシュレーダー首相が通ったことを記念し、2000年11月にはこの通りが「シュレーダー通り」と名付けられました。

ちなみに、先進国の首脳はもちろん、外国の首相級クラスの政治家が宮古島を訪問するのは極めて異例のことで、実際に外国首脳の宮古訪問は、シュレーダー氏がこれまでで唯一の事例となっています(但し、ドイツの国家元首は大統領なので、残念ながら宮古への外国の国家元首の訪問はまだ実現していません)。なお、天皇陛下が宮古を初めて訪問されたのは2004(平成16)年のことです。

シュレーダー首相は、一連の日程を終えると足早に那覇に戻ったとのこと。短い宮古滞在だったようですが、それでもこの訪問を機に、宮古とドイツとの関係が改めて注目されたことは間違いありません。

この先、博愛記念碑がどのように扱われて、語り継がれてゆくのか、気になるところですが、私としては今後も、ロベルトソン号にまつわる様々な史実を検証し、誤った情報は正し、また新しい史実を積極的に紹介しながら、引き続き皆さんの関心に応えていきたいと思います。引き続きよろしくお願い致します。

◆ATALAS blog連載シリーズ
「続・ロベルトソンの秘密」

◆H26年度 みゃーく市民文化センター 第一回講座
「ロベルトソン号の秘密」
開催日:平成26年9月7日
主 催:ATALSネットワーク
平成26年度沖縄文化活性化・創造発信支援事業  



2017年04月18日

第131回 「海上挺進基地第四戦隊戦没者勇之碑」



ちょっと久しぶりとなる戦跡モノの石碑です。建立されているのは荷川取公園の山の上。石碑のタイトルは海上挺進隊と、海っぽい名前が記されているのに山の上にあるのです。

石碑のある場所について、もう一度ちゃんと説明しておきます。大和井から荷川取漁港方面に向かう通りから、少し奥まった位置にある荷川取公民館へと曲がり、公民館の裏手にある丘を中心として整備されているのが荷川取公園です。数年前に大きくリニューアルされ、通称・荷川取川(東仲荷川取雨水幹線)に橋が架けられたり(公園が北側にも広がった)、北極星(ニヌパブス≒子の方の星)が見れるモニュメント(固定された天体望遠鏡のような構造で、夜には星が見えるらしい)が設置されたり、遊具や東屋、遊歩道などが整いました。時間帯のせいなのでしょうか、いつもグランドゴルフ的なゲームに興じる人たちくらいしか見たことがありません。

【左】シスカ嶺から公園北側に架かる荷川取川(仮称)を跨ぐ橋。【右】橋の上から下流(漁港方面)を望む。川(水路)は遥か下方にあり生い茂る木々にさえぎられて見えない。

石碑は公民館側の入口(他に漁港入口側から遊歩道を経由して公園の北側に通じる入口と、大和井の北にある菊之露の第2工場の道向かいにある階段を経由する入口がある)から入った公園の正面にそびえている嶺にあります。この嶺は通称シスカ(尻川)嶺と呼ばれ、なんでも倭寇の伝承が伝わる遺構があるということですが、公園内にその手の説明はなく、公園の造成の際に調査は行われたようですが、詳細については判りません(19xxx)。

現在はこのシスカ嶺も階段が設置されて登りやすくなっています(かつては妖しさ漂う謎の高みであった)。標高は25.6メートル。海が近い荷川取界隈ではシスカ嶺は形状からも単独峰と云ってよいほどの高さを誇っています(公園入口の標高は6メートル、公園の主要部は15メートル程度)。その頂にこの石碑が建立されています。

あまり大きな碑ではありませんが、資料によると戦友の石工の手によって本土産の白御影石で作られ、1945(昭和20)年9月15日に建立された(刻印もされているようですが摩耗して読み取れない)ということらしいのですが、たとえ戦友に石工がいたとしても、終戦直後に本土産白御影石を入手して作ることなど出来たのでしょうか。戦友会の方もお年を召しており、正確な記録もなく記憶も怪しいようで、石碑の建立は戦後一年以内に行ったということらしいと資料には記されていて、はっきりとしたことは戦後70年を経過した今となっては判らなくなってしまったようです。

この石碑の部隊「海上挺進基地第四戦隊」は陸軍指揮下の海洋進出部隊のひとつ(陸軍なのに船に乗るというネタは、船舶工兵第二十三連隊の回でもやりました)なのですが、戦闘部隊ではなく海上挺進第四戦隊を支援(武装のメンテなど)する基地部隊だったので、このシスカ嶺を背後地として現在の荷川取漁港付近にかけてを基地化した、ウプドゥマーリャの特攻艇秘匿壕群に駐留していたようです。

では、なぜこのシスカ嶺に石碑があるのでしょうか。恐らく理由はシスカ嶺の立地条件に起因していると考えられます。この石碑のある場所からは彼らが守備する平良港が一望できるのです。また、その反対側は深い絶壁の渓谷となっており、谷底に荷川取川(仮称)が流れています。シスカ嶺からは障害物なく北側の様子も見渡すことができるのです。
実は石碑のすぐ脇には人がひとりは入れるくらいの小さな壕が掘られ、嶺の反対側(川)まで貫通しています。この壕は恐らく基地隊の防空監視に使われていたのではないかと考えられます。それゆえ、周囲を一望できるこのシスカ嶺の頂に、慰霊碑を建立したのではないかと、この嶺に立つと実感しました。眺望もなかなかによいので観光にもオススメしてみたい場所です(嶺の裏の川との落差も一興です)。

特に河川としての名称がない(島にはもしかしたら概念もない?)ので、勝手に荷川取川と呼んでいますが、宮古島市の都市計画によると東仲~荷川取雨水幹線という名称がつけられており、町の中に降った雨水を集水して流す水路となっているようです。山がなく川がない島といわれている宮古島にも小さくとも川はあるので、本筋とは離れますが趣味でこれを解説(説明)したいと思います(興味のない人は読み飛ばしてください)。

この荷川取川の河口は荷川取漁港の埋め立てによって、下崎埠頭手前の造船所まで河川形が延伸されており、漁港の取付道路沿いに護岸され川面を見ることが出来ます(満潮時は潮が入って来ます)。この区間には橋(橋状のものを含む)が三本と、島ではお目にかかることがない専用管路橋(橋梁に付帯せず単独で渡河している)をひとつ見ることが出来ます。

漁港入口で接続する湾岸道路(北環状線)に架かる橋梁を境に川はいったん暗渠になり、養鰻場跡やウプドゥマーリャ秘匿壕群を経て、荷川取公園で再び顔を出します(この間は遊歩道)。特に南側のシスカ嶺に接する谷はとても深く、公園の南北を結ぶ橋が遥か上空に架かっています。ここで川は南に向きを変えながら荷川取公園に沿って進みます。県道83号線を超えて菊之露の第2工場の脇を抜け、暗渠になって東環状線の漲水整備の交差点にから、しばらく東環状線の下を通りますが、道路が北中のある東に向きを変えるので、道路とは分かれて川はそのまま南へ進み、わずかに開渠が現れます。

川が人家と畑の境界を形成しながら、北中側の斜面の裾野に沿って、盛加越公園の南側を流れてゆきます。公園付近は左右が高地になっており、緩い谷を形成しているのがよく判ります。余談ですが、大和井も盛加井もこの川の西側の台地の上にあり、おそらくこれらの湧水の出口は井戸の東側の崖が川と接したあたりから滲みだしていると思われます(盛加井は底部の水源は地下河川になっており、この谷の方に向かって流れています)。

盛加越公園を抜け、宮古保健所の西側を開渠で流れ、サンエーターミナル店裏の交差点(旧東仲宗根郵便局前)から再び暗渠となってサンエーの駐車場の中を進みます。サンエー衣料館が2階部分だけ増床されているのは、一階部分に暗渠の河があるために作ることが出来ない証拠です。川はまてぃだ通りを渡って、ライカムスポーツとクルーズ船目当ての免税店の間を抜けて、平良中の西側(体育館脇)へと流れてゆきます。
この付近は道路拡張される以前は、開渠率が高かったのですが、次第に閉渠が増えて川の面影をあまり感じられなくなりました。川の北西側(海側)はアツママ御嶽(東御嶽)に向かって登っており、この川が昔の西里村の東の外れとであると考えられます(サンエーそばの東里交差点に、その名残がある)。

平良中を過ぎた川は暗渠となって宮古高校正門前の通りに出ると、南側の歩道の下に流れを移し、ここで行方をくらまします(道路拡張時に歩道下に暗渠を構築していたことは確認できましたが、それより上流は視認できなかった)。周辺の高低差を見てみると、川は道に沿ってグランドの方へは行かず、民家の間をすり抜けて、平一小南側の敷地沿いに残る側溝にどうやら繋がっているようです(水はほぼない)。
この側溝は上野線(県道190号)を越え、宮古高校の野球場(旧宮高女)の斜面へと吸い込まれおり、おそらくこの野球場の隣りにある宮古ボーリングセンターのある丘(字大原)が荷川取川(仮称)の源流なのではないかと考えられます。
余談となりますが、この丘の末端のひとつとして、平一小旧正門あたりからガイセン通りを経てマティダ市民劇場方面に流れる河川(完全暗渠)の源流と同じような水源になっいると考察できます。
また、丘の西側、南小と馬場団地の間の谷は遠く腰原の奥地まで続いており、サンエーカママヒルズ、新宮古病院、西ツガ墓、ホテルアートルエメラルド(一階部分に建物がない部分の下を流れている)を経て、平良港に注いでいる下里川(下里雨水幹線)もあり、町中をひっそりと流れるの河川の一大水源地となっているようです。

ちょっと趣味の余談を盛りすぎてしまいました。来週はこの海上挺進基地第四戦隊がサポートしていた戦闘部隊、海上挺進第四戦隊に関連する石碑を紹介したいと思います。次もまた荷川取川が登場します(たぶん)。

【参考資料】
新版 宮古の史跡を訪ねて(宮古郷土史研究会 1999年)
下水道WEBマップ(管渠情報) 宮古島市上下水道局
宮古島市都市計画図(平成23年作成 pdf)  続きを読む


2017年04月14日

19冊目 「水の盛装」



東京は桜満開の4月です。新年度、新生活に胸躍る春ですね。そして4月の宮古島はトライアスロン大会が開催されます。
今月ご紹介する本は、大城立裕著『水の盛装』。宮古島トライアスロンがモチーフのひとつとなっている小説です。

池間島に生まれた浜中千寿は、東京で写真を学んだ後島に戻り、東京の私立大学助教授で水中動物学専門の鳴海久志郎の撮影助手をしています。この二人は結婚間近の恋人同士、つまり鳴海はいわゆる“ナイチャー婿”状態で、千寿の実家の離れの小屋に寝泊まりして珊瑚の研究をしています。そして、鳴海は毎年宮古島トライアスロンに参加しています。
一方、千寿はある日幻影や幻聴を感じるようになり、また島のおばぁからカンカカリャになれと告げられます。そして、遭難事故、八重干瀬、サシバ伝説、通り池、白化珊瑚、フナクスの堀削工事・・・宮古島をめぐる数々の混乱の中、自らが乳癌であることがわかります。
千寿は、現役カンカカリャのヨネや、掟を破って島外へ出たツカサンマの愛子から様々なことを言われ、自らの業と向き合わざるを得なくなります。印象的なのは、自身の仕事である写真について、(不吉なことが起こるのは)「レンズという科学の産物を霊魂につなごうとしたからではないか」「カメラで他人の運命を見ようとしたからだ」と考えるところです。鳴海は逆に「海には二つのことが秘められている」と言って、科学と芸術、精神と肉体を共に組み写真として表現しようと提案します。

著者の大城立裕さんは、言わずと知れた沖縄文学の大家です。1925年沖縄中城村生まれ、戦時中に上海の大学(編注:東亜同文書院大学)に入学しますが敗戦後に沖縄へ戻ります。そして1967年に『カクテルパーティー』で沖縄初の芥川賞作家になりました。大城さんは、戦争や基地問題など沖縄の社会派小説を書くイメージですが、なぜ本作では宮古島のカンカカリャやトライアスロンを題材に選んだのでしょう。
本人曰く、当初は戦中戦後世代の“沖縄の私小説”として戯曲や小説を書き始め、両義性というテーマや全方位志向に向かっていったそうです。それはまさに、皇民化教育から敗戦、アメリカ統治、祖国復帰運動という時代を生きた大城さん自身の実存に関わる問題だったことがわかります。特に般若心経と出会い、一切は空であるとの真理に至りこう言います。

私としては、二十歳までに仕入れた世界観が無に帰したからといって、嘆くには当たらない、と教えられました。その後60年間、沖縄の社会の諸現象に一喜一憂することなく、あらゆることに全方位解釈をする癖がつきました。

この言葉の重みはそのまま大城文学の深みとなっていると思います。その後、琉球王国の歴史、土着、女性文化への関心を経て、八重干瀬の神秘に触発され『水の盛装』が書かれます。奪われようとして、なお奪われまいという意志についての話だそうです。

冒頭、トライアスロンについて、こう描写されます。

古来の祭りがしだいに滅びて行く今日、その流れに抗うように島人の総力をあげて盛り立てていく。アスリート達は世界中から集まってくるから、世界人類になりかわって「生存競争」を象徴する新しい祭が生まれた観さえある。

そしてクライマックスでは、千寿は乳癌と、鳴海はトライアスロンと、己の身体を酷使して闘います。
俺がこうして走っているあいだは死ぬなよ、お前を死なさないために、俺はこうして命の限り走っている、という夫の声が千寿にはたしかに聞こえている。(中略)そこで戦う相手は既にアスリート同士ではない。誰もが自分だけと戦っている。

死ぬわけにはいかない。どんなことをしても生きたい。生き抜きたい。


二人の魂と肉体はどうこへ行き着くのか。大城作品の中ではあまり知られていませんが、宮古島から、人間の、宇宙の真理が見える、迫真の一冊です。
2017年4月23日のトライアスロンに参加する皆さまもがんばってください!ワイド―!

【池間島船越-フナクス-の海】

大城立裕「沖縄という場所から―私の文学―」
立教大学異文化コミュニケーション研究科 2012 年度第 2 回公開講演会(2012年7月14日)
※リンク先は立教大学リポジトリよりpdfダウンロードします。

〔書籍データ〕
水の盛装
著者 /大城立裕
発行/朝日新聞社
発売日 / 2000年8月1日
ISBN /4-02-257523-9

第33回トライアスロン宮古島大会
開催日:2017年4月23日(日) 7時00~20時30分
※インターネット中継もあります。

池間島ガイドマップ(すまだてぃ/きゅーぬふから舎)
※dfpでダウンロードできる、池間島のマップはオススメです。  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2017年04月11日

第130回 「健康モデル指定地区」



先週の「フィラリア防圧記念碑」を探って行く中で出て来た琉球政府厚生局。そのつながりでご紹介するのがこちらの石碑です。琉球政府、つまりは復帰前の組織であり、その名が刻まれている石碑は45年以上を経た今となっては、保存すら必要な歴史的な文化財に移行しつつあるのではないかと、勝手に愚考するのでした。価値がない訳ではなく、まだ価値が満たされていないだけなので、ぜひ、開発などで簡単に壊さないで欲しいものです(なんでも公民館の改築予定があるらしいので…)。

こちらの健康モデル指定地区城辺町長南の碑は、耕地整理の真っ只中に位置する長南集落の公民館前に建立されています。指定は復帰直前の1970年3月。財団法人沖縄公衆衛生協会と、琉球政府厚生局の連名で行われています。
並びの序列が逆になりますが、まずは冒頭で紹介した琉球政府厚生局から。

1952年4月に成立した琉球政府の部局のひとつとして厚生局が誕生しました。1953年4月に社会局と名を変え、1954年7月に労務局を分離します。1961年8月に再び、厚生局に名称を戻して以降は、返還の日まで一貫して医療、保健、社会保障を所管しました。外局には社会保険審査委員会、社会保険庁があり、支分部局に、保健所、福祉事務所、児童相談所、婦人相談所、そして石垣医療航空事務所がありました。

中でもちょっと面白いのが、この石垣医療航空事務所。八重山諸島における離島巡回診療業務や急患搬送などを行う部署として、1972年3月に開設され、海上保安庁の支援を受けてヘリコプター2機を使って業務を行っていました(返還後は第11管区海上保安部石垣海上保安部の石垣航空基地に引き継がれている)。

もうひとつの財団法人沖縄公衆衛生協会は、1969(昭和44)年3月に設立されました。主な事業は公衆衛生の向上や啓発のため学会や講習会などを開催、環境保全、環境衛生の推進のための調査研究事業、行政機関と連携して保健医療福祉などに係わる研究や市町村への支援、そしてハブ対策事業(咬傷被害対策や捕獲)を行っているそうで、こちらの団体は現在も存続しており、南城市に本部が置かれています。

ただ、タイトルにある「健康モデル指定地区」という事業がなんなのか、という点については調べ切れませんでしたが、先週のフィラリアを含めマラリアや日本脳炎などの防除の時期と重なるので、そういったものに関係しているのかもしれません。

こちらの碑は見ての通り、鮮やかな青とオレンジの配色に塗られており、ちょっとブルーシールを彷彿させますが、そもそもは経年変化で色落ちしていたものを塗り直しています。元々の色味は不明なのでこの配色が本当に正しいのかは判りませんが、塗り直されたおかげで左上にあるOPHAの紋章(OKINAWA P. Public Heaith Association)が鮮明になり、一匹の蛇が絡みついた杖「アスクレピオスの杖」を配していることが見てとれます。

アスクレピオスの杖はギリシア神話に登場する名医アスクレピオス(Asclepius)の持っていた蛇の巻きついた杖のことで、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマーク(蛇が二匹はカドゥケウス/ケーリュケイオンの杖で、商業を象徴する意味に変わる)。

実はこの碑と同じものが、平良の市内にもあります。
場所はイザガーの入口。字・東仲宗根の内会(内地でいう町内会のこと)の高阿良(たかあら)地区を健康モデルの指定地区として記しています。こちらもどことなく塗り直されているように見えますが、長南地区のものにはある、下段部分の「財団法人沖縄公衆衛生協会」と「琉球政府厚生局」の文字がありません。
今のところ発見できているのはこの2例だけですが、島内にはももしかしたら他にもあるかもしれません(旧市町村単位のような気がしたため)。もしも見かけられた方はぜひ、ご一報ください。現地を確認に伺います!。

最後に、ちょっとオマケ。
沖縄県衛生環境研究所(うるま市字)の所報「衛生環境研究所報」がpdfで読めるようになっていまして、第1号は1953年の発行となっています。基本的に調査報告なのですが、宮古島に関する記述も多く、1970年の「宮古島の蚊」とか「沖縄宮古島マラリア原虫検査成績について」とか、1975年「宮古地方小児及び成人女性の風疹HI抗体保有状況」 など、興味をひくタイトルが色々とあります(1981年に「クワズイモの有毒成分」とゆーのを読んだら、クワズイモには触りたくなくなりました)。  続きを読む


2017年04月07日

Vol.14 「デイゴの花咲く」



南国宮古といえど三寒四温を繰り返し、このごろやっと春(初夏)を実感するようになった。今年はまさに寒さと温かさの繰り返しで、ぴしーぴしだったり、ぬふーぬふだったりと、着るものも冬と春を行ったり来たり。
そんな中でも植物は、わずかな春の暖かさも見逃さず、3月中旬頃からデイゴの赤い花が咲きだした。赤い花は青空によく映え、天気の良い日はすぐ目に留まる。

デイゴは葉がない状態で花をつける。木全体に花をつける場合もあるが、その年によって、あるいはその木によって、花の付き具合が違ったりする。また、デイゴの花がたくさん咲くと台風の当たり年になるとも言われる。

今年は、市役所駐車場隣りの琉米会館跡地にあるデイゴの木にはたくさんの花が見える。植物園には樹齢50年以上になると思われる立派なデイゴ並木があるが、こちらはあまり咲いていなかった。これからかも(余談だが、今植物園が大人気だ。観光バスがひっきりなしに止まり、観光客がたくさん訪れている。きれいに整備され、花々も咲き乱れ、なんともきれいだ)。

デイゴは、宮古島市の「市花木」になっているくらい、宮古の人にとってはとても身近なものだ。歌のタイトルや歌詞の中にも登場する。
下地イサムさんは「野崎里」の中で、「前真座ぬ大梯梧木(まやまざーぬ うぷどぅふぎー) 下ん座じうー(すたん びじうー) おばぁ達が 笑い声ぬ美しさ」と、地元での風景を歌っている。
ガルフは「デイゴの赤の輝く下に」の中で、島の両親や家族の絆を願い、「心からいつもここで そう守っている デイゴの赤の輝く下に」と歌っている。

宮古島出身の女性で、初の交響曲を作曲したことで知られる金井喜久子は、音楽との出合いについて著書『ニライの歌』の中で次のように書いている。
出合ったのは、北小学校時代の春の頃。「赤一色に染まって校庭に落ちこぼれた梯梧の花は、宝石のように幼い心を引きつけた。頬にあて、唇にふくんだ・・・その時天来の妙音が、あたりをふるわせた」と書き、赴任してきたばかりの先生の弾くピアノとの出合いを音が流れるような文章で書いている。

また、宮古の民謡「トーガニアヤグ」の中にも梯梧の花がでてくる。
春の梯梧(でいぐ)の 花(ぱな)の如(にゃ)ん
宮古のアヤゴや そね島(ずま)、糸音(いつうね)や
あて美(かぎ)かりやよ
親国(おやぐに)がみまい 下島(すむずま)がみまい
とよまし見うでよ


この歌は、宮古研究の父と言われる慶世村恒任が宮古民謡集を出すことになり、このことを大喜びした下地恵栄翁が慶世村と宴を設けた際に、即興で詠んだ歌なのだそう。なんとも心に沁みる。
デイゴの花は、宮古の人々のさまざまな場面に寄り添い、暮らしを見てきたのかもしれない。しばらく見ごろが続く。
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2017年04月04日

第129回 「フィラリア防圧記念碑」



この石碑の存在を知ってもなお、フィラリアは犬のかかる病気で、マラリアの間違いだろ!っと思っていました。すみません、ホント、無知って怖いですね。ということで、お勉強がてら石碑を紐解いてみたいと思います。

こちらの石碑は宮古保健所。今は福祉保健所と云うそうですが、その敷地内にあります(道路沿いのフェンスそば)。
どういう石碑なのか、石碑裏面にある解説をまずがーと。
 昭和40年1月から宮古で始められたフィラリア防圧事業は、宮古群島全住民の献身的な活動によって理想的な形で進められ、それはやがて模範となって八重山群島及び沖縄群島でも展開されて、風土病フィラリアは昭和53年遂に沖縄から消滅しました。
 科学と行政を信頼し、健康社会を開拓する自らの責任に目覚めて立ち上がった、群島住民のアララガマ精神があったらればこそ、先祖代々苦しめられた、風土病フィラリアを根絶することができたのであり、その恩恵は莫大であります。
 また、その英知とエネルギーは必ずやまた次の健康づくり運動に生かされることでありましょう。
よって、フィラリア防圧10周年記念・第20回沖縄県公衆衛生大会を開催するに当たり、宮古群島住民および全沖縄県民の功績を讃え、ここに記念碑を建立します。
昭和63年11月25日:フィラリア防圧記念事業期成会
※記述は原文のママとし、読みやすくするために句点を挿入しました。
太平洋戦争当時から終戦、兵士の復員する頃まで、直接の戦闘で亡くなるよりも、マラリアで亡くなった方が多かったと聞きます。しかし、フィラリアについては特段に見聞きしたことがなく、これまでまったく知りませんでした。
そもそもマラリアもフィラリアも、簡単に言えば蚊を媒介にして感染する寄生虫が引き起こす病気で、寄生虫の種類によって発症する症状も異なっています。
「線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱旋尾線虫目糸状虫上科」に属する寄生虫の総称をフィラリアと呼び、犬の心臓などに寄生することが知られていますが、寄生虫の種類によっては人にも感染し、リンパ管を破壊して像皮病などの後遺症を引き起こします。

資料によりますと、1936年に沖縄県下で一斉に調査が行われ、県民の3分の1が保虫者であることが判明するも、防圧の予算が取れずそのまま放置され、戦後の1965(昭和40)年になって、ようやく日米両政府の協力の元、琉球政府時代の保健所によって、防圧がなしとげられました。
血液検査によって保虫者を発見し特効薬スパトニンを投薬する。薬剤を散布して媒体である蚊の駆除を行うという宮古島モデルを確立。県内各地にも導入され、フィラリア撲滅に向け大きく貢献します。防圧駆除の作戦は、返還を挟みながら続けられ、1978年には沖縄県内での保虫率が0となり、1988(昭和63)年に撲滅宣言が行われ、この石碑が建立されました。

ちなみに、マラリアも1961年に八重山で5名の再発患者を最後に県内の土着マラリアは撲滅され、1978年には撲滅宣言が出され、土着マラリアはなくなりましたが、感染したまま海外から帰国した人々が増えている傾向にあるそうです。

戦後、大きく動いた沖縄の衛生防除は米軍直属の地区衛生課(1945-51)の防除に始まります。米軍は南方戦線で厳重な対策を行ったにもかかわらず、相当数の患者を出した(主にマラリア。別名を戦争マラリアと呼ぶ)ことから、防除に躍起になっていたのかしれません。その後は琉球政府厚生局(保健所)による防除に移行(1952-72)。返還後は市町村の保健所によって継続され(1972-98)、衛生防除に大きな功績をあげたと云うことです。

次週はこの琉球政府厚生局が関連ていてる石碑を紹介してみたいと思います。お楽しみに。

【原文】 PhM takes blood smear of native girl.
【和訳】 地元の少女の血液塗布標本を採取する公衆衛生兵
撮影地:平良
撮影日:1945年
※沖縄県公文書館 米国陸軍通信隊

【資料】
沖縄の衛生動物防除史,1945-1988 (沖縄県衛生環境研究所報第33号) pdf
沖縄県 宮古保健所 ※所前の広場にある梯梧の落花によるハートの造形が素敵です(毎年の恒例)
琉球政府 厚生局(wikipedia)  続きを読む