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2024年03月22日

第二回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その2): 2名の犠牲者に言及したチャーチ艦長の報告

第二回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その2): 2名の犠牲者に言及したチャーチ艦長の報告
第一回では、これまで謎とされてきたイギリス船「カーリュー号」の宮古島訪問について見てきました。沖縄本島・宜名真沖に沈んだイギリス船「ベナレス号」の乗組員を捜索するべく奄美と沖縄に来航し、さらに琉球王府による乗組員救助へのお礼のため1873年11月に再度首里を訪れた「カーリュー号」のチャーチ艦長が、宮古島でのドイツ船(=ロベルトソン号)漂着についての情報提供を受け、ドイツ船の乗組員の捜索と(生存者がいた場合の)中国大陸への移送を依頼されて宮古島に来てみたところ、ロベルトソン号の乗組員は既に島を離れていた、というのが前回の概要でした。

今回は「カーリュー号」のチャーチ艦長の報告書をもとに、ロベルトソン号遭難における犠牲者について、これまでとは異なる説を紹介します。結論を先に言ってしまうと、実は島に上陸した後で、死者が出ていたのではないか、というものです。

ロベルトソン号の漂着(1873年7月)をめぐってはこれまで、ヘルンスハイム船長の日記や、救助された後の船長の申し立てに基づき、洋上で暴風雨に見舞われた際(つまり救出される前)に2名が命を落とした、とされてきました。他方で、島に上陸してからは、誰かが亡くなったという記述はないので、これまで「救助された船員はみんな元気で島を出発できた」と考えられてきました。

しかし、この「洋上で二名が死亡」という従来の説を覆す証拠が、ベルリンのドイツ連邦公文書館に保管された資料「太平山島の住民による、遭難したハンブルク船ロベルトソン号の乗組員の救助と、同島における記念の設立に関する件」(Rettung der Besatzung des verunglückten Hamburger Schiffes Robertson durch Einwohner der Insel Typinsan und die Errichtung eines Denkmals auf dieser Insel, 資料番号R 901/12867)から見つかりました。
第二回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その2): 2名の犠牲者に言及したチャーチ艦長の報告

この、ロベルトソン号遭難と「博愛記念碑」建立に関するドイツ側の一連の資料からは、ドイツ外務省がヘルンスハイム船長の報告に基づき、事件の概要について把握するとともに、宮古島の人々への謝礼の検討をしていく経緯などが記されています。その過程で外務省は、イギリス船「カーリュー号」が、後日宮古島に立ち寄ってドイツ船の捜索を行っていた事実を知り、その時の様子についてイギリス政府に問い合わせるのですが、これに対し駐独イギリス公使は、「カーリュー号」のチャーチ艦長が1873年11月の二度目の琉球訪問後に本国の海軍本部に宛てた報告書(1873年11月19日付け)を添付して、ドイツ政府に情報提供を行っています。その中に興味深い記述がありますので紹介します。

"At 2 p.m. the cutter returned on board, confirming the information that a ship had been wrecked there in July; she was a Tea-ship flying the German Colours, and had been dismasted and driven ashore on this coral-bound Coast. Seven European sailors, one woman and two Chinese had come ashore; the ships boat which they used was seen by Mr. Ogle. It was white, with a black top, but there was nothing to show what ship it was. It was stated that two of the Sailors died after landing, and that the survivors left in August in a Junk which had been given them … "

(日本語訳)「七月に船が一艘、そこに漂着したとの情報を確認し、小艇(=チャーチ艦長の部下のオーグルらを乗せたボート)が午後二時に本船(=カーリュー号)に戻って来た。この船はドイツの色の旗を掲げた、茶葉を運ぶ船で、マストを失って、サンゴ礁に囲まれたこの海岸に漂着した。7人のヨーロッパ人、1人の女性、そして2人の中国人が上陸した。彼らが用いたこの船のボート(=ロベルトソン号が島に上陸する際に用いた救命ボート)がオーグル氏によって確認された。それは白色で、舳が黒かったが、本船がどのような船であったかを示すものは何も残されていなかった。船乗りのうち2人が上陸後に亡くなったと、また生存者は8月に、彼らに供与されたジャンク船に乗って島を去ったと、人々は述べた。

どうやらチャーチ艦長自身は宮古島には上陸しておらず、部下の乗組員オーグルらを小船に乗せて島に派遣し調査させたようなのですが、オーグルは現地で様々な証言を集めています。宮国の役人からは、「洋上で2名が死亡し、8名が上陸した」と聞かされるのですが、上記の引用のように「10名が島に上陸したが、その後2名が死亡した」という証言も得ているのです。しかもこれは、宮古島の記録とも一致します。

実は、宮古島の『在番記』にもこう記されている(いた!)のです。

同(=同治)十二酉年六月十七日暎咭唎國ノローマニアニ國ノ船ヘ同國ノ者共男七人女一人広東人男二人都合十人乗合當島宮國村ノ浦ヘ漂着致破損乗込人数致陸下候ニ付成行為御届馬艦舩飛脚使取仕出長浜目差小禄仁屋若文子大宜味仁屋宰領ニテ差登致事

宮古島の人々がドイツを知らなかった(そもそもドイツという国自体、1871年にできたばかりです)ために会話に齟齬が生じたものと思いますが、「イギリス国のローマニアニ国」というのは、たぶん、イギリスの言葉(=英語)で言うところの「ジャーマニー」国、つまりGermany=ドイツと理解してよいか思います。そしてこの船が漂着されたとされる太陰暦の同治12年6月17日は、太陽暦の1873(明治6)年7月12日に相当します(なお、内地ではこの前年の1872[明治5]年12月3日を太陽暦の1873[明治]6年1月1日にして暦の切り替えを行いましたが、沖縄ではなお太陰暦が使用されていました)ので、ドイツ船の漂着と救助の時期が、船長ヘルンスハイムの日記の内容と一致します。ということで、この『在番記』の記述から、ジャーマニー国の船はロベルトソン号であり、その漂着の際には、ドイツ人男性7人、同女性1人、それに広東人の男性2人の「都合十人」が漂着し、この乗組員10人が陸に上がった(下りた)ことになり、オーグルの証言とも一致するわけです。

これまで、ロベルトソン号の漂着に関する情報は、主に船長ヘルンスハイムの日記に依拠して構成されてきましたが、イギリス船カーリュー号による調査の内容には客観性があり、かつ宮古島の『在番記』の記述とも一致することから、信頼に足るものだと思います。逆に船長の日記では、宮古島の人々の親切さを強調する傾向があり、また漂着や救助に関して全てを語っているとは言えない部分もあり、実は瀕死の重傷を負った状態で救助された船員2名が、島に上陸した後に亡くなった可能性は十分ありそうです。

次回もこの点に着目して、ロベルトソン号の乗組員が島で亡くなったという説を補強する材料を示していきたいと思います。



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この記事へのコメント
イギリス人が当時ヨーロッパの中で事実に基づく国民性で知られていたというのもポイントですね。『ベニスに死す』でも、ラストでコレラを確認する相手は、イギリス人でした。
Posted by 片岡慎泰 at 2024年03月23日 01:38
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