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2017年01月31日

第120回 「大正十五年改修の碑」



えー、「んなまtoんきゃーん」キリ番の120回目です。今回は静かに闇の中で眠る石碑を取り上げてみたいと思います。このオープニングを書いている時点で、まだ着地点がありません(いつもだいたい、読み手の想像にまかせてうやむやに終わるパティーンですけれど)。
闇の中に眠るという修飾したのは、この石碑の立地状況が大いに関係しています。画像を見ていただければ気づかれると思いますが、石碑の撮影にはフラッシュをガンガンに焚いて撮影しました。

こちらの「大正十五年改修の碑」とある石碑は、城辺は友利のあま川(あまがー)の中にあります。そうです。急峻な隘路を20メートルも降りた洞泉(うりがー)の底、自然光の届かない地底世界に建立されているのです。

「あま川」「天川」「あま井」など、紹介される名称には色々な字があてられていますが、雍正旧記(1727年。集落の主な御獄や井戸について書かれた古文書で、当時の様子が判る古い史料)にある井戸の区分(と考えられる表記方法)では、天然洞泉や湧水を表す「川」を使って、「あま川」と書かれていることから、これをここでの表記としたいと思います。尚、~井と書かれているものは、掘り抜きの井戸(もしくは掘り抜きに改修した井戸)と考えられています。

あま川の石碑といったら、洞泉の入口に立ち並ぶ、石碑群を思い浮かべますが、大半は史跡を示す案内用ばかりで、洞口に一番近い所に建っている改修記念碑がひとつあるだけです。この改修記念碑はる1949(昭和24)年の建立で、戦後すぐの時代に行われたもののようですが、具体的にどこを改修したのかは判っていません。

洞底に建立された大正期の改修記念碑に刻まれた碑文を読み取ってみると、
友利
砂川 三字 寄付
新里

大正十五年改修 七月二十日?

    宮国真幸
 □□  饒平名長昆
    真喜屋金
と、書かれていることが判りました(□は記述不明)。
なんとなく友利や砂川は集落位置から、すぐにイメージ出来ますが、新里の字も書かれていたことは、改めての「気付き」を教えてくれました。新里は旧上野村にあり、旧城辺町の友利、砂川とは行政区域が異なりますが、古くはいずれも砂川(うるか)間切に属していました(下地村から上野村が分村したのも間切が異なっていたからとも云われて云われています)。
新里の位置を改めて確認してみると、あま川からまでの直線距離は1キロほどでした(旧番所基準の直線距離は、友利が500メートル、砂川が750メートル)。ただ、新里からは上比屋の山を越えなくてはならないので、もう少し距離が必要だったかもしれませんが、思っていた以上にお隣さんな集落であることが確認できました。
同じ間切で、同じ井戸を使っていたことを考えると、これらの集落の結びつきというのは強かったのではないでしょうか。

洞口の1949(昭和24)年改修記念碑と同様、こちらの1926(大正15)年の改修もされた場所は判っていません。ただ、このあま川は1955(昭和30)年に完成した、砂川友利地区の簡易水道の水源として利用されました。
島の水道事業は1943昭和18)年に、大日本帝国海軍が白明井(すさかがー。平良に東仲宗根。八千代バスの北西、白川苑の裏手)を水源とした上水道を敷設し、戦後も米軍によって改修され利用していた。1951(昭和26)から平良市三大事業(電気・水道・港湾の近代化整備)によって、本格的な上水道整備が行われました。

一方、城辺でも1954(昭和29)年に初の民営簡易水道が保良地区に敷設され、砂川友利地区はそれに続く簡易水道の水源として利用されました。現在もその名残として、洞底にはコンクリート製の増水槽が残されています。その脇にはボルトの跡があり、組み上げるポンプが設置されていた場所も確認できます。
ポンプ跡のすぐそばにある改修記念碑の上端部をよく見てみると、半円状に欠けていて碑文の「大」の字も一部が欠損しています。欠けた円のサイズから想像するに、恐らくは簡易水道の水を汲み上げるパイプの台座として利用されていたのではないでしょうか。

その後、1963(昭和338)年に城辺町は町営水道事業を計画し、加治道で水源開発を開始(現在、加治道水源地と浄水場がある)。各市町村独自の取水と上水道計画に対し、米軍政府は統合的な上水道管理が必要として、1964(昭和39)年に宮古島用水管理局を設立しますが、住民からの反対によって廃止され、翌1965(昭和40)年に宮古島上水道組合が設立されました。1972(昭和47)年の復帰により、宮古島上水道企業団と改称され、公営水道として運用され、1977頃には島内のほぼ全域で水道が利用できるようになります。
平成の大合併によって2005(平成17)年に宮古島市が誕生して単一行政となったため、広域事業から宮古島市水道局となります。また、2010(平成22)年の行政改革によって水道局と下水道課が統合され、現在は宮古島市上下水道部と呼称されるようになりました。

上水道ひとつとっても、宮古島の時代や世相が色々と見えて来て、とても面白く興味が尽きません。それにしてもわずか60年前まで、この洞泉に降りて水を汲んでいたことを考えると、島の人の水に対する想いがひとしおなのもうなづけます。

【参考資料】
宮古島市上下水道部
※左側サイドバーのPDF資料の「パンフレット」または、「宮古島上水道ビジョン」がおすすめです。
※オマケとして右サイドバー最下段の「下水道WEBマップ」は島内の下水道の敷設状況が一目瞭然でオススメです。
宮古島市の上水道(wikipedia)
※よくまとめられていて、判り易い上水道の概要です。

【関連石碑】
第29回 「石原雅太郎氏像」
※平良市三大事業の提唱者
第43回 「海底水道竣工記念」
※狩俣から池間島への水道送水管の竣工記念碑
第45回 「白川田上水道顕彰碑(仮)」
※白川田にある石原雅太郎の顕彰碑。この時の宮古島上水道組合の管理者は真栄城徳松
第81回 「保良泉改修記念碑」
※同じ城辺にある保良の湧水で、簡易水道時代は水源となった場所。  続きを読む



2017年01月27日

其の9 「島に生まれ、島を想い、島を歌う。 暁さんの〝みゃーく″」



彼の音楽は、地中から湧いてくるようであり、海が運んでくるようであり、天から降ってくるようでもある。アップテンポの軽快な曲も、ソウルフルなバラードも、その曲はいつだって宮古島そのものだ。「歌は自然の一部であればいい。風や波のような、太陽や月や星の光のような自然の一部だったりであればいい」というその人はアイランダー・アーティスト、下地暁(しもじ さとる)さん。島で初めての放送用サテライトとレコーディングスタジオ・レーベルを立ち上げ、自らの音楽活動、地元ミュージシャンのプロデュースをはじめ、ラジオ番組の企画・制作、パーソナリティをつとめるなど、島発信の活動は精力的で幅広い。毎年の一大イベントとして定着したクィーチャーフェスティバルの発起人であることも、島では知らない人はいないだろう。

【肌身離さず持ち歩く母や家族の写真。セピア色の一枚一枚に、色濃く想い出が宿る】

暁さんが生まれ故郷の宮古島に戻ってきたのは25年前。危篤の母の病床で、甥っ子や姪っ子たちと方言で会話ができなかったことに衝撃を受けた。

消えていこうとするおふくろの命と島の言葉が僕の中で重なった。
言葉を失うことは親を失うことと同じだと思った。
おふくろが、歌を通して島の言葉を残しなさいと、伝えてるように感じたんだ。
僕がずっと音楽をやっていた意味は、ここにあったのかとね。


その頃東京で、念願のメジャーデビューの計画も進んでいた暁さんにとって、島へ戻ることは一大決心だったが、失われていくものへの危機感と使命感はもっと切実だった。「僕にとっては、おふくろイコール宮古島で、それは自分そのものなんだよね」と暁さんはいう。その言葉どおり、暁さんの歌の多くに母への想いがこめられる。

島の言葉で作った最初の曲「オトーリソング」は、おふくろへの鎮魂歌。
おふくろが、もう一度元気になって古希の祝いができればいいのにと、
危篤のおふくろを見舞うために病院に行く途中、
第三給油所の前の信号待ちで、ふと歌になったのが原型。


子どもたちや嫁や婿や孫たちが内地から沖縄本島から集まり、オトーリ回して喜びを分かち合う「オトーリソング」には、家族であることの幸せ、命が綿々と受け継がれていくことへの誇りがあふれる。暁さんは、命のつながり、命の根を光だという。光は過去現在未来を照らす命そのものなのだと。
暁さんは、6人兄弟の年の離れた末っ子として、城辺に生まれた。母はとても優しい人で、母を想うとき、その思い出はいつも子ども時代にさかのぼる。それは島に生きる、人の暮らしの記憶でもある。

おふくろは具合が悪いと、必ずユタを頼んだ。
僕が熱を出したりすると、「今日何かしたか?」と問われ、
御嶽の近くの木の枝を折ったともなれば、すぐにユタを呼んでカンニガイ。
風邪をひこうが何をしようが、まずユタだった。


ユタの祈りは歌のようだったと暁さんはいう。暁少年の心には、母と歌と祈りと命が、原風景として同時に刻まれた。

ユタでも治らないと、大浦の医者のところにいく。
「暁、まい行かでぃ?」と必ずおふくろはいい、僕はいつも喜んでついていった。
長間からバスが走る本道まで歩く。履物もなくほとんど裸足だったね。
バスがエンストすると、運転手が下りてきて、手こぎしてエンジンをかけるのも面白くて。


舗装のしてないデコボコ道を、共栄のボンネットバスに揺られ、ふたりはまず「ぴさら」へ向かう。終着の「ぴさら」の停留所から「八千代バス停」まで歩き、そこから大浦へ。城辺の西城から大浦までの医者通いの日は、ちょっとした旅行で、暁少年にとって、母を独り占めできる幸せなひとときだった。

出かける前には、おふくろが弁当を作ってくれた。
楕円形のサバの空き缶が弁当箱で、中にはふかした芋とサバの半きれ。
注射が終わって、帰りのバスが来るまで、
大浦の海岸の木陰で海を見ながら、弁当をふたりで分け合って食べるんだ。
バスが、遠くからもうもうと砂埃があげながらやってくる。
「かあちゃん!バス乗る!」と慌てると、
「しゅわすな、むのぅふぁい(心配しないで食べなさい)」ってね。


うちはすごく貧乏だったと暁さんはいう。近所では一軒だけになった茅葺の家は台風のたびに飛ばされた。中学校に上がったときには、友人たちが学生服を新調する中、政府から支給された黒の半ズボンに、母親が、同じような布をはぎ合わせて、長ズボンに仕立ててくれた。暁さんはそのズボンを手製の重い敷布団の下でプレスして、ビシッとさせた。「貧乏に見られたくないからさ」

やがて暁少年は少し大人になり、青春時代を迎える。母に手を引かれ、ボンネットバスに目を輝かせた少年は、長髪をなびかせ、バイト代を貯めて買ったナナハンを乗り回す高校生になった。サイドバックにつけたカーステレオからはディープパープルを大音量で流した。本人は否定するが、全島女子の憧れの存在だったに違いない。

意外と目立ってたらしく、遊び人でプレイボーイだと思われてたみたい(笑)
でもね、僕はすごく真面目だったんだよ。
昼は働いて夜は定時制の高校へ行って、陸上、バレーボール、バンド。
遊ぶ暇なんか、ぜんぜんない。
それに、おふくろのこと思ったら、悪さなんてできるわけないさ。
もうちょっと遊んでおけばよかったかなと思うくらい(笑)


高校を卒業した暁さんは上京。大都会で夢を追う無数の若者たちのひとりとなった。真面目で努力家の暁さんは、やがてその中でも頭角を現し、音楽仲間と練習スタジオやライブハウスを立ち上げ、インディーズレーベルの運営などに関わりながらアマからプロへとビックになっていくミュージシャンたちと活動を行うようになる。挫折、そして喜び・・・寄る辺のない都会のカオスの中で、暁さんを支えたものは、宮古島という命の根。母につながる島への想いだった。ロックを歌いながらも、脳裏には歌うように祈るユタの姿があった。
そして、当時大流行したバンドのメンバーとデビューという、願ってもないチャンスが訪れたとき、暁さんのもとへ母の危篤の知らせが届いた。

島の古謡を唄うときは、必ずその唄が生まれた聖地にお礼報告を兼ね挨拶に行く。
でも、どっぷりと、伝統的に歌うというのとは違う。
これまで僕が培ってきたものすべてを土台として、
次に繋がるような新しい宮古を表現できるとね。


暁さんのアルバムには、国内外で活躍する人々が関わる。宮古島を外からみたらどうなるんだろうということに興味があると、暁さんはいう。みゃーくふつで書かれた曲が、宮古と内地、あるいは海外との間を行ったり来たりしながら、それぞれの想いが織り込まれ、ひとつの作品が生まれることが面白く、とても興味深いと。
暁さんと島の鼓動から生まれたものが、アレンジャーやプロデューサーの想いをのせ、綾玉となって帰ってくる。それを下地暁が歌えば、揺るぎのない宮古島となる。なぜなら彼自身が宮古島だから。

暁さんがいつも肌身離さず持っているものがある。古い小さな写真ホルダーだ。そこにはお母さんの写真と家族の写真、お母さんと幼い暁さんが一緒に写っている写真が数枚収められている。「ライブやレコーディングのときは、必ずこれを置いて歌う。感謝を込めて。僕の大切なお守りなんです」
この島に生まれたことへの感謝、家族や周りの人々への感謝・・・感謝という言葉を、暁さんは何度も繰り返した。

【最新アルバム「宮古世」。前作の「Myahk」に続き、世界で活躍するGoh Hotoda氏をプロデューサーに迎えた。レコーディングには国内外からアーティストが参加】

下地 暁オフィシャルサイト(Lagoon Music Co.Ltd)


※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
こんなにも親を想い、家族を想い、故郷を想う人がいるんだと、暁さんと話していると思います。そしてそのストイックなまでの使命感!屈折のないストレートな強さ!でもご本人いわく、「俺は挫折してきた人間なんだよ。弱いし、自分が弱いことを知ってる」と。いや、暁さん、それはむしろ強いでしょ。人を強くするのは、やっぱり信念なんだなぁ・・・。ところで、暁さんの歌は宮古島そのものですが、わたしは、故郷に帰る電車の中で、よく暁さんの曲を聞いています。見える景色は全く違うのに、なぜかしっくりくる。わたしに島につながる命の根はないのに、なぜかわかる。言葉がわからないのにもかかわらず。もしかすると、暁さんの歌う命の根は、この世の生きとし生けるものすべてをつないでいるのかもしれないなぁ。
きくちえつこ 
  



2017年01月24日

第119回 「玉石保存記念碑」



今回紹介する石碑は、石を記念した石碑というものになります。なんかゲシュタルト崩壊寸前のような字面ですが、こちらの記念碑は城辺は砂川(うるか)の集落にあり、タイトルにある「玉石」は、「たまいし」と読みます。
果たして玉石とはなんぞや、石の石碑とはいったい。それでは119回目の「んなま to んきゃーん」、スタートです。

石碑が建立されている場所は、砂川集落にある砂川神社(うるかじんじゃ)の前になります。こちらの神社もなかなかの魅力的な造形を誇っているので、余興がてらに紹介してみたいと思います。
真っ赤な鳥居をくぐって階段を登ると、タイル張りのごつい賽銭箱と、鈴緒がぶらさがった拝殿があります。その拝殿の両脇に、なにかがいます。ええ、何か一対いるのです。それは狛犬とも、シーサーともつかない謎のなにか。怪獣?、物の怪?、UMA?。
石を削りだして作られたその造形は、、どことなく宜野湾の古式シーサー(喜友名の石獅子群)とか、八重瀬町の石彫大獅子(冨盛の古代獅子)をちょっと彷彿させますが、やっぱりなにかが違います。

【左】砂川神社全景 【中】右のなにか 【右】左のなにか

狛犬やシーサーのような鬣(たてがみ)は強く渦を巻き、どちらかと云えば螺髪(らほつ:大仏のヘアスタイル)のように見えます。首周りにはエジプト壁画で見かける首飾りのような、なにかが弧状に描かれており、中央部には宝飾が施されています(実際には形だけ)。また、背中に小さな甲羅のような突起物がひとつあります。耳(らしきもの)は凸るどころか、頭蓋に穴を作るほど凹んでいまし、楕円形をした吊り上がった大きな目は、なんとなく爬虫類チックで、ともすればよくある宇宙人のグレイのような雰囲気にも見えます(爬虫人類?)。これがなにを模しているのだろうと考えるよりも、眺めて続けていると地球外生命体にしか見えなくなってしまいました。ごめんなさい与太が過ぎました。
少し落ち着きましょう。こちらの砂川神社は神社を名乗っていますが、本来は御嶽である(あった)と思われます。拝殿の奥にある神殿は御嶽でも見かけることのある祠のようなスタイルですし、境内にある木々の根元には遥拝とおぼしき祭壇(拝所)も見受けられます。けれど、拝殿の作りや鳥居、水こそないものの手水舎(ちょうずしゃ)があることから、ここは神社として建立されていると云うべきかもしれません。
オマケとして手水舎の脇に、支廰庁長 明知延佳の名で「神社改築記念碑」が建てられていました(昭和の初期に、沖縄縣宮古郡教育部會長や、沖縄県宮古支廰長を務めた人物で、博愛記念碑60周年祭の関係者として名前が挙がっています)。判る人だけニヤリとしてください。

余談が長くなりすぎましたが、本題である玉石を進めましょう。
ここでいう玉石は、広義の「力石(ちからいし)」に類するもので、宮古では「挙げ石(アギイス)」ともいわれていました。娯楽が少なかった戦前あたりまで、農作業を終えた青年らが村番所などに集って、夜毎、この石を持ち上げては、力試し力比べをするパワー系の草競技でした。
石は大きいもので7~80キロ、小さなもので5~60キロあったそうで、大きな石は肩まで持ち上げる競技、小さい石は両手で頭上まで持ち上げる競技だったそうです。なんとなく重量挙げのスナッチとジャークのような雰囲気を感じます(ルールが異なるのであくまでもイメージです)。
ところが、不心得者によって石が破壊されてしまったのだといいます(時期的にはアギイスとして使われなくなり、忘れ去られた戦後ではないかと思われます。記念碑の周辺や改善センターの拝所に、半球状の石が落ちていたのは、もしかすると昔の玉石のカケラだったのかも)。
そのため現在、この記念碑の前にある石はレプリカです(しかもコンクリに固定されています)。なので、石の形が少しゴツゴツしておりアギイスらしくありません。玉石と云うくらいなので、本来は丸々と球形をしていたはずなのです。
実はアギイスは島の各地にわずかですが現存しおり(特に城辺地区)、新城、七又、西中は文化財にも指定されています。また、近年になって島尻にもアギイスを保存する施設(路傍の残地)が作られました(腕力を搾り出せ!)。

これを調べていたら、ちょっと面白い資料を見つけました。自治会が2015(平成27)年に刊行した「うるか字誌」に、初代の玉石と記念碑の写真が掲載されていたのです。
その石碑にはびっしりとなにかが記されているのですが、残念ながら白黒の荒い画像なので、その気になる文言を読み取ることは出来ませんでしたが、初代は1939(昭和14)年12月に建立されていることが判りました。
しかも、この写真の出所が、国民精神文化研究所の河村只雄(1893-1941)だというのですから面白いです。河村は三度、宮古を訪れています。最初が1936(昭和11)年11月6日~13日、2回目が1938(昭和13)年6月16日~7月10日、3回目が1940(昭和15)年7月5日~16日です。この写真は3回目の訪島の際に撮影されたものだそうです。
砂川神社の改修を行った明知延佳が宮古で活躍した時期を考えると、恐らく初代の玉石記念碑と神社の改修は、連動していたのではないかと思われます。
今、こうして石碑を通して見つけた小さな煌めきに惹きつけられ、一喜一憂していますが、かの時代もまた島のなにかに惹きつけられ、様々な人たちが交錯していたことを、石碑を通して気づかされ、妄想が焚きつけられます。

河村が初めて宮古を訪れた1936(昭和11)年の11月は、博愛記念碑60周年祭が開催された月。
11月6日に河村は宮古入りし、10日には家族制度研究のために池間小学校を訪れています。そして13日には湖北丸で宮古を離れ、八重山へと向かっています。
そしてこの13日に宮古に入港した湖北丸は、60周年祭に参加するトラウツ博士ら一行が那覇から乗って来た船であり、60周年祭は翌14日から三日間に渡って開催されるのでした(『続・ロベルトソン号の秘密』第二十一話「トラウツ博士、宮古へ」その一)。

この歴史を紡ぎだすような邂逅(実際に邂逅してるとは云ってない)に、ひとり身悶えて興奮してしまいたくなります。そんなささやかなキーワードが散りばめられている宮古島。やっぱり面白いです!。

【資料】
河村只雄日記について―「河村只雄日記行程表」をもとに―(pdf)
上記の資料には2回目旅程(1937/昭和12)は本島近海のみ(8ミリで撮影するも、暑さでフィルムが溶けたらしい)。玉石を撮影したとされる1940(昭和15)年の旅程は記されていない。  続きを読む



2017年01月20日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十一話「トラウツ博士、宮古へ」 その一



前回見てきたように、1936(昭和11)年に稲垣國三郎が(久松五勇士の式典に参加のため)宮古を訪問した際、この年が博愛記念碑の設置(1876年)から60年になるので、何か行事をしてはどうかと提案したのを機に、下地玄信らを中心とした大阪の沖縄関係者が中心となり、準備が進められました。玄信は、船場にある自分の計理士事務所を60周年事業の準備事務所として提供、また大阪の社交界で築いた人脈を活用して、政府にも働きかけるなど、式典開催のために精力的に動き回りました。その結果、11月13日から15日にかけての3日間、宮古諸島を挙げての一大イベントが開催されることになったのです。

とはいえこの式典に対するドイツ側の反応はどうもぱっとしなかったようで、当初は在京のドイツ大使館に、駐日ドイツ大使あるいは代理の外交官の出席を要請したのですが断られ、代わりに沖縄を管轄地に含む神戸のドイツ総領事館に館員の出席を求めますが、開催地が遠方かつ離島という事情もあってか、やはり断られてしまいます(なお神戸には1874年以来ドイツの領事館があり、西日本を管轄していましたが、1995年の阪神大震災で建物が被害を受けたため、大阪に移転しています。現在は大阪・神戸ドイツ総領事館という名で、梅田スカイビルの35階に事務所が入っています。詳しくはこちら)。

このように既に準備段階から、日本側が60周年式典にずいぶん乗り気だったのに対し、ドイツ側はかなり消極的で、結果的に宮古に赴いたドイツ側の関係者は、これから紹介するトラウツ夫妻のみとなってしまいます。なぜドイツ側が式典参加に消極的だったのか、という疑問ですが、そもそも考えてみればこの式典、救助されたドイツ人やドイツ政府の側から何かお礼をしたいとか、宮古を訪問したいとか言って企画されたものではなく、救助した宮古(日本)の側が、自分たちの先祖をある種「自画自賛」的に持ち上げる形で計画していているので、式典のあり方にそもそも無理な部分があるとも言え、ドイツ側がいわば「引いて」しまったのも仕方ないようにも思われます。

そんなわけで、式典は日本側主導の「お祭り」として企画、実行されていき、実際に11月14日の式典の日本側出席者は、外務省の二見事務官、沖縄県学務部長、宮古支庁長、那覇地方裁判所長、その他県や那覇市の関係者と膨れ上がります。また代読された祝電も、時の総理大臣廣田弘毅をはじめ、内務大臣、外務大臣、文部大臣、沖縄県知事という錚々たるもので、いかに日本側(というか玄信など企画者たちが)が式典に気合いを入れていたかがわあります。これにはさすがにドイツ側も、誰も宮古に人を送らないという訳にはいかなかったようで、結局、京都ドイツ研究所の所長をしていたフリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ博士(Friedrich Maximilian Trautz,1877-1952)を政府代表として派遣することにします。

このトラウツ博士、南ドイツの町カールスルーエ(Karlsruhe)の出身で、軍人を志しますが、折しも日露戦争で日本が勝利したことに感銘を受け, 1906年にベルリンの軍事学校に入学とともに日本語の勉強も始めます。第一次世界大戦に従軍しますが負傷して除隊、1919年からはドイツ内務省に勤務します。その後は日本研究に打ち込み、1921年に日本の卒塔婆に関する博士論文で博士号を取得、その後1926年までベルリン民族学博物館の学術補佐を務めました。1926年には、この年ベルリンに新設された「日本研究所」の所長になっています。その後1930年に来日、京都に住んで、松尾芭蕉や高野山の根本大塔の研究に取り組みます。1934年、自らの手で「京都ドイツ研究所」(Deutsches Forschungsinstitut in Kyoto, 日独文化研究所とも言う)を設立し、その所長に就任、1939年に帰国するまで研究所を運営しました。帰国(公式には健康上の理由とされているが、諸説あり)した後は、大学での仕事のオファーもあったようなのですが、これを断り、退職者として余生を過ごしました。

さて、大使館の依頼を受けて、ドイツ政府の代理として宮古での式典に参加したトラウツは、京都に戻った後でこの出張の報告書を執筆し、大使館に送っています。その写しが、彼の遺品(いわゆる「トラウツ・コレクション」と呼ばれるもの)の中に収められていましたので、今回からしばらくこの報告書に従って、トラウツ夫妻、それに同行した下地玄信や江崎悌三夫妻らの足取りを追ってみましょう。

まず簡単に旅程を見ていきますと、トラウツは11月9日に京都を出発し、大阪で下地玄信と合流、その後、陸路で福岡に向かい、ここで(同じく式典に参列する)九州帝国大学教授の江崎悌三(昆虫学が専門。江崎については第二話を参照)とその夫人(ドイツ人)と合流しの出迎えを受けた後、空路で那覇に向かいます。11月10日の午後から11月12日の午後まで那覇に滞在した後、大阪商船の湖北丸で出航、宮古には11月13日朝から15日の夕方まで滞在して、湖南丸で那覇に戻ります。11月16日の朝から18日の午後まで再び那覇に滞在し、帰路は大阪商船の台南丸に乗って21日に神戸に帰着しています。

なお、トラウツ夫妻には、京都大学で理学を収めた津田松苗が同行していて、ドイツ語のスピーチなどは彼が日本語に訳していたようです。また九大の江崎悌三はドイツ留学の経験もあり、語学に堪能でしたし、夫人はドイツ人でしたから、言葉の面では不自由のない道中だったと考えられます。

出発2日前の11月7日、外務省の二見事務官と、大阪在住の沖縄出身者で『大阪球陽新報』を発刊していた眞榮田勝朗が、一足早く船で那覇に向かっています(航空機にあまり荷物を積めなかったため、荷物の一部を眞榮田氏に預かってもらった)。そして9日の朝、京都駅を出たトラウツ夫妻は、大阪で下地玄信と合流。(仕事の都合で)式典の影の立役者ながら宮古に行くことができない稲垣國三郎ほか、実行委員会のメンバー、報道関係者、沖縄出身者らに見送られ、万歳の叫びの中を西に向けて出発します。この日は下関の山陽ホテルに宿泊、翌10日は、博多駅で江崎夫妻と合流し、10時50分の飛行機(日本航空輸送株式会社の福岡~那覇~台北を結ぶ、いわゆる「内台航路」)で福岡第一飛行場(通称「雁の巣飛行場」、同じ1936年に開港したばかりの空港)を発っています。

一行は那覇の飛行場に14時07分に着陸します。船で先発していた実行委員会のメンバー、沖縄県や那覇市の行政・教育の関係者、教員たち、多数の報道陣、さらに数百人の小学生の出迎えを受けた後、午後4時頃に宿舎の楢原旅館に車で到着しています。なおこの楢原旅館は、那覇市西本町1丁目10番地にあったとされ、トラウツはここに11月10~12日の2泊と,帰路の11月16~18日の2泊、計4泊しているのですが、じつはこの旅館、かつてロシア出身の東洋学者で宮古方言の研究も行ったニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevsky, 1892-1937)も宮古への途上で投宿しているという、宮古と縁の深い宿です。風月楼の経営者だった楢原鶴吉が、浅田旅館を引き継いだもので、現在の明治橋の東側の付け根の北側辺りにあったと言われています。なお楢原氏が元々経営していた風月楼の方は、国場川に浮かぶ小島に建っていた昔の琉球王府の倉庫「御物城(おものぐすく)」を引き継いだものです(現在この敷地は米軍施設の中にあるので立ち入りができません)。
在りし日の風月楼の写真はこちらをご覧ください。

那覇滞在中のトラウツは、精力的に各地を見て回っています。到着日の11月10日に、波の上神社(と境内で開催中の国防展示会)を見学、さらに護国寺にも赴き、かつて1846年から8年間那覇で布教活動をしていたイギリス人(但し生まれはハンガリーでユダヤ系)の宣教師ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim, 1811-1870)の記念碑なども見学します。翌11日は那覇市役所、沖縄県庁などの役所を訪問後、真玉橋を見学(当時は軽便鉄道が走っていたと記されています)、午後は首里城に向かい、尚泰王の弟、尚順男爵の出迎えを受けました。尚家には、1876年にドイツ皇帝フリードリヒ1世から(ドイツ船救助の感謝のしるしに)贈られたとされる望遠鏡が保管されており、トラウツはこれを見せてもらったそうです。また首里城内に博物館があり、沖縄出身の沖縄研究者、島袋源一郎(彼がこの博物館の開設と所蔵品の収集に尽力)の案内を受けて館内を見学しています。夕食は、県と那覇市,教員組合の招待を受け、関係者38人と会食をし、この場でスピーチも行っています。さらに食事の後は、観劇に出かけており、この日は「首里城明け渡し」(1879年の琉球処分)をテーマとした芝居が演じられたとされています。

翌12日も、那覇市内を散策。書籍や衣類、動植物、農産物や畜産物についての記述があることから、この日は市場を回っていたものと推測されます。そしていよいよ、夕方4時の湖北丸で、宮古に向けて出航。宮古でも、超多忙なスケジュールをこなすことになるのですが、続きはまた来月。

[20170316改訂]  


2017年01月17日

第118回 「復帰記念事業の碑」



今回ご紹介する石碑は「復帰記念事業の碑」です。とてもストレートな碑名ですが、そう大書きされているだけで、実質はサブタイトル的に刻まれている「積上 海上道路工事」の開通を記念した石碑であると思われます(積上=ツミャギ)。

石碑が建立されているのは、佐良浜海蝕崖のシンボルともいえるヤマトブー大岩の前。ちょうど海上に道路が張り出したカーブの内側に建立されています。まさに「海上道路」の部分にあります。ちなみにこの石碑の隣には第16回で紹介した「伊良部大橋開通記念碑」があります。また、道の向かい側には市指定無形民俗文化財「イラウタオガニ」(伊良部トーガニ)の指定記念碑も設置されています(唄なので無形文化財として地域を定めずに指定されていますが、どうしてこんなところにあるのか不思議でなりません。どなたか納得いく解説を披露してください)。

それにしてもなぜかメインのタイトルが開通の方でなく、復帰記念事業となっているでしょう。お金の出所が関係しているのでしょうか。そのあたりは謎ですが、1978(昭和53)年に刊行された伊良部村史を紐解いてみると、1971(昭和46)年7月に「復帰記念事業として、伊良部村トラバー海上道路着工さる」とありました。
トラバーとはこの場所の地元での通称名で、このヤマトブー大岩の前の浜のことを呼ぶそうですが、トラバーチンのトラバーなのではないかと思われます。なにしろヤマトブー大岩はトラバーチンの塊(一枚岩)ですからね(ちなみに、ヤマトブーのブーとは岩のことなので、直訳するとヤマト岩岩。チゲ鍋読みになっているのは秘密です)。
また、ここのトラバーチンが国会議事堂(実に五代目。実は何度も焼けている)の建材の一部として、利用されているという話も有名なのですが、少し調べてみると宮古島や来間島をはじめ、沖縄県内の各地でこうした話が痕跡が残っており、産地は相当数あったのではないか思われます(詳細は未明)。

ざっくりですが縮尺と方位を揃えたので、地図とか航空写真とかを駆使して比べてみようと思います。
まずは現代。地図は国土地理院の電子国土Webから拝借しました(URL)。
黄色の線で描かれた県道252号線こと伊良部大橋が目立っていますが、件の現場は橋を渡った突当りを右折し、島に沿って北(佐良浜方面)に進むと、両側を海に挟まれた短い道路があります(画像右端)。そこが石碑のある「トラバー海上道路」になります。
ちょうどこのあたりから北側は等高線の間隔が狭く、傾斜の強いことが判ります。そして境目にはヤマトブー大岩があり、左斜め上の「牧山」の文字に向かって崖のラインが伸びています(牧山は伊良部島最高峰で89.2メートル。あれれっ?)。
尚、伊良部大橋の開通に合わせ、2015年に橋の部分のみ航空測量が行われています。

続いては1962(昭37)年に米軍が撮影した航空写真(角が切れているのは方位を揃えるために写真を回転させているから。収蔵は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス)。
撮影時期が復帰前になるので、海上道路はありませんが、ヤマトブー大岩や牧山の佐良浜海蝕崖の影が見えているので、位置も特定しやすいです。牧山の少し西の方、丸く黒っぽく見えている森は比屋地御嶽。さすが信仰の場、ここへつながる道だけはいつの時代でも存在しています。
この年代の写真を見ると、佐良浜からヤマトブーに向かって道が伸び(次第に細くなる)、岩と崖の隙間に消えています。恐らく岩の隙間を抜けてトラバーの浜へ抜けているのではないかと考えられます。また、長山方面は台地の下にも耕作地が見え、現在の県道252号に沿った位置に道も通っているのが判ります(長山港は切れてしまった)。

再び地図に戻って、1940年代撮影の航空写真を元にして作られたとみられる米軍のカラーの地図。
もちろん、トラバー海上道はありません。実際に測量して作図されてはいないようなのと、地図の縮尺がかなり大きいので、細部の描き込みが少し甘く、ヤマトブー大岩などの記述がありません。しかし、戦中から戦後すぐにかけての時期に、こうした地図をすでに持つ(作る)米軍。どんな神風が吹こうともこれは勝てるわけがありませんね。
尚、戦中の牧山には平良港を守備するための陣地壕があり、戦跡として現在も残っていますが、地図上では北からの道と西からの道が比屋地御嶽あたりで合流し、壕のあった牧山の展望台付近へと伸び、最後はサークル状の道になっていて、そこになにかがあることを示しています。なにがあったのでしょうか、気になりますね。

最後は大正10(1921)年に測量して作られた日本の白黒の地図。参謀本部陸地測量部という記名がされていました。
伊良部島最高峰である牧山には、三角点が描画されており、88.8メートルと描かれています。記憶では確かずっとこの高さだったはずなのですか、最新のデータ(最初の地図)では標高が高くなっているようで、ちょっと驚かされました。
その三角点のまわりにある崖の記号が、牧山からヤマトブー大岩を廻り込んで、現在の採石場(鉱山)のあたりまで伸びています。
佐良浜(北)から比屋地御嶽の前を通り、牧山の駐車場から奥にある東屋あたりを通って、崖を垂直に下って台地を降り、島に沿って海沿いに西(長山)方面に続く、破線の道(現代の地図では幅員1.5メートル程度の徒歩道)が描かれています。これはかなり衝撃的な展開でした。ある意味、古道して復活させてみても面白いかもしれません(まず無理ですが)。
最初に伊良部に人が住んだと云われる積上(ツミャギ≒佐良浜元島遺跡)から、ヤマトブー大岩は浜に降りる目印だったとか、久米島からやって来て、比屋地御嶽の祭神となった「あからともかね」が上陸?したりとか、昔からこの界隈には道(のようなもの)があったと思われる節があります。
位置は少し異なりますが、崖を行く道は現在もあったりします。ヤマトブー大岩の北側(裏側)、牧山へと登ることのできる荒れた歩道が隠れています(実際には廃公園?の一部だったようで、途中には眺望の良い階段や、何も見えない東屋などがあります)。
健脚冒険向けではありまずか、隠れたオススメポイントだったりしますので、気になる方は装備に留意して自己責任でお楽しみください。

【左】ヤマトブー大岩と佐良浜海蝕崖を石碑脇から望む。
【右】ヤマトブー大岩裏手の階段から隙間越しに、伊良部大橋を望む。

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2017年01月13日

16冊目 「琉球諸語の保持を目指して/琉球のことばの書き方」



新年明けましておめでとうございます。2017年初め1冊は、下地理則・パトリック・ハインリッヒ編『琉球諸語の保持を目指して-消滅危機言語めぐる議論と取り組み』です。

沖縄や宮古にはヤマトとはかなり違う方言がありますね。沖縄に行くと「めんそーれ(ようこそ)」とか「にふぇーでーびる(ありがとう)」といった看板をよく見かけます。宮古では「んみゃーち(ようこそ)」「たんでぃがだんでぃ(ありがとう)」とか。
しかし、日常語として方言を話す人は減っています。本書の冒頭で“ある基本的な事実”として次のように書かれています。

世界に六千ある言語の20~50%は、子供たちにもはや話されていない。つまり、これらの言語は今世紀中に消滅する。一九四〇年の段階では、琉球弧の住民の100%が少なくとも一つの琉球諸語を話すことができた。現在では、この数字はほぼ30〜50%にまで減少し、さらにその割合は毎日急速に現象している。(中略)このような事実から以下のような結論ができる。二〇五〇年の段階で琉球語は絶滅する。

絶滅という言葉にドキっとします。
世界的に様々な言語が消滅していく中に琉球諸語(方言と琉球語では持つ印象も違いますね)も入っているのです。この本では、「言語」と「方言」の違いから、琉球語の現状と存続の可能性、言語に関わる教育や政策、世界の事例など、多方面からの論が収められています。

話者の少ない言語や方言は世界中にも日本各地にもたくさんあり、そのどれもがだんだんと無くなっていくことは、ある意味で当然のこととして受け止められていると思います。しかし、それは必ずしも単なる自然現象とはいえず、実は政治的、歴史的な背景があるのです。そしてひとつの言語が失われるということはひとつの文化が消えることであり、それは取り戻せないことなのです。
 
言うまでもなく、政治家や行政関係者、教育関係者などの人々が何をなすべきかについて指令を出すことは言語学の課題ではない。しかし、言語学者の課題には、少なくとも、社会的、政治的な問題を認識し、また危機言語の維持のために対策を提案する事が含まれるのではないだろうか。(中略)記述言語学者たちは、消えつつある危機言語を体系的に記述・記録するスキルがあり、それを実践する責任がある。

編者ほか多数の言語学者が自身の責任、使命として、琉球語の現状を分析し、机上に留まらずにその継承を模索する取り組みが本書です。かつては、収集した言語データが研究室でのみ使用されて当の地域からは手の届かないところにあったことが見直され、アーカイブ化され活用されるようになったことなどは本当に素晴らしいことです。
言語の消滅は避けられないことである一方で、琉球語の保持は可能でもあります。それは私達のあり方次第で、まずは知ること考えることからでしょう。

琉球諸語の理解のために、もう一歩踏み込んだ実践学習の本が、2015年に出版されました。
『琉球のことばの書き方』です。この本は、言語の専門家ではなく一般の人々の役にたつことを目的として、誰もが琉球語の統一的表記法を学ぶことができる画期的な本です。本書のはじめにで述べられていますが、実はこれまで研究者の間でさえ琉球語の表記は統一されていないそうです。その個別性を認めつつも、方言について何かしようとすると内容以前に表記が問題となり喧嘩別れする、そういう悲しい事態を避けたいという思いから企画されたとあります。

統一的表記でありながら、個別の地域方言の表記法についても、浦方言、湯湾方言、津堅方言、首里方言、大神方言、池間方言、佐和田長浜方言、多良間方言、宮良方言、波照間方言、与那国方言、と奄美から与那国まで丁寧に章立てられて説明されています。しかし、これもほんの一部だという琉球語の多様性と豊かさ!

編者のほか12名の執筆者がいますが、大学院生も含めほとんどがとても若い研究者です。若手研究者が次世代のために、琉球各地に赴き地域言語の採集をしこの本をまとめあげたことに感動します。さらに、アドバイザーに重鎮の教授陣を迎え、この分野の層の厚さ、受け継がれる伝統に頼もしさを覚えます。また現在、琉球語研究には多くの外国人研究者がいます。グローバルな視点からも日本人以上に琉球語を評価されていることに気づかされます。

琉球言語学界の熱さと底力を思い知る二冊です。

[書籍データ]
琉球諸語の保持を目指して-消滅危機言語めぐる議論と取り組み
著者:下地理則・パトリック ハインリッヒ 編
発売元: ココ出版
発売日:2014年09月15日
ISBN:4904595505
https://goo.gl/JTF2Db

琉球のことばの書き方 ―琉球諸語統一的表記法
著者:小川晋史 編
発売元:くろしお出版
発売日:2015年11月25日
ISBN:4874246753
http://www.9640.jp/book_view/?675

【参考資料】
文化庁 消滅の危機にある方言・言語
【極めて深刻】 アイヌ語
【重大な危機】 八重山語(八重山方言)、与那国語(与那国方言)
【危   険】 八丈語(八丈方言)、奄美語(奄美方言)、国頭語(国頭方言)、沖縄語(沖縄方言)、宮古語(宮古方言)
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2017年01月10日

第117回 「殉国慰霊之碑」



今回ご紹介するのは成川集落で見つけた戦争慰霊碑です。近年、成川の集落を縦貫する道路が拡幅され(全通はまだしていない)、今まで気づかなかった石碑を見つけました(正確には1年くらい前ですが)。台座周辺が綺麗に作り直れているので、拡幅前は道の脇で雑木林の中にひっそりと眠っていのかもしれません。

土地柄、あちらこちらに戦跡があり、慰霊碑も建立されています(主なものは二重越(MAP)に集積されています)。
この「んなま to んきゃーん」でもいくつか戦争関連の石碑を取り上げていますが、重要な歴史の一部ではあるものの、決して華やかなものではないので、微妙に取り扱いが難しいところでもありますが(芸風が軽いせいもある)、めげずにちまちまと差し込んでゆきますのでよろしくございます。
さて、こちらの慰霊碑。碑面に書かれている文言を読んで、ちょっとびっくりさせられました。
船舶工兵第二十三連隊」
 殉国慰霊之碑
昭和六十二年八月
長崎市田浦敬久建立
とあるのです。
これを読んで、なにが問題かと云いますと、宮古島に駐屯した日本軍は島をいくつかの地域分けして、それぞれに守備する部隊を配置しました。この成川付近は北地区と呼称され、添道に本部を置く独立混成第59旅団(当初は伊良部島に駐屯するも、支隊を残し宮古島に転封)と、細竹に本部を置く歩兵30連隊が担当する区域になりました。
ところが、この船舶工兵第二十三連隊という名は、これまで一度も聴いたことがありませんでした(概ね旅団の隷下にある各部隊は、同一の部隊番号と同じになることも理由です)。

そもそも船舶工兵なるものにもピンときませんでしたので、少し調べてみると、兵種に船舶とはついているものの管轄は陸軍で、いうなれば独自の船で海を行く陸軍といったところ。ちなみに海軍には陸戦隊(基本は基地や司令部、港湾を守備警備する部隊だが、防空防衛の任務を帯びた高射砲兵部隊や、揚陸艇などによる上陸作戦を行う兵団もあった)というのもあったので、どっちもどっち。陸軍と海軍の仲が悪いという証拠のような兵種です。

しかし、この船舶工兵第二十三連隊。そもそもは本島に配置され、海上輸送を担当する部隊なのですが、沖縄線末期は制空権制海権ともに連合軍が抑えており(逆上陸作戦を試みるも敗退した)、乗る船もないため陸戦部隊として前線に投入され、南部の与那原は雨乞森(マリンタウンゴルフ場の北側)付近で、首里城(第三十二軍の司令部)を背後から攻めようと上陸してくる連合軍と戦闘になり、最終的にはほぼ全滅してしまったようです。

「沖縄戦史~公刊戦史を写真と地図で探る~」
 首里東部戦線の崩壊(オススメ)

「ああ沖縄 月形から沖縄まで3000km」
 スパイ・見れば日本人・山中の電線を切断

では、なぜ宮古島に船舶工兵第二十三連隊が?ということになります。
国立公文書館アジア歴史資料センターの戦史資料を漁っていたら、面白い記述を見つけました(ただ、タイトルと内容に差があり、タイプミスと思われる誤記があったので、修正を加えて読みやすく校正を試みました)。
「戦闘資料調査ノ件 船舶工兵第二十三連隊第一中隊 肥田木隊」
資料作成年月日 昭和21(1946)年1月9日
レファレンスコード C11110012700

(一) 部隊名及部隊履歴ノ概要
部隊名 船舶工兵 第二十三連隊 第一中隊
 昭和19年6月23日 和歌山ニテ編成
 昭和19年7月1日 内地港湾出発
 昭和19年7月14日 沖縄本島着
       同日 第一中隊 宮古島派遣ノタメ出発
 昭和19年7月19日 宮古島着 同日ヨリ
 昭和19年8月22日間 揚陸作業ニ従事
 昭和19年8月22日 肥田木少隊 石垣島揚陸作業援助ノタメ出発
 昭和19年9月23日 石垣島着 同日ヨリ
 昭二20年8月15日間 海上輸送業務ニ従事

部隊長 陸軍少佐 大島詰男

(二)指揮隷属関係及其ノ変遷ノ概要
 船舶第七輸送司令部→第三十二軍指揮下→台湾軍指揮下

(三)参加セル主要ナル作戦(戦斗)ノ概要死傷、損耗 沖縄作戦
 戦傷死 4名
まず、これが第二十三連隊の第一中隊の中の肥田木小隊の記録であるということです。小隊ですと4~50人、中隊で160~200人規模(4小隊程度)ですから、かなり小さい規模の部隊の情報ではあります(うた4名が戦死されているようです。第二十三聯隊は奄美にも支隊だしており、こちらも本島とは異なる結果になった)。
時系列を改めて追ってみると、昭和19年の6月に和歌山で連隊が編成されて、7月には沖縄に到着。すぐに第一中隊だけが宮古島へ派遣されます。そして宮古島でおよそひと月の間、揚陸作業を行っています。物資の荷揚げだけなのか、海上輸送も行っていたのかは定か詳細な内容は不明ですが、一説には物資が豊富で員数の少ない海軍と、物資が少なく員数の多い陸軍というアンバランスな島の駐屯具合だったようです。そして8月になると、第一中隊の一部である肥田木小隊は石垣島へ派遣され、そのまま終戦まで駐留をしていました。

内閣府沖縄振興局 沖縄戦関係資料閲覧室で公文書検索したところ、「船舶工兵第23連隊史実資料」というものを見つけましたが、こちらは和歌山から沖縄に移動し、宮古島派遣を送り出した後は、本隊の顛末が書かれているだけで、宮古に派遣された第一中隊について記された資料を見つけることができませんでした。
尚、「船舶工兵第23連隊史実資料」の最後の行には、「生存者は突撃に参加」という話で締めくくられていました(先の与那原界隈の戦闘で、指揮官が死傷し残存兵もわずかとなっていた)。

最終的に石垣も含め、宮古に派遣された第二十三連隊は、本来の指揮系統の沖縄守備の第三十二軍が連合軍の上陸、軍組織の壊滅により途絶状態となったため、台湾の第一〇方面軍隷下に編入され、戦闘の継続をすることになりますが(これは宮古島の第二十八師団など、石垣島に駐留するすべての駐留軍に対して行われた)、中隊以下の規模なので資料にはほぼ掲載されていません。

陸軍部隊最終位置 大本営直属 第10方面軍 (三十二軍から所属が移動になった部隊名は注記あり)

内閣府沖縄振興局 沖縄戦関係資料閲覧室 第32軍部隊一覧 ※本島の部隊としてのみ掲載あり

実は調べているうちに、もうひとつの謎が浮かび上がって来たので、せっかくなので披露しておきます(ある程度までは自己解決)。
第二十三連隊(第一中隊)の指揮隷属の変遷で、沖縄守備の第三十二軍、第一〇方面軍の台湾軍とあるのは判別がつくのでいいとして、最初の所属である船舶第七輸送司令部が謎なのです。ウィキペディアの船舶司令部の項目には、隷下であるはずの船舶工兵二十三連隊の名前すら掲載されていません。
それ以前に、第五船舶司令部までしか詳細項目がなく、第七船舶司令部については、わずかに沿革の項目に1945(昭和20)年1月に第7船舶輸送司令部を編成したとあるだけです。しかし、それでは船舶工兵二十三連隊の情報との時間軸が合いません。
ちなみに余談ですが、この司令部は8月の広島市への原爆投下を受けて、負傷者の救護活動を行っているようです。

先程の内閣府沖縄振興局の沖縄戦関係資料閲覧室で、「第7船舶輸送司令部沖縄支部史実資料」なるものを発見。さらに、国立公文書館アジア歴史資料センターでも、「第7船舶輸送司令部沖縄支部履歴の概要」という文章も見つけました。
これによると第7船舶輸送司令部沖縄支部は、昭和19年3月に編成完了し、4月に鹿児島から那覇に向かっています。司令本部よりも沖縄支部のが早く稼働しているということなのか、そのあたりはまだ怪しいところがありますけれど、沖縄については辻褄が合うようになりました(どうも三十二軍第十一船舶団隷下に沖縄支部は組み込まれていたようです)。
そしてこちらも沖縄戦末期となる資料末には、「兵器廠長の命により部隊は解散、本島北部の森林地区に突破を開始」という一文で終わっていました)。

結果結論として、宮古島での第一中隊についてはなにをしていたのか、現段階ではまったく判らないというのが実状です。
ただ、慰霊碑の建立されている成川は、大浦湾の西側に位置しており、すぐそばの大崎(砂山ビーチと大浦湾の間にある小さな半島)の岩礁地帯と、湾口にあるパナリ(無人の小島)に壕が見つかっており、重要港湾で空襲も多い平良港から、こちらに移っていたのでしょうか?(そもそも乗るべき船もあったかどうかも怪しい)。
情報があるようでとても少ない船舶工兵第二十三連隊第一中隊。島はまだまだ判らないことだらけです!
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2017年01月06日

Vol.11 「げっきつ(月橘)の実」



実家(高千穂・カザンミ)から母校の下地小学校まで4キロ近くある。
子どもの足で1時間近くかかった。朝はまっすぐ学校に向かうが、帰りは、沖縄製糖工場前の与那覇湾に降りて遊んだり、崎田川まで行き水遊びをしたり、道端の木の葉っぱで遊んだりしながらゆっくり帰った。
川満からカザンミに抜ける道のそばに、げっきつ(月の夜に花がよく香るために月橘という名になったとか)の木があった(当時名前は知らなかったが)。

夏には、かばすーかばす(良い匂い)の白い花が咲き、冬になると緑色の実をつけた。熟すると赤い実になる。幼馴染と私はよく学校から一緒に帰ったが、私達は緑色の実を見つけるとすかさず手に取り、口に・・・ではなく、皮をむいて爪にぬるのだった。
げっきつの実には皮と薄皮の間に透明の液があり、それを爪に塗るとまるで透明のマニュキュアを塗ったようにきれいになる。ひとつの実はとても小さく、ひとつの爪に塗れるくらい。実はたくさん生るので何個も取って、塗っては爪を眺めるのであった。
誰に習ってそれをするようになったかは覚えていないが、たぶん近所のねぇねぇ達がやっていたのを見て、やるようになったのだろう。
昨年末、親せきの家の庭に、げっきつの実がたくさん生っているのを見つけた。懐かしくて枝ごともらってきた。そして、塗ってみた(笑)。実も割ると柑橘系の香りがする。子どもの頃に遊んだ川満からカザンミに通じる道でのことが瞬時に蘇った。

げっきつの実は、葉と同じ緑色をしているので気づきにくいが、今でも、宮古のうまかま(あちこち)にあるようだ。よかったら、とぅみ みーるよ(探してみてね)。
今の子どもたちは、植物で遊ぶことはあまりしないかもしれないが、大人がやってみせると案外面白がるかも。身近な植物は遊びの宝庫だ。

今年も宮古の季節の移り変わりを自分の身の回りを中心にお届けしたいと思っています。
よろしくお願いします。
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2017年01月03日

第116回 「久松五勇顕彰碑」



2017年、新年一発目はおなじみの久松五勇士をとりあげちゃいます。まだ松の内なので気楽にお屠蘇気分で緩~くやっておきます(ま、実際、いつも緩いですが…)。

久松漁港の脇、少し小高くなっている小さな丘に、サバニをモチーフにした大型のモニュメントがあります。これが久松五勇士を讃える顕彰碑です。でっかいです。恐らくこれまで紹介した中では、一番大きいかもしれません(大きそうな石碑三選。「人頭税廃止100周年記念碑」「歩兵第三聯隊戦没者慰霊碑」「博愛-公爵近衛文麿書-」~これは高さがあります)。

とりあえず判りやすい石碑の大きさから入ってみましたが、石碑の裏手(海側)には勇士五人の名前と、いわれが記されていますので、まずはこれを書き留めておきます。
 久松五勇士は、日露戦争たけなわの明治三十八年五月二十五日。ロシアのバルチック艦隊が宮古島西北洋上を通過した事を、大本営に急報すべき重大任務をおび、はかり知れぬ海上不安にとざされた波浪高き太平洋上を刳船に運命を託して乗り切り、五月二十七日早暁八重山通信局より「敵艦見ゆ」の打電をなさしめ、大任を果たした。
 積極果断よく祖国の難にのぞみ、忠君愛国の至誠に燃えて国の大節に尽くした壮挙は世の亀鑑なりとして、海軍省をはじめ各関係機関より数々の感謝状、表彰の光栄に浴した久松五勇士の功績を顕彰し、とこしえに伝えんために、ここに碑を建つるものである。
一九六六年八月十一日
久松五勇士顕彰期成会
久松五勇士の八重山往還についてはなにかとそれはもう色々とあるので後述するとして、とりあえず、今から50年前に建てられた、こちらの碑の記述で気になる点がいくつかあったので、ちょっと取り上げてみます。

まずはバルチック艦隊の進路。発見者の奥濱牛は粟国島の出身で、那覇から宮古へ雑貨を運搬するマーラン船の船乗り。彼がバルチック艦隊と遭遇して漲水港へと入港し、発見の報をもたらすわけですが、碑には「宮古島西北洋上」を通過したと記されている(加筆:「みやこの歴史」のP314にも西北と打電したとあるので、方角は正しいのだろうけど・・・)。
宮古島の北西方向(方位は東西より南北を先に書く習わしなので、西北は語感的に気持ち悪いので書き換えました)といったら、単純に伊良部島の方向を示すことになります。那覇から宮古に来る途中で見たというのならば、那覇はイメージ的に東、もしくは北東の方角になるので、必然的に島の東側を通過することにはならないないだろうか。
昨今、中国の空母や潜水艦が通過してニュースになっている「宮古海峡」を、バルチック艦隊は通過したと考えるのが順当(那覇宮古間に島がなく発見されにくいというのが理由)だと思うのですが、仮に通過位置が北西だったとしたら、幅の狭い宮古多良間の間を通るとは思えないので、やはり宮古島の東側から回り込んだということなのだろうか(八重干瀬は陸から近いので、とりあえず座礁するとかは考慮しない)。

もうひとつは「太平洋上」を石垣島に向かって五勇士が漕いで行ったというところ。厳密な云い廻しをすると、石垣島は東シナ海に浮かぶ島であり、太平洋は宮古島の南東端の東平安名崎の先端が接しているに過ぎません。海の境など人が引いた線でしかありませんが、一応、規定では本島の荒崎~宮古の東平安名崎~波照間島の高那崎を結ぶ線が太平洋と東シナ海の境界となっていますから、太平洋を漕いで石垣に行くのはかなりの困難な行動と云わざるを得ません。もっとも全体的に叙情的な文言に包まれていますから、ついつい勢いがほとばしって書いてしまったのでしょう。

【clickで大きくなります↓↓↓】
久松五勇士が活躍した明治38年は、西暦では1905年にあたります。この顕彰碑が建立されたのは1966年ですから、恐らく60周年を記念して作られたものと考えられます。
というのも、ツジ先生の『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話で、1935(昭和10)年1936(昭和11)年の海軍記念日に久松五勇士20周年が行われ、海軍大臣から久松の漁師たちに表彰状と銀杯が贈れ、この顕彰事業が博愛記念碑60周年につながっていると紹介されています。
ちなみに海軍記念日は5月27日で、バルチック艦隊を撃破し、日露戦争に勝利したことを記念して定められたので、久松五勇士としても浅からぬ縁があります。
ただ、ツジ先生には申し訳ないのですが、久松小の学校史(宮古教育誌)によると、稲垣國三郎は翌1936年に来宮して式典を行っているようなのです。少し遡りますが校史をめくってみると、1930(昭和5)年の海軍記念日に、日露戦争戦没者の慰霊があり、その時に松原の垣花善、松原の垣花清、松原の与那覇蒲、久貝の与那覇蒲の4名が表彰されています。なぜか与那覇松の名前がありません(この辺りが久松四勇士疑惑を生んでいる?)。
また、顕彰碑の名前を確認していて気付いたのですが、海側の五枚のネームプレートの一番右手に黒ずんだネームプレート大の跡のようなものが見えます。まさかですよね。そんなことはないですよね。きっとただの思い過ごしでしょう。
しかし、本題の60周年顕彰碑については、なぜか校史に記載がありません。これだけ大きな石碑を建立していて、式典がないとは思えないので、生徒の動員があって然るべきとは思いますが、もしかするとロベルトソン号の博愛美談と並んで久松五勇士も戦前戦中に美談として利用された経緯があることから、復帰直前の微妙に時期ゆえに黙殺されてしまつたのかもしれません(1965年の佐藤栄作総理の来島は記載あり)。

【左】1985(平成17)年の80周年を記念した石碑       【右】2005(平成17)年の100周年を記念した石碑

話を戻します。どうも節目の年に五勇士はかなり顕彰されているようで、地元のヒーローであることは間違いないようです。この顕彰碑の周囲にも、80周年(昭和60年)と100周年(平成17年)の碑が取り囲み、2015年の110周年には、平成の五勇士として久松の青年が石垣までサバニで挑むというイベントも行われたようです(80周年でも行われ、この時は成功している)

「平成の五勇士」盛大に歓迎/110周年記念事業 宮古毎日新聞(取材は八重山毎日)2015年7月7日

八重山往還についてはなにかとそれはもう色々とあるので後述すると書きましたが、すでにかなり行数を使っており、ここからそれを紹介すると、ものとてつもなく長くなってしまいそうなので、検証されているリンク先を参照していただくことにさせてください。。
なにしろ「敵艦見ゆ」の情報を届けた奥濱牛の謎とか。遅かりし一時間は美談化されているとか。途中で多良間島に立ち寄ったとか。実は四勇士だったのではないか説とか。城辺の新城でバルチック艦隊を見たと報告した人物がいるとか。情報と記録とまとめがさまざまに輻輳していて、真実は今もまだ誰も知らないというのが、実際のところなのです。ごめんなさい。

【宮古島キッズネット】
「宮古島のヒーロー 久松五勇士」

【あんちーかんちー】
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの-前編(2010年01月29日)
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの-後編(2010年02月02日)

でもでも、誰がなんと云おうと五勇士は久松の人たちにとっては、ヒーローであり、偉大な先人であり、誇るべき人たちなのです。久松のハーリーの盛り上がりはとても熱いですし、神殿のようなお家を作ってしまうくらいですから!

【左】久松漁港の前に建つ、神殿をモチーフにした住宅には、五勇士のレリーフが刻まれています。
【右】五勇士上陸地点の石垣島にある上陸の地の石碑。伊原間公民館の前に建っている(2009‎年‎12‎月‎28‎日撮影)


【改訂 20170107】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十話「大阪de宮古―式典の立役者、玄信と國三郎を訪ねて」の改訂に伴い、一部表記を改めました。
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2017年01月01日

謹賀新年


謹んで新年のごあいさつを申し上げます
本年もかわらぬご愛顧のほど     
         お願い申し上げます

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