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2016年09月30日

金曜特集 「謎の校則 “長ズボン禁止”って?!」



ATALAS Blogの金曜日は「月イチ金曜コラム」。第一週から第四週までは豪華連載陣が、日々熱筆を振るって下さっていますが、暦のいたずらで時折やってくる五週目の金曜日。そんな金曜日はさまざまなタイプのゲストライターさんに、スペシャルなお話を書いていただいております。
今回、九月の第五金曜日は、来島15年になる川上良絵さん。自らも二児の母親でありなから、『おはなし会』をたったひとりで主宰運営して、子供たちにたくさんの笑顔を届けている素敵なSomething elseが、驚きのオキナワンなローカルルールについて考察してくれました。

ここ宮古島でも秋分の日を過ぎ、少しは過ごしやすくなってきました。南国の宮古も、これから一応冬に向かっていくわけです。そして冬場になると、あちこちで話題に上がるのが、謎の校則『長ズボン禁止』です。

この奇妙なルールを初めて耳にしたのは長男の小学校の入学説明会。
「なんで?」と不思議に思い先生に質問したところ、以下のような回答でした。

(1) 膝小僧を出して日光に当てないと背が伸びない
(2) 子どもは子どもらしく
(3) 薄着推奨


(1)について。
由来はおそらく、紫外線によるビタミンD生成を高め、骨の成長を促すために日光に当たろう、というところでしょう。しかし、紫外線の強い宮古島ではそんなに意識しなくても充分に浴びている気がします。それに他県の学校ではほとんどの学校が長ズボンOKだと思いますが、膝小僧が隠れていたせいで身長が伸びなかったなんて聞いたことがありません。
女子がスカートの下にはくレギンスもやはり膝が出ているかどうかがポイントだそうで、膝が見えていればOK、長いのはNGとのこと。タイツやニーハイ(膝上までのソックス)はもちろんNGです。

(2)について。
これはどうなのでしょう。半ズボンは子どもらしくて長ズボンは大人っぽいということでしょうか?。確かにいつも半ズボンの勝俣州和さんは51歳には見えないですね。一理あるのかも?。

(3)については、異論なし。

私は別にこの校則があってもいいと思います。そのときどきに応じて融通が利けばいいんじゃないかなと。
例えば、沖縄本島でもみぞれが観測されるような特別寒い日なのに、体調の悪い生徒がはいて来たレギンスをわざわざ脱がせるようなことが無ければ問題無いと思います(あくまでも例えです)。

宮古で「寒い」と言っても雪の降る内地に比べればもちろんたかがしれています。しかし蒸し暑い時期が一年のほとんどを占める亜熱帯のここでは、関東出身の私も温暖地仕様に身体がシフトするのか、気温が12度程度でもとても寒く感じられます。
魚だって特別寒い日は仮死状態で浜辺にうち上がる宮古です。そんな日は学校でも多少大目にみてほしいものです。

さて、このルールいつからあるのかと思い、様々な年代の方に聞いてみました。
50代までの方ははっきり「あった!」と答えていただきました。60代以上の方は「そんな校則あったかなぁ」と覚えていないのか校則が無かったのか判断できない回答でした。
少なくとも40年以上は続いている宮古島全域のルールのようです。
そしてさらに調べてみると、沖縄本島にもこの校則は存在していました。沖縄県全域で存在するルールのようです。

さてさて、継続は力なりと言いますが、40年以上膝小僧を日光に当てた甲斐はあったのでしょうか?。
そこで文部科学省が3年ごとに行なっている学校保健統計調査の都道府県別身長(17歳)を平成20・23・26年度と見てみると、残念ながら沖縄県は最下位でした。
しかし、沖縄県だけの年齢別身長の平均値の年次推移を見てみると、昭和37年の調査以降、どの年齢もちゃんと伸びているではありませんか!。

「平成25年度 学校保健統計調査報告書 概要」より(pdf)
身長が伸びた要因は、食生活や生活環境の変化ももちろんあるでしょうが、そのひとつとして半ズボン効果もあったかもしれません。
他の都道府県に比べ身長の低かった沖縄の人々だからこそ、なんとかしようと考えての『長ズボン禁止』なのではないでしょうか。

そんな沖縄宮古も、中学の制服はさすがに長ズボンです。
我が家の小学生の息子二人は校則関係無く、土日も冬休みも半ズボンですが、そんな息子達が将来中学の制服を着こなせるのか、親としては今からちょっぴり心配です。

みなさんも子どもの頃を思い返してみると、変な校則やローカルルールがあったのではないでしょうか?。それが後に話のネタになったりしますよね。今の子どもたちが大人になったとき、『長ズボン禁止』は懐かしのローカルネタとして大いに盛り上がるキッカケになるのかもしれないですね。
<了> 
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2016年09月27日

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」



「んなま to んきゃーん」連載100回突破記念の特番第二弾は、懲りずにまたもや出落ち感の高い企画モノ。その名も「お通りオトーリ」です。
まあ、なにかと申しますと、いわゆる「道」ございです。ええ、そうです。一般的には「道路」とか「通り」とか、「Road」とか、「Street」とか、「Avenue」。「Boulevard」に「Pavement」などと称されるものに名づけられている名前ネタです。実は路傍にそんな石碑があったりするものですから、ちょっとばかり集めてまとめてみました(という言い訳にして、脱線します)。
道の名前と来たら、やはり最初はコレでしょう。
2000年の九州・沖縄サミットが開催された時、当時のドイツの首相シュレーダー氏がドイツ村を表敬訪問し、空港からドイツ村まで通ったルートをシュレーダー通りと名付けました。
とはいっても、空港から千代田の分岐までの県道190号線と、千代田分岐から宮国集落交差点までの県道202号全線の県道につけられた愛称であり、その名を口にして道案内をしている人を見たことがありません。尚、終点のドイツ村はゲート前であるとしても、起点がいまひとつはっきりしていません。島に降り立った宮古空港からなのか、一枚目の石碑がある空港入口交差点なのか(空港から空港入口までは、わずかな距離ですが、県道243号線という別の路線になっています)。

続いては伊良部の五箇里道(ごかりどう)です。
こちらは(字)伊良部から佐和田まで南区の5集落を縦貫している道路で、大正時代の完成となるとても由緒ある道路だったりします。尚、こちらの石碑は第85回の「開鑿記念碑」で詳しく取り上げていますので、ぜひそちらをご覧ください。
尚、こちらは県道204号線(旧道)に指定されています(現在は、東側にバイパスが完成しており、新旧路線ともどちらも未だ県道に指定されたままになっています)。

もうひとつ、道路に関する石碑を取り上げていたので、そちらも重ねて記しておきます。
第79回「弁務官道路」です。

本編で石碑はゴルフ場内にあり、道そのものは二重三重に開発が進んでいて、痕跡がはっきりしないとしましたが、その後、上野村が発行した「写真集“上野”~くらしの移り変わり~(平成10年刊行)」の中に、弁務官道路の碑と道が写っていること発見し、これにより道路の一部は開発前の旧路線であることが確認できました。
また、新里のお隣、宮国ではランパート弁務官から名付けられた「ランバート道路」という石柱が建立されている写真を発見。石碑バカとしては色めき立ったですが、聞き込み調査をしてみると、本編で想像していた道路位置ではなく、もっと集落に近い場所であることが判明(上の写真もそれっぽい)。その上、写真に写っている石柱は、未だ発見できていません。

さてさて。前座はここまでとしまして、ここからが本番。舞台を平良市内場所を移して、複雑怪奇な名前ネタを推し進めてゆきたいと思います(尚、ものすごく大量に地名が出て来る上に、とてつもなく複雑なので、地図地理に弱い方は置いてゆきますのであしからずご了承ください)。

ということで、まずは「まてぃだ通り」からです。
起終点は北給油所(第一給油所)から、サンエーターミナル店、宮古郵便局、TSUTAYAを通って空港に突き当たるあたり(と思われるが、後述の東環状線を考えるとTSUTAYAまでかも)。
初めは平良港か市役所前交差点あたりから始まっていると見ていたのですが、どうやらこの道が開通したことで名付けられたようです。ちなみに、今年取り壊された北給油所(現在は斜向かいに移転)は、その昔はT字路の突当りにあったというのも、今では想像すらできません。

だからという訳ではありませんが、平良港から坂を登って市役所前を通り、「突き当りの」北給油所を右折して、ヤコブ幼稚園からサンエーカママヒルズを経て下地線へと繋がるルートは、県道243号線となっています(この県道もとても複雑で、起点は一周道路の高野から始まります)。
最近ではこの県道の市役所あたりを、「市役所通り」と呼ぶ風潮もあるようですが、云うなれば宮古の国道1号線と云えそうなくらい由緒ある道なのです。
ということで、おさらいがてら過去へと遡ってみたいと思います。まず、現在の県道243号線は、2003(平成15)年までは国道390号線を名乗っていました。バイパスが完成したことで国道から格下げになったのです。
さらに時代を遡ると、1975(昭和50)年に国道390号線に指定される前は、県道平良漲水港線と県道平良与那覇線(の一部)と、元々は県道だったのですが、当然、復帰前は県道ではなく琉球政府道で、1953(昭和28)年に初めて指定されました。その時の起点は元・琉球政府宮古支庁舎。現在の第二庁舎前だったというから、まさしく市役所前。生生流転です。
どんどんと世界線を遡ってゆきましたが、さらにその前があるのです。それは未だに親しまれている呼称、「マクラム通り」です(都市計画の路線名では、北給油所からサンエーカママヒルズまでがマクラム通りとなっています)。
マクラム通りは平良港から県道243号線をなぞって、サンエーカママヒルズ付近までを呼ぶと云われています(一説にはさらに坂を登って、当時の米軍政府が置かれていた宮古測候所までだったともいわれています。)。
これは先の弁務官道路と同じように、軍政府の資金で作られたものですが、名前の元になったマクラム中佐(後に大佐に昇進)は弁務官ではなく、宮古民政官府長でした(弁務官は将官、民政官府長は佐官なので大きく位が異なる)。それでもマクラム中佐は、いわば宮古の中ではトップに君臨する人でした(詳しくはコチラ)。
このマクラム中佐が在籍していたのは、1946(昭和21)年からで、道路はその翌年に完成しています。残念ながら記録と記憶の中にしか、マクラムの文字は残っていませんが、この名は決してなくならないと感じました(ちなみに石垣にもマクラム通りが存在します。こちらは完成の石碑も現存している)。

続いては市街を南北に縦断する通りを見ていきたいと思いますが、その前に平良の都市計画の外郭をなしている「東環状線」を確認しておくことにします。
国道390線のマックスバリュ南店から、古謝そば屋、TSUTAYA、第三給油所、のひなアパート、ファミマ東仲宗根(ニャーツ)、北中、県道83号(砂山入口)と、逆「く」の字に結び東端と北端の二辺を形成しています。これに南端の国道390号を加えた三辺で囲まれたエリアを、市街と呼ぶのではないかとも思われます(ただし定義は不定)。

そしてこの東端側の東環状線から、ひとつ海側を縦断する道路が「文教通り」になります。
近年は宮高の近くにオープンしたファミマの支店名にも通りの名前が使われており、ようやく日の目を見るようになった気がします。文教通りの区間は、県道243号の陸運局(馬場団地前)から、南小南側、宮高グラウンド、宮古郵便局を経て、県道78号城辺線の旧県立病院東交差点(現在は信号名は撤去)までとなります。不思議なのは、ここから東環状線のひなアパートまでのわずかな区間が、なぜか含まれていません。

次の南北に縦断している道は、カママ嶺公園から、アツママ御嶽、城辺線の東里交差点、ジロー村、東環状のファミマ東仲宗根店に至る通りで、かなりメインルートとなるのですが特に名称はないようです。一応、都市計画では「大道線」と路線名か記されていますが、この名も特に聞いたことがありません。
話は少しそれますが、この通りにはアツママ(東の御嶽)、西里の東里(にすざとのあがいざと。現在の繁華街であるイーザトと対をなしています小字名だが、この話を書くと恐ろしく長くなるのでここでは割愛します)と、旧集落東端を示していますことが見えてきます。つまり、このラインは町の成り立ちとしては、旧集落時代の東端だったのではないかということが、薄っすらと見えてきます(通りの名を示す資料は特にありません)。
そして続く3本目は、先ほど出て来たマクラム通り(現・県道243号線、旧国道390号線)ですので、こちらは割愛させていただきます。

4本目は「中央通り」です。この道は大原の切通し(民宿川田荘)で市場通りから続く、県道192号からY字に分岐した通りで、ビックチーフ、OKスボーツ、羽地ビル(旧西里村番所跡)を抜けて、県道243号線(マクラム通り)の旧平良図書館(琉米文化会館)交差点までの区間となっています。
この中央通りの名前も、あまり耳にすることはありませんが、西里村の番所が置かれていた場所を通ることから、重要なルートであったことは想像に難くありません。

番組の途中ですが、ここでお知らせです。
ただいまの中央通りをもって、メインである石碑のある通りについては終了となります。この先は石碑ひとつ出てこない、ただのオトナの自由研究が延々と続くととなりますのでご了承ください。  続きを読む



2016年09月23日

其の5 祈ることは唄うこと。唄うことは祈ること。 ミワさんの白鳥ぬあーぐ



ひとたび彼女が唄いだすと、空気はまるで魔力を帯びる。
彼女の声は身体中の穴という穴から体内に入り、臓腑をなでるようで、皮膚を優しく愛撫するようで、全身が「何か」に包まれてゆく。伸びやか、ストレート、野趣、強靭、倍音など、人は、その感覚をさまざまな言葉で語るが、彼女の唄声は、本当になんと表現すればいいのだろう。

與那城美和(以下、ミワさん)は、宮古を代表する民謡、古謡の唄い手だ。ミワさんの元には、国内外のアーティストから競演ライブのオファーが舞い込む。
特に昨年からは、ジャズ、ロック、アフリカンダンスと、ジャンルと国境を超えてのラブコールが相次ぎ、聴く人々を次々に魔法にかけまくっているのである。
そんなわれらが唄姫、ミワさんは、幼い頃から宮古の民謡や琉球古典音楽に興味を持ち、最初は、押入れに隠れてこっそりと、家人の三線をつま弾いていたという。小学校4年生で晴れて三線を習い始め、「工工四(くんくんしー)」を手にしてから夢中になった。
長じてからは、野村流に入門し、琉球古典の唄・三線にも打ち込んだ。平成8年には、琉球新報主催のコンクールで新人賞、平成13年、優秀賞、そして平成20年には、最高賞を受賞している。
ミワさんの名が世に知られるようになったのは、7年前。
『っすとぅす゜(白鳥)ぬあーぐ』という古謡との出会いだった。

狩俣で遊んだ帰りの青年たちが、サディフガーの近くで
とても美しい女性の唄声を聞いたんだって。
その声に惹かれて近くに寄ってみると、
大樹の枝が天に昇るように伸びていて、
そこに一羽の白い鳥がとまってた。
その鳥が唄ってたのが白鳥ぬあーぐ。

【サディフガー御嶽。手前の丸蓋が井戸跡】 
サディフガーは、現ヤコブ保育園近くにあったらしい。今でもそこは小さな御嶽になっている。狩俣とはまた遠いが、きっと狩俣には美しい娘さんたちがいたのだろう。遊んで歩き疲れて平良についた青年たちは、樹上の白鳥のそれはそれは美しい唄声に魅了され、いつまでも立ち尽くして聞き惚れていたという。まるでローレライではないか。

白鳥は卵を7個産んだって。
十日二十日暖めて、ヒナがかえったんだけれど、
その中の1羽がとっても美しい羽を持って生まれてきた。
そのヒナは、他の兄弟はみんな白いのに、
どうして自分だけ違うのと泣き、母親に嘆くわけ。
すると母親は言うの。
そういう風に生まれてきたんだから、気にしてもしょうがない。
だいたい、それが一体どうしたの?と、そんな歌。


アカペラで唄いあげられる、物悲しくも美しい宮古の古謡。その歌詞の内容はものすごく深い何かを示唆するような、いや、そうでもないような。「は?あんたは、なにか?そんなことでくよくよしてるかよ?」と、何となくだが、宮古のかーちゃん的にヒナを励ます唄なのだ。
話を7年前に戻そう。ミワさんと、この古謡との出会いは偶然だった。ミワさんは、自分の唄を録音するために、お姉さんからボイスレコーダーを借りた。返却の際、全部消去したつもりだったが、1曲だけ消し残しがあり、その唄声を、たまたま古謡研究者である本永清先生が聴いたという。その頃、本永先生は城辺町史の古謡編を担当していて、その手元には、1本のカセットテープがあった。城辺の友利メガさんが唄う「白鳥ぬあーぐ」だった。メガさんはすでに亡くなり、もう誰も唄い継ぐことができないと思われた幻の古謡だったのだ。

こんなに美しい唄なのに、もう唄える人がいないと
先生たちは焦ってたみたい。
どうにかして復活させたいけれど、唄えそうな人がなかなかいないと。
私の声を聴いて、これだ!と思ったらしい。
後日、挨拶に行ったら、高校の時に習った先生でお互いびっくり!(笑)


古いカセットテープを繰り返し聴いて、ミワさんは曲を覚えた。与えられた時間は1か月。博物館で開催される講座で、古謡を唄うことを求められた。

古いテープだからところどころ音が伸びてる。
だから、そのまま同じというわけにはいかない。
でも、自由律の曲は自分の呼吸で唄えばいい。
声の伸ばし方も人それぞれで、心臓の心拍数で速度が決まるくらい。
琉球古典では、速さの単位そのものが脈。


こうして古謡の唄姫は誕生した。
幼い頃から親しみを感じてきた島の音とリズムと、ミワさんの身体と魂が調和し、その唄はミワさんの唄となった。「彼女はこれを歌うために生まれてきた」という人もいるほどに、聴く人々の心をとらえて離さないミワさんの白鳥ぬあーぐは評判を呼び、テレビ出演など人前に出る機会も増えた。平成25年には、宮古の民謡と白鳥ぬあーぐを収録したCDも発表。
アーティストとしての、本格的な活動が始まった。
そして、古謡との出会いは、ミワさんの唄をも大きく変えた。

唄い始めると、胸から上がまーるく膨らむの。
自分の上半身は風船みたいなものに包まれて、
自分の口がその中でどんどん大きくなる。
もう身体半分が口になってるみたいな。
その口がぱかーっと開いて、声を出してる。
だからかな。なんかの媒体みたいだという人もいる。
唄うというより唄わされているみたいだと。


文章にするのも怖いくらいなのだが、きっとミワさんの身体は、古謡を唄うことで何か別物に変化するのだ。だからこそのあの不思議な魔力。そう思えば謎が解ける。
ライン川で美しい歌声に魅了された船頭たちが、川の渦に飲み込まれしまうローレライ伝説とは違い、ミワさんの唄は人を救う力にあふれている。

わたしのライブに友人が彼女の友達と来てくれた。
翌日、朝早くから、彼女が泣きながら職場にやってきて、
ありがとう、ありがとうというのよ。
「昨夜連れてった友達、死にたい、死にたいといってたんだけど、
あなたの唄を聴いて元気になったの。明日から頑張って生きていくって!」と。
その言葉を聞いて、やっぱり唄っててよかったなと思った。


ミワさんは、漲水御嶽によくニガイに行く。
島を出るとき、帰ってきたとき、雨が降らないとき、誰かが困っているとき、何につけ漲水御嶽にニガイに行く。
そしてそのニガイは、実によく届く。
最近のことだが、台風に追われている友人のためにニガイをしたときには、珍しく本州から沖縄に向かっていた台風が、急に向きを変えるという気象予報士もびっくりの現象が起きた。
「わたしはこの辺で生まれているからさ、神様もちょっとは聞いてくれるのかも」とミワさんは笑うが、その奇跡はきっと古謡と無関係ではないと、わたしは睨んでいる。
【漲水御嶽の猫】 

※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
先日のことです。ミワさんと津軽三味線弾きのコラボライブを企画したのですが、そのライブ終了後、白鳥ぬあーぐの話をしていたんですね。そしてミワさんがポツリ。「7という数になんか縁があるんだよね。卵が7つ生まれるとか、この唄をうたったのが7年前とか・・・」。その場にいたナイチャーらしき女子が、びっくりしたように「あの、わたしの名前、白鳥ナナというんです!そしてわたし、宮古島にちょうど7年前に来たんです!」さらに聞けば、彼女はサディフガーのすぐそばの酒屋さんで働いていて、「あの御嶽、毎日見てて、なんか気になって、毎日挨拶してたんですよー!」ああ、ほんとに、宮古って!!
(きくちえつこ)
  



2016年09月20日

第101回 【連載100回突破特番】 「巨大生物モニュメント of MIYAKO」


先週、遂に連載100回を突破してしまして、ここはひとつ特番でもやろうと思ったものの、いつもの地味な石碑では華やかさに欠けるということで、石碑には似ているけど、どちらかといえば石像に近い、島のあちこちにある巨大生物のモニュメントを「ん to ん」らしく集めてみました。出落ちのお遊び企画ですが、味付けはむしろいつもの感じかもしれません。では、巨大生物を追って島を巡って見ましょう~♪

まずは下地のサニツ浜公園にいる巨大な「宮古馬」から。在来馬種の宮古馬が小さいだけに、この大きさは「Attack on Titan」級といえます。

続いてはインギャーの山の上にいる「牛」です【左】。サイズは実際の牛よりも小さいですが、かなり有名な牛なので取り上げておきます。元々は山頂の東屋の屋根の上に鎮座していましたが、2003年の猛烈な颱風マエミー14號(気象庁発表の台風のアジア名のリストにある表記を基準とています)でしっぽも飛ばされてしまいました。その後、破損した東屋の建て替えで屋根から下ろされてしまいますが、山頂の広場に再度設置されました。
なお、右の牛はさらにサイズが小さいのですが、上野は高田に堂々と鎮座している、いうなれば弟分なので合わせて取り上げてみました(高田青年団歌)。

お次は来間島のタコです。来間大橋を渡ってすぐ、島の入口にある遊歩道を歩いて、市の天然記念物にも指定されている「来間島断崖の植生」の中を進むと現れます。ここは中学生映画監督(当時)仲村颯吾の「島の時間(2009年)」の聖地(ロケ地)でもあります。

タコ大漁だったので、他にも生息している仲間をまとめて紹介しておきます。

【左】まずは、城辺小学校の裏の公園にいるタコ型遊具。崖上の細長い公園は、部分的に周辺設備(トイレや駐車場)が整備され、タコもやや綺麗にされています(もちろん廃れているエリアもあるが、雑草がまず生えていない)。
【右】西仲宗根の上原市営団地にあるタコ型遊具。こちらは見事に草ボーボーの園地にあります。タコの塗装も剥げて黒ずんでおり、遊ぶ子供がいないのでしょうか。もっとも、タコの隣にある集会所らしき建物は、窓ガラスが割れたまま何年も放置され、ずっと廃墟のようになっています(それても団地は普通に人が暮らし居るという謎)。
【下】一連のタコの中ではイチオシの川満団地にある遊具です。上記のふたつと配色は似ていますが、足の数が多くて滑り台やトンネル、展望台まである複雑な造形をしており、一見の価値がある素晴らしい遊具なのですが、集会場の奥に隠されて雑草が生い茂り、とても残念な状態です。
ちなみに、このタコ型遊具といえば、すでに伝説級ですが、YouTubeに映像が残っていた「広末涼子 - ドコモポケベル初CM[1996]」です。これに出てくる遊具は城辺と西仲宗根のタコと同じタイプで、全国各地にたくさん生息しています。

タコの次はカツオです。こちらは池間島の漁港ちかくにある公園の東屋の上でピチピチ跳ねています【上】。この公園は「池間行進曲」「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」など石碑的にも見どころがあります。
もう一尾のカツオ【左】は、佐良浜漁港にある「佐良浜漁港改築記念碑」(未紹介)です。サイズは小ぶり(カツオにしては大きい)ですが、こちらはリアルな感じがウリです。かつてこのモニュメントは伊良部離島総合センター(1978-2013)のカーブにありましたが、老朽化したセンターが解体され、跡地の公園の中央に移転しました。

どんどん行きます。飛び立たない渡り鳥のサシバです【上】。
こちらはもはや語るまでもない、かの有名なフナウサギバナタの展望台になっているサシバです。

そして伊良部はもう1羽、でかいのがいます【左】。こちらは佐和田地区の平成の森公園にいるサシバ型の遊具です。リアルなフォルムはさすが猛禽類らしさをにじませています。
っと、云いたいところですが、伊良部島と下地島を結ぶ「たいこ橋」の欄干には、より精巧なサシバが4羽もとまっています。さすがはサシバの島、伊良部島ですね【右】。

ここまでは実在する動物でしたが、ラストは想像上の生物のシーサーです。シーサーの正しいサイズというものははっきりしませんが、このカママ嶺公園【上】のシーサーの遊具は、巨大生物の仲間に入れてあげたいサイズです。
そしてもう一体、とってもマイナーなシーサー型遊具【左】。こちらは城辺の福里第二団地の奥の公園で、ひっそりと大きな口を開けてたたずんでいます。このシーサーのいる公園は長いこと使われていないようで、雑草が生い茂り、フェンスも崩壊していて、まともな遊具がありません。古い団地とはいえ、なんかこの状況は寂しいですね。

101回目の「んなま to んきゃーん 」のイロモノ特番。いかがでしたでしょうか?。
今回の企画は、連載以前からマニアックな巡検の途中で撮りためておいた、ストックの蔵出しを軸に、新撮・再撮を織り交ぜて構成しました。本来はここで終わる予定だったのですが、蔵出しの中に面白い(一般的にはくだらない)物を見つけたので、延長戦としてもう少しだけ続けちゃいます。  続きを読む


2016年09月16日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十七話「総集編」



「んなまtoんきゃーん」が今週火曜(9/13)の連載で目出度く100回を迎えたとのこと、おめでとうございます。この「続ロベ」も、どこまで続けられるかわかりませんが、もうしばらく頑張りたいと思います。数は少ないけどコアな読者の皆様、ゆたしく、うにげーさびら(よろしくお願いします)。

気付けばもう16か月間にわたり、ロベルトソン号の宮古島漂着というひとつのニッチなテーマに関して、延々と航海を続けてきました。船長エドゥアルト・ヘルンスハイムの話だけでなく、当時の時代背景として日本やドイツの歴史、さらにドイツの植民地の話など、あちらこちらに寄り道をしながら、かなり細かいことまで扱って来たので、何だかマニアックでよくわかんない、途中から合流したくても付いて行けない、今さら過去の投稿を読み通すのは面倒、とお感じの方もいるかと思います。そこで今回は、エドゥアルトに関する一連の「秘密」を紹介し終えたことでもありますし、今までの16回の連載内容をざっくり理解できるよう、これまでに出てきた様々な用語を簡潔に説明していく「総集編」としたいと思います。

星3つ(★★★)は最重要キーワードですので、お急ぎの方もこれだけはぜひチェックしていただけたらと思います。星2つ(★★)は知っておいて損はない、ワキを固めるための情報(ここまで押さえておくと、理解の奥行きが増します)、星1つ()は寄り道程度のマメ知識だと思って下さい。

石碑編
★★★ ドイツ皇帝博愛記念碑(1876年3月建立)
1873(明治6、同治12)年のロベルトソン号漂着に際し、宮古島民が乗組員を救助・保護したことに感謝の意を表すという「名目」でドイツ皇帝ヴィルヘルム一世が1876(明治9、光緒2)年に贈った(送りつけた)石碑。中国で作られたものと考えられていて、フォン・ライヒェ艦長率いるチクロープ号が上海でこれを搭載し、その後横浜、那覇を経て宮古島に運ばれ、島民の助けを借りて平良の親越(または小屋毛)に建立され、3月22日の皇帝の誕生日に合わせて除幕式が行われた。石碑の表面にはドイツ語と中国語で、裏面には中国語で、ドイツ船遭難救助のあらましとドイツ皇帝の謝意が記されている(但し碑文の書き方はかなり「上から目線」+事実と異なる記載が多い)。碑文のドイツ語と、その日本語訳は以下の通り。
„Im Juli 1873 ist Das Deutsche Schiff R. J. Robertson geführt vom Capitain Hernsheim aus Hamburg, an den Felsen von der Küste von Typinsan gestrandet. Die Besatzung ward mit Hilfe der Uferbewohner gerettet, in Sicherheit gebracht und während 34 Tage gastlich aufgenommen, bis sich am 17. August 1873 die Heimreise bewirken liess. In dankbarer Anerkennung dieses rühmlichen Benehmens haben WIR WILHELM VON GOTTES GNADEN Deutscher Kaiser,König von Preussen die Aufstellung dieses Denkmals zu bleibender Erinnerung angeordnet.“

ハンブルク出身の船長ヘルンスハイムに率いられたドイツ船R. J. ロベルトソン号は、1873年7月、太平山の海岸の岩礁に座礁した。乗組員は、海岸の居住者の援助により救出され、安全な場所に運ばれ、1873年8月17日に帰郷の旅が実現するまでの34日間、手厚いもてなしを受けた。この立派な行いを謝して認め、神の恩寵を授かりしドイツ皇帝にしてプロイセン王である朕ヴィルヘルムは、末代までの記憶にこの記念碑の設置を命じた。
× ハンブルク→マインツ(但し船はハンブルク籍)
▲ 海岸の居住者の援助→実際に救助に向かったのは多くが佐良浜の漁師
× 34日間→エドゥアルトが宮古島に滞在した期間は、正確には37日(新暦の1873年7月12日から8月17日まで)

★★★ 獨逸商船遭難之地碑(1936年11月建立)
1936(昭和11)年に開催された「博愛記念碑60周年祭」に合わせて、ロベルトソン号漂着現場近く(宮国)に建てられた。碑の表面の「獨逸商船遭難之地」は近衛文麿が揮毫したとされている。「うえのドイツ文化村」の開設(1996年)に伴い、石碑の位置はやや移動し、現在はドイツ文化村の園内に建っている。

★★ 佐良浜漁師顕彰碑(2005年建立)
佐良浜漁港のそばの丘に2005(平成15)年に新たに建てられた記念碑。ロベルトソン号の救出に貢献した佐良浜の漁師8名の名前が刻まれている。詳しくはこちら


地名編<ドイツ>
★★★ ハンブルク(Hamburg)[MAP]
ドイツを代表する港町。現在は人口約180万人を擁し、首都のベルリン(Berlin)に次ぐドイツ第二の都市。ロベルトソン号はこの街の船籍に登録された。またエドゥアルトが「南洋」での貿易活動を終えた後、晩年を過ごした土地でもある。

★★ マインツ(Mainz)[MAP]
ドイツ中部、フランクフルトの西に位置するライン河畔の町。活版印刷術を発明したグーテンベルク(Johannes Gutenberg, 1398頃?-1468)の生まれた町として有名。この町でエドゥアルト・ヘルンスハイムは生まれた。

 リューベック(Lübeck)[MAP]
ハンブルクやブレーメン(Bremen)と並ぶハンザ同盟都市として、中世以来栄えてきた北ドイツの港町。ロベルトソン号はこの街のヤーコプ・シュテッフェン(Jacob Steffen)という船大工のもとで製造された。

地名編<宮古島>
★★★ 平良(ひらら)
宮古島市の行政・経済の中心池、旧平良市。仲宗根豊見親が中山に服属した後、琉球王府の在番が置かれ、王府から派遣された在番役人が島の統治に当たっていた。エドゥアルトらも、救助された後に(一時的に野原に収容され、その後)平良に移っている(新暦7月31日から)。

★★★ 佐良浜(さらはま)
伊良部島の東側にある地域の名前(字では池間添と前里添を合わせた地域)。(宮古本島の北にある)池間島の住民と同様、古くから漁業を営んでいた。ロベルトソン号の漂着時、クリ船を出して乗組員の救助に向かったのは、多くは佐良浜の漁師であったと言われている。

★★ 池間島(いけまじま)
宮古島の北に位置する島。1797年には、この島の北側にある八重干瀬(やびじ)にイギリス船プロビデンス号が漂着している。佐良浜と同様、島民は漁業を生業としており、船を操るのが得意だったため、博愛記念碑の運搬に際して、池間からも島民が作業に駆り出されている。

★★ 宮国(みやぐに)
宮古島市南西部、旧上野村内の地名。ロベルトソン号はこの沖合に漂着した。

 ンナト浜
ロベルトソン号が座礁・破船したと言われている宮国の海岸。此の浜の沖合いにあるウプビシ(大干瀬)に座礁した。

地名編<その他>
★★ 福州(Fuzhou)[MAP]
中国南部の港湾都市で、福建省の省都、現在の人口は約270万人。エドゥアルトは1873年7月、ロベルトソン号に茶葉を積み込んでこの街を出航し、2度目のオーストラリア行きを試みたが、直後に台風に遭い、宮古島に漂着した。なお福州は、琉球王府の朝貢貿易の玄関口でもあり、かつては王府の出先機関(大使館のようなもの)である「福州館」が置かれていた。現在、那覇市と姉妹都市提携を結んでいる。

★★ アデレード(Adelaide)[MAP]
オーストラリア南部の都市。現在は南オーストラリア州の州都で、人口は約120万人。福州で茶葉を積んで出航したエドゥアルトはこの町を目指していた(+帰路は石炭を積んで中国に戻る予定だった)が、台風に遭って宮古に漂着することとなる。

★★ 基隆(きーるん、Keelung)[MAP]
台北の北東約20キロに位置する港町で、現在の人口は約37万人。日本による台湾統治時代(1895-1945)は、内台航路の玄関口として栄えた。エドゥアルトは、宮古の役人から贈られた船でこの町まで航海し、ここからイギリス船に乗り換えて香港に向かっている。


主要人物編
★★★ エドゥアルト・ヘルンスハイム(Eduard Hernsheim, 1847-1917)
宮古に漂着したドイツ船ロベルトソン号の船長。父ルートヴィヒ(Ludwig)、母ゾフィー(Sophie)の子で、姉ロゼッテ(Rosette)とユリア(Julia)、兄フランツ(Franz Hersnhe)に続く4人目として、1847年5月22日にマインツで生まれた。ダルムシュタット(Darmstadt)の工業専門学校で化学を学んでいたが、1863年に父ルートヴィヒが死去したため、経済的な事情で勉学を諦める。一時は農場で働いていたが、いとこの勧めにより船乗りに転身、1868年にキール(Kiel)で航海士と船長の試験に合格し、ハンブルクの商社で航海士となる。1869年に父の遺産を継ぎ、翌年に自身初の船となるクリアー号(Courier)を購入し南米に渡る。1871年、おじのルーベン・ヨーナス・ロベルトソンの援助で2隻目の船を購入、これをロベルトソン号と名付け、翌1872年にアジアでの貿易に乗り出す。中国で購入した茶葉をオーストラリアで売却し、オーストラリアから中国に石炭を運ぶ交易の途上で、ヨーロッパの影響が及んでいない太平洋の島々を目にし、ここをビジネスチャンスと捉えた。1873年7月、福州で茶葉を積んで2度目のオーストラリア行きに乗り出した矢先に台風に遭い、宮古島に漂着するが、島民の救助により保護され、37日間の滞在の後、島の役人から船を与えられて島を出航、基隆を経て香港に向かう。エドゥアルト自身は、その後もドイツには帰らず、次の船ケーラン号(Coeran)ですぐさま太平洋での交易に乗り出す(漂着の翌年にはパラオに上陸している)が、宮古での遭難救助の経緯をドイツの新聞に発表し、さらに著書も出版したため、宮古島民によるドイツ船救助の事実がドイツ国内で知られるようになった。その結果、ドイツ政府は宮古島に謝恩の石碑を建てることを決定し、1876年にいわゆる「博愛記念碑」が建立されることになった。ヘルンスハイム自身は、その後は宮古とは関わりを持たず、兄のフランツとともにもっぱら太平洋地域での交易に携わった。1892年3月まで、主にミクロネシア、メラネシアで活動した後、ドイツ本国に帰国。第一次世界大戦さなかの1917年にハンブルクで死去。

★★ フランツ・ヘルンスハイム(Franz Hernsheim, 1845-1909)
エドゥアルトの兄。エドゥアルトとともに、太平洋地域での交易活動に従事した。1878年にはマーシャル諸島のヤルート(Jaluit)に設けられたドイツ領事のポストに就き、健康上の理由でドイツに帰国する1881年までこの職にあった(その後は弟のエドゥアルトがドイツ領事に就任した)。マーシャル諸島の言語や習俗に関する研究書などの著作も出版している。

 ルーベン・ヨーナス・ロベルトソン(Ruben Jonas Robertson)
エドゥアルト兄弟の母方のおじ。エドゥアルトの母ゾフィー(オランダの商家の娘で、旧姓はメンデスMendes)の姉ヘンリエッテ(Henriette)の夫がルーベン・ヨーナス・ロベルトソンに当たる。ハンブルクで鉱石の輸入に携わっており、業績は好調で、「進取の気性に富んだ若者を支援するための基金」を設立して若手企業家を支援していた。甥にあたるエドゥアルトにも資金援助を行い、それによってエドゥアルトは、破船した1隻目の船クリアー号に代わる2隻目の船を購入できた。エドゥアルトは、資金提供者であるおじの名を借りてこの船を「R. J. ロベルトソン号(R. J. Robertson)」と命名。これが宮古に漂着するドイツ商船ロベルトソン号である。

★★★ ヌイチャン(=内間仁屋、本名は本永幸敏)
エドゥアルトの日記に”Nui-Chan”の名でたびたび登場する島の下級役人。ロベルトソン号の乗組員の通訳と接待に当たった。1869年のイギリス船漂着、1870年にフランス船漂着の際にも通訳として活躍したとされ、その時に覚えた英語、フランス語の知識を活かして、ドイツ人乗組員と在番との間の連絡係・折衝役を果たした。その功績により、博愛記念碑建立の際、ドイツ皇帝から記念品として銀時計を贈られている(下級役人には異例の措置?)。

★★ 花城親雲上
ロベルトソン号漂着当時の島の最高責任者。1872(明治5、同治11)年に首里王府から派遣され、1874(明治7、同治13)年2月14日に宮古で病没した。彼の短い宮古在勤中に、ロベルトソン号の漂着のほか、台湾遭害事件(1871年)の生存者の帰還や琉球藩の設置(いずれも1872年)など、琉球の社会を揺るがす事件が次々と起こっており、それらの対応に追われる日々を過ごしていたのではないかと推測される。
 【市指定:典籍】恩河里之子親雲上の墓碑

★★ フォン・ライヒェ(Von Reiche)
チクロープ号の艦長(+当時の身分は海軍大尉)として、博愛記念碑の建立と記念品の贈呈という任務を帯びて宮古島に派遣されたドイツの軍人。まず上海で記念碑を載せ、1876年2月に横浜に入港すると、日本の外務省が用意した通訳の山村一蔵を乗せ、同年3月12日に那覇に到着(琉球藩王への謁見を求めたものの、病気を理由に面会できず)、ここで琉球語と日本語の通訳として多嘉良親雲上を乗船させ、3月16日に宮古に到着。皇帝ヴィルヘルム一世の誕生日に除幕式を行えるよう、記念碑の設置場所の選定と運搬などの作業に急ピッチで取り組んだ。3月20日には作業を終え、22日に予定通り除幕式を行った。さらにその後は宮古の周辺海域の地理学的調査も行っている(ドイツの領土的野心を示すものではないか?)。

★★ 山村一蔵(1850頃?-1879)
岸和田藩(今の大阪府)に生まれ、幕末に蘭学を、また明治維新後はお雇いドイツ人教師のもとでドイツ語を学ぶ。博愛記念碑の建立当時は外務省(それ以前は文部省)に勤務しており、ドイツ語に堪能だったことから通訳としてチクロープ号に同乗、那覇を経て宮古島に渡った。その際、通訳としての功績がドイツ政府に認められ、金時計を贈られた。その後、東京大学医学部の教師を経て、ドイツ語の私塾「独逸学校」を設立するが、1879(明治12)年に急死した。

 多嘉良親雲上
琉球語と日本語の通訳として、那覇からチクロープ号に乗船し、宮古に渡った琉球王府の役人。名前や生没年をはじめ、どういった経緯で通訳に選ばれたのか、宮古方言は解したのかなど、詳しいことはわかっていない。おそらく、明治政府から通訳手配の要請を受けた琉球王府が、彼に宮古行きを命じたものと推測される。彼については、沖縄側の文献をさらに調査する必要がありそう。

その他
★★★ 船長日記
正式なタイトルはDer Untergang des Deutschen Schooners "R. J. Robertson" und die Aufnahme der Schiffbrüchigen auf die Insel "Typinsan"『ドイツのスクーナー「R. J. ロベルトソン」号の沈没と「太平山」島民による乗組員の保護』。この日記に日本語訳が、上野村によって『ドイツ商船R. J. ロベルトソン号宮古島漂着記』というタイトルで1995年に刊行されている。エドゥアルトの日記の主要な箇所をまとめたもので、ロベルトソン号の漂着と救助の一部始終をドイツ側の視点から読み解く上での第一級の資料である。しかし、その記述内容に関しては、もしかしたら一部にウソが含まれている可能性や、大事なことを意図的に書いていない箇所があるといった疑惑も浮上しており、今後もさらなる調査が必要になっている。

★★ 宮古島民台湾遭害事件
ロベルトソン号漂着の2年前に当たる1871(明治4、同治10)年、宮古の年貢運搬船(役人ら69人乗船)が積み荷をおろし那覇からの帰路、台風に遭い台湾南部に漂着し、54人が原住民に殺害された事件(その他に3人が溺死)。12人が現地人に救助され、台湾から福州、那覇を経由して翌72年に宮古に帰還している。ロベルトソン号の漂着に際し、宮古の人々が、この事件の影響からドイツ人を「人食い人種ではないかと恐れた」とする説もあるが、この台湾遭害事件がロベルトソン号漂着時の対応にどの程度影響したかは不明である。
なおこの事件を口実に、西郷従道(隆盛の弟)は1874年に(明治政府の中止命令を振り切って)独断で軍艦4隻を率いて台湾に上陸、現地の住民を討伐した。同年10月に日清両国間で北京議定書が締結され、日本は清国に対し、賠償金の支払いと、琉球の民を「日本国属民」と表記することを認めさせた。

★★ 琉球藩の設置
ロベルトソン号漂着の前年に当たる1872(明治5、同治11)年、明治政府は琉球王国を琉球藩に、国王尚泰を藩王に格下げし、琉球を外務省の管轄下に置いた。その後さらに1874年に琉球を内務省の管轄下に置き、琉球藩を国際法上の日本の領土とした。なおこの措置により、「博愛記念碑」の設置に際して、ドイツ政府は宮古島を日本の領土と見做し、東京のドイツ公使館を通して日本政府に石碑建立の許可を申請している(但し実際には、「石碑を持っていきますね」というドイツ側の一方的な通告に近かった)。明治政府はその後、1879(明治12、光緒5)年に松田道之を琉球処分官として首里に派遣し、琉球藩を廃藩、沖縄県を設置した(琉球処分と呼ばれる)。


これで、ロベルトソン号漂着&「博愛記念碑」建立の経緯や、エドゥアルト・ヘルンスハイム船長の経歴、関係する主な人物や物語の舞台となった場所やその歴史について、ある程度おわかりいただけたと思います。

ここまでが、「続ロベルトソン号の秘密」の第一幕でした。来月からの第二幕では、「博愛記念碑」の「その後」をフォーカスします。ドイツ皇帝の「石碑」が、半世紀の時を経て再び脚光を浴び、「博愛記念碑」と名付けられ、修身の教科書に採用され、1936年(今からちょうど80年前)の「博愛記念碑60周年記念祭」へと盛り上がりを見せていく経緯を紹介していきます。お楽しみに。  


2016年09月13日

第100回 「祝!連載100回記念特番」


島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」は、2014年10月21日の第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」を皮きりに、一週たりとも休むことなく毎週毎週、地道に愚直にマニアックに書き続けてきました。そしてそしてついについに。今日、連載100回を無事に迎えてしまいました!。

正直、こんなマイナーなこと公衆の面前に披露してていいのかと思いつつも、続けることに意義があるのだと身勝手に気付き、なんでもとかく記録しておくことの大切を再認識させられました。
もっとも、あまりにもニッチなマニアック過ぎて、Atalas Blogの連載の中では異例なほど読者がいないんですけどね(自虐)。ですから、奇特な読者様は、自分のお勉強というか、オトナの自由研究にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。そしてこれからもさらに精進して続けて参りますので、何卒、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます(懲りずにまだまだやるですよ~ニヤリ!)。

さてさて。連載100回という節目ですけれど、誰も期待していないと思いますが、ここらでひとつズババーンっとまとめをしてみたいと思いまして、これまで記事にして来た全石碑(銅像、胸像、プレートetc)を一挙に蔵出しマップにしてみました(この作業もまた地味www)。
ちなみに一回の記事で、複数個取り上げている回もありますので、マップに落とした石碑の数はなんと112個!。よくもまあやったものです。っとと、ここは自画自賛しておきます(笑)。
ちなみに、連載の方は毎週火曜日だけでしたが、実は二度ほど金曜特集の方にスペシャル版を掲載したこともあったります(『ナナサンマルを追え![んなま to んきゃーん] SP』と、『「人頭税にまつわるエトセトラ」ベスト盤~んなま to んきゃーんSP』)。ご覧になっていない方はこちらもぜひ!。

それでは100回記念の集大成をマップでお楽しみください(スマホからでもGoogle MAPに切り替えると見れます)。  続きを読む


2016年09月09日

12冊目 「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」



今回、江戸之切子は夏休みです。変わって、「島の本棚」を担当してくれるのは、童名(ヤラビナー)に「カニメガ」の名を持つ、宮国優子がまたまた代打で登場です。
なんでも「カニメガ」の「カニ」は「金」。遡ればそれは「鉄」であり、「太陽」であるという(恐らく鉄が太陽なのは、鍛冶屋が扱う赤々と熱せられた鉄と思われる)。そして「メガ」の語源は「女児(めご)」。これが転じて「~ちゃん」的な表現に。つまるところ「カニメガ」とは「太陽ちゃん」。そんな「カニメガ」こと宮国優子の書評ならぬ熱~い「読書感想文」が届きました。

書評にふさわしくない小説 荷川取雅樹「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」
タイトルにはふさわしくない言葉になってしまいましたが、書評なんか似合わない、書評なんかアカフスダイ(くそくらえ)の短編作品集です。荷川取さんの作品には書評なんか必要ないのです。

なぜ必要ないか?。それは荷川取さんの自身の存在が小説の中に色濃く、人の生き方に良い悪いも正しい正しくないもないからです。人の人生を評するなんて、まさにアカフスダイでしょう。
ですが、かろうじて、荷川取さんに肩書をつけるとすれば、そうですね、同時代の南島小説家でしょうか。ベタですが。

荷川取さんの小説は、どこまでも南の島の香りがする。そりゃそうですよね。宮古で書いているのですから。
この本には自伝的な小説が含まれていて、なぜ荷川取さんが書くにいたったかが、なんとなくわかる気がする。内発性という意味で。
気がするだけで、実際はそうじゃないのかもしれないし、ご本人にうかがったこともないので、実は間違いかもしれない。

外的要因とすれば、著者プロフィールにお書きになっている交通事故、リハビリ、執筆へとつながるけれど、きっといつかどこかで書き始めた人なんだろうと思います。もしくはちがった形のクリエイティビティを発揮したに違いない、と。

おっと、どんどんずれていく。

この本は、私にとってはレトリックからいくと、非常にメジャー感がある。誰にでも読める、平易な言葉遣いで、さらりと読める。でも、私たちの世代は(と、いっていいのかどうか悩みますが)引っかかりながら読んでしまう。何故か?それは私たちにとってのリアリティが迫ってくるからだ。

あぁ、その時代をこうして表現するのだな、と私なんかはドキリとするのだ。枝葉があるようでない。言い換えれば、彼は太い幹を書いている。その幹が丸々と育っている。あの時代はそういう時代だったと、あの当時を知っている、どの世代の宮古島の人も感じると思うのだ。

そういう意味で、わたしにとってはメジャー感がある。

ある人に「あれは私小説なんだよね」と聞かれて、「まぁ、そうですね」と実は30分前に答えた。
でも、今、まったく違うことを思っている。

あれは、宮古島の私小説なんではないか、と。荷川取さんは個人的なことを書いているようで、実は書いていない気すらするのだ。個々にたどり着くまで、なかなか考えがまとまらなかった。

実は本を頂いてから、「マクラム通り?」について、ずっと何か書きたいと思っていたのだけど、なかなか書けなかった。紹介文なんだから、作者、読み手にも有益な情報を!と思いながらも、書けずにいたのだ。この本の真の価値を、青の時代に宮古にいなかった人と共有できるかどうかがわからなかったから。

などなど、思っていることがたくさんあるので、書き起こすことが出来なかった。いいわけじゃなくて、ほんとに。そういう意味ではどの作品も宮古島に生まれ育った私にとっては重いのだ。

荷川取さんが書いている空気は、私にはとても馴染みが深い。 一時代のきらめきみたいなものかもしれない。

どんな時代背景かというと、1970~80年代は、宮古がはじめて物質的にゆとりを持ち始めた頃だったと思う。バブル前で、日本の地方はみんなそんなものだったかもしれないけれど。

島特有の豊かさへの道は、私たちの両親の世代に鍵がある。両親の世代は、日本の高度成長にかろうじて乗る。そして、本土復帰をして、ドルから円へ。不動産や教育への価値観がガラリと変わった頃かもしれない。自分の家の話で恐縮だけど、当時、父はその変化に対してアグレッシブで社会に対してドライだったが、母は旧態依然で湿度を含んだ物の考え方をしていた。子どもながらに、時代の変わり目ってこんな風じゃないだろうか、と思っていた。

その前の倭寇や密貿易の時代とは違う、新しい経済価値に大人たちも総踊りしたのだと思う。そこにただ佇む子どもたち。その子どもたちが感受性豊かにその時代を生きた実録・・・にも読める。

だから、ある人にとっては偽薬になり、ある人にとっては劇薬にもなりうる。
実は、この小説を読んでどう感じるかで、自分のアイデンティティや現在の立ち位置を占うことができるのではないか。
昔、荷川取さんに原稿を頂いた時に、メールを書いたことがあります。その一部をご紹介したいと思います。

「荷川取さんの原稿を読むたびに、自分の才能のないことを突きつけられているような気がしたのです。外に出て、たくさんの仕事を教えられ、たくさんの人に刺激を受け、それでも私はその才能も根気もない」

と、言うように、私もつきつけられたのでした。

そして、こうも書いています。

「時間がたてばたつほど、混乱して、どう荷川取さんと向き合えばいいかわからなかったのです。すいません」

まぁ、なんというか青いです。私には後光がさして見えていたんです。宮古にいつづけるということ、宮古で書き続けるということについて。私が本来はしたかったことなんだろうと思います。無意識下にずっと水脈のように眠っていて、荷川取さんの小説を読むことで相当な圧力で水が吹き出したのだと思います。

一番最初に、南島小説家と書きましたが、荷川取さんがこの御本で描いた世界はすべからく「宮古島南島小説」と冠したい。そう思うのです。
ってわけで、中身は何一つ紹介していない気がしますが、あなたを占う一冊として、私なぞの評論はいらないのです。まずは開いて、その世界にどっぷり浸かってください。

何故か、書評、かなり個人的な読書感想文になってしまいました。
(宮国優子) 


〔書籍データ〕
マクラム通りから下地線へ、ぐるりと
著者  荷川取雅樹
発行者 BCCKS(電子書籍オンデマンド出版)
発売日 2016/02/26(2016/07/23)

◆購入方法 BCCKSのサイトで購入することができます。
※こちらのサイトは、いうなれば注文販売方式なので、電子書籍として利用することも可能です。
↓↓↓購入はこちらをクリック↓↓↓

  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2016年09月06日

第99回 「土木学会・田中賞/全日本建設技術協会・全建賞」



いよいよ連載100回にリーチがかかった99回目の「ん to ん」です。とはいえ、気負わずにあいかわらずの平常運転で推して参る。
さて、今回の石碑…というか、プレートというか、賞状というか、形容しがたい形状の記念モノです。
すでにタイトルからお察しの通り、土木建築系の賞なのですが、近年完成したの宮古地区の建造物といえば、もちろん2015年1月31日に開通した伊良部大橋です。

伊良部大橋の伊良部島側の橋詰に、こちらのふたつのプレート(以下、便宜上プレートで統一します)がトラバーチンの台座とともに設置されています。伊良部大橋は通行料金を徴収しない橋としては日本最長であり、県内最長の橋(3位、来間大橋。4位、池間大橋)で、全長3540メートルあります(本橋部3540メートル、海中道路600メートル、取付橋梁170メートル、取付道路2190メートルで、総延長は6500メートルになる)。そんな伊良部大橋に新たな勲章が加わったのです。

まずはひとつめは「全日本建設技術協会・全建賞」というもの。賞を選定しているのは一般社団法人全日本建設技術協会で、国土交通省、農林水産省、都道府県及び市町村、機構・公社に勤務している、日本最大の建設技術者の団体だそうです。
協会名を冠したこの全建賞は特出した成果の得られた公共工事に対して贈られるもので、沖縄県宮古土木事務所建築課の「伊良部大橋橋梁整備事業(一般県道平良下地島空港線)」が、2014年度の「全建賞」として選ばれました。
尚、宮古管内からは2004年に、「新多良間空港境整備事業」以来となるそうです(通算5度目)。
ま、いうなれぱ公共工事界のローレル賞*1といったとこでしょうか(対象の道路部門だけでも16事業に贈られています)。

一般社団法人 全日本建設技術協会
平成26年度全建賞受賞事業(全60事業)

もうひとつは公益社団法人土木学会が選定している、田中賞というものです。こちらの団体は土木事業の発達ならびに土木技術者の資質向上を図り、土木工学、学術文化の進展を目的とした学術系の団体で、田中賞は橋梁を中心とした優れた業績に対して贈られます。
この田中賞の由来は、1923(大正12)年の関東大震災後の首都の復興に際し、帝都復興院の初代橋梁課長として、隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった名橋(いずれも重要文化財に指定)を生み出した、日本近代橋梁史上、もっとも著名な技術者である田中豊博士(1888-1964)に因んでいます。
ちなみに、この年は日越友好橋(ベトナムは漢字で“南越”と書く)として、ニュースでも大きく話題になった、ベトナムはハノイ市のニャッタン橋も選出されいます(横浜の鶴見つばさ橋にシルエットがどことなく似ている)。

公益社団法人土木学会
田中賞

余談になりますが、この土木学会のHPにある「土木図書館デジタルアーカイブス」はおすすめです。
古い土木建築物の写真を初め、災害時の資料写真、マニアックなダムや橋梁の画像がたくさん集められています(もっと深く潜ってゆくと、鉄道院時代の史料とか、満州の土木雑誌とか、設計図面とかお宝画像が色々あって、土木系マニアにはたまらないかも)。

沖縄県 伊良部大橋(概要)

【関連石碑】
第16回 「伊良部大橋開通記念碑」
第17回 「伊良部丸遭難の地 慰霊碑」

*1 ローレル賞 鉄道友の会の選考委員会が審議し、優秀と認めた日本の鉄道車両に対する賞である(最優秀はブルーリボン賞となる)。  続きを読む


2016年09月02日

Vol.7 「夏植え」



朝夕の風は少し秋めいてきたが、夏の終わりがまだまだ続いている宮古。この時季、畑ではサトウキビの夏植えをする姿があちこちで見られる。

日よけのための大きなパラソル。
その下で成長したキビを一本ずつ「押切り」を使いカットをし、種(20センチ~30センチほど)を作っている。
写真を撮らせてほしくて声をかけると近所のお姉さんだった。
種にするキビは昨年夏に植えたものも使うが、今やっているのは今年の春に植えたキビとのこと。「そのほうが若くて発芽しやすい」そうだ。今年は雨が適度に降り、台風も来ないので、すくすくとまっすぐ育ったキビになっている。
ご主人がキビを刈り、それをお姉さんが「押切り」で切る作業をもくもくとやっていた。

「押切り」と言えば、子どもの頃、カットする際に出るあまりの部分(クールと言う)をもらうのがうれしかった。長さが短く節がないので食べやすい。押切りの前に座り、クールが出るのをジッと待っていた。今でもその形を見るだけで欲しいと思ってしまうから可笑しい。
 
種は肥料袋に入れ(畑の大きさにもよるが何十袋も)耕した畑に植えていく。
最近は、機械による植え付けもあるが、手植えをする農家も。手で種を畝の中に放り、足で踏みつけ土をかぶせる。休みの日には家族総出でやる農家もある。畑を耕す人、肥料を撒く人、種を放る人に分かれて分担作業をする。暑い中での作業は本当に大変だ。

キビは宮古の一番の基幹作物。(何の「夏植え」と言わなくても宮古のほとんどの人はキビの夏植えのことだなとわかる。と思う)台風にも強く(塩害で枯れる場合もあるが)、横倒しになってもまたそこから上に伸びていく。
なんとも つーばー(強い)。

キビは昨年も豊作だったが、来る冬の収穫も豊作になりそうだ。今年はまんべんなく雨が降っているので大きく成長し、葉は、おーたうたう(青々)としている。
早朝、キビの葉にはまん丸の朝露が付いていたり、また、ガイチン(セッカ)が止まったりしている。

キビは収穫するまでに一年半かかる。この夏に植えたキビは、再来年の冬の収穫だ。
夏植えの作業は9月終わり頃まで続く。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々