てぃーだブログ › ATALAS Blog › 続・続ロベルトソン号の秘密 › 第一回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その1): カーリュー号の秘密

2023年09月04日

第一回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その1): カーリュー号の秘密

第一回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その1): カーリュー号の秘密

お久しぶりです。2017年まで、ATALASブログで「続ロベルトソン号の秘密(続ロベ)」を連載していましたツジです。この度「続・続ロベルトソン号の秘密」という形でカムバックすることになりました。といっても、前身の「続ロベ」をご存じない方も多いと思いますので、2015年から2年間、24回にわたって連載したブログと、その続編となる今回のシリーズについて、まずは簡単に紹介したいと思います。

「続ロベ」とは


「続ロベ」は、ALATAS ネットワークの「ミャーク(宮古諸島)の伝統文化を紡ぐ地域教育プログラム」の一環として2015(平成27)年9月に開催された講座「ロベルトソン号の秘密」(仲宗根將二、辻朋季)の続編として生まれたもので、宮古島市平良に今も残る「ドイツ皇帝博愛記念碑」にまつわる様々な史実を紹介しています。特に、私の専門であるドイツ語の文献なども活用して、また最新の郷土史研究の成果なども参照して、1873(明治6)年のドイツ商船「ロベルトソン号」の漂着や救助、船長のその後、1876(明治9)年の「博愛記念碑」設置の経緯、1929(昭和4)年の「石碑の再発見」や1936(昭和11)年の「博愛記念碑建碑60周年」などについて詳しく見ていく、という企画でした。

今回、6年間の休止を経て、久々に連載を担当させていただくことになりました。休止期間中にも、ロベルトソン号に関する「新たな秘密」が色々とわかってきましたので、最新の研究成果もお伝えできれば、と思います。ということで「続・続ロベ」の最初のテーマは
「ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相」
です。エドゥアルト・ヘルンスハイム船長の率いるスクーナー「R. J. Robertson」号が宮古に漂着したのは、今からちょうど150年前、1873年の7月のことです。そこでまず、この1873年のロベルトソン号の遭難と島民による乗組員の救助について、気になるポイントを2つ取り上げ、2回に分けて検証を行います。第1回のブログでは、イギリス船カーリュー号の動向について、また第2回ではロベルトソン号漂着時の乗組員の人数と上陸後に死者が出ていた可能性について、考えていきます。

「カーリュー号の秘密」


エドゥアルト・ヘルンスハイムを船長とするドイツ・ハンブルク籍のスクーナー、ロベルトソン号は、1872年に、中国からオーストラリアに茶葉を運んで売り、帰りに石炭を積んで香港でさばくという貿易を行っています。またその途中で彼は、太平洋の島々が未開拓の地域であることを知り、商機を見出していました。そして、二度目のオーストラリア行きをもくろんで茶葉を積んだロベルトソン号は、1873年7月9日に福州を出航するのですが、その直後に暴風雨に見舞われ、宮古島の宮国沖のリーフに座礁してしまいます。

これに関して、一部の文献などにおいて、イギリスの「カーリュー号」という船が当時付近を航行しており、ロベルトソン号を救助しようとした、と語られてきました。その根拠となったのが、『南島』第三輯(宮古特集号、1944年、台北で出版)に掲載された江崎悌三の論文「宮古島のドイツ商船遭難救助」です。ここで江崎は、ドイツの新聞記事を翻訳・引用する形で次のように述べています。
獨逸船の坐礁は又大ブリテン國軍艦カーリユウ號の司令官チヤーチ艦長の知るところとなり、坐礁者の生死を確め且つ大いに感謝すべきことには救援せんとして、一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた。

* Deutscher Reichsanzeiger(『ドイツ帝国新聞』)1874年2月18日の記事(江崎訳)。『南島』6-7頁。

この箇所だけを読むと、確かにカーリュー号がロベルトソン号を救助しようとしていた(ものの、暗礁のせいで上陸できなかった?)ようにも見えます。しかしここで、素朴な疑問がいくつも湧き上がります。例えば、

  • 仮にカーリュー号が付近を航行していたとして、ロベルトソン号が操縦不能になるほどの大嵐の中で、自分の船(カーリュー号自身)は大丈夫だったのか?

  • 荒天でおそらく視界が非常に悪いと思われるなか、ロベルトソン号を発見できたのか。

  • 暴風雨のなか、小艇なんて出せるのか?そもそも、ロベルトソン号を救助しようとしにも、そんなことは不可能だったのではないか(二次被害により、カーリュー号の乗組員の生命にも危険が及ぶおそれあり)。

こんな感じで、荒れ狂う海上で、そもそもロベルトソン号が視界に入ったかも怪しく、かつカーリュー号自身も航行不能になる危険性もあり、まして小艇など出すのは論外なのではないか。それゆえ、このカーリュー号の関与については、当初から何か辻褄が合わず、すっきりしなかったテーマなのですが、その秘密は数年前に解けました。謎を解いて下さったのは、別のイギリス船の漂着について研究していた「沖縄水中文化遺産研究会」の先生方です。

先に結論から申し上げますと、ずばりカーリュー号の関与は「あった」ということになりますが、事情は少し複雑です。この点を、この研究会が編纂した著書『沖縄の水中文化遺産』(ボーダーインク、2014年)をもとに見ていきましょう。

水中文化遺産研究会は、沖縄本島北部、現在の国頭村宜名真にある「オランダ墓」(注:当時は、西洋の船の乗組員のお墓はみな「オランダ墓」と呼ばれていた)について調べる過程で、このお墓に埋葬されているのが、1872年に宜名真沖で沈没したイギリス船「ベナレス号」であることを突き止めます。さらに、ベナレス号の乗組員を救うため、1873年に奄美大島から沖縄へと南下しながら捜索を行っていたのが、イギリス海軍の「カーリュー号」だったというのです。

カーリュー号は、宜名真に着くと、ここでベナレス号が沈没したこと、また乗組員13名が死亡したこと、生存者5名は那覇に移されたことを知り、その後に那覇を訪れて生存者を収容し、上海に送り届けています。

さらにその後、カーリュー号は、ベナレス号の乗組員の救助への感謝を伝えるため、1873年11月に再度沖縄を訪問しています。この時、カーリュー号のチャーチ艦長は、琉球王府の役人から、同じ年(1873年)の夏に、宮古島に「喜邪阿麻根国船」(ジャーマニー国の船)つまりドイツ船が漂着したとの報告を現地から受けたが、その後どうなったかわからない、と伝えられます。そして、カーリュー号が中国への帰るついでに、宮古島に立ち寄って状況を確認してほしい、そしてもし生存者がいれば、中国大陸のどこかに送り届けてほしいと頼まれます。

これに応じる形で、チャーチ艦長は1873年の11月15日に宮古島を訪問しています。但し珊瑚礁に囲まれた宮古島は、大型の帆船の出入りが困難なため、カーリュー号自身は宮国沖に停泊し、一部の乗組員を小艇に乗せて島に上陸させたようです。その際、島の近くに暗礁があったので、上陸は危険を伴った、というのが、江崎が紹介した新聞記事の報道「一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード(←誤植。実際はワダ)等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた」ということになります。

というわけで、ロベルトソン号の漂着から遅れること4ヶ月、カーリュー号は実際に宮古島に寄港していたわけですが、既に「続ロベ」をお読みの皆さまはご存じの通り、ヘルンスハイム船長とドイツ人・中国人から成る乗組員一行は、宮古の在番により付与された船に乗って8月17日に宮古を出航しています。この情報を、カーリュー号の乗組員も、島の有力者に聞き取りをして入手し、既に島にドイツ人がいないことを確かめると、カーリュー号は当日のうちに宮古を出航し、そのまま上海に戻っていきます。

この点を踏まえて、再度新聞記事を読み直すと、カーリュー号の関与について、時期に大幅なずれはあるものの、記事内容は正しかったことがわかります。つまり

  • ドイツ船の坐礁は、イギリス軍艦カーリュー号の司令官チャーチ艦長の耳に(4ヶ月遅れで、また首里において)入った

  • 座礁した人の生死を確かめ、またありがたいことに救援(中国に移送)しようとした(が実際には生存者は島を旅立っていた)

  • 小艇に士官ブレナン、オーグル、ワダらを、兵士と共に乗せて島に遣わした

  • 但し、島の前にある暗礁のせいで、上陸には危険が伴った(危険なきを得なかった)

というわけです。

ちなみにカーリュー号の動向については、琉球王府の正式な記録である『球陽』や宮古島の『在番記』からも裏付けられます。まず、カーリュー号に宮古島への立ち寄りと外国船の捜索を依頼した経緯については、『球陽』が次のように述べています。
「英人に請ひて曰く、宮古島吏役の報称に拠れば、今般、喜邪阿麻根国の商船有りて、本島洋面に漂到し、礁を衝きて損破し、人皆上岸して活命す等の語国に到り、此れに拠る。今顧ふに、難人島に在ること有りや否や、未だ其の由を知らず等語ると。稟に拠れば、我等回国の時、必ず須く該島に転到し該難人を将て本船に搭駕して、一同帯回すべし。乞ふ、水梢二名を雇募して、本船に搭駕して之れが引導を為すを准せ等の情、此れに拠る。朝廷其の請ふ処を准し、其れをして二名を率領し、開洋して島に赴かしむ」。

ざっくり言えば、「ジャーマニー国の船」が宮古に漂着したって現地から連絡があったんだけど、その後の消息がよくわからないので、行って調べてくれませんか?うちのほうで、水先案内人を2人付けますので、という内容です。

で、カーリュー号が実際に宮古に来たことを示すのが、『在番記』の次の記述です。
同年(注:1873年)外國舩一隻宮国村ノ浦ヘ到着間モナク出帆ニ付形成御届ノ事、附右舩ヘ水先用琉人二人乗合当島ヘ召卸翌春罷登候事

琉球人の水先案内人が2人いた、というのがポイントで、この「外国船」がカーリュー号であることが裏付けられます。

ということで、ロベルトソン号の漂着に際しての、カーリュー号の関与についてのまとめ:

  • イギリス船カーリュー号は、確かにロベルトソン号の捜索のため、宮古島に来ていた。しかしその時期は1873年11月(ロ号座礁の4ヶ月後)だった。

  • カーリュー号が沖縄に来たきっかけは、前年に起きたイギリス船「ベナレス号(Benares)」の沈没だった。

  • ベナレス号は1872年10月、沖縄本島北部の宜名真沖で座礁。18人の乗組員のうち13名が死亡、生存者5名は救助され、那覇に送られた。

  • 遭難者捜索のため、イギリス海軍のカーリュー号(Curlew)が奄美~沖縄に来航(1872年12月~1月)。那覇でベナレス号の生存者を引き取り、1月23日に上海に到着。

  • 1873年11月、遭難者救助に対する謝意を述べ、琉球王府にお礼の品を贈るため、カーリュー号が那覇を再訪。その際にチャーチ艦長は王府高官から、宮古にドイツ船(=ロベルトソン号)が漂着したことを知らされ、その調査を依頼される(生存者がいた場合は中国に送り届けることも)。王府は水先案内人を二人、カーリュー号に乗せて同行させた。

  • 依頼を受けたカーリュー号は1873年11月15日に宮古に到着した。小艇に士官らを乗せて島に上陸させ、漂着船について聞き取りを行ったが、既にドイツ人が出航したとの情報を得ると、二人の水先案内人を下船させて島を離れ、上海に向かった。

これが、カーリュー号の真相でした。ロベルトソン号の漂着が、他のヨーロッパ船の漂着とも関係している、というのが興味深いですね。

次回は、カーリュー号のチャーチ艦長の報告書をもとに、ロベルトソン号の乗組員の死者数をめぐる謎について考えていきます。ドイツ人が残っていないことを知ると、さっさと宮古島をあとにしたチャーチ艦長ですが、興味深い報告をしていますので、これはまた次回。


参考文献:
南西諸島水中文化遺産研究会(編):『沖縄の水中文化遺産』、ボーダーインク、2014年。
球陽研究会(編):『球陽 読み下し編』、角川学芸出版、2011年。
平良市史編さん委員会(編):『平良市史』、第三巻資料編I(前近代)、1979年。
南島発行所(編):『南島』第三輯(宮古特集号)、台湾出版文化、1944年



同じカテゴリー(続・続ロベルトソン号の秘密)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。