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2019年12月23日

第20回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その8」



さて、師走ですね。宮国です。皆さん、いかがお過ごしでしょうか?年の瀬ついでに、いろいろサマリーを書いてみたいと思います。

結構、いろんなところで書き散らしていますが、私は宮古出身で東京在住です。このブログを書くきっかけがいくつかあります。

・宮古に住む友人が上京した際に、凹天を教えてくれたこと。
・これまで定説とされていた商業アニメーション映画公開年が100周年を迎え、凹天がフューチャーされることになったこと。
・(個人的にですが)『読めば宮古』がベストセラーになって、宮古の歴史をまったく知らないことに気づかされたこと。
・宮古研究をするつながりができたこと。

この12~3年くらいが本格的に宮古研究(というほどたいしたことはありませんが)生活の一部になってきたのだと思います。


12月の宮古研究会@法政大学沖縄文化研究所

では、なぜ、宮古を出た私が宮古研究をするきっかけになったか、というと、それも徐々ですが、確実にあります。宮古毎日新聞で東京の記者として取材したことや先日、終了したメールマガジン「くまから・かまから」など、自分から積極的に動いたわけではなく、なんとなく人のつながりから始まったような気がしています。

くまから・かまからの松谷さんに会うために、よく行った吉祥寺のルノアールです。先日、懐かしさについ入ってしまいました・・・。

私生活では、結婚をすることになって、改めて「血のつながり」「故郷」について考えたということもあります。その際に、東京に住んで、独身だった私が目をつむっていた「常識の違い」に直面したからでもあります。

子どもをもつ前はあまり気にしていなかったのですが、子どもをもって初めて東京という地域のコミュニティに入ったことで、皮肉にも宮古に住んでいたときと同じように「こうあらねばならぬ」という常識に押しつぶされるようになりました。

東京はとても優しい都市です。いろんな人がいて、いろんな生き方がある。でも、根をおろそうとすると、日本人と私には長い深い川があることに気づきました。独身で、気ままに暮らしているときはなんとなく知らんふりで、多世代との交流もなければ、東京の地元の人と関わることも少なかったです。要はプライベートで地域と関わることはほとんど無かったと言っても過言ではありません。

ですが、子どもが生まれると一転、実は東京もローカルルールばかりで「宮古と変わんないじゃん!」と悶ました。宮古のローカルルールは子どもの頃から叩き込まれているので、察することはできますが、東京のローカルルールは考えの成り立ちが違いすぎて察することができません。いや、なんとなく察することはできますが、まわりに合わせていると、彼らは私がローカルルールを熟知していると思い始めるから厄介でした。

なので、今までの仕事仲間だけでなく、ママ友や、宮古研究を始めたことで知り合うことになった人や、友人の輪は格段に広がりました。ですが、親しくなったと思ったら、相手が本音で話してくれるので、その言葉に対する私のストレートな感想が発端で決裂したり、たまに絶交ということもありました。

私からは絶交しないですが、相手がこういう人(わたし)に話しても無駄だと思うようです。残念ですが。代わりに、宮古のように深く話せる友人も得られるようになったという嬉しい側面もあります。

なぜ、私が東京に合わせていたか。それは、私が移住組だからです。東京があまりよく分からないので、とりあえず静観する、といった感じです。ただ、公的な場所で意見を求められたら、はっきりと自分の意見は言いました。それは今も変わりません。それはあまり拒否されることはありませんでした。

ただプライベートで個人的に仲良くなると、自分の意見を言うと、相手が共感してくれないことに腹をたてる、ということがありました。宮古のズキバキ(はっきりいうこと)は、東京のような多種多様な人が多いところではしょうに合わない人がいても当然だと思います。私にとっては、はっきりと対話することが友情の証くらいに思っているのですが、それは人によっては過剰なのかもしれません。

ですが、先述したとおり、一生ものの友人ができたのも東京です。それは、私の意見を受け入れてくれたというよりは「自分の常識とはちょっと違うけど、そんな人もいるんだ、さて、宮国さんの言うことも聞いてみよう、理解してみよう」と胸襟を開いてくれた人でした。

宮古の人に「東京は怖いよ」と言うつもりはまるでありません。でも、違うルールで動いている人がたくさんいて、話を聞いてくれる人もいれば、まったく聞き入れない人もいる。あまりにも当たり前で書く意味がないことかもしれません。さらに、沖縄というだけで、自分とは違う、島の人間は温かいはずだ、という勝手な決めつけやあからさまに下に見る人もいます。

人間関係や、世の世知辛さで「なんだこりゃ」の連続だった日々を振り返っても、苦しかったけど良い経験だったなと思うのです。なぜなら、私が橋をかけられた人たちがどういう人かも分かってきたし、さらに言えば「自分とは何か、どこから来てどこに行くのか」「私の思考の自然の成り立ちを育んだ宮古島とはどういうところか」などなど、自分新発見ができたからです。

私の子どもたちを見ていると、幼児の頃は宮古式子育てでも楽しそうでしたが、学齢期になると外との常識の違いにストレスを感じているようでした。それが原因で親子でぶつかりますが、向き合い続けています。それは、私の超宮古的な側面だと思います。

宮古の人がみんな私と同じとは思いませんが、私のような人は宮古ではある種のステロタイプだと思います。親子での諍いは、今も続いていますが、宮古と東京、言ってしまえば、沖縄と日本を考えるうえで、私の大きな軸になっています。そして、人間関係を切るのではなく、とことんまで向き合うか、上手に距離を取るという、島の鉄則の方が私には合っています。

そして、私が最近、肌身にしみて感じていることですが、時代が進むにつれて「東京の優しさ」と「島のユルさ」が近づいてきているようにも思えるのです。序盤は、私事で満載でしたが、きっと地方出身の人が東京で暮らしていくのには、時代を超えて、ある種のズレや無意識の意識化をさせられるように思います。それは、凹天を含めた漫画家たちにも色濃く現れているように思います。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)は、前回のブログで述べたとおり、『籠の鳥』のおかげで全盛期を迎えますが、あっという間に内紛の渦に巻き込まれます。

 その中にあって、柴田勝(しばた まさる)は、次々と映画を製作。

 ここでの大きな思い出は、1926年の第22回作品『長屋太平記』。撮影中に大正天皇の崩御があったことは、当時の人びとには極めて大きなことですが、この作品について、柴田勝の意図を的確に表現した批評が載ったからです。

 「江戸情緒が濃厚である、落語の面白さの完全なる映画化である、この映画はキザな新しさがない、黄金万能の社会意識がない、そこには昔の江戸ッ子が持っていた純粋な情熱があり、正直な一本気がある。長屋中の者がみんな貧乏であるというのも江戸ッ子の性質をよく現わしているし、大工の長吉に惚れた芸妓が母親から進められた金持ちとの結婚に反対して貧乏人のたたき大工と添いとげるところなど全く胸のすくような気持ちの良さで、それから長屋中の人達が長吉のために一肌ぬいでやるあたりなんかは、江戸ッ子の美風である他人のために骨をおるという気持を実によく語っていると思う。(略)とにかくこの『長屋太平記』は我々のような江戸情緒の讃美者には古い浮世絵よりも、名人の高座よりも、もっともっと懐かしい興味の深いものである」。


 ところで「江戸ッ子の美徳」とは、実際に何を意味しているのでしょうか。柴田勝は、江戸っ子の後継者としてプライドをもっていました。確かに、長屋に住む者同士では、誰かが生活物資に困ると、周りがすぐに助けるというような美徳が、あったのは確かでしょう。私の子ども時代を過ごした岐阜県大垣市や愛知県名古屋市守山区にも、いただきものを勝手口からそっと届けたり、醤油を分けあうなど普通にあった光景でした。

 漫画家に限定しますが、山本富夫(やまもと とみお)は、江戸っ子について、こう書いています。ちょうど、渥美清(あつみ きよし)と沢村貞子(さわむら さだこ)という下町生まれのふたりが相次いでなくなった1996年でした。

 「昔から下町生れの人々の多くは、シャイで、ざっくばらん、かざり気がなく、親切でおせっかいといったとことがあり、こういう根っこに個人の資質が重なって、寅さん、おていちゃんの個性や生き方が生れたのだろう」。

 「東京はもともと地方から出て来た人々の植民地である。昔流に言えば、地方から青雲の志を抱いて上京した人々は、バイタリティーも豊富で一生懸命働いて山ノ手、都心部などに念願の家を構える(戦後の高度成長期は大分変わったが)。二代目は親の苦労をつぶさに見ているのでこれまた真面目である。
 ところがようやく三代目になると、花の都の水に洗われてバイタリティーも失せ、『唐様(からよう)に貸家と書く三代目』といわれるように、都会的洗練さを身に着けるが、力も金も無力化してくる。やがて高水準の生活は維持できなくなって徐々に気楽な下町に移っていくー。そういう人が幾世代も重って構成されたのが下町である。自己の出世のために人を押しのけてーという我欲も失せた気のいい人、弱い人々の集団は義理、人情のきずなで固く結ばれることによってはじめて生きていける。
 下町の祭りなどイベントが盛大なのは、カヨワイ下町っ子の自己主張であり、せめてものウサの捨てどころである」。

 こうした美点をもつにもかかわらず、ざっくりした言い方になりますが、長屋に住む江戸っ子やその後継者である東京っ子の一番良くないところは、地方出身者を小馬鹿にするところではないでしょうか。それは、自分たち自身が、元々地方出身者であることが、その背景にあるのではないかと考えます。

 江戸っ子の意気を示すとされる「宵越しの銭はもたない」とは、地方から出てきて日銭で働いていた裏返しですから。もちろん、江戸っ子や東京っ子といっても、一心太助のようないなせで、向こうっ気が強く、喧嘩っ早いタイプ、幡随院長兵衛のような町奴風の顔役、御家人風のぞろっぺい、山の手の華族などなど。

 戦前はもっと容赦がなかったようで。まず江戸っ子が、長野県更埴市(現・篠ノ井市)出身の近藤日出造(こんどう ひでぞう)にしたエピソードをいくつか。新漫畫派集團のキーパーソンのひとりである近藤日出造は、潔癖な堅物として通っていました。

 まずは、深川育ちの黒沢はじめ(くろさわ はじめ)。

 「近藤、もちろんお前は吉原に行ったこたあねえだろう。女郎買いも出来ねえで、漫画賭けるかよ。それで人間てものが書けるのか。おれは吉原に行くと、女郎屋の帳面に、必ずお前の名前をかくことにしてんだ。お前のかわりに、女の勉強に行ってやってやるって心意気さ。だから、吉原じゃ近藤日出造は相当な遊びに人てことになってるぞ」。これは、峯島正行『近藤日出造の世界』(青蛙房、1984年)148ページにある近藤日出造の自叙伝草稿からの引用です。




 同じ本には、黒沢はじめと同じ旧制中学校卒で、本所育ちの益子善六(ましこ ぜんろく)が近藤日出造に述べた言葉もあります。前掲書には、益子善六も遊郭に登楼した時に、近藤日出造の名前を使ったとの記述もあります。

 「君はいろいろめんどくさい理屈をいうけどね、それじゃ世間は通らないよ、などとしたり顔をして」。

 本郷區(現・文京区)生まれの杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)も、近藤日出造に対してこんなことをしています。彼は、新漫畫派集團の仲間からも、鼻持ちならない東京人として、叩き潰す計画があったほどでした。杉浦幸雄『杉浦幸雄のまんが交遊録』(家の光協会、1978年)78ページ。

 「やはりその頃『近藤日出造の童貞を破らせる会』というのが、われら悪童仲間ででき、新宿の裏通りの小さなバーへ近藤氏をつれていき、飲めない彼に無理やり飲ませて酔っぱらわせて、女郎屋へかつぎこもうとしました。
 カフェーまでは来て、会の趣旨を聞かされると、絶 対に負けずぎらいの彼は、
 『おれはそんなにウブでもなければ、野暮天でもないぞ』
 とばかりに、そばにいた女給さんにと延々数分にわたる長い長いキッスをして見せて、一同を驚かせましたが、結局女郎屋へはいかなかったのです。恐らくその晩童貞を守ったのは彼だけで、他の者は皆女郎屋へ『沈没』してしまいました」。



 もちろん、近藤日出造にだけこのようなエピソードが集中するのには、彼自身にもそれなりの理由があるかと。でも、それだけに、その周りの悪乗りぶりは目に余り、性質(たち)が悪い印象を受けます。

 というのも、新漫畫派集團は、思想的にはアナーキーズムを目標にして創設された団体だったからです。この集団は、上下の関係や規則も決めず、自由平等な関係にある構成員であるという目標がありました。もちろん、アナーキズムは国禁の時代。そのような重要な秘話が、実際に出てきたのは、近藤日出造の通夜の席でした。

 岡本一平(おかもと いっぺい)は、江戸っ子について、こう書いています。

 「處が可笑しな事にはこの江戸ツ子という奴は瘠我慢が強くて何でも判らないというふ事を唇から出すのが嫌ひです。それから善惡に係わらず變わつたものに飛付きます。江戸ツ子のよく遣う言葉に『乙だね』というふのがあります。何を見せても、何を喰わせても、何を聴かせても『こいつは乙だ』で一切を辨じ升。関心する言葉かと思へば、手を戸の隙に挟んで血豆を拵えた時なぞは『あいち・・・・ ・・・、こいつあ、乙に痛え』と申升。あまり関心せぬ時にも遣つて居る。つまり善い惡い好む好まぬ、の批判を明確に與ふる丈けの智識は無い、強ひて云へばお里が現れる。といふて、判らぬとはどうしても唇から出ぬ」。

 「それから彼等が如何に新奇なものを追ふかはお芝居の外題をご覧なさい。いくら自然に外れてもどうか見物の好奇心に投じて呉れゝばよいがといふ腹が無理にこじつけて讀ませる七字の勘定流の名題の上に歴々として見え透いて居るではありませんか。役者の顔の彩りなぞの如きも段々その目的で遂に平家蟹の甲羅みたいにして了ひました」。

 最後に、われらが凹天と同じく、樂天門下であった岐阜県可児郡中村(現・御嵩町)出身の田中比佐良(たなか ひさら)の言葉を引用します。これは『繪説き汗と人生 』(靖南社、1943年)にある「江戸ッ兒」についての記述です。



 「その缺點は、恐ろしく氣短かで、ものに粘りといふものが無いこと、獨善的で氣宇が狭いこと」。

 「美點は、呑みこみが早くて、言語動作がキビ/\してゐて、洗煉された趣味情操生活が多いことである。だから、江戸ッ兒は感覺的に爽々しく鑑賞物として左なるものだし、一抹町人操志化された士魂といふものがうかゞはれ曲つた事は犬の糞でも嫌ひといつた稟性、花川戸の助六なんぞ、その標本でせう、ベラボウにスマートで、ベラボウに氣短かで、そいつて一先づ衆人に負けぬ實力も持たぬではない、といつたところ、これは要するに、地方色的な人情風俗分布の一典型として、江戸ッ兒氣質なるものゝ存在は一方の横綱の貫祿には買える代物であることは認められました」。

 「だがどうも缺點も露はに著るしい。仕事を共にする場合なぞヘンに潔癖で、もの別れになつたり恒心といふものにいかにも缺けている點が殊に毀だといふことでした。
 多少のエゲつなさも認容して協力一致、一つの企てを重厚にでつち上げる推量と粘りに缺けてゐる、だから江戸ッ兒からあまり大政治家なぞ出てゐないのでせう。
 獨善的で視野狭く井の内蛙の多いといふこと、これは案外で吾々田舎者が井の内蛙だと思つてゐたのに、東京者の方がより以上のそれだつたのです」。

 「なあに、百姓は神妙に観劇してるんで、そうぞうしいのは東京人なのです。そうぞうしいことやエゲつないことや、氣の利かないことの代用語として百姓々々と罵詈されちややりきれないと思ひました」。

 「三十年前の東京はまだ、つい先頃までは、コンチクシヨウと、コノヤロウと、ベラボウメイと、ドビヤクシヨウ等は、江戸ッ兒の啖呵用通り文句でした」。

 田中比佐良は1890年生まれで、1892年生まれの凹天と、いろいろなところで関わり、「日本漫畫會」や「讀賣サンデー漫画」の同士ともいえる存在です。

 われらが凹天が、田中比佐良ほど、江戸っ子について詳しく述べた文言は、現段階では分かりません。こうした東京人に囲まれて、凹天は、自分が宮古島生まれだということをどう感じていたのだろうと思いを馳せつつ、一番座を終えたいと。


裏座の宮国です!最近、ふと思うことがあって、漫画家やクリエイターの人たちは東京出身ということはアドバンテージだな、と思いました。なぜなら、東京は、下町、山の手、武蔵野と地続きの多様な街を感じることができるからです。また、街に出入りする人も多く、街の移り変わりの様子もあるので、刺激を受けたい人はもってこいの都市だと思います。子どもの頃から、感性さえあれば、子どもの頃から毎日センスを磨くことができます。

年の瀬の国会議事堂。凹天たちが新聞の風刺画を描いていた頃は真新しい国会議事堂に足繁く通った。1936年に竣工

柴田勝をはじめ、この頃の江戸の頃の香りをふんだんに残した東京に住んでいた彼らの言葉はとても鮮やかに写ります。今、自分が住んでいる東京と比べて新鮮に感じます。「粋」という言葉は、江戸の専売特許みたいなものですが、この辛辣さは私にとっては「粋」。それは、東京出身の人だけじゃなく、本気で「東京とは何か」「粋とは何か」本気で考える地方出身の評論家、活動家のような人たちが盛り上げた時代だったのでしょう。

今や世界最大の都市圏は、東京。通勤圏である近郊地域を含めると人口3700万人は、当時から比べれば圧倒的な数です。大正9(1920)年、第1回国勢調査時は、首都圏の大都市(さいたま市、千葉市、東京都区部、川崎市、横浜市、相模原市)の人口は 272 万 618 人でした。ざっと14.5倍です。

ちなみに関西圏の大都市(京都市、大阪市、堺市、神戸市)の人口は 253 万 7949 人,
首都圏とその差は 18 万 2669 人。なんとその5年後の大正 14(1925)年の第2回調査時は、関西圏 354 万 3988 人に対し首都圏 258 万 2271 人で、関西圏が首都圏を 96 万 1717 人上回る結果になりました。そして、昭和5(1930)年の第3回調査時ではその差が 118 万 3189 人にまで広がりました(関西圏:412 万 6679 人、首都圏:294 万 3490 人)。大正末期から昭和初期にかけては、関西圏が中心だったと言えます。

当時、柴田勝もそうですが、凹天も関西で働いた理由はここにあるんですね、きっと。今も大阪は大都市ですが、都市圏の人口は1200万人ですから、東京の三分の一なので、当時とは桁違い、イメージ違いでしょう。

話を戻しますが、東京は、世界の一大観光都市ですから、日本語だけでなく、各国の言葉でコスモポリタン都市として、さらに注目されるのでしょう。外国からの旅行者が多い100都市の2019年版ランキングでは、東京は17位。1位からいくと、香港、バンコク、ロンドン、マカオ、シンガポール、パリ、ドバイ、ニューヨーク、クアラルンプール、イスタンブールですから、東京はまだ伸びしろがありそうです。

そして、大阪ですが、前年17.0%増総合30位。大阪は、注目すべき世界の4大都市に選ばれています。千葉も90位にランクインしています。この背景を考えると、現在にいたるまでの漫画家やクリエイターの数は激増して、ポップカルチャーとしてのMANGA、ANIME、OTAKUと世界で有名になっていったのだろうと思うのです。

その礎がこの江戸の雰囲気をまとった凹天たちだったと考えると、感慨深いです。時代背景とともにその発露をたどっていくことは、温故知新なのかな、などと思うのです。そして、何故か宮古を彷彿としてしまいます。口が悪くて、喧嘩っ早くて、人情があって、貧乏で、自分の信条がはっきりしていて。

そして、東京にいると、そんな人たちも意外といるなとも思うのです。それは江戸っ子、いわゆる東京出身でもなかったりします。なので、実は生まれたところは関係なくて、個々の性質なのかも、とも思うようになりました。これだけ人が移動して、情報も東京と宮古でも変わらず届くのですから。

東京や宮古は出身地が話のネタにはなると思いますが、殊更、それを自分の根拠にしてしまうと、井の中の蛙になると思います。なので、私が宮古の人だから、という理由で近づいてくる人は宮古への過剰な期待や思い込みがあったりします。ある種、島の人はこうあらねばならぬ、という自分の正しさがあるからです。

そして、そういう人は、私と付き合っているうちに、自身の生まれや育ちを意識化していき、自分の根拠や自分が思う自分のローカルの正しさを考え始めるようです。私は、地域に正しさというような曖昧で主観的な尺度はそぐわないと思っていますが。その様子は、はたから見ていると、よく見えるし、とても興味深いです。そこには、その人が持つ地域性やコンプレックス、自尊心みたいなものが言動や行動に現れてくるからです。

謙虚であれ、人に迷惑をかけるな、と教えられた世代や個人は、その主体性と天秤にかけるので、自己矛盾が起こるのでしょう。私から見るとスデる(脱皮する)ようにも見えます。現代の若者たちの軽やかさは、実はそのちょっと前の世代が悩ましく思ったアイデンティティの問題をさらりとかわして、武器にしているようにも思えます。まぁ、人間ですから別の新たな悩みも生まれるようですが。

さて、田中比左良が書いている「度量の狭さ」は当時は東京という同質性の高いなかで育った人が多かったということかもしれません。現代であれば、意見が違うこと、相手が自分の言いたいことを汲み取ってくれないことに、非常にストレスを感じることが「度量の狭さ」なのかも。宮古も同じで、同質性の高さが生み出す島の良さもありますが、自己批判することは難しいということと似ていると思います。私の尊敬する宮古出身者は自己批判する強さがあります。その人たちの芯の強さは、宮古の未来系の軽やかさにつながるのかな、と妄想しています。

東京は100年たって洗練されましたが、それが江戸っ子の良さも消したのかもしれません。現代はどこの出身というよりは当時のクリエイターたちが喧々諤々「何が粋か」を語ったような、江戸というか関東平野の地域の良さが培われているような気がしています。なにせ3600万の大都市、切磋琢磨するには素敵な場所なのですから。

ちなみに、世界ビーチランキングでは日本では、宮古島の与那覇前浜が1位だそうなので、注目されるという意味では東京と似たような構造が生まれているのではないか、と日々思っています。「地球儀にない宮古島ってなんだか悲しい」と思っていた子どもの頃の私に、タイムマシーンに乗って教えてあげたいです。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

近藤日出造(こんどう ひでぞう)1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。あごがでかいことが、トレードマーク。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆と共に選出される。戦後は、対談のホストとしてテレビなどでも名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。

黒沢はじめ(くろさわ はじめ)1911年~1932年
漫画家。東京府本所区押上町(現・東京都墨田区太平)生まれ。本名は、黒澤肇。実家は判子屋。東京府立三中(現・両国高校)卒。早くから遊廓遊びを覚えた早熟な男。凹天門下。「新漫畫派集團」でも年少だったが、実質的には、近藤日出造や横山隆一とともに、集団のリーダー格。『足軽かる助』が売れてレコードになり、印税が1枚1銭入る。近所でも評判の孝行息子で、上等の嫁がもらえると、評判に。森比呂志と並ぶ凹天の高弟である石川進介が「新漫畫派集團」に入った日の宴会で、集団最大の事件を起こす。酔っ払って、まず数寄屋橋交番の上で安木節を踊り、その後、建築中の日劇に登ろうとして、勝木貞夫とともに墜落。うめき声を聞いた横山隆一が、当時近くにあった朝日新聞本社に助けを求めて、すぐに朝日新聞の車を使って病院へ。しかし、築地の林病院で息を引きとる。新聞の見出しは「漫画家漫死」。駆けつけた母親れんは、茫然と息子の枕元に座り、近藤日出造に「一人っ子でした」ポツリと一言。その後、母親の黒澤れんは、新漫畫派集團に引き取られ、浪花的美談として新聞にも掲載される。ここで、れんを引き取るために、一席ぶったのが横山隆一。横山隆一は、大塚の従兄の本屋の手伝いをしていた頃、本所に住んでいた黒沢はじめと、無灯火になるまで、漫画論を戦わせた仲であった。しかし、れんは、毎晩寂しいのでだれか一緒にいてほしいと、集團の若者を悩ませる。その後、彼女は神田で碁会所を始め、そこで再婚相手を見つける。

益子善六(ましこ ぜんろく)鋭意調査中~1961年
漫画家。東京府本所区柳島町(現・東京都墨田区錦糸)生まれ。本名は、益子秀雄。実家は印刷所。最初のペンネームは、益子しでを。東京府立三中(現・両国高校)卒。黒沢はじめと同学年。いつまでたっても人によりかかる性格で、黒沢はじめの子分のようにまとわりついていたとの横山隆一の評あり。凹天門下。「慧星会」、「新漫畫派集團」、「文化奉公会」、「日本漫画奉公会」、「漫画集団」に所属。凹天門下でありながら、新漫畫派集團に属したのは、凹天のリリシズムよりも、ナンセンス漫画に惹かれたためとの森比呂志の評もある。会計係ができた時、月番制で2番目の会計係。中国に漫画記者として従軍。これは、漫画家の従軍の嚆矢とされる。戦争末期には、横須賀海兵弾副長附班製図班に、井崎一夫、村山しげる、杉浦幸雄という漫画家や、画家、挿画家などの面々と配属される。終戦時近くには、沼津にあった海軍工廠機銃砲台に出張し、空襲に遭うが助かる。その際、牧場で丸焼けになった牛を井崎一夫、村山しげる、杉浦幸雄と食べる。代表作に『月月金チャン』、『ヒットくん』、『ほらふき男爵』。ペットは、雑種犬のシロとクロ、センター雑種犬のコロ。コロは、小田急線にあった有名な魔の踏切で死亡。益子善六のあだ名は、気楽のキンちゃん。しかし、潔癖すぎた益子善六は、突然、自分の漫画に疑問をもち、最期は、目黒の大鳥神社にある小さな火の番小屋の中で、ミカン箱ほどの机に白いケント紙を載せて、あたり一面、新しいペン先を散らして亡くなる。公式には、肺炎のため、自宅で死去。

杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)1911年~2004年
漫画家。現在の東京都文京区に生まれる。旧制郁文館中学校出身。杉浦家は、旗本の出身。杉浦一族には、芸能家が多かった。父親の友人であった緒方竹虎のつてで、「一平塾」に入る。ユーモアと独特の色気をたたえたエロマンガで知られる。1932年、近藤日出造や横山隆一などとともに、自宅に集まり、「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとりとなる。集団名に「派」を入れたのは、杉浦幸雄が「印象派」、「未来派」などを真似て、強く押したため。侃侃諤諤の議論になったが、黒沢はじめが、表向きには芸術集団、裏では商業主義も取り入れるといいことで、その場は収まる。漫画では横山隆一、近藤日出造の後塵を拝していたが、ようやく1938年『主婦の友』から出した『銃後のハナ子さん』の大ヒットで、有名になる。戦後もエロマンガを描き続け、「現代の浮世絵師」と呼ばれた。1976年「日本漫画家協会」第二代理事長に。1980年、紫綬褒章受章。1988年、喜寿のお祝いの席で、小唄師匠の柴小百合と婚約発表し、話題となる。肺炎のため、東京都内の病院で亡くなる。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげを、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった

田中比佐良(たなか ひさら)1891年~1974年
漫画家、挿絵家、画家。岐阜県可児郡中村(現・岐阜県御嵩町)生まれ。本名は久三。名古屋逓信省官吏養成所卒。父嘉代三郎、母いとの次男として、6人兄弟の第3子。実家は脇本陣を務める、造り酒屋。濃尾大震災で、実家は没落。5歳頃から、素焼き雛人形の絵付けをして、家を支える。御嵩郵便局や八百津郵便局で勤めながら、独学で絵の勉強を続ける。南画家の松浦天竜に師事し、本名の久と、「左甚五郎に比べるべく、良くなるべし」という意味を込められて、比佐良の号をもらう。この名前には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎に比べても良いという意味が込められている。1914年、伯父小島菊次郎を頼って上京。小島ゴム・ランバート社に図案広告係として、入社。主に『萬新報』に漫画の投稿を続ける。1919年、『東京パック』(第2次)で、本格的な漫画家デビュー。1921年、主婦之友社社長石川武美に認められ。主婦之友社挿絵部主任となる。月給がゴム会社の70円から、210円になる。『主婦之友』で挿絵が有名になり、特に日本女性の着物美を追求した絵は、多くのファンを作った。トロンコ会を主催。門下に勝木貞夫や大羽比羅夫がいる。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部に所属。『甘辛新家庭』を連載。この漫画は、鶴岡市酒井伯爵家系令嬢と結婚した比佐良の自画像という評もある。美人漫画の名手のひとり。「日本漫畫會」、「日本画東陽會」「日本漫畫奉公會」、「漫画協団」、「日本漫画家協会」などに属する。日本漫畫奉公會では、副会長。1937年吉屋信子とともに、中支派遣軍報道員となり、上海へ。1945年、山形県鶴岡市に疎開。1948年、岡本一平の葬儀に参列。1959年、田中比佐良デザインアトリエを作り、後進の指導にあたった。1974年、動脈硬化のため、八王子相武病院で死去。  


Posted by atalas at 01:48Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)