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2018年01月30日

第3話 「路傍の燈り」


第2話 「海までの距離感」

八丈島には光るキノコというものがあって、しめじほどの大きさのキノコが、暗闇でうっすらと、発光しているのだ。
本来は雨季にしか生えてこないらしいのだけれども、NPO法人の方々が手入れをしている。
水を撒き、そのキノコたちがなくならないように、保ってくれているのだ。

光るキノコと聞いて、どんな光なのだろうと想像できないで向かったが、その光は、太古の昔の暗闇では存在感を示せたかもしれない。
星の明かりよりは弱く、森の奥深く、そして本当の暗闇でなけれは、感じられないような光だった。

あたりを照らす光ではなく、自身のためのもの。
ちょうど植物が色づくのと同じように、その色が、たまたま蛍光塗料のような色だったのだ、くらいのものだった。

しかし。
それが数多く密集しているとなると、光苔、というものを私は目にしたことはないのだが、何かのアニメーションで描かれていたように、あたりを明るく照らすほどの、力を持つのだった。

キノコは小さく、光は人間の目にはあまりに弱く、しかしもしも小さな、夜の虫たちには、この明かりは驚くべき明かりなのだろうな。
と、想像してみる。

月の明かりや、星の明かりの届かない植物園の森の奥で、どうしてこのキノコたちは、うっすらと、光るようにそこにいるんだろうなと思った。

人間という生物の目玉は、こんなくらいの明かりを認識できる。
LEDとか、ブルーライトなんていうものに、この目を煩わせてはいけないと。思う。

見えるものも見えなくなってしまう。
と。

民宿の名物お母さんは、美味しい天ぷらを料理してくれた。
パッションフルーツのジュースを、息子に振舞ってくれた。

集う宿泊客たちは皆、元々の馴染みなのか、その場の意気投合なのか、民宿のお父さんお母さんを囲んで、とにかくよく喋った。島のことや自分の見聞について、まるで家族のようだった。

仕事で青ヶ島に行ってヘリで戻ったばかりの3人は、牧場を作る構想について熱く語る。
しかし昔、八丈小島にヤギを飼い始めたところ、野生化して草を食べ尽くされ、しまいには駆除されてしまった行く末などを聞くと、じゃあどうしたらいいのかと。

ヤギを食べる風習は、インドネシアの一部にもある。沖縄(の一部の島)にもある。黒潮ベルトに乗って、八丈にも(一部)あるのだ。
全部、ではなく、一部、というのがミソ。
食文化って面白い。いろいろな歴史がありそうだ。

民宿で居合わせた、八丈方言や島に残ることわざを研究している大学教授が、息子に向かって言った。

「ねぇ、君、八丈高校へ来ない?」

その教授は、研究のために島に通って四半世紀、
と仰っていた。
社会学、文化人類学の幅広い研究をしていると。
日本のいろんな離島に関わってきたので、宮古島や池間島もよくご存知だった。

そういう方なので、息子が宮古で育ったと聞いて、なんだかうれしそうに、
「彼はねぇ、宮古育ちなんだ。」
と、後から食堂に来た宿泊客に紹介していた。

そういうわけで、そのとき教授が、私に対して、
「お母さん、息子さんどうですか、八丈高校は」
とか間接的にいうのではなく、ダイレクトに息子に「来ない?」と語りかけたことが、
たぶん、思春期の息子の胸を打ったのだ。
私もちょっと打たれた。

息子は今、中学1年生だが、八丈高校に進学したいとはりきっている。

教授は、君ひとりで住めばいい、そういう子は他にもいる、みたいなことを言って、
「でも彼女がいたら、お母さんはアパートに入れてもらえないかもしれないよ」
なんていうので、
「そしたら私はここ(ガーデン荘)に泊まりますよ」
と言って笑った。
冬にはこの板の間の食堂、囲炉裏が登場して、みんなで炭を囲んでお酒を酌み交わしたりするらしい。

冬は冬で、いいね。

ガーデン荘にたどり着く前、歴史民俗資料館の方にも、とても親切にしていただいた。
バスで移動だったから、そのバスの待ち時間があったおかげで「馬路」という墓地を通過する玉垣の道を歩くことができた。

そこは私としては、カンボジアとか、アンコールワット系の遺跡の雰囲気で、それはちょっと、勝手なイメージなんだけれど、沖縄ともまた違った。
あとから地図をみたら、そこは「青ヶ島墓地」と言われるところだった。
同じような苗字のお墓が多かったように思う。
ちなみにその先は、陣屋跡である。昔は馬で向かったのだろうか。

乗ったバスは、子供が車体全体にペインティングした「お絵かきバス」だった。
窓ガラスにも描いてあって、乗りながらその絵がよく見えて楽しかった。
1日に、だいたい6本くらいしかない町営バス。

春にまた、八丈島を旅行する予定なので、行ってみたいところをさらにピックアップして今度は、行き当たりばったりではなく、半ば効率的に。
例えば、このコラムをいただいたことだし、ちゃんと調べるような取材的な滞在の仕方も、できるのかな、と、思っております。
楽しみ。

まぁ、教授の言っていたように、少しずつ、です。
いっぺんに、ではなく。何度も通いなさい、と。
言われました。

それは島も人も、同じですね。
少しずつ、お互いさまで。

次回につづく。  続きを読む



2018年01月26日

Vol.23 「ツバキの花満開」



雨が降ったり、止んだり、晴れ間が出たりとここのところ落ち着きのない天気だ。
サトウキビの収穫が始まり、製糖工場の煙突からは白い煙が吐き出され、キビの甘い香りが漂っている。

そんな中、民家の庭や道路の脇などでひときわ赤い花を咲かせているのがツバキの花だ。まだ蕾もたくさん見られるが木によっては満開を迎えている。

宮古椿の会の方の話によると、宮古にはヤブツバキという種類が昔から自生していて、干ばつにも強く防風林にもなることから重宝されていたが、戦中、戦後乱獲され少なくなっていったそうだ。
また、お茶にしても飲んでいたとのこと。それを物語るかのように城辺には「ちゃーがま」というツバキの木がたくさんある山があるそうだ(茶葉の木はツバキ科だそう)。
 
宮古椿の会では、昔からあるツバキの木を街路樹や防風林として植えたり、その葉や実からお茶や椿油を作っている。ツバキには、アレルギーを抑える働きや炎症を抑える作用があるという研究発表もされているそうでその効果が期待されている。
 
先日、市内を車で走っていたら、ひときわ大きなヤブツバキの木が目に入った。花もたくさん咲き、とても見事。
写メを撮ろうと車から降り近づいていくと、木に大きなコウモリが!。おごえー!、びっくり!。こんなところにコウモリがいるとは。梅にウグイスならぬ、ツバキにコウモリ!?。
しばらく、ツバキとこうもりを眺めて楽しんだ(笑)。
それにしても見事なツバキの大木だった。

宮古椿の会では、毎年「ツバキまつり」を開催している。市民にツバキの良さをアピールし、島をツバキいっぱいにしようと呼びかけている。今年の日程はこれから決まるそうだが、ヤブツバキだけでなく、いろいろな種類のツバキが展示され、また、ツバキ油などの販売もある。
興味のある方は新聞等でチェックしてぜひ!  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年01月23日

第170回 「白川氏家譜支流の碑」



今回ご紹介するのは「白川氏家譜支流」という石碑です。
正確な碑面の表記としては、「白川氏家譜支流 与那覇勢頭豊見親恵源之八代 寿海清寶 康熙二十三年甲子十二月九日 恵常卒寿七十六號」と長々と刻まれています。
とりあえず、漢字が多過ぎて何を云っているかよく判らん!って具合です。
こちらの石碑が建立されているのは、平良から狩俣へと向かう県道230号池間大浦線の途中にある、市指定文化財の「四島の主の墓」の前にあります。

そもそも、四島の主の墓。四島の主とはなんなのか。
そこら辺から進めていきたいところですが、四島の主については『美ら島物語「沖縄の島唄巡り」第37回 四島ぬ主』で、ライターの安積美加さんが、その謎解きにとても腐心して書きあげていますので、ぜひこちらを参考ください(とてもいいオススメ記事)。

そうは云っても、少しくらいは解説しておかないと先が続きませんので、簡単に紹介をしておこうと思います。
四島ぬ主は狩俣、島尻、大神、池間の4つの集落を治めていた人物で、宮古の将は勇猛果敢な人物が多い中では珍しい文系の将。仲宗根豊見親らが与那国の鬼虎を誅しに向かった際、宮古の留守居役を任された人物です。
また、八重山は西表島へ新しい船を造りに行き、7ヶ月かけて建造させて帰って来たことで、有名な「古見の主」として綾語に詠われています。
他にも四島の主は、島尻~狩俣を結ぶルートの難所であった島尻の入江(実際は島尻方面から流れる川の河口でもある)に、石を積み上げて海中道路を作り、渡地橋(バタラズ橋)を架けます。
16世紀頃に作られたこの橋は、1882(明治15)年に宮古を視察に訪れた、上杉県令もこの橋を(たぶん)渡っています(島尻→狩俣。帰路は現在の県道ルート≒親道を通ったらしい)。
戦後、新しい橋が下流に架けられ、道も改められ当時の石橋は失われましたが、現在のバタラズ橋の上流側にその痕跡を今も見ることができます。

どんどんと長くなってゆきそうなので、四島の主のプロフィールはこんな感じにして、石碑の方に転じましょう。
珍しく石碑の表に、大量の情報が刻まれています。
白川氏家譜支流
与那覇勢頭豊見親恵源之八代
寿海清寶
康熙二十三年甲子十二月九日
恵常卒寿七十六號
ざっくりな読み下しをしてみると。。。

白川氏、つまりは与那覇勢頭の家柄の系統の支流。
与那覇勢頭豊見親恵源から八代目の恵常。
一行飛ばして。。。
康熙(こうき≒中国・清の元号)23年、西暦だと1684年。甲子の年の12月9日。
恵常(前述の八代目)の卒寿(90歳)。76号?
かな。。。

一行飛ばした「寿海清寶」は、漢文的な四字熟語かなんかだと思うけど、良く判りません。
ラストの卒寿に76号?も、ちょっとなにを意味しているのかよく判りません。

家譜、家系の話は、前述の「沖縄の島唄巡り」で、かなり解説していますので割愛しちゃいますが、こちらの石碑はどうやら白川氏の元祖である初代・與那覇勢頭豊見親こと、恵源の六世子孫で、西仲宗根与人を任ぜられていた恵道の四男にして、狩俣与人を任ぜられていた恵仲のさらに四男である、池間目指を任ぜられていた恵常の支流の系統だということが云いたいらしい(と思う)。
入れ子の入れ子なのでとても判りづらいのですが、恵常が八代目にあるらしいです。

石碑の裏面を見ると、建立者と思しき、北九州市戸畑区在住の與那覇姓のご夫妻の名前が記されています。検索してみてもネットからも情報は得られず、この支流の方がなんのためにどういう経緯でここに石碑を建てたのかはまったく判りません。
ただ、建立年月日が「昭和五十三年旧暦七月七日」。旧暦の七夕になっています。七夕は旧盆に向けて墓を清掃する風習が沖縄にはありますので、遠い遠い先祖の供養する意味で、この石碑を建てたのかもしれないと推測しました。
もっとも、こちらの四島の主の墓は史跡に指定されてからは、現役のとしては利用されていないそうなので、気持ちの問題かと思われます。
なにしろこの墓の主とされているの四島の主(百佐盛≒モモサリ)が、誰なのかはっきり判ってはいないそうなのですから。

  続きを読む



2018年01月19日

番外編 フォルモッサタイフーンサーカス 2018新春SP


2017年8月から連載が始まった一柳亮太さんの「フォルモッサタイフーンサーカス-台風コラと台湾サーカス団 1966-」(以下、FTC)。
今から50年とちょっと前。第二宮古島台風コラと台湾サーカス団のタイムラインが、宮古島で偶然にも交錯しました。その時なにがあったのか、興味の赴くままにそれを手繰ってみると、当時の興味深い様々なものが見えてきました。
今回の「FTC新春SP」は、連載の中からこぼれてしまったけど、そのままにしておくにちょっともったいない、そんなエピソードを中心に、あれこれと一柳さんとテキストライブ形式で対談してみたいと思います(聞き手:ATALAS Blog編集人モリヤダイスケ)。

※     ※     ※     ※     ※

モリヤダイスケ(以下、モ) : 形式的に記事にするために、「新春SP」と銘を打ってみましたが、確かFTCを書くことになったきっかけのひとつが、こうしたチャット(メッセンジャー)でのやりとりでしたね。

一柳亮太(以下、柳) : 初めは、「台風コラの時に宮古島にサーカスが居たらしい」という話を聞いて、モリヤさんにチャットで聞いたら「それらしき動物の写真がある」と教えてくれたのがきっかけで。
【画像はクリックで拡大します】

http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13398

【左】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13396
【右】http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=13397


柳 : それがこの辺りの一連の写真。  続きを読む


2018年01月16日

第169回 「創立五十周年記念 輝く瞳 夢を追い」



今回ご紹介する石碑は離島の離島。大神島の石碑です。島のサイズは面積が0.24 キロ平米。周囲2.75キロ。人口は約30人(2017年1月現在)と、限界突破集落と化している島ですが、島の名前の通り神秘的なイメージが強い島でもあることから、宮古の人でも島に縁者でもいない限り、まず訪れることがない島と云われています。もっもとも近年は、食事処や宿泊施設が作られ、島の最高所となる74.4メートルの高さにある遠見台(展望台となっている)からの眺望を楽しんだり、手つかずの自然が残る宮古最後の楽園の島として、シュノーケリングなどに訪れる観光客が増えています。

今回はそんな大神島にかつてあった宮古島市立大神小中学校(併置校)に建立されていた、2007年に建立された創設50周年を祝う記念碑です。島唯一の港のそば、集落へと続く一本道「ヤーパシヌンツ」の入口にあった大神小中学校は、惜しまれつつ2011年3月31日をもって廃校となり、現在は校舎も解体され雑草の茂る更地になっています。

大神島の小学校の歴史は比較的新しく、1933(昭和8)年に狩俣尋常小学校の大神分教所として設置されます。最初の生徒数はひとクラス28名、教員は訓導がひとりと、代用教員がひとりだけというつつましいものでした。
戦前戦中とも学校的に特に大きな動きもなく、宮古の学校としては珍しく軍による接収もされていないようです。また、生徒数もほぼ30名前後で推移していたようです(教員も入れ替わりはあるものの2名を維持)。
戦後、1948年に学制改革によって中学校も置かれますが、こちらはなんと平良北中学校狩俣分校大神分教所という分校の分教室という本校からすると孫にあたる中学校でした(翌1949年に狩俣中学校が独立校になり、狩俣中学大神分教所に改称されます)。
1952年には新校舎が建設され、校内に幼稚園も新設されることになります。この頃の生徒数も小学校が30名前後、中学生は15名前後(幼稚園は記録なし)、教員は小学校が2名、中学校が1名となっています。
中学生の生徒数が小学生の半数ということは、小卒で島を出るのかっと、つい早合点してしましたがと、年間の卒業者数が5名前後なので、小学校が6年間、中学校が3年間の就学期間を考えれば、計算上はおかしくありませんでした。

1957年。遂に分教場から大神小学校として独立校になります。
そしてようやくこれで今回紹介する石碑の話をすることができます。大神小創立50周年記念碑は2007年に建立されていますので、独立した1957年が起源となっていました。分教場の設置をスタートにすれば74年、廃校時でも78年とかなり盛れる気がするのですが、気持ち的に分教場と本校では大きく違うものなのかも知れません。はい。濁った瞳ですみません…。

さて、もう少し大神小の沿革史をたどっておきましょう。
1959年9月15日。宮古島台風「サラ」が島を襲います。飲料水タンクと半壊した便所を残して学校施設はすべて失われたそうです。幸いなのは授業に必要な教具や、事務関係の書類や帳簿などは、事前に避難させておいたことで、学校運営に関しての被害は少なかったそうです。
この時の島の被害は全壊家屋13、半壊10、大破7。サパニなど小舟の全損・流失が18、大破4。風と潮によって農作物は全滅、その他にも家畜への被害や島内道路の欠壊など、甚大な台風被害をこうむっていました。それなのに大神小学校では翌16日から学校を再開します。教室がなくなってしまったため、島の民家四軒を間借りして仮設の学校にしてます。このエピソードは島にとって学校を重要視していたのかが、見えるような気がしました。
さらに17日は台風被害に屈せず復興に奮起する決意を固めるため、住民総出で校庭に中秋の観月会を催しています。この時、児童生徒らは遊戯、ダンス、綱引きなどで参加したそうで、ここにも島の人々の学校への思いがあらわれているようです。そしてこのバイタリティは小さな離島ならではアララガマ魂を知らしめてくれた気がしました。
このあと、暫定的な仮校舎を建設するも、再び襲来した颱風(別の)で倒壊してしまいます。その結果、いよいよ恒久校舎の建設に着手することになります。校地の拡張など小さな島にとってはかなり大規模な工事が火急的におこなわれ、8ヶ月後の1960年4月に新校舎が完成しました。

1961年。小学生16名、中学生10名の集団転校が行われます。これは1958年にはじまった、大野越開拓地への入植によるものでした。大神島からは17戸(沿革史では18戸)が移住することになり、当初は戸主である男性のみが単身で入植し、公民館で共同生活をおこないながら開墾し、集落の基盤を整備したところで家族を呼び寄せたました。それが後の高野集落となります。今も集落から一周道路を隔てた丘の上には大神島を遥拝する御嶽があり、畏部(イビ)は大神島から持ってきた石が、(おおむね)大神島に向かって安置されています。

1967年、創設10周年目にして校歌と校章が決まります。
宮古の山なみ色はえて
    白雲流れ海青く
光あふれる学舎は
    久遠の理想求めつつ
学ぶわれらの大神校
作詞:合作 作曲:新垣博次
一番だけ掲載しておきますが、なんとなく学校の窓から見える風景をうたっているような気がしました。
1972年の復帰頃から徐々に島の人口が減りはじめ、1980年代に入ると島の人口がとうとう100名を切ります。時代の変革の波が押し寄せる中、1987年に大神小は創立30周年を迎えます。なにか記念行事も催されたのかもしれませんが、それを知る手がかりを探るには時間が足りず、判ったのは小さな記念碑が校庭の隅に建立されている姿だけでした。

1990年後半に初めて大神島を訪れた時、小中あわせて数名の児童生徒数でしたが、海を借景にしたグラウンドのある小さな学校は、素朴でなんともいいサイズ感でした。また、学校の近くに教員宿舎も健在でしたが、先生方はみな船による通勤で、朝と夕方の便は実質、通勤のため渡船になってしました。確か、11時頃には時刻表にない船便が一便あり、学校への給食を届ける専用便だったと記憶しています。
観光目的で島へ渡っても、見どころもそれほどない島であり、船が出るまで数時間は滞在を余儀なくされます。当時は今のように食堂があるわけでもなく、島唯一の商店は集落の西はずれにあった久貝商店ひとつでした。商店といっても民家の玄関先に小さなショーケースを置いただけのとても小さなお店で、板っぺらにペンキで書かれた看板が無造作に石垣に立てかけられているだけというもの。時間を持て余す中で、さらに時の流れが緩やかになる。そんな雰囲気を持っていました。

島の人口が50名を割り込み、小学校は2006年度から、中学校は2008年度からそれぞれ休校となり、大神島は完全に限界突破集落と化します。そして遂に2011年、学校は復活することなく残念ながら廃校となってしまいました。
駆け足で大神小学校の歴史を紹介してまいりましたが、すでに現地に校舎はなくグラウンドだったところに記念碑の類がわずかに残っているだけなのですが、中にひとつ謎の石碑があります。
開園記念 立志 よく遊びよく学べ 昭和61年4月1日
昭和61年は1986年で、大神小30周年の一年前。開園ということは保育園か幼稚園ではないだろうかと推測するのですが、1952年に(旧)新校舎完成と同じくして幼稚園が新設されており、周年数がわずかに合致しません。大神の保育園幼稚園の史料もなく、最後の最後に謎の“開園”の記念碑だけが残ってしまいました。

【関連石碑】
第97回 「大野越開拓記念塔」
第98回 「闘魂-1976‐ 開拓誠心-2008- 団結-2011-」

【参考資料】
島の学びや消える/大神小中学校(2011年12月3日 宮古毎日)  続きを読む


2018年01月12日

28冊目 「ヒストリア」



あけましておめでとうございます。2018年1月最初の島本は、先月、阿部ナナメさんが紹介された『テンペスト』に続き、同じ作者の池上永一さんの最新作『ヒストリア』です。

本書はとっても熱くて厚い!。600ページ超えの傑作です。表紙の男の人、見たことあるような・・・そう、かの有名な南米の革命家チェ・ゲバラです。沖縄とゲバラに一体どんな関係があるのでしょうか。
この小説の主な舞台はボリビアです。沖縄戦を命からがら生き延びた少女・知花煉(ちばな・れん)は、ボリビアに移民として渡ります。沖縄系移民といえばブラジルやペルーが有名ですが、戦前からボリビアにも移民があり、特に戦後は琉球政府による計画的な入植がされました。この小説は、作者が膨大な資料にあたり歴史的な出来事はすべて史実に沿った背景で書かれています。

さて、主人公の煉は沖縄戦を生き残っただけあり、男勝りで気が強く腹のすわった女性です。豊かな黒髪が自慢の美女でもあり商売の才覚もあり、混乱の沖縄やボリビアを百戦錬磨で渡り歩きます。しかし、煉に弱点があるとすれば、戦争で死にかけたときにマブイ(魂)を落としていることです。煉はマブイの声に引き寄せられてボリビアに来たのです。煉のマブイは煉の片割れで、どちらも煉なのです。ふたつの魂が、煉の体を乗っ取り合います。
そしてマブイの錬は、若いチェ・ゲバラ(エルネスト)に出会い恋に落ちます。これは小説(フィクション)ですが、南米が激動の時代に確かに沖縄系移民の人々はそこで生きていたのだから実際にゲバラが沖縄人に出会っている可能性もあるのですね!(最近は、ゲバラとともに戦った日系ボリビア人の映画『エルネスト』も公開されました)。
ボリビアのオキナワ移住地『コロニア・オキナワ』の様子も臨場感を持って書かれ、読んでいるとまるでそこで煉と共に暮らしているような気持ちになります。

ボリビアは、南米の中でも最も過酷な移民先だったといわれており、戦争の傷が癒える間もなく遠い外国の荒野を開拓し、ボリビア革命を体験した移民の人生の苦労が偲ばれます。

煉とゲバラの丁々発止の掛け合いは面白いです。
「残念ながら革命以外、世界を変える方法はない」
「私なら、五十年かけて人材教育する。まずは経済の仕組みを学ばせるわ。憲法や法律は豊かになった後、社会に合わせて変えていけばいい」
「権利より生活を取るなんて奴隷根性だ」
「生活を捨てて権利を取るのは死人だけよ」

「あなたは戦争の恐ろしさを知らなさすぎるわ」
「革命と戦争は次元の違う戦いだ」
「いいえ。イデオロギーの違いだけで本質は同じよ」

「ボリビアはひとつだ。ボリビアの富はボリビアのものだ」

というゲバラに対して、煉はこう言います。
「ボリビアは複数よ。多民族が公陸を隔ててコミュニティを営んでる。」
煉は、自分が沖縄にいた頃、すぐ近くの離島でも気軽に行き来する感覚はなく、それは海がゆるやかに共同体を隔てていたからだと思い出すのです。ボリビアではその海と同じ役割を“公陸”=誰のものでもない(皆のものである)中立の土地、が担っていると主張するのです。離島にルーツを持つ作者がボリビアと沖縄の類似をとらえた面白い考察です。

また、マイノリティと植民地主義に対しても、煉はこう考えます。
私はインディヘナに未来の沖縄人を見る気がする。アメリカの侵略に抵抗した第一世代のわたしたちは物量の前に屈した。(中略)もしわたしがそんな人生を受け入れて子を育てたとしたら、第二世代は基地を原風景とする子に育つだろう。(中略)五十年後、わたしの孫の世代は不都合な米軍基地を初めから認識しない世代になる。(中略)百年後の沖縄人はインディヘナのように沈黙する。

この小説は、沖縄とボリビアの歴史書であり、煉という女性の一代記でもあります。物語の終盤に、幾多の苦労を乗り越え娘を持った煉は落としたマブイとひとつになるために沖縄へ戻ってきます。そのラストシーンは必ず読んでください。予想もしない結末に胸を打たれることでしょう。本の中のヒストリア=歴史が私達の現在に殴り込んでくるような衝撃を受けました。オキナワを書き続けた池上文学の真骨頂といえる1冊です。
 

〔書籍データ〕
ヒストリア
著 者 池上永一
発 行 株式会社KADOKAWA
発売日 2017年8月25日
ISBN  978-4-04-103465-1  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年01月09日

第168回 「仲間御嶽 改築記念碑」



昨年後半から、ずっとニッチの中のニッチ的なネタをシリーズにしていたので、なんかこういうのは久しぶりのような気がします。とはいえ、やっぱり改修記念碑なのですが、これはこれでニッチなモノなので、まあ、なんか地味な流れからは逃れられないのかもしれません。生来が地味好き、地見好きだから仕方ありませんね。

えー、今回紹介します石碑は、平良の北方、西原集落にある仲間御嶽の改修記念碑です。
この仲間御嶽は集落最高位のウハルズ(大主御嶽)に次ぐ、格式のある御嶽なのだそうです。集落レベルの祭祀などではウハルズに御願したあと、この仲間御嶽に巡拝するのだそうです。そんな格の高い御嶽でありながら、御嶽の位置するフズ嶺(大浦との境にある丘脈)を背後に控えた、西原集落の東支部の支部御嶽(里御嶽)も兼ねているという、懐の広さは流石と云わずにはいられません。

ちなみに、この仲間御嶽がどのくらい格が高いのかというと・・・。
ウヌナイカニガウチャウヌシフヤグミ(大成金の御帳主大神)
バガバウガンンヌチヌシフヤグミ(若王神生命主大神)
ンマヌハウフユヌシフヤグミ(午の方の大世大神)
ヒヤジガンダヤジヌシフヤグミ(比屋地神畑の主大神)
ウイラムイウイカヌシフヤグミ(ウイラ社ウイカ主大神)
ナッブァガンティッブァフシフヤグミ(ナッブァ神ティッブァ主大神)
ジャラガンミイチヌシフヤグミ(ジャラが嶺息の主大神)
カギマシヌフヤグミ(美しい枡の大神)
カギミズヌフヤグミ(きれいな水の神)
という、9柱もの祭神が祀られています。
とはいえ、島ことばをカタカナに直しているので、なかなかどんな神様なのか理解するのが難しいのですが、西原の集落は池間島からの分村であることから、この仲間御嶽は池間島にある仲間豊見親の屋敷跡とされている、池間遠見台に登る手前あたりにある仲間根(ナカマニー御嶽)を遥拝しているものなのだそうです。祭神の名をよく見て見ると、他にも伊良部島の比屋地(佐良浜名:クナンマウキャー)の畑の神様がいたり、午の方御嶽(西辺小の南方にある、集落の祭祀には欠かせない大きな御嶽。午の方≒南の意)を遥拝するなど、“村”の信仰が厚い御嶽であることがよく判ります(それだけ神頼みが多いともいえる?)。

石碑が記念している御嶽の改修についてですが、石碑の裏面にやや摩滅していますが、
甲寅年 一九五十年旧八月二十日竣工
と書いてあるように読み取れました。

1950(昭和25)年と西暦が書かれているで、改修が行われているのは戦後だと思われるのですが、この年の十干十二支は「甲寅(きのえとら)」ではなく、「庚寅(かのえとら)」なのです。
尚、十干十二支は木・火・土・金・水の5つのエレメント(五行)の兄弟(兄が~のえ、弟が~のと)の十干に、子丑寅…と続く十二支を組み合わせたもので、全部で60種類あります(60歳が還暦なのはこれがひと回りしたから)。
10×12なら60種類じゃなくて、120種類じゃないのかという問題点を、ひと言で説明するのはちょっとややしいのですが、常にエレメントの兄弟(陽と陰)がペアとなるので、兄の干支は兄だけ、弟の干支は弟としか組み合わせにならないために、5×12となってひと巡りが60種類になるのです(詳しくはこちら)。

そして1900年代で「甲寅」になるのは、1914(大正3)年と1974(昭和49)年だけ。また、1900年代の「庚寅」も1950(昭和25)年しかなく、どちらも西暦が一致しません。
で、よくよく石碑を見て見ると、表・・・というか石碑全体は、琉球石灰岩を削り出して作られていますが、どうも裏面の文字が記されている部分は、コンクリートを石碑に上塗りして記されているようなのです。
考えられるのはコンクリートの下に、なにかが記されていたと云うことになります。
妄想するに、おそらく御嶽の改修は二度行われて、古い改修日の上に二度の改修の日を上書きしたのではないかと考えました。しかし、気になるのは西暦と十干十二支が食い違うこと。
御嶽の改修ですから旧暦など暦に関しては馴染みがありそうな気がしますので、施工者の凡ミスとも考えにくく、石碑の記述を自分が読み違えている可能性もあります(旧八月のあとを二十日と読んでいますが、十の字がちょっと怪しい)が、正解は残念ながら闇の中です。

そしてここでもうひとつ。
石碑は集落の道沿いに建ち、すぐ脇にコンクリートの小屋があり、その奥に拝所の祠がありますが、なんとこの拝所が仲間御嶽なのではありません。こちらはマスムイヤー(枡盛り屋)御嶽といいます。
枡の名を冠しているということは、租税に関係する御嶽と思われます(ここでコンクリートの小屋を枡盛り屋と云い、籠りニガイをするのだとか)。この御嶽については詳細がいまひとつ判りませんでしたが、枡の名がつく御嶽の中は人頭税の徴収をする単なる役人を、神格化させていたりすることもあったりします。

では、どこが仲間御嶽なのかというと、マスムイヤー御嶽の建物の左脇を、少し奥へと進んだ森の中にある小さな祠です。その場に立つと、どことなく大きな木々に囲まれた広い空間全体が、仲間御嶽なのだという感覚を抱きました。流石に格式の高い素晴らしい御嶽でした。

【参考資料】
『平良市史 第九巻 資料編7(御嶽編)』 1994年  続きを読む


2018年01月05日

log08 「seven grasses juicy ~宮古式七草粥~」



明けましておめでとうございます!
皆様もう初詣は行かれましたでしょうか?
私は毎年元日の午後に家族で行くのですが、今年の宮古神社は例年よりもかなり混んでいて、階段の下の方まで行列ができていました。
最近は飲食店も常に混んでいて予約無しでは入れないことが多い宮古島。神社もまた然り、といったところでしょうか。
そして神社の境内では屋台がいくつか軒を連ねていましたが、さすが宮古島。正月でもかき氷やブルーシールアイスは健在です。一昨年なんて「年越しそば」まで売っていました。年越しそばの概念を根底から覆す正月メニューです。
ちなみに年越しそばも、ここ宮古ではもちろん宮古すば(そば)です。

さぁ、前置きが長くなりましたが、前回から連載となった「宮古口見聞録"」ジャジャッと始めていきましょうねー!

【ジャジャッと】
「ササッと」「パパッと」の意味。「今ジャジャッと夕飯作るからお菓子食べ過ぎないでよ!」などと使います。
「ジャッと」という言い方も。「今日は用事があるから定時でジャッと帰ろうね」などと使います。
「ジャジャッと」は、ある一定の時間がかかる動作を要領よく短縮して行う場合に使うのに対し、「ジャッと」はAからBに素早く行動を移す場合に使われているように感じます

【~しましょうね・~しようね】
「~しますね」の意味。
つい「Let’s~」だと思ってしまうので、宮古に来たばかりの方は混乱することが多いのではないでしょうか?
私の友人は、高齢者の施設で働き始めて間もないある日、昼食中先輩に「シーツ取りに行こうね」と声をかけられ、慌てて箸を置き一緒について行ったら「何でついて来るのッ??」と驚かれたそうです。驚かれた友人こそビックリだったことでしょう。
という訳で、飲み会の途中で隣の席のアパラギネーネーに「そろそろ行こうね~」と囁かれてもついて行かない方が賢明ですよ。

【アパラギ】
美人のこと。女性だけでなく男性にも使います。
「アパラギシェーネン(青年)」は、明らかにそれ以上の年代の方にも褒め言葉として使われます。
また、「アパラギショジョガマ」というショッキングな言葉も、明らかに処女ではないであろう女性にも使われています。これは「綺麗なお姉さん」くらいのニュアンスのようです。
私の職場のデイサービスでは、トランプの七並べをしている利用者さんが、「はい終わったよー。アパラギショジョガマ~」とよく職員を呼ぶのですが、「はーい」と応じるのも毎度こっぱずかしいものです。要は「早くトランプをシャッフルして配ってくれ」と催促されているだけなのですが。

【アメリカ】
これもデイサービスで知った言葉ですが、耳が遠いことを「耳がアメリカ」、そしてあの世のことも「アメリカ」と言います。
年配の女性が「お父さん(夫)はアメリカに行ったよ」と話していたら、亡くなった可能性が大ですが、「いつ頃亡くなったんですか?」などと尋ねる前に、念のためどっちのアメリカか確認しておくほうが無難です。
戦争を経験した年代の方々がよく使っているようです。

【七(ナナ)たてジューシー】
宮古版の七草粥のこと。
内地と同じく1月7日に食べますが、特に決まった野菜は無く、そのときあるものを入れるとのこと。確かに、その土地の旬のものは身体にも良さそうです。ところがどんな野菜なのか尋ねると、フーチバー(ヨモギ)・ニラ・ネギといった野菜に加え、おせちの残りもののカマボコや豚肉を入れるのも珍しくないのだとか。

それにしても何故炊き込みご飯を「ジューシー」と呼ぶのかものすごく気になります。スーパーで初めて「ジューシーおにぎり」なるものを見たときは本当に驚きました!英語のjuicy(水分が多い)だと思ったからです。
いやでも「七たてジューシー」や「フーチバージューシー」はかなり水分も多いし、もしかして本当に英語のjuicyが由来なのでは?と思い調べたけれど、これといった文献には辿り着けませんでした。また「ゾウスイ」が「ジューシー」変化したという説もありました。
水分の多いか少ないかで呼び方も分かれます。炊き込みご飯系をクファ(硬い)ジューシー。ジャクジャクした雑炊系をホロホロジューシーと呼びます。

沖縄ではお馴染みのレトルト、オキハム「じゅーしぃの素」はクファジューシーですね。箱の裏にも「名称 たきこみごはんのもと」としっかり記載されています。宮古そばとセットで出てくるジューシーも炊き込みご飯系です。そばが汁系なのでバランスが取れてるわけですね。

そういえば何年か前、70代の方に「ジューシーメイを買って来て」と頼まれ、「ジューシーのことですか?」と何度か確認するも違うと言われ、「わかった!住所氏名の略ですか?」と言ったら「バカにするな!」と怒られたこともありました。
後からわかりましたが「ジューシーメイ」の「メイ」とは「米」で、「ジューシー米」だったのです。なーんだ。

では今回はこの辺で。
「宮古口見聞録"」もジューシーのように皆様に愛されるコラムを目指していきたいと思いますので、今年もよろしくお願いします。
あとからね~!  


2018年01月02日

第167回 「ラムサール条約登録 与那覇湾」



「んなま to んきゃーん」の新年第一回目は、干支にちなむには一年遅かった、与那覇湾のラムサール条約のプレートです。ちなみにこれを取り上げるまで、ラムサール条約は湿地(や干潟など地形的に特殊な環境)に関する条約だと思い込んでいました。ラムサール条約の正式名は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」というモノで、湿地に棲む水鳥を軸にした生物に関する条約です。条約名のラムサールは条約が制定されたカスピ海に面したイランの都市、ラムサール(ラームサル)にちなんでいる。
余談として、今年の干支にちなむ石碑の話なら、こちらをぜひ!。

2012年に与那覇湾がラムサール条約に登録され、それっぽいモノ(登録を記念する碑)は、どこかに作られているのだろうかと気になっいたのですが、残念なことに石碑ではなく、プレートでお茶を濁されていました(ちょっと安っぽいプレートなので、颱風とかで破壊されないことを祈ります。その点、石碑なら何の心配もいらないんだけど)。
設置場所は与那覇湾に面して設けられたサニツ浜公園の中です。目印は連載100回記念でも紹介した宮古馬の巨大モニュメントの近くです。

ラムサール条約に登録された与那覇湾の湾内は、沖縄県内でも有数の干潟で、シギやチドリの仲間を中心とした多くの鳥たちの渡りの経由地、あるいは越冬地となっています。また、絶滅危惧ⅠA類のクロツラヘラサギ、絶滅危惧ⅠB類のクシガモ、キンバト絶滅危惧II類のサシバ、セイタカシギ、アカアシシギがが確認されています。そのため与那覇湾及びその周辺がラムサール条約(日本の重要湿地500にも選定されている)に登録されています。ちょっと面白いのはこの“周辺”。どういう訳か湾の最深部にあたる製糖工場付近の上地や、久松として隣接した集落である久貝は範囲外となっている不思議。

この与那覇湾はかつて島の水不足を解消するために、淡水湖化計画があった場所でした。1973(昭和48)年に大きな旱魃がおこり、これをきっかけに与那覇湾の淡水湖化の構想が持ち上がりました。しかし、1981(昭和56)年9月に反対運動が起き、1983(昭和58)年に計画は中止となり、地下ダム事業に継承され日本初の地下ダムへと推移します。
もし、この時、もし与那覇湾が淡水湖になっていたらラムサールのラの字もなかったことでしょう。

それでも与那覇湾はちょっとずつ姿を変えています。たとえば宮古島市下地庁舎(旧下地町役場)は、この一帯(池原)の浅瀬を埋め立てて造成された土地に建てられています。また、かつては川満大殿によって作られた加那浜橋(上地付近に作られた、長さ約623メートルもの今でいう海中道路。雍正旧記より)あたりは国道の拡幅改修により護岸されています。サニツ浜「海岸を全施設整備事業」として、コンクリートブロック張りの階段式堤防に作り替えられてしまいました。
どことなくですが、周辺の集落も海から遠くなってしまった感じがしてなりませんが、与那覇集落のはずれにあるトマイ(泊)御嶽周辺は、まだ埋め立てなどされていない天然の湾の姿が見られるエリアがあります(市指定の天然記念物であるトマイ御嶽の植物群があります。また、宮古では唯一と思われる天然のサキシマスオウの木がありますが、こんな記事を見つけて衝撃をうけるのでした「平成28年度に枯死が確認された」)。

なかなか面白いの看板がこのラムサール条約登録のプレートのそばに建っています。合併前の下地町時代に作られた「長崎ふれあい歩道案内図」です。このサニツ浜から与那覇湾の西側を閉める西浜崎の先端を回って、海岸沿いに東急リゾートの手前(正確にはかなり手前の前山の「明和大津波之碑」があるところ)まで、遊歩道があります(たまーにどこから入り込むのか、軽トラがやってきたりもします。もちろん道路ではないので走ってはいけない場所)。
その半島の途中には、海水浴場とテントが描きこまれたバーベキュー施設があることにもなっていますが、半島の内側からダート道を林の奥へと進むと、確かにそこには施設らしきものがあります。しかし、破損したまま荒れ放題になっており、まともに使えるような状態にはありません。
ところが逆にこの手つかずになって放置されている場所が、特に対岸の松原の森が圃場整備によって切られてしまったため、この界隈では唯一に近いサシバのねぐらとなっています((南への渡りの途中、一夜の止まり木)。

そうそう、与那覇湾では昔、海ブドウ(クビレズタ)が大量に採れたそうです。サバニに海ブドウが山積みにされた白黒写真を見たことがある人も多いのではないでしょうか。これは与那覇湾の沿岸部には多くの湧水が多く湧いており、水深が浅く珊瑚礁の海ではない泥の海は海ブドウの生育環境であったようです。現在は養殖が盛んになっていますが、与那覇湾に天然の海ブドウはあるのでしょうか?。

【参考資料】
エコの島コンテスト ラムサール条約湿地「与那覇湾
ラムサール条約登録湿地関係市町村会議 与那覇湾
閉鎖性海域ネット 与那覇湾  続きを読む


2018年01月01日

[新春特番] ATALASネットワークpresents  新春放談2018



新年あけましておめでとうございます。
本年もATALASネットワークと、ATALAS Blogをよろしくお願いいたします。

もっともらしくいかにもといった新年のご挨拶を、まずはさせていただきましたが、正月早々のATALAS Blogは2年ぶりの新春企画です。
東京と宮古島をskype(とチャット)で結んで『新春放談2018』と銘打ち、ATLASネットワークの活動を軸に、初夢トークをお届けします。お年玉にはほど遠く、企画としてもかなりぐだぐだなので初笑いがとれたらご喝采。そんな生暖かい目でお楽しみいただければ幸いです。
 出演者
 【優】 宮国優子(ATALASネットワーク フロントマン)
 【切】 江戸之切子(ATALAS Blog 島の本棚 選者)
 【柳】 一柳亮太(ATALAS Blog フォルモッサタイフーンサーカス連載中)
 【モ】 モリヤダイスケ(ATALAS Blog 編集人)
ATALASネットワークpresents
新春特番『新春放談2018』
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編