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2018年01月23日

第170回 「白川氏家譜支流の碑」

第170回 「白川氏家譜支流の碑」

第170回 「白川氏家譜支流の碑」今回ご紹介するのは「白川氏家譜支流」という石碑です。
正確な碑面の表記としては、「白川氏家譜支流 与那覇勢頭豊見親恵源之八代 寿海清寶 康熙二十三年甲子十二月九日 恵常卒寿七十六號」と長々と刻まれています。
とりあえず、漢字が多過ぎて何を云っているかよく判らん!って具合です。
こちらの石碑が建立されているのは、平良から狩俣へと向かう県道230号池間大浦線の途中にある、市指定文化財の「四島の主の墓」の前にあります。

そもそも、四島の主の墓。四島の主とはなんなのか。
そこら辺から進めていきたいところですが、四島の主については『美ら島物語「沖縄の島唄巡り」第37回 四島ぬ主』で、ライターの安積美加さんが、その謎解きにとても腐心して書きあげていますので、ぜひこちらを参考ください(とてもいいオススメ記事)。

第170回 「白川氏家譜支流の碑」そうは云っても、少しくらいは解説しておかないと先が続きませんので、簡単に紹介をしておこうと思います。
四島ぬ主は狩俣、島尻、大神、池間の4つの集落を治めていた人物で、宮古の将は勇猛果敢な人物が多い中では珍しい文系の将。仲宗根豊見親らが与那国の鬼虎を誅しに向かった際、宮古の留守居役を任された人物です。
また、八重山は西表島へ新しい船を造りに行き、7ヶ月かけて建造させて帰って来たことで、有名な「古見の主」として綾語に詠われています。
他にも四島の主は、島尻~狩俣を結ぶルートの難所であった島尻の入江(実際は島尻方面から流れる川の河口でもある)に、石を積み上げて海中道路を作り、渡地橋(バタラズ橋)を架けます。
16世紀頃に作られたこの橋は、1882(明治15)年に宮古を視察に訪れた、上杉県令もこの橋を(たぶん)渡っています(島尻→狩俣。帰路は現在の県道ルート≒親道を通ったらしい)。
戦後、新しい橋が下流に架けられ、道も改められ当時の石橋は失われましたが、現在のバタラズ橋の上流側にその痕跡を今も見ることができます。

どんどんと長くなってゆきそうなので、四島の主のプロフィールはこんな感じにして、石碑の方に転じましょう。
珍しく石碑の表に、大量の情報が刻まれています。
白川氏家譜支流
与那覇勢頭豊見親恵源之八代
寿海清寶
康熙二十三年甲子十二月九日
恵常卒寿七十六號
ざっくりな読み下しをしてみると。。。

白川氏、つまりは与那覇勢頭の家柄の系統の支流。
与那覇勢頭豊見親恵源から八代目の恵常。
一行飛ばして。。。
康熙(こうき≒中国・清の元号)23年、西暦だと1684年。甲子の年の12月9日。
恵常(前述の八代目)の卒寿(90歳)。76号?
かな。。。

一行飛ばした「寿海清寶」は、漢文的な四字熟語かなんかだと思うけど、良く判りません。
ラストの卒寿に76号?も、ちょっとなにを意味しているのかよく判りません。

家譜、家系の話は、前述の「沖縄の島唄巡り」で、かなり解説していますので割愛しちゃいますが、こちらの石碑はどうやら白川氏の元祖である初代・與那覇勢頭豊見親こと、恵源の六世子孫で、西仲宗根与人を任ぜられていた恵道の四男にして、狩俣与人を任ぜられていた恵仲のさらに四男である、池間目指を任ぜられていた恵常の支流の系統だということが云いたいらしい(と思う)。
入れ子の入れ子なのでとても判りづらいのですが、恵常が八代目にあるらしいです。

石碑の裏面を見ると、建立者と思しき、北九州市戸畑区在住の與那覇姓のご夫妻の名前が記されています。検索してみてもネットからも情報は得られず、この支流の方がなんのためにどういう経緯でここに石碑を建てたのかはまったく判りません。
ただ、建立年月日が「昭和五十三年旧暦七月七日」。旧暦の七夕になっています。七夕は旧盆に向けて墓を清掃する風習が沖縄にはありますので、遠い遠い先祖の供養する意味で、この石碑を建てたのかもしれないと推測しました。
もっとも、こちらの四島の主の墓は史跡に指定されてからは、現役のとしては利用されていないそうなので、気持ちの問題かと思われます。
なにしろこの墓の主とされているの四島の主(百佐盛≒モモサリ)が、誰なのかはっきり判ってはいないそうなのですから。
第170回 「白川氏家譜支流の碑」




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