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2018年06月29日

第5話 「島ことば」


第4話 「島酒と望郷」

近ごろ家で、『スケッチ オブ ミャーク』のCDをよく流す。
久保田麻琴というアーティストが、宮古の人々から記録した古謡をそのままに、重ねる音をアレンジして仕上げたとても雰囲気のある音楽CD。
映画にもなっている。

宮古島にいた頃、平良図書館で借りられるCDの中に、もちろん宮古民謡もあったので、それを、当時の部屋の、畳の上に寝そべって聴いたことを思い出す。

好きな謡があってね。
そのうち三線教室に通い、宮古民謡の基本的なものから弾きながら唄えるように、練習した。
師匠のステージに、たまたま太鼓で参加したときに、私は三線よりも、唄よりも、太鼓がいいと言われ、そうかと思い、なんとなく民謡を、リズムで聴くようになったりして、民謡を、うたうことが宙ぶらりんになって。

畳の上に大の字に寝そべって、民謡CDを聴いていた。
あの畳は、数日間家に戻らなかったら、閉め切っていたせいでカビた。
うっすらとカビの粉が、畳の上に全面に被ってるいてね。

だからビビらない。
今、八丈で窓に近いところの畳に、緑色の粉が発生しても、なんのことはない、掃除機をかけて、固くしぼった雑巾で拭くだけだ。

八丈島は、梅雨真っ只中です。
猛烈な湿度により、紙もしなしなになっていますが、宮古と大きく違うのは、気温がそんなに、高くないことです。
むしろ寒い。

宮古の海の水温を思い出すと、とにかく逃げ場のない暑さの中、海で汗を流すという過ごし方だったけれど、こちらは海水が冷たいので、そして気温が、内地の東京よりも低くむしろ過ごしやすいため、全然海に入りたいと思わないのです。

そんな中、八丈語教育推進委員会という、集まりに参加してきました。

ユネスコの認定する、日本における消滅言語8つ。

アイヌ語,八丈方言,奄美方言,国頭方言,沖縄方言,宮古方言,八重山方言,与那国方言

宮古の言葉も、この8つのうちのひとつです。

明らかに宮古は、言葉がまだ残っている。
「おごえ」「あいじゃ」など、言葉自体を、若者だって子供だって使っているし、言葉のイントネーションや語尾は、とても自然に、宮古的だ。

「~べき」、「~か」、「~さ」。
伊良部に至っては、「~い」。
そして、「だからよ」。

私ももう忘れかけてしまって、自分の口には出てこないけれど、いつだったか東京で、居酒屋の店員の女の子が、注文を取りにきた。
その話し方ですぐにわかって、沖縄出身ですか、って、話しかけちゃったよ。
共通語を話していても、愛すべき独特のイントネーション。
懐かしくってね。

八丈には、それがない。
全く、どこにも八丈らしい言葉がない。
言葉の語尾にもないのだから、人々が話す言葉は、東京と同じ。

もう、話す人が、80歳以上のごく一部とか、そういう少数でしか、ないのだという。
同じ消滅言語に認定されていても、沖縄に比べて八丈の場合は、もう本当に虫の息だ。

それを、教育でもう一度、子供達におしえたり使わせたりして、何とか残そうとしている。町をあげて。

町の教育目標にも文言があるほどなのだ。

島言葉をまとめた辞書のような本もあるが、
大事なのは、言葉の場合、発音とかイントネーション。文字だけでは、伝えきれないのだ。
口伝。

本当は言葉は、民謡として、歌われていくもの。
そういう古謡が、この島にちゃんとあるのだろうか。

私は、それを探したいと思っています。
それを、うたえる人に、直にうたを、習いたいのです。

今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
第1話 「宮古の暮らし、八丈の暮らし」
第2話 「海までの距離感」
第3話 「路傍の燈り」
第4話 「島酒と望郷」

※     ※     ※     ※     ※

【おしらせ】
ATALAS Blogでは、毎週火曜日と金曜日の週2回にレギュラーコラムの連載を続けて来ましたが、2018年7月から新たに、日曜日更新の“日曜版”をスタートすることになりました。
それに伴い、これまで不定期に連載を続けて来ました、『島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法』がお引越しとなります。
『ATALAS Blog 日曜版』の第2週・第4週の日曜日に定期掲載。月に2回のお届けとなります。
ゆったりと、のんびりと、たゆたうように、“島”の話がたっぷりと楽しめるようになります。お楽しみに~!
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2018年06月26日

第190回 「バスのりば(棚根)」



今回紹介する石碑は、先日、偶然発見した他愛のないコンクリート柱なのですが、個人的にはこれを是々非々で史跡に指定して欲しいぼど、素晴らしいものだと考えています。というのも、このコン柱は近代交通史を物語る小さな小さな過去の遺産だからです(個人的に島の交通史を自由研究しているので、少し興奮しています)。

場所は下地地区、洲鎌の南方。棚根(たなにー)集落の一角です。
棚根集落の戸数は地図を眺めてみると、わずかに20~30軒ほど。そこそこ空き家になっているところも目立つし、建具などはあっても生活感の薄い家も多いので、実数はもっとすくないと思われます。

現在、この地域は宮古協栄バスが嘉手苅線として、日に6本(旧校日ダイヤあり)ほど平良とを結んでいますが、棚根を経由する便は朝の平良行が2本、午後に嘉手苅経由の平良便が2本のみとなっています。
宮古協栄バスが運行するバスのルートは、島内のどの地域も虫取り網のように、平良(柄の一番下)から該当地域まで幹線(嘉手苅線の場合は県道243+国道390の下地線)を進み、網のフチにある該当地域(嘉手苅線の場合は下地庁舎前≒旧下地役場前~洲鎌~入江~棚根~下地庁舎前)を、右回りか左回りで周回して、柄に戻るコースになっています(実際の嘉手苅線は、さらに枝線として皆愛~来間を往復するという複雑なルート構成)。

棚根バス停は新しい道路の開通などで、集落の北寄り、入江湾西岸に近い新設道路上に設置されています(バス停順では、台湾屋南方180メートル付近の“棚根入口”~棚根~橋を渡った先の交差点手前の“入江”)が、この「バスのりば」はもうすこし南の集落のただ中にあり、今どきの大型化したバスでは通るのが厳しいくらいの四辻(交差点というよりは、この言葉をチョイスしたい雰囲気)。

【1962年 棚根から入江への街道ということがよく判ります】
古い空中写真(1977年)を見てみると、「バスのりば」のある四辻は、当時、入江に向かう唯一の道路だったことが判ります(ちょうど入江橋周辺も改修している最中です)。入江は橋(旧橋)の架橋された年が調べ切れないので、はっきりとませんが、1962年のUSA撮影の空中写真にも旧橋まで続く、棚根集落を貫く道が一番大きな道として見て取れます。

下地町誌(1998年)をめくってみると、どうやらこの道は、下地町道15号棚根線(起点:洲鎌579-6/県道390号より分岐する地点 終点:嘉手苅284/県道197号と接する入江集落の交差点)として指定されていました。
ただし、現在は棚根集落南部に沖縄県道235号保良上地線が開通しているため、入江橋の部分は県道に昇格しており、終点は棚根の県道235号合流部となっているものと思われます(県道235号線は、1995年から西半分の2期工事として友利-上地が事業着手されるも、宮国集落付近にある宮国元島上方古墓群の発掘調査によって、同区間の工事のみ大きく遅延したことから、全線の開通は17年目の2012年を待つこととなりました)。

当時の県道15号棚根線は、大きく棚根集落に立ち寄るように曲がっていましたが、周辺の耕地整理などとともに、入江湾寄りに新たなルートが開かれ、バスのルートもそちらに変更されたタイミングで、バス停の移動もなされたと考えられますが、この開通と移転についての時期は判っていません。

メインストリートから村落道へと降格された旧道ですが、往来もほとんどない静かな四辻は、開発とは無縁のまま取り残された結果、この「バスのりば」の碑が現在までこの地に奇跡的に残されたのだと思われます。

碑をよく眺めてみると、少し傾いてはいますが、道路に面した側に掘り込まれた「バスのりば」以外に文字らしきものは読み取れませんでしたが、どうやら表面が黄色くペンキで塗られていたようで、かすかに色が残っていました。

【1977年 入江橋の架け替えが始まっています】
ところで、この古く時代に取り残された「バスのりば」には、どんなバスがやって来てたのでしょうか。
駆け足で下地のバスの歴史を調べて来たので、簡単にまとめてみました。

下地における旅客事業の始まりは、 1916(大正5)年に来間の砂川玄徳氏により、客馬車の運送業が開始されたのが最初とされています。しかしながら、2年ほどで運行は中断してしまいます(大正6年に開始し、4年続いたとの記述もあるが、砂川氏は1922年から下地-平良間の伝馬船経営を始めている)。
その後、1923(大正12)年になって、上地の古波蔵清氏によって再び客馬車の運行がはじめられ、これに続くようにして3~4人が客馬車の営業を開始します。こうして平良との往復がようやく便利になります(これ以前にも、池田矼の話や国道390号線にまつわる話がありますが、今回は割愛しておきます)。

1937(昭和12)年に丸宮バスが設立され、平良-与那覇間で運行を開始しますが、戦争のあおりをうけてやむなく廃業を余儀なくされます。また、同年末頃からは台南製糖(後の沖縄製糖)の砂糖運搬トラックを使った客送も運行されていたようですが、こちらもガソリン不足から木炭エンジンに改装させられるなど、受難な時期が続きます。

戦後は1946年(昭和21)年に、当時の砂川佳久村長が村営自動車運送業を興し、日本軍から払下げられた貨物車を改造したバスが運行がされます。1948(昭和23)年、與那覇金一村長は自動車交通の重要性から、増車を計画。宮古民政府に保管中されていたトヨタ車を月額200円で借用して、2台体制で平良-与那覇間にバスを運行させます。
やがて旅客数も増え、貨物車の改造バスでは輸送力不足となって来たため、1950(昭和25)年に大型バスを1台、1953(昭和28)年にも1台増備して、正規のバス2台をもって地域輸送の需要を担いました。
※尚、上野村の分村は昭和23年。下地町町制施行は昭和24年。

【1995年 入江橋が完成。県道の工事も進み、棚根漁港、ゴルフ場が完成しています】
ここまでバスは与那覇方面のバスばかりが登場していましたが、1959(昭和34)年に平良-入江間を運行していた上野バス(宮国の砂川純吉氏が経営)の事業廃止(本文ママ)に伴い、同氏のバスを譲り受け、路線の延長も行って入江線(平良-入江)を町営バスとして運行させます(上野側で運行されていたバスついての運行開始年は未明)。
これにより、来間、高千穂地区を除く下地町区管内の各集落に、バス路線が運行されるようになりました。

ところがこの上野バス。後に宮古協栄バスに転換されることになるのですが、1966年や1979年の資料では平良-宮国と平良-新里の2路線を運行しており、事業廃止はまだまだ先のことなので、下地町営バスへは路線廃止からの路線譲渡をされたのだと考えられます。しかし、当時はまだ運行していると思われるはずの入江線について、1958年発行の上野村誌には一切の記述がないのです(上野バスはバス5台を使用して、宮国線・新里線ともに、おおよそ1時間ヘッドの運行頻度。平良側の停留所は、現在の下里東通、平一小に近くあった上野農協の一角で、今もその名残として、“元うえのバス停”を名乗っています)。謎は深まるばかりです。
尚、下地の高千穂地区については、集落の地理的条件から、上野バスによって補われていたことを付け加えておきます。

話を下地町営バスに戻します。
1960年代に入ると自家用車やバイクの普及により、バスの利用率が大きく低下。民間へ譲渡することとなり、1967(昭和42)年に八千代バスへの売却が決まりますが、諸認可の遅れなどがさまざまな問題が紛糾し、裁判にまで発展したことから八千代バスへの売却は白紙とされました。その後、1979(昭和54)年に、宮古協栄バスへ事業譲渡がなされ、村営・町営バスとして25か年続いて来た公営運送事業は終了しました。
もしも、当初の計画通り下地町営バスが八千代バスに移管されていたら、池間島から来間島への島内横断バス路線なんて、夢ような路線が運行されていたかもしれないと思うと、鼻血が出そうです。

以上、下地町誌を元に独自に構成した下地の旅客運送の歴史でした。

結果として、正確な当時の運行ルートは未解明。ルートの移転・バス停の位置変更の時期も不明。この「バスのりば」はどこのバス会社が作ったものか未明。っと、判らないことだらけです。それだけ交通史については資料もなく、研究者もいないので、知りたくても判らないことだらけです。
けど、この「バスのりば」はすくなくとも、この地にバスがやって来ていたことを物語る証人であることだけは、間違いありません。ぜひ、小さな証人であるこの「バスのりば」の碑を大切にしてほしいものです。

【1923年、陸軍測量部による地図(手持ちの資料で最も古い地図史料)。まだ入江に橋はかかっておらず、棚根もタナニイ。入江はモリカドと名付けられています。尚、このモリカドは戦後直後くらいまでは使わていた名前のようなのですが、はっきりしたことが判りません。情報がありましたらぜひご教示下さい】

【お願い】
ご家庭で不要となった古い島の本、地図、パンフレット、観光ガイド、要覧などをお譲り下さい。これ以外にも史料となりうるかもしれない、ありとあらゆる島に関する紙モノ(人によっては価値のないゴミが、実はお宝だったりするともある)をください(嘆願)。


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2018年06月22日

Vol.26 「だきょう(らっきょう)」



梅雨が明けたかのように、なびがーす(クマゼミ)の大合唱が朝から鳴り響いている。

一昨日、友人から「だきょう(らっきょう)」をもらった。
内地のらっきょうよりも小ぶりで、「島らっきょう」とも言われている。
ピリッとした辛さと、シャキシャキの食感がたまらない。
「島らっきょう」という言い方はいつから言われているのだろう。少なくとも私が子どもの頃には聞かなった。
今は、島にんじんや島タコ、島酒などいろいろものに、島が付いてブランドとなっている。

だきょうは、ひとつぶひとつぶを種にして、秋に植え、春から夏にかけて収穫となる。

塩漬けや甘酢漬けなどで食べるのが一般的だと思うが、油みそに入れても、だいずんまーんま(すごくおいしい)!。
また、天ぷらにするのもポピュラーになっている。天ぷらも私が子どもの頃には見たことも食べたこともなかった。
初めて食べたのは、今から20年くらい前だと思う。宮古の居酒屋のメニューに、「島らっきょうの天ぷら」と書かれているのを見て、びっくりしたのを覚えている。

【左:天ぷら 右:塩もみ】

この時季になると、母は畑からたくさん、だきょうを引いてきて漬物を作っていた。
切り株のようなものを椅子にして座り、山と積まれただきょうをつふい(土や汚れなどを取りきれいにすること)、鎌をねかせ、歯の部分を手前にして、葉を素早く切っていた姿を思い出す。

だきょうは、胃腸の弱い人にも良いようだ。
『おきなわ野の薬草ガイド』大滝百合子著によると、「主な効能 下痢、消化不良、咳、呼吸困難 作用 胸部を温め、胃腸の気のめぐりをよくすることによって効果を発揮します」とある。
旬のものが出回っているのを見たり、味わったりできることは、本当に幸せなことでぜいたくなことだなーとしみじみ思う。

【左:泥付き根付き 右:油みそ】

友人からもらっただきょうは、油みそにしようかな。
いろいろな料理で楽しんで夏を乗り切るとしよう。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年06月19日

第189回 「事業完工記念碑(西原)」



今回ご紹介するのは事業の完成記念碑です。この手の石碑は島ではよく見かけるタイプの石碑で、古くは道路の開鑿記念御獄の修繕自治会公民館の建設記念などがあります。近年は圃場整備や灌漑用水など農業基盤整備事業の完成を記念した石碑が増え、わずかに残った里山を破壊して効率重視の畑が広がる風景の中に、無味乾燥な石碑か威を借るようにどーんと建立されています。

こちらの事業完工記念碑は、「西原第1地区西原第1(Ⅱ期)地区西原東地区」の畑地総合整備事業が完成したとを記念した石碑です。場所は西原地区の裏手、真謝漁港へと向かう裏道沿いに建てられています。対象地域があまりにも広いので、どこがどうで、なにがなんなのか、理解するのはちょっと難しそうですが、ざっくりこのあたりの圃場整備されたトコが現場なのだと思われます。
国、県、市の補助による事業で、建碑を報告する新聞記事によると、約80ヘクタール(3地区の合計)を、およそ10年(起工2007年8月、完成2016年3月)かけて、総事業費31億8500万円で整備されたそうです。

西原地区畑地総合整備事業工事完了で記念碑除幕 (2016年10月22日 宮古新報)

丘脈に挟まれた平野部に見渡す限り広がる圃場。清々しいほど綺麗な区画に改造しました。勿論、作付される農作物は島の基幹産業であるサトウキビです。区画の大きな農地に作り替え、灌漑用水を張り巡らし、機械化を図って低コストかつ省力化を促進し、生産性の向上が期待されています。

事業前の空中写真を見てみると、すでにそれなりに畑地として利用されていますが、不定形でまとまりは確かにありませんが、自然の地形にそって工夫されているようにも見えます。また、一部にこんもりと雑木林の森が残っている土地が点在しているのが見えます。これは恐らく墓地や御獄、もしくは窪地や岩塊地など耕作に不適な場所と考えられます。
整備された現地を眺めると、墓や御獄の類は、その敷地だけを残して周囲はギリギリまで耕作地として整備しています(今回は見た限り、御獄っぽいとこはなさそうですが、拝所の周囲にある御獄林までもが開発されてしまうことがあります)。一方、土木技術の進歩で、耕作に不向きな場所もかなりの確率で埋めたり削ったりして、畑地に開発してしまいます(なにかいわれのある岩だったり、岩の根がとてつもなく深かったり、裂け目の大きな窪地を埋め戻すのはコストがあわないためか残っていたりします)。
自然のままであったそうした地形の痕跡はほとんどがなくってしまいますが、耕作不能区画として遺された圃場整備を免れた場所は、過去視をする時に大きな手掛かりとなります。
整備地区の北側、大浦寄りにはズザガーがあるといわれ(現地未踏査)、その周辺はまだかろうじて手つかずになっています。このズザガーは「沖縄県洞穴実態調査報告Ⅲ」(沖縄県教育委員会 1980年 ※愛媛大学探検部の実地測量がベース)によると、全長が250メートル、平均洞幅が8メートル(最大14ルートル)、天井高は2.5メートル(最大4メートル)と、かなり大きく、洞内には水流があり、水量も豊富であると記されており、とても興味深い“物件”。また、この洞穴は戦時中、西原集落の住人の防空壕としても利用されていたそうです。この周囲は辛うじて未整備の畑が広がりっていますが、いずれこのあたりまで圃場整備の魔の手が迫ったら、雰囲気は大きく変わってしまうことでしょう。


最後に余談として、圃場整備のネタをひとつ。
噂で耳にしたネタではあるのですが、旧上野村の村域の90パーセント以上で圃場整備が行われ、昔の地形はほとんど残っていない。というショッキングなな噂でした。ところが、少し古いものですが、こんな記事を見つけてしまいました。

宮古地区 ほ場整備率は51%/県農水整備課まとめ (2012年10月12日 宮古毎日)

記事によると整備率は、平良1179ヘクタール(整備率41.3パーセント)、城辺1247ヘクタール(同36.0パーセント)、下地942ヘクタール(同73.9パーセント)、上野1032ヘクタール(同98.2パーセント)、伊良部773ヘクタール(同42.6パーセント)、多良間498ヘクタール(同775.1パーセント)となっています。

上野98.2パーセント!?と書かれていて、ちょっと驚愕したのですが、これは整備の進捗率ですから数字の意味が違います。けれど、数値を鵜呑みにした誰かが噂として語り、それが独り歩きしたのではないかと思われます。
ちなみに旧上野村の面積は18.98平方キロメートル。ヘクタールに換算すると1898ヘクタール。整備率が100パーセントになった時の面積を計算すると、1051ヘクタールなるので、村域の55.37パーセントは圃場として整備されたと云うことが出来ます(あくまでこの時点でですが)。
村の面積には人家や役場や学校などの施設、道路やリゾート施設なども含んでいますから、この半分という数字は決して小さくないと思います。

【参考石碑】
第50回 「水」
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第123回 「道路開鑿紀念碑」
第124回 「(新城道路改修)記念碑」
第133回 「長間自治会公民館建設記念碑」
第186回 「記念碑(地盛嶺)」  続きを読む


2018年06月15日

第3回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」



裏座からこんにちは。
毎度おなじみ、宮国でございます。
日本で初めて商業アニメーション映画を作った男、下川凹天の物語。
『Ecce HECO.』の第3話。早速、始めたいと思います。

前回の凹天のお葬式の話は、弟子の森比呂志の記録からでした。
実は、その記録は、凹天の葬式直後に書かれてものではありません。
後日、別の漫画家の葬式の時に、凹天の葬式を思い出し、エッセイに残したものでした。

他人の葬式に出ても思い出すほど、森比呂志にとって、凹天の存在感は大きかったのかもしれません。 今の日本ではほとんど死語になったかもしれませんが、「師を慕う弟子」という気持があったのでしょう。

これからしばらくは「凹天の弟子や知人たちがどんな人だったか」に焦点をあてて、一番座へ、つなぎます!
 こんにちは、一番座から片岡慎泰です。

 凹天は多くの人びとに強い印象を与えましたが、その弟子や知人について、そして彼らの側からみた凹天に関して詳細に書かれた文献は、今のところほとんど見当たりません。
 今回は、凹天の弟子のひとり、森比呂志に焦点をあててみたいと思います。

 森比呂志は、1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな 編注1)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれました。
 生まれた時、祖父は「天神さまの生まれ変わりだ」といったそうです。屋号は天神山で、実家の入口には、天神を祀った社(やしろ)がありました。

【森比呂志の実家があった場所 川崎市川崎区小田2丁目】

 森比呂志の母方の先祖の森家は、東海道の川崎宿砂子(いさご)本陣の助郷(編注2)を請け負うほど格の高い農家でした。しかし、森比呂志から数えて三代前にあたる森三右衛門は、当時の多くの例と同じく、助郷をしたばかりに落ちぶれて、先祖伝来の家や畑を売り払うことに。
 森比呂志の祖父は家を復興しようとしたのでしょうか。自分の娘に実直な職人だった父を、入婿として自分の家に迎え入れます。
 祖父には、従兄弟で新平という甲府の出身の石工がおり、川崎で「新平石屋」を経営していました。
 森比呂志の父は、そこに勤めていた同郷出身の青年だったのです。

 その後、新平は脳梅毒になり、高尾山の病院に通っていました。
 精神的に病んだ人のための病院といっても、当時は神社仏閣の付属施設や旅館から病院、軍部が精神病室を作るというパターンがありました。高尾山の病院は、最初のパターンです。
 付言すれば、当時は、厚生労働省でなく、警察が管轄。当時、東京周辺で精神を病むと高尾山の滝に打たれる治療が流行していました。

 東京周辺で青少年時代を過ごしたり、現在お住まいの方ならご存じでしょうが、高尾山は現在ピクニックやハイキングのメッカ。ここには多くの神社仏閣や滝があります。その滝に打たれたり、護摩行も治療の一環だったようです。

 ここで治療をしていたのは、ある記録によると琵琶滝、弁天滝(現存せず)、蛇滝のいずれか。
 宿泊所は、お金持ちは琵琶滝の二軒茶屋(同所のため佐藤旅館と小宮旅館を総称)か、弁天滝の三光荘の旅館3ヵ所、お金がない場合は、参籠所(さんろうじょ 編注3)の2ヵ所。
 旅館の他にも、旅籠(はたご)や茶屋などと呼ばれた宿泊所もありました。蛇滝の旅籠ふぢ新権兵衛などがそれにあたります。

 新平はお金があっただけに旅館に泊まっていたと考えられますが、残念ながらこれ以上のことはなんとも。
多感な森比呂志少年は、小学生でしたが、その時の新平の様子も書き残していました。

 新平が1917年に亡くなると、森比呂志の祖父が新平の工務店の実権を握り、番頭格になります。
 しかし、新平の未亡人から誘惑されたりしますが、そんな未亡人の経営ではうまくいかず、ついに店は閉めることに。
 そして森比呂志の父は、その後、自分で事業を興します。名前は「森石材店」。

 森比呂志は、4歳の時、2月のお不動の日に大やけどをして、「お不動さまの祟りだ」といわれます。さらに翌年、同月同日にもう一度大やけどをして、腕や身体にひどいケロイドの傷が残り、「お不動さまの罰だ」とまでいわれる始末。さらには中耳炎にもなり、軽い難聴にもなってしまいます。

 比呂志少年は、それにもめげずにか、それ故にか、わかりませんが、ませた子どもになります。最初のあこがれは、近くに住んでいた三歳上の娘でした。その娘がお嫁にいきます。
 それから、森比呂志の女性遍歴が始まります。それには当時の住まいの場所が大きく影響したようです。

 そこは川崎遊郭の大門を入った妓楼の隣りあわせだったのです。次に恋した人は、歌舞伎界名門の嫁になった高級遊女でした。

【画像 今はおだやかな遊興街の風情 川崎市川崎区南町】

 元々、川崎は東海道の宿場町として栄えていました。 
 明治に入ると、洋行帰りの浅野総一郎が渋沢栄一と組んで、臨海沿いに大きな工業地帯を作り始めます。会社としては、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)川崎工場、浅野セメント(現・太平洋セメント)など。

 森比呂志が生まれた1919年頃は、日本中が沸いていた第一次世界大戦景気。
 裕福になって、家が大きくなるにつれて、川崎八丁畷(はっちょうなわて)に引っ越しすることになります。学校の入口前にあったその場所の近くには、松尾芭蕉の句碑が残っていました。その年に亡くなる芭蕉が、江戸から故郷の伊賀に帰る時に死を予感して詠んだ句と解釈されています。

 後述しますが、「漫画は文学でなければならない」という森比呂志の信念、そして死と隣り合わせの中で生きざるを得なかった時代に育まれた感性は、こういうところに源流があるのかも。

【画像 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と書かれた、八丁畷駅近くの松尾芭蕉の句碑

 森比呂志は、叔父・新平がもっていた蓄電器とレコードで、大正から昭和初期にかけての大衆文化に触れることになります。ちなみに、日本最初のレコード会社日本蓄音機商会が誕生した場所は、奇しくも森比呂志が生まれたのも神奈川県橘樹郡。

【画像 レコード発祥の地として、京浜急行電鉄大師線の港町駅は、音楽情緒たっぷり】

 関東大震災(1923年)は川崎にも甚大な被害をおよぼしましたが、森比呂志はそれを絵入り自著の『大正時代物語川崎あれこれ』(国書刊行会、1988年)で「船頭小唄」と記しています。
 彼にとってこの歌は、「ロマンに満ちていた大正のよき時代のフィナーレであり、葬送曲であり、挽歌であったから」。
 この曲は1921年に、野口雨情が民謡『枯れすすき(枯れ芒)』として作詞、中山晋平が作曲して誕生。1922年に『船頭小唄』と改題され、複数のレコード会社から競作として発売され、歌をモチーフにした映画化もされるほどの大ヒットとなりますが、野口雨情の暗い歌詞と中山晋平の悲しい曲調から、関東大震災を予知していた歌だったのではという説が流布しました。
 なお、1974年に一世を風靡した、さくらと一郎の『昭和枯れすすき』は、世界観が類似した哀愁をもつ歌というだけで、まったく別の曲です(作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし)。

 川崎の工場群は、関東大震災での出火だけはまぬがれました。これは、関東周辺地域にとって非常に大きな意味をもちました。さらに当時、日本一栄えていた阪神工業地帯が1934年に発生した室戸台風によって壊滅的な被害をこうむります。結果として、このふたつの要因が川崎の光景を一変させます。関西の工場群や映画街が、川崎など東京周辺へと移り、急速に工業地帯として繁栄を迎えたのです。

【室戸台風発生時の天気図 国立公文書館より】

 森比呂志は、家業を継いだものの、詩にかぶれたり、漫画に魅せられていました。あこがれの漫画家は、そう、下川凹天でした。
『昭和漫画家エレジー』(彩流社、1985年)によれば、ある雑誌に載った凹天の「夢の琉球よ失恋の淡路島よ」という歌いだしの自伝的詩の記憶が大きかったようです。森比呂志は、漫画は文学でなければならないという信念の持ち主でした。

 絵心は祖父から受け継いだようで、家業を継いだ後にも、落書きなどをしていたようです。実直で職人気質の父親は漫画嫌いでしたが、1924年『キング』1月号が創刊され、母はそのファンに。その最後には読者投稿のページがあり、母が髪結いに髪を梳いてもらっている傍らで森比呂志は『キング』を読んでいました。そこに漫画を墨汁で書いて投書すると入選し、家に銀のカップが送られてきたのです。
 その後も、近代漫画を確立したひとりである北澤楽天主幹の『時事新報』に、たびたび投稿。『婦人倶楽部』や『アサヒグラフ』などにも投稿しています。

 ひとまず、一番座はここまでにて。
はい、裏座の宮国です。
凹天の高弟である森比呂志が漫画家になるまでの人となりは、なんとなく理解していただけたでしょうか。
大正生まれ昭和初期に幼少期を送った時代性を感じさせる人生ですよね。

あんぽんたんなワタシなので、一番座を読んでいるうちに、カオスになってきました。
なので、私なりに森比呂志の要点だけをまとめてみました(笑)。

川崎生まれで、石工を家業とする息子。
母方は助郷が祖先。
父は、母方の親戚の「新平石屋」と呼ばれる新平石材店の番頭格になる。
「新平石屋」が傾くと、紆余曲折はあったものの、父は後釜として「森石材店」を興す。
その中で、裕福に育った一人息子が、比呂志。

大やけどを二度もしてお不動さまの罰といわれた子ども時代。
大正ロマンチシズムを凹天に見出した少年時代。
漫画に対する偏見から隆盛までを見つめ、時代を記録した逸材。

地元である川崎の庶民史ともいえる森比呂志の著作には、凹天との思い出も描かれています。

ここで、もうひとつ挙げるとすれば、著作の最終ページにあった彼のプロフィールです。
「飴屋、板金工の苦悩をまぎらわすため、漫画を描き」と書き残しています。
時代の流れに飲み込まれ、実家の石工が傾いて職を変えプロとなります。そこには、まさに時代とともに独特の感性を磨いた一漫画家、いえ、ひとりのポンチ絵描きの生き様が溢れているように思うのです。
数ある漫画家の中でロマンティックな凹天を見初めた森比呂志の若き感性。その感性は、ある時代は凹天とともに生き、凹天が亡くなった後も変わらず保たれたのだと思います。
森比呂志の眼差しはみずみずしさをたたえたまま、彼の著作にある文章や漫画に結実していきました。
【森比呂志の著作はよみごたえあります】


凹天のまわりの人びとが書き残した凹天像によって、ありがたいことに凹天そのものがビビットに現代に蘇ります。嗚呼、ある種の人徳があるのね、凹天って、多分だけど。
そして凹天をこんなにたくさん書いてくれて、ありがとう!森比呂志さま!

【編集注記】
編注1 橘樹郡(たちばな‐ぐん)
神奈川県の最東端の郡域で、現在の麻生区の一部を除く川崎市全域と、横浜市の鶴見区、神奈川区全域と、西区、保土ヶ谷区、港北区の一部で構成されていたが、横浜市と川崎市の市域拡大によって、1938(昭和13)年に橘樹郡は消滅。翌1939年に西隣の都筑郡も同様に消滅するも、こちらは横浜市の区域の再編によって、1994(平成6)年に行政名として都筑区が復活した(但し、区域は大幅に異なる)。

編注2 助郷(すけごう)
江戸時代の労働課役のひとつで、宿場の保護、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化、拡大化してゆくも、村民への報酬は低く過大な負担となり問題となる。1696(元禄9)年に常設の「定助郷」が編成され、1872(明治5)年に助郷制度が廃止されるまで続いた。

編注3 参籠所(さんろうじょ)
元々は社寺堂に籠って、一定の期間、神仏に祈願するための場所であったが、参詣が大衆化しすると社寺の宿泊所を参籠所と呼ぶようになり、沐浴潔斎(もくよくけっさい≒心身を清めること)の設備を整えるようになった。宿坊、僧房。


【20180626 一部訂正】
【2019/10/09 現在】
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年06月12日

第188回 「船底川」



なんだかんだといっても、やっぱりここへ戻ってきてしまうようです。井戸系の石碑。もう、石碑と云ったら井戸、井戸といったら石碑と、勝手に切り離せない密接な関係になっているような気がしています。もっともそうした石碑のほとんどが井戸を掘った時の開鑿(かいさく)の記念か、井戸を改修した改築の記念です。
開鑿記念はおおむね掘り抜きの井戸であることが多く、また、改築記念は降り井を掘り抜き型に作り替えるか、古い掘り抜き井戸の周辺を整備したものが多く見受けられます。中には石碑になりきれず、井戸本体や周囲の構造物のコンクリートに、改修の日付を殴り書きされたものなどもあります。
実はもうひとつのパターンとしてあるのが、井戸の拝所として意味を持つ石碑です。畏部石(イビシ)とまでは行かないものの、水の神に感謝するために拝む場所としての目印のような石碑があるのです。

今回ご紹介する「船底川」はは平良の市内、宮古島市立平良中学校の校門前の駐車場の際にあります。
石碑は拝所の目印として建立された石碑と考えられ、井戸も同じコンクートの小さな囲い中にあります(掘り抜きの井戸で、現在は通学路でもあるため、転落防止用にコンクリートの蓋がされています)。
平良中に通っていた人(通っている人)でも、「そんなところに?」という人と、「あ~っあったね!」という人に分かれるのではないでしょうか。そのくらい見かけ以上に船底川はひっそりとしています。この手の存在に気づいているかいないかは、必然、興味があるかないか、陽キャか陰キャかくらいの差があるのではないでしょうか(適当)。気づいていた人はぜひとも色々、あちこち見聞した面白いネタをリークしてください。気づかなかった人はこの手のモノには向いて気がするので、すっぱりとあきらめるか、今からでも観察眼を養ってみましょう。

っと、イキって書いてはみたものの、船底川についてのネタがちっとも掘れないのでした。
この付近は、以前、「海上挺進基地第四戦隊戦没者勇之碑」で、本編の石碑をよそに、読者をほほったらかして、がっつりマニアック丸だしで余談を書きまくった時にふれた、仮称・荷川取川(東仲~荷川取雨水幹線)の上流域にあたります。
ちなみに、井戸の西側、数メートルのところを荷川取川は流れており、いろいろな意味でも井戸の水質に影響はなかったのか、ちょっと気になるところです。
実際、上水道が敷設されるまで、住民の生活用水は各地に点在する井戸が頼りでした。しかも、公共下水も整備されていない時代(今でも普及率はそれほど高くない)なので、生活排水は川(水路)に流すか、地面に浸透させて自然に還すだけでした。井戸によっては水面位置が低く、雑排水などの汚水が井戸に逆流したり、立地によっては糞尿のたぐいが染み出るようなところもあったりと、飲料水としての質がなかなかに低かったと云われ、風土病が多かったの理由でもあったそうです。なんか想像するだけでもちょっとヤバめな水だったのではないかと感じます。
もっとも、すべての井戸がそうだったといいきれなのですが、この船底川は恐らく似たような環境だったのではないでしょうか。理由は荷川取川の水路に近いというだけではなく、やはり井戸の名に「底」の字があるからです。
宮古では土地が低い場所の地名は間違いなく「底」の字がついています。たとえぱ宮原(東仲宗根添)の土底(んたすく 「土底村里井戸改修工事」)や、西里添の底原(すくばり)など、見るからに低い土地の名につけられています。

この船底川の西側は、川を挟んでアツママ御獄、東原(アガズバリ)御獄など、いにしえの西里集落の東端の護りが鎮座する小丘陵部になっています。また、平良中の北側(協栄バス側)は凸凹とした不整地の原野が近年まで残っていました。80年代のまてぃだ通りの開通に続き、2010年頃からの宅地造成によって、丘は削られ(今のガソリンスタンド付近)、穴は埋め立てらてられ(穴はauショップ界隈)、完全にその姿を変えてしまいました(竹原地区造成)が、船底川はちょうとこのふたつの丘に挟まれた谷にあたり、地形的にも文字通り「底」だったということが判ります。

尚、土地造成で埋められた穴は、実は井戸で、ここにはキスキャガーという降り井がありました。戦後、水質水量がよかったことから、米軍が飲料水の水源として接収し、導水管を野原岳まで8キロ、カママ嶺まで3キロ(測候所に米軍施設があった フォルモッサタイフーンサーカス 2018新春SP)、敷設して水利を得ていたそうですが、キスキャガーは埋め立てられしまい、auショップの裏手に雑草に埋もれたパイプがひっそりと顔を出すだけとなってしまいました。

ちなみに平良の上水道の歴史は、1924(大正13)年に野村酒造(現在のレストランのむら)が、酒造用の水を得るために設置した人力揚水機で汲みあげた水を使って簡易水道を作ったことがはじまりといわれています。その後、いくつかの小規模な簡易水道も誕生しますが、地域的な上水道としては太平洋戦争時に駐屯した日本軍(海軍)が、東仲宗根の白明井(すさかがー)の湧水を水源として敷設した上水道が作られました。しかし、これも限定的な区域のみであったとのこと(戦後、米軍もこれを接収改良して利用しますが、後に前述のキスキャガーへ水源が変更された)。そして本格的な広域水道は、米軍政権下の1965年に宮古島上水道組合が設立されるのを待たねばなりませんでした。

今でこそ「ヒネルトジャー」(死語)の便利な水道ですが、ほんのちょっと前まではコップ一杯の水さえ貴重だったことを知ると、感慨深いものがあります。また、井戸を巡っていると人々がいかにして水を得るために知恵を絞っていたのかとか、祈るほどに大切にしていたかがとてもよく伝わって来ます。

最後にひとつ。いわばネタでもありますが。。。
船底川がある平良中。読み方は、「たいら」中(ちゅう)と読みます。合併前の市名は「ひらら」市なのに、「ひらら」中ではないとう不思議。隣りの「平一(へいいち)」こと、平良第一小学校は「ひららだいいちしょうがっこう」で、略称こそ異なりますが、「ひらら」と読みます。
一説には、中学校の校名を決める際、平良出身ではない当時の教育長?が、「たいら」いいだろっと云ったとか云わなかったとか。盛っている話のようにも思えますが、人名の場合は「たいら」であることや、かなり頻繁に平良のことを、「ひらら」ではなく「たいら」と呼ぶ声を聴くので、眉唾とも言い切れません。
少し時系列を調べてみたら、1947(昭和22)年に市制を施行して町から市になった時、読み方を「たいら」町(ちょう)から、「ひらら」市に変更したそうなのです。思わず、答えはこれだ~っ!っと、喜んだものでしたが、平良中の設置は残念ながら1952(昭和27)年だったのです。
けれど、あきらめきれずもう少し探ってみたら、そもそもの設置は1948(昭和23)年の6・3・3制の新しい学校制度が施行された際、平良北中学校と平良南中学校の2校が創設されたことに始まっていました。平良中はこの2校が合併して誕生するわけなのですが、行政の読み方の変更と前後するので、この時の学校名の読みが「たいら」北、「たいら」南だったのかもしれません(現行の北中は、1976年に平良中から分離)。
文献は漢字で書かれているものがほとんどで、ルビもふられていないので、「ひらら」なのか「たいら」が音は判らないという盲点を突かれてしまいました。やはりこうした「音」の表現は、方言も同様で正確な伝達がなかなか難しいですね。

※詳しい方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。  続きを読む


2018年06月08日

33冊目 「カフーを待ちわびて」



お久しぶりです。
阿部ナナメです。 (編注:島の本棚には半年毎に顔を出しており、今回が通算4度目)
今回は原田マハさんの『カフーを待ちわびて』をチョイスしてみました。

なんちゃら大賞と名が付くものを、あまり読んでいなくて去年の夏ごろからあえて選んでいて出会いました。ちなみにこれは第一回日本ラブストーリー大賞でした。
文庫本の発行が2008年。10年も原田マハ作品を読まなかったことを後悔。

なぜ読まなかったかというと、作者名の『マハ』なんですよね。マハと聞いて、自由奔放な物語を書く人なのかと思ってました。マハですよ?マハ。マハと聞いたらイタリア男の女性バージョンって感じじゃないですか。明るく奔放で自由で心の動きとか読めなさそうで。どうしてもジローラモが浮かんじゃう。小説もチャラそうだしね。
そんな感じで遠くにおいてた原田マハさん。

『カフーを待ちわびて』
カフーって、いやもう沖縄が舞台じゃん。
読むしかないよね。と初めましての原田マハ作品を読了。

ちくしょう。いい感じに裏切られた。

奔放さの欠片はなく、慎重に慎重に。心の赴くままではなく気づかって気づかって。心が動くさまが伝わる表現。
そうやって書かれた物語は、臆病な島の青年と黒いラブラドールのカフーとの日常から始まる。青年が営む祖母から引き継いだ商店。カフーの首に下がる貝殻の音。家の裏のユタのおばあ。カフーと遊ぶ白浜のビーチ。親指以外はひとつになった右手。デイゴの小枝。居なくなった母親。ユタのおばあの『カフーは来たかね?』。ある日届いた手紙の差出人『幸』。いちいち切り取れる場面。
キューって感じではなく、ふわぁとした感じ。どう言えば伝わるかなこれ。穏やか?暖かい?まあるい?とにかく、色と雰囲気が伝わる。ふわぁとね。
イタリア感は全くなかった。

ちくしょう。飛行機の通路側で読むんじゃなかった。

『カフーアラシミソーリ』と大切な人を思い口にする言葉が、グッと胸に来る。
苦しくて苦しくてどうしようもないのに、自分以外のために『カフーがありますように』と紡ぐ、優しい物語だった。

ラブストーリー大賞、なるほどね。原田マハすごいわ。勝手にチャラそうなんて思ってすみません。もうすぐ46才になるおばさんの、涙腺を久々に刺激した作品でした。また言いますが、原田マハすごいわ。

〔書籍データ〕
カフーを待ちわびて
著者 /原田マハ
発行/宝島社文庫
発売日 / 2008年5月12日(文庫) 2006年3月20日(上製本)
ISBN /978-4-79666-352-6(文庫) 978-4-7966-5212-4(上製本)


【阿部ナナメ@島の本棚】
15冊目 「てぃんぬに 天の根 島に生きて」(2016年12月09日)
21冊目 「ぼくの沖縄〈復帰後〉史」(2017年06月09日)
27冊目 「テンペスト」(2017年12月08日)

【原田マハ】
18冊目 「太陽の棘」(紹介者:江戸之切子)  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年06月05日

第187回 「MY17原生酵母発見記念樹」



今回取り上げるのは、「ん to ん」の連載史上、初めてとなる記念樹です。といっても、おそらく「ん to ん」的には、記念樹の隣ある記念樹を植栽した記念柱が対象なのではないかと思いますが、一応、記念樹の前には解説プレートまでもが設置されていますので、ここは記念樹をメインに据えておきたいと思います。まあ、それに記念樹本体も琉球石灰岩を抱え込んだガジュマルですし、もしも、仮に、万が一、この記念樹が枯れてしまったとしても、関連するなにかは残る確率は高そうなので取り上げてみました(滅多なことで枯れそうにはないけれど)。
実際問題として記念植樹的なものは、記念碑と並んで島では多く植えられています。おそらくは石碑を作るより安価であり、植樹するスタンスがマスコミ映えするうえに、施設の完成記念などでは緑の景観を作るという点で、かなり大量に植えられたリしています。
しかし、植生の管理がずさんな施設や場所では、記念樹の育成がすこぶる悪かったり、下手をすればすでに枯れていたりと、悲惨なことになっているところもしばしば。ひどいところでは記念樹の隣にある植樹記念柱ばかりが目立っているなんてことも。
記憶している中で、もっとも凄かった「事件」は、植物については一目あるはずの宮古島熱帯植物園のリニューアル工事で、歩道に植えられていた「新婚の森」のヤシを無断で伐採したという出来事でしょうか。

「新婚の森」のヤシ伐採/記念植樹した50本(2015年4月8日 宮古毎日新聞)

記事によると、1979年ごろから旧平良市と観光協会が中心になり、宮古島を訪れた新婚旅行者が市熱帯植物園の「新婚の森」に記念植樹をしたおよそ100本のヤシの半数が、遊歩道整備で植樹者に連絡もせず伐採され、ヤシの木に掲げられていた植樹者のプレートも現場に散乱したままという、なんともずさん過ぎる事件がありました。
もちろん、現在はこの植樹事業はおこなわれていないのだけれど、観光協会に保管されているはずの植樹者名簿が無くなっており、「名簿が保管されておれば連絡する予定だった」と釈明する始末。過ぎたこととはいえ、寝言は寝て云えの世界です。
今の世の中、SNSなどで呼びかけて拡散させれぱ、全部とは云わずとも少しは反応はあったかもしれない。そうすれば市としても大きな話題に出来たのではないだろうか。もしかしたら、思い出の地を増えた家族とともに再び訪れてくれたかもしれないし、訪れてくれたら致し方なく“切る”かわりの代替えとして、再植樹を植物園にしてもにうことで、さらなるニュースになったろうし、歩道が完成した際にも開通記念に歩き初めしてもらうなどすれぱ、より宮古島に来てくれる機会が増えたのではないだろうか。そしてそれは呼びかける期間を設けたことで、たとえ工事が一年遅延したしても、きっと金額以上のものが島に届く気がするは、ただの妄想癖に過ぎないのだろうか。

植物園関連でひとつ。まあ、どうでもいいといえば、どうでもいい話なのでですが、公園を管理している宮古島市では当たり前ですが、きちんと「宮古島市熱帯植物園」と施設の呼称を謳っているにもかかわらず、沖縄県の環境部環境再生課が紹介する「花と緑の名所100選」だけ、どういう訳か、ずっと「宮古島市亜熱帯植物園」のままになっているのです。県、市、どちらが間違えたのかは謎ですが、未だに修正されていないというのも、ずさんのひとことにつきますね。

っと。与太話が長くなりましたが、ささやかに本題です。
今回紹介している「MY17原生酵母発見記念樹」は、城辺砂川にある多良川の醸造所の脇に植えられています。
なんでもバイオエタノール実証実験を進める中、MY17という原生酵母が近傍にある製糖工場で発見され、多良川ではこの酵母を使った泡盛を醸造したという物語がそこに紡がれます。
そんな酵母の発見を記念したのが、こちらの記念樹なのですが、この岩とかガジュマルから酵母が見つかったわけではないので、この記念樹そのものに特に価値はなく、あくまで記念というだけになります。また、この酵母を使って作られた泡盛についても気になるところなのですが、すでに過去に幾度か販売されましたが、本数限定ということから超絶的に入手困難な銘柄となっています。

「MY17 3年古酒 40度」(2016年)
「無垢」(2017年)
※いずれも多良川より。

なんとなくですが、イマイチ話題が広がらないので、ここからはいろいろと小ネタの与太話を並べてみることにします。
まずは、一番くだらないのが、コチラ
記念樹の前のストリート―ビューなのですが、なんと画面の真ん中で、蝶がひらひらと舞っているのです。なんとも凄いタイミングです。
ちなみにストビューの撮影は2012年なので、まだ記念樹は植えられていません。

続いては多良川自慢の洞窟貯蔵庫「ういぴゃーうぷうす蔵」について。
この自然洞は位置的に、どうやら戦時中、防空壕として利用さていた「クスヌトゥブソミャー」なのではないかと考えられているのですが、多良川への調査によると、「そんな名前は知らない」とけんもほろろに追い返されてしまったそうです。残念なことに、知られざる謎解きへの協力はかなわなかったようです。
尚、多良川は酒造所としてだけでなく、見学できる施設として観光地化もされているため、そこここに案内板や石板石碑が設置されているので、薀蓄を知るのには事欠きません(その手の石碑も多くあるのですが、取り上げるほどでもない気がしています)。

最後に個人的に、何の気なしに眺めていて気付いた、多良川のパッケージについての妄想多良川ネタ。

宮古口で俵のことを「ターラ」と呼びます。
そして泉(転じて川の意)のことを「カー」と呼びます。
そして多良川のラベルには、米俵が描かれてることに気付きました。

現在、宮古では米作りをしていませんが、豊富な水量の得られる湧水がある地域では、かつては稲作がおこなわれていました。
もちろん、泡盛も米を原料として作られているわけですが、俵を詰み重ねられるほど米が穫れた場所にある泉という意味の「ターラ・カー」なのかもしれないという妄想です。
多良川の会社としての解説によると、豊富で質の良い湧水、多良川にあやかって名付けたとしか書かれてはいません。
でも、この多良川の所在地である砂川(うるか)も、「ウル」の「カー」が地名の語源です。
ウルは珊瑚(うるまのウルと同じ)、珊瑚砂とか珊瑚浜的な意味も持つことから、ウル=砂に湧く泉で「うるか」。
これに漢字をあてて「砂川」と呼ぶくらいなので、「俵の泉」が多良川であったとしても、ウイットに富んでいて、なんかちょっといいような気が、勝手にしていました。果たして正解は如何に・・・。

【MY17について・・・】
宮古かいまいくいまい 「原生酵母の島酒づくり」  続きを読む


2018年06月01日

log13 「酢ばらしき哉、人生!~お掃除の巻~」



こんにちは!
毎年ジトジトジメジメ、1年間で1番イヤな季節なはずの宮古の梅雨ですが、今年は連日真夏のような日差しです。
こんな空梅雨だと農作物への影響も心配ですし、地下ダムの貯水量も気になってきます。
そう、この緑と赤茶色のパッチワークみたいなこの島にはこれといった山は無く、よってこれといった川も無く、生活用水や農業用水は全て地下ダムに頼っているのです。
この地下ダム、元々の地質を利用していて雨水を地下の琉球石灰岩の層に蓄えているわけですが、蓄えている間に炭酸カルシウム・マグネシウムが水にたっぷり溶け出して、いわゆる硬水になっているのです。
そこで宮古の2ヶ所の浄水場、袖山浄水場と加治道浄水場では硬度低減化処理が行われているそうですが、それでもまだ、一般的に美味しいと言われている100ミリグラムパ-リットル以下には、達したり、達しなかったりなようです。
(※宮古島市上下水道部HP 「平成29年度水質検査結果」参照)

カルシウムと聞くと健康に良さそう!と思いますが、 台所や風呂場ではこの水、結構厄介者なのです。
湯を沸かしたやかんや、電気ポットの内側はあっという間に真っ白になるし、風呂場では壁や鏡に卵の殻のようなカルシウムが頑固にこびり付いてしまいます。
こんなとき、活躍するのはお酢です。それも内地では聞き慣れない酢が宮古では定番のお掃除アイテムなのです。

というわけで、今回は宮古のお掃除事情についてドウカッティ(自分勝手)な考察を交えてお送りしまーす。

【まるこめ酢】まるこめす
一家に一本。刺身や料理にももちろん使いますが、石灰や尿の成分などのアルカリ性の汚れを落とすために、常備しているようです。似たパッケージで「まるた酢」もありますが、断然「まるこめ酢」がメジャーです。
もっと割安な酢もあるのに何故360ミリリットルで198円(5/27かねひで宮古店にて)のまるこめ酢が選ばれるのでしょうか?
それは酸度に秘密があります。
一般的な酢は4.2~4.5パーセント程なのに比べ、まるこめ酢は12.25パーセント。まるた酢にいたってはなんと15パーセントです!!(それぞれのラベルには食用で使う場合の希釈倍数が記載されています)。
匂いだけでもムセそうです!恐る恐る少量なめてみましたが、いつまでも口から鼻にかけて酸っぱさが残っています(よしえねーねーは特殊な訓練を受けています。良い子は絶対にマネしないでください)。

この強烈な酸度が石灰汚れが落ちるポイントなのですね。
例えば、シャワーヘッドの穴が真っ白に詰まったときは、この酢に浸けておけばバッチリ綺麗になります。
この酢、実は合成酢というもので、醸造酢とは全く別物です。原材料を見ると「氷酢酸、調味料(アミノ酸等)、カラメル色素、酸味料、香料、食塩、砂糖」とあり、米という文字は見当たりません。まさに合成の酢。

さてこの合成酢、物の無い時代に作られたようですが、今はほとんど沖縄でしか流通していないとのこと。また、製造元は鹿児島県の株式会社マグマというのも意外です。
ところでメーカーの方々は知っているのでしょうか?。まるこめ酢が食用以外の用途にも使われていることを!。気になったので平日の夕方、製造元の株式会社マグマさんに電話してみましたが、残念ながら留守番電話だったので、またの機会に聞いてみようと思います。

さて、宮古ではお風呂場だけでなくトイレの床もたいていタイル貼りです。
そして水をホースでジャージャー流して掃除します。だから、トイレにも掃除用の蛇口があることが多いのです。
初めは公衆トイレみたい!と驚きましたが、棒ずりでゴシゴシ洗うこのやり方のほうがスッキリして気持ちが良いのです。あ、玄関もこんなにして掃除します。

【棒ずり】ぼうずり
デッキブラシのこと。広島などでもこう呼ばれているところがあるようです。
「擦る」→「すり」→「ずり」に「棒」が合わさって「棒ずり」といったところでしょうか?


【しりしりー】
「すりすり」が語源?
そういえば人参を「しりしりー器」でしりしりー(擦り擦り)した料理は、「人参しりしりー」ですね。
マンジュウ(青パパイヤ)もしりしりーしたものが一斤袋に入って、スーパーや市場で売られていたりします。
ちなみにパパイヤには酵素があり、素手で触ると私は手が痒くなるタチなので手袋してしりしりーしています。
尚、パパイヤの皮を剥く時は手を切らないように注意しましょう。あと、中の種を掻き出す際、種が飛び散るのでちょっと難儀な野菜ですが、炒めてパパイヤチャンプルーにしたり、ソムタム(タイの青パパイヤのサラダ)風にサラダっぽく和え物にしても美味しいです。
14年前、長男を出産した後、友人が差し入れしてくれた汁物には、パパイヤのぶつ切りがたっぷり入っていました。パパイヤを食べるとおっぱいが良く出ると言われているんだそう。嬉しかったなぁ。

【しりしりー器】
目の細かさを違えて何種類かあると便利です。個人的には金属部分がフラットのものより盛り上がっているものが使い易いし、色もカラフルで気に入っています。
観光の方も宮古に来た記念におひとついかがでしょうか?(笑)。made in TAIWANだけど。
包丁で千切りにするより、表面積が広いので火の通りも早く、味もすぐ染み込みますよ。

ではまた来月。
あとからね~!  続きを読む