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2018年06月12日

第188回 「船底川」

第188回 「船底川」

なんだかんだといっても、やっぱりここへ戻ってきてしまうようです。井戸系の石碑。もう、石碑と云ったら井戸、井戸といったら石碑と、勝手に切り離せない密接な関係になっているような気がしています。もっともそうした石碑のほとんどが井戸を掘った時の開鑿(かいさく)の記念か、井戸を改修した改築の記念です。
開鑿記念はおおむね掘り抜きの井戸であることが多く、また、改築記念は降り井を掘り抜き型に作り替えるか、古い掘り抜き井戸の周辺を整備したものが多く見受けられます。中には石碑になりきれず、井戸本体や周囲の構造物のコンクリートに、改修の日付を殴り書きされたものなどもあります。
実はもうひとつのパターンとしてあるのが、井戸の拝所として意味を持つ石碑です。畏部石(イビシ)とまでは行かないものの、水の神に感謝するために拝む場所としての目印のような石碑があるのです。
第188回 「船底川」
今回ご紹介する「船底川」はは平良の市内、宮古島市立平良中学校の校門前の駐車場の際にあります。
石碑は拝所の目印として建立された石碑と考えられ、井戸も同じコンクートの小さな囲い中にあります(掘り抜きの井戸で、現在は通学路でもあるため、転落防止用にコンクリートの蓋がされています)。
平良中に通っていた人(通っている人)でも、「そんなところに?」という人と、「あ~っあったね!」という人に分かれるのではないでしょうか。そのくらい見かけ以上に船底川はひっそりとしています。この手の存在に気づいているかいないかは、必然、興味があるかないか、陽キャか陰キャかくらいの差があるのではないでしょうか(適当)。気づいていた人はぜひとも色々、あちこち見聞した面白いネタをリークしてください。気づかなかった人はこの手のモノには向いて気がするので、すっぱりとあきらめるか、今からでも観察眼を養ってみましょう。

っと、イキって書いてはみたものの、船底川についてのネタがちっとも掘れないのでした。
この付近は、以前、「海上挺進基地第四戦隊戦没者勇之碑」で、本編の石碑をよそに、読者をほほったらかして、がっつりマニアック丸だしで余談を書きまくった時にふれた、仮称・荷川取川(東仲~荷川取雨水幹線)の上流域にあたります。
ちなみに、井戸の西側、数メートルのところを荷川取川は流れており、いろいろな意味でも井戸の水質に影響はなかったのか、ちょっと気になるところです。
実際、上水道が敷設されるまで、住民の生活用水は各地に点在する井戸が頼りでした。しかも、公共下水も整備されていない時代(今でも普及率はそれほど高くない)なので、生活排水は川(水路)に流すか、地面に浸透させて自然に還すだけでした。井戸によっては水面位置が低く、雑排水などの汚水が井戸に逆流したり、立地によっては糞尿のたぐいが染み出るようなところもあったりと、飲料水としての質がなかなかに低かったと云われ、風土病が多かったの理由でもあったそうです。なんか想像するだけでもちょっとヤバめな水だったのではないかと感じます。
もっとも、すべての井戸がそうだったといいきれなのですが、この船底川は恐らく似たような環境だったのではないでしょうか。理由は荷川取川の水路に近いというだけではなく、やはり井戸の名に「底」の字があるからです。
宮古では土地が低い場所の地名は間違いなく「底」の字がついています。たとえぱ宮原(東仲宗根添)の土底(んたすく 「土底村里井戸改修工事」)や、西里添の底原(すくばり)など、見るからに低い土地の名につけられています。
第188回 「船底川」第188回 「船底川」
この船底川の西側は、川を挟んでアツママ御獄、東原(アガズバリ)御獄など、いにしえの西里集落の東端の護りが鎮座する小丘陵部になっています。また、平良中の北側(協栄バス側)は凸凹とした不整地の原野が近年まで残っていました。80年代のまてぃだ通りの開通に続き、2010年頃からの宅地造成によって、丘は削られ(今のガソリンスタンド付近)、穴は埋め立てらてられ(穴はauショップ界隈)、完全にその姿を変えてしまいました(竹原地区造成)が、船底川はちょうとこのふたつの丘に挟まれた谷にあたり、地形的にも文字通り「底」だったということが判ります。

尚、土地造成で埋められた穴は、実は井戸で、ここにはキスキャガーという降り井がありました。戦後、水質水量がよかったことから、米軍が飲料水の水源として接収し、導水管を野原岳まで8キロ、カママ嶺まで3キロ(測候所に米軍施設があった フォルモッサタイフーンサーカス 2018新春SP)、敷設して水利を得ていたそうですが、キスキャガーは埋め立てられしまい、auショップの裏手に雑草に埋もれたパイプがひっそりと顔を出すだけとなってしまいました。

ちなみに平良の上水道の歴史は、1924(大正13)年に野村酒造(現在のレストランのむら)が、酒造用の水を得るために設置した人力揚水機で汲みあげた水を使って簡易水道を作ったことがはじまりといわれています。その後、いくつかの小規模な簡易水道も誕生しますが、地域的な上水道としては太平洋戦争時に駐屯した日本軍(海軍)が、東仲宗根の白明井(すさかがー)の湧水を水源として敷設した上水道が作られました。しかし、これも限定的な区域のみであったとのこと(戦後、米軍もこれを接収改良して利用しますが、後に前述のキスキャガーへ水源が変更された)。そして本格的な広域水道は、米軍政権下の1965年に宮古島上水道組合が設立されるのを待たねばなりませんでした。

今でこそ「ヒネルトジャー」(死語)の便利な水道ですが、ほんのちょっと前まではコップ一杯の水さえ貴重だったことを知ると、感慨深いものがあります。また、井戸を巡っていると人々がいかにして水を得るために知恵を絞っていたのかとか、祈るほどに大切にしていたかがとてもよく伝わって来ます。
第188回 「船底川」
最後にひとつ。いわばネタでもありますが。。。
船底川がある平良中。読み方は、「たいら」中(ちゅう)と読みます。合併前の市名は「ひらら」市なのに、「ひらら」中ではないとう不思議。隣りの「平一(へいいち)」こと、平良第一小学校は「ひららだいいちしょうがっこう」で、略称こそ異なりますが、「ひらら」と読みます。
一説には、中学校の校名を決める際、平良出身ではない当時の教育長?が、「たいら」いいだろっと云ったとか云わなかったとか。盛っている話のようにも思えますが、人名の場合は「たいら」であることや、かなり頻繁に平良のことを、「ひらら」ではなく「たいら」と呼ぶ声を聴くので、眉唾とも言い切れません。
少し時系列を調べてみたら、1947(昭和22)年に市制を施行して町から市になった時、読み方を「たいら」町(ちょう)から、「ひらら」市に変更したそうなのです。思わず、答えはこれだ~っ!っと、喜んだものでしたが、平良中の設置は残念ながら1952(昭和27)年だったのです。
けれど、あきらめきれずもう少し探ってみたら、そもそもの設置は1948(昭和23)年の6・3・3制の新しい学校制度が施行された際、平良北中学校と平良南中学校の2校が創設されたことに始まっていました。平良中はこの2校が合併して誕生するわけなのですが、行政の読み方の変更と前後するので、この時の学校名の読みが「たいら」北、「たいら」南だったのかもしれません(現行の北中は、1976年に平良中から分離)。
文献は漢字で書かれているものがほとんどで、ルビもふられていないので、「ひらら」なのか「たいら」が音は判らないという盲点を突かれてしまいました。やはりこうした「音」の表現は、方言も同様で正確な伝達がなかなか難しいですね。

※詳しい方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。




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