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2023年05月26日

第33回「下川凹天の父 下川貞文の巻その2」



 下川凹天を研究対象とし始めた頃、国会図書館に行く前にヤマト式のお墓を初めて拝む宮国さん。島を最初に訪れる客がいると、宮国さんが最初にすることは、漲水御嶽(はりみずうたき)をお参りすることでした。


 前半は、宮国さんのママ友である堀孝子(ほり たかこ)さんです。



約束守ってよ、優子


堀 孝子


優子、もうこの世にいないなんて…いまだに信じられない。


お互いの子どもが「パレット」に通っている時からの付き合いだった。時間の流れってこんなに早いなんて。私は長男が生まれてから自分の仕事を転々と変えてきたけど、なんだかんだ言って、優子といつも一緒にいた気がする。


「パレット」は、当時の石原都知事が新しく作った「認証保育園」で、夜20時21時まで預かってくれて働く私たちにはありがたかった。でも、できたばかりだったので、運営がなかなか上手くいっていなかった。保育士が大量に一度に離職してしまった時には、園全体がガタガタになったことも。一緒に園の運営側とよく戦ったよね。


子どもが小学校に上がってからは、学童を17時までにお迎えに行かなくてはならない決まりになって、働く私たちは誰もが困り果てた。すると、優子ん家を「第二学童」として提供してくれたよね。仕事で忙しいのにお母さんが交代で、子どもを迎えに行って、ご飯を作って食べさせ、お風呂に入れて、他のお母さんのお迎えを待って。懐かしさが胸にこみあげてくる。あの頃は男女関係なく、子どもはみんなでキャッキャ騒ぎながら一緒にお風呂に入っていたっけ。そして私たちは、「幼少期に一緒にお風呂に入っていると、大人になってから恋人関係になることはないんだってねー」とか、よもやま話をしながら時が過ぎていった。


優子のバーに行くようになったのはいつ頃だったかな。はっきり覚えていないけど、私が那須のホテルを立て直し始めた頃だと思う。その後、北海道のホテルの再建を経て大阪のアパレル企業の再建までだから、10年ぐらい通ったことになるのかも。


最初は必ず優子がいてバーらしく真面目にお酒とか出してたけど、そのうち「お酒は自分でもってきて」になり、その後、優子はいたりいなかったりしたけど「いつでも自由に使っていいよー」と。ついには、あの空間で誰でも、いい意味で、自由勝手気ままにして、使用料を竹かごに置いていくようになったよね。


そうそう、優子のバーには色々な人が集まり、優子の長女がギター弾いていたりしていたことも。優子の三女は小学校低学年だったはずなのに、優子にみっちり仕込まれたのか、手慣れた感じで「オッケーぐーぐる!」と堂々と機械を操作してて、とても驚いた記憶がある。私はタバコを吸いながら仕事できるのがありがたくて、昼夜時間を問わず、そこでパソコン仕事をしてた。優子がいる時に整体師のお兄さんが来ると「この人仕事ばっかりしてるからさー」とからかわれて、マッサージして貰うこともあったっけ。


あのゆる〜い感じの空間は、それぞれがてんでばらばらなことをしてるのに、みんな何となく心地よい居場所になってた気がする。


すべてが懐かしい。まるで昨日のことのよう。


優子、今年は私たちの長女、長男は二十歳になったんだよ。「子どもが二十歳になったら同窓会しようね」と保育園の頃に約束をしたの覚えているかな。


それなのに、もういないなんて…そんな現実をいまだに受け入れられないでいる。


優子、たわいもない話がしたい。一度だけでもいいよ。


 下川貞文の話を続けます。貞文は1885年、平良(ひらら)小學校(現・北小学校ならびに平良第一小学校)の教員として、宮古に渡りました。慶世村恒任(きよむら こうにん)の『宮古史傳』(大野書店、1927年)には、平良小學校の前史として、次のような記述があります。

 「弘化三年(皇紀二五〇六)に琉球政府から講解師與世里里之子親雲上朝紀(こうかいし よせざと さとぬし ぺーちん ちょうき)を派遣して平良に南北兩校を創立したのに始まる。教科は史記、春秋、四書、少學、三字經、習字、算数等で、七八歳の士族の子弟はこれに入學し、師匠から素読を習ひ又は講釋を聴き、學級の制なく各童の能力に應じて科程を進め、修業年限も亦一定しなかつたので、自ら學修程度に等差を生じ、士族の子弟にして猶ほ文盲の者が多く、學徒もまた役人たらんとするの準備に止まったので、素より大家を成すべき學輩はなかった」。



 弘化三年とは、1846年のことですが、『球陽』では道光二十七年とありますので、1847年にあたります。もっとも、稲村賢敷(いなむら けんぷ)の『宮古島庶民史』(三一書房、1972年)によると、1820年に初めて「島内に公立学校所を設けて平良士族の教育機関」ができたとあります。『宮古史伝』でもすでに、学校の創立以前に書道が伝わったという記録があることからすると、そのあたりと関係があるのかもしれません。さほど教育熱心ではなかったらしいのですが、それでもユカイピトゥになるためには必要でした。島言葉(シマクトゥバ)では、ユカイピトゥとは「系をもつ」という意味で、「ユカリ人」や「ゆかり人」とも表記されます。士族のことで、出世した人も指します。

 ちなみに平民は、スマノピトゥと呼ばれました。「大親の世(ウプウヤユー)」の時代にあたります。この時代を『宮古民衆史』では「封建制下の宮古島社会」、『平良市史』では「薩摩藩と琉球王府の支配」と呼んでいます。宮古で初めて税制を敷いたのは、仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ、ナカソネトヨミオヤ)です。それが始まった1504年から、人頭税(にんとうぜい)廃止の1903年までの時代を指します。

 ということは、仲宗根豊見親は、宮古では英雄とされているのですが、逆に、宮古が苦しむ人頭税(のきっかけ)を作ったという言い方もできるかと。



 「子弟の教育には、はじめ島内にその施設がなく、名門の子弟で好学の者は中山に留学して国学で儒学を修めて帰るだけであったので、文政三年(一八二〇年)にははじめて島内に公立学校所を設けて平良士族の教育機関とした。これ公立学校所のはじめで場所は現北小学校の南隅にあったということである。はじめは平良市内士族の適当な者を選んで学校所筆者とし、読書、手習、算盤を教え、また小学六巻と四書を教えたが、のち一八四一年には中山から久米人の講談師匠が派遣されることになり、その下に学校所筆者六名(南北両校になってから十二名に増員)が任命された。生徒は平良五ヶ所の士族子弟で、八歳から十四歳までの者の者を入学せしめ、小学四書、古文神宝、五経の素読を教え、十五歳以上になると師匠の講談を聴講させた。筆者一名は必ず宿直して鶏鳴時に起床し、仕丁を指揮して校の内外を清掃し、礼装を正して講堂に正座し、生徒も鶏鳴時に起きて登校し、登校の順序に刺を通じて午前六時より十時までは素読、十時より十二時までは師匠の講談があった。午後は会所に集まり年齢の順序により恭敬静粛を守り、決して談笑を赦さず、年長者の指導によって温習をした。会所における教訓は『棒頭有孝、厳師出孝子』というもので忠孝を目標とし、厳格なる教育が行われた」。

 なお、『北小学校百年』(北小学校創立百年記念事業期成会、1983年)によれば、後の北小学校の開校は1823年です。場所は、稲村賢敷のいうとおり北小学校の南隅です。もっとも、記録の上では、「北学校」と称したのは、それよりかなり後の1875年でした。それまであった学校は、「南学校」に。しかし、両校とも現在の北小学校付近であったと考えられます。



現在の北小学校

 そして名称を改め、平良小学校になったのは、1882年のことです。

 貞文が平良小学校に赴任したのは、その三年後の1885年のことでした。その際、旧在番仮屋を改修し瓦葺一棟とし、もう一棟増築しました。貞文はここで、宮古の子弟に科目を教えるだけでなく、教育に関してさまざまなことに関わっていたという記録もあります。

 在番とは、首里政府から派遣された蔵元(ウッヴァ、クラモト)に出仕する島の役人を指揮監督する役目がありました。蔵元とは、宮古で最高の行政機関のことです。場所は、現在のホテル共和の位置。島の役人とは、平良間切、下地間切、砂川間切に勤務する島の士族です。1647年から在番は三人体制となり、ひとりは在番、あとのふたりは筆者と呼ばれました。首里王府が在番を設けたのは、1609年薩摩藩の侵攻を受けて、宮古・八重山諸島の支配を強化して、みずからの立場の強化を図るためです。その後、人頭税(にんとうぜい)が、1637年に始まり、その支配は苛烈を極めることになりました。もっとも、常に酷い状況ではなく、薩摩藩と江戸幕府との関係で、その度合いは変化したと仲宗根將二(なかそね まさじ)氏は語っていました。

 仮屋(カイヤ、カリヤ)とは、首里の役人が宮古滞在中に泊まり、執務を行うところです。このうち現在の北小学校のあったあたりは、西仮屋と呼ばれ、在番筆者の宿舎がありました。1879年には、警視派出所に接収されました。宮古では有名なサンシー事件が起きた場所です。



 いわゆる琉球処分の流れで琉球国を廃して琉球藩が設置されたのが、1872年なので、さまざまな公的機関の名称や役割分担が次々と改められていったのでしょう。その後、1879年沖縄は県となり、本格的に大日本帝國の領土としての組織を整えていきます。

 平良小學校が、ふたたび二校に分かれたのは、貞文が亡くなってからかなり経った1929年、平良第二高等尋常小學校(現・北小学校)と平良第一高等尋常小學校(現・平良第一小学校)に改称されてからのことです。校区は、平良第二高等尋常小學校の学区は、東仲宗根(アガス゜ナカズゥニ、アガリナカソネ、ヒガシナカソネ)、西仲宗根(イナカズゥニ、イリナカソネ、ニシナカソネ)、荷川取(ンキャドゥラ、ニカードラ、ニカドリ)でした。こうした表記と読み方の揺れは、宮古本来の地名の読み方が、一旦、漢字表記になったものの、地名や名前というみずからのアイデンティティのあり方に関わる問題をいまだ模索しているのでしょうか。

 ズゥニ、ゾネないしソネとは、島言葉のスニのことで、巣峰を意味します。そこから、人の住む丘になり、転じて、人の住む場所や、集落のことになりました。集落が広がると、仲宗根(ナカソネ)に対して、南宗根(パイソネ)と北宗根(イリソネ)ができます。それが荷川取と西里になりました。西里は、下里からの分村で、本来は地理的に北里とされてもおかしくありませんが、ニスダティという島言葉から西里と表記されたかと。宮古では、北のことをニスないしニシと呼ぶので西と表記します。荷川取とは、伊良部島に対面しているという意味です。仲ソネからは、東ソネと西ソネに別れました。民謡にも、アガリソネ、イリソネという言葉が出てきます。アガリとは、太陽が昇る、イリとは太陽が沈むことでしょうか。南宗根は、後にスムダティという島言葉から、下里に。地名の語源には諸説あるのですが、今後の研究を期待して、ここに記しておきます。


 後半は、仲間明典(なかま あきのり)さんです。一般社団法人 ATALAS ネットワークが主宰した「みやーく文化センター」第四回講座で講師を務めました。司会は私だったはずですが、前日の深酒で、ご存じの方なら知ってのとおり役に立たず、宮国さんがサポートしてくれました。



優子さんさようなら


仲間 明典


我が家の庭にあるアジサイが今、白い花を咲かせています。

貴女が、伊良部の拙宅を訪ねてきたときは、たしか暑い日でしたよね。

ロベルトソン号の話を情熱的に語るのが印象的で、頑張り屋さんなんだなと覚えています。縁は奇なりと言いますが、私の先祖がロベルトソン号総難民を助けたひとりである仲間梅吉(なかま うめきち)だと話すと、「これも縁じゃないですか」と、にこっと笑って喜んでくれたのを嬉しく思いました。

これを思慕と言っていいのか、ともあれあの笑顔が容赦なく思い出を投げかけてきます。時間を手繰り寄せて、尽きない想いを醸成させます。

「あの世」とやらにスナックがあるか分かりませんが、予約しておいてください。

一杯やりましょう。

冥福を祈ります。








【主な登場人物の簡単な略歴】


下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。熊本師範学校(現・熊本大学教育学部)卒。那覇から平良小の訓導として宮古島に渡り、宮古教育界に多大な影響を及ぼす。


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(ワラビナー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


慶世村後任(きよむら こうにん)1891年~1929年
砂川間切下里村大原126に生まれる。父は恒綱、母マツの長男として生まれる。家は、首里系英俊氏の支流。屋号は前ヒヤ。童名(ワラビナー)は茶武(チャム)。祖母はメガ。1897年、恒綱は死去し、家督を継ぐ。母マツ、妹カマド、祖母メガの女ばかりの家族だった。1902年、平良尋常小學校(現・北小学校)を卒業。1906年、平良高等小學校(現・北小学校)を卒業する。この時の教員に冨盛寛卓がいた。そして富盛寛卓を教えたのが下川貞文である。同年、沖縄師範学校本科一部(現・琉球大学教育学部)に入学する。寄宿舎に入り、ローソクの灯で『不如帰』や『金色夜叉』などを読みふけった。1910年、流行性脳膜炎になり、翌年退学。1911年、徴兵検査を受けて合格。熊本の歩兵十三連隊に入営。1912年、第二十連隊射撃演習で成績優秀で入賞する。翌年除隊。1914年、下地カメとの間に、長男の恒一(後に恒夫と改名)が生まれる。『宮古毎日新聞』を創刊。平良・城辺・下地三村の道路交通を記念した「三村民の歌」を作曲。作詞して流行させる。1916年、熊本連隊へ予備役で入隊し、除隊後も平戸た五島列島をめぐって、童謡や講談を語り歩く。1919年、『先島新聞』宮古支局に勤め、「清村泉水」や「泉水」の筆名で多くの記事を書く。妹カマド死去。1920年、宮古初の衆議院選挙で立津春方(憲政会)を応援して、盛島明長(政友会)と激しく対立。『宮古新報』で論陣を張り、蔵元跡やアイマモーなどで応援演説をしたと伝えられる。1921年、七原尋常小學校(現・久松小学校)の代用教育になる。教え子に中山勇吉がいる。1922年、七原尋常小學校准訓導になる。この時に、一児童の発した「世界中には面白い話があるのに、宮古にはどうしてお話がないの」という問いかけに発奮して、同僚とガリ版で「島物語」を発刊する。これが後の『宮古史傳』のきっかけとなる。七原尋常小学校が松林尋常小学校と合併し、鏡原尋常小學校(現・鏡原小学校)となる。伊良部尋常小學校(現・伊良部小学校)へ転勤。1923年(現・上野小学校)に転勤。教え子に下地明文がいる。翌年、依願退職する。1925年、『宮古五偉人伝』を南島史跡保存会から出版。1926年、ニコライ・ネフスキーの二度目の宮古旅行に同行。1926年、恒次が生まれる。実母である平良メガママとの入籍をしないままなので、平良恒次(後に、平恒次)となる。1927年、病躯をおして『宮古史傳』を南島史蹟保存会から発行する。近所の子どもは、常に机に向かい本を読み、執筆にいそしむ慶世村恒任を茶武主(チャムヌュス)と畏敬の念で眺めていた。同年、『曲譜付宮古民謡集』を発行。自宅の片隅にある西ウプバリガーを近所に提供。1928年、『沖縄宮古新聞』を創刊。1929年、本籍地で死去。法名は、「文誉良章信士」。


稲村賢敷(いなむら けんぷ)1894年~1978年
郷土史家、教育者、倭寇研究者。平良間切東仲宗根村(現・宮古島市東仲宗根)87番地生まれ。父の上天運賢英とマツとの間の長男として生まれる。元の姓の上天運家は、首里夏姓の後裔。祖父の上運天筑登親雲天賢献は、1872年年から1874年まで在番筆者として宮古に点勤。当時の習慣にしたがい、宮古妻ウミトとの間にできたのが、父である賢英である。当時、賢英は下地尋常小學校(現・下地小学校)の代用教員を務めていた。1896年弟の賢徳生まれる。乾徳は、後に中央大學法学部夜間部を出て弁護士になる。1909年、平良尋常小學校(厳・北小学校ならびに平良第一小学校)卒業後、城辺小學校(現・城辺小学校)の代用教員をする。当時、父の賢英は訓導として小学校の教員をしていたが、物価が高騰し、教員の給料は物価に比して少ないたため、家が極度に貧しく、弟とともに母の機織りや下の妹のお守りをしながら、アダン葉の草履を作って家計を助けた。1911年、経済的理由で反対する父を押し切って、沖縄縣師範學校本科第一部(現・琉球大学教育学部)に入学。1916年卒業後は、訓導として羽地尋常小學校(現・羽地小学校)に勤めるが、翌年病気のため休職する。1916年、元下地地頭砂川恵任の三女カメガマと結婚する。1918年、娘の英(ヒデ)生まれる。1919年、東京高等師範大學文科第一部(現・筑波大学比較文化学類)に入学。沖縄師範學校当時から父の反対のため仕送りも途絶えがちで、翌年に休学。母校である平良尋常小學校に訓導として勤務。高等科二年を担任し、教え子に譜久村寛仁らがいる。翌年、宮古上布の好況と平良村(厳・宮古島市)の賃貸生のおかげで復学。1921年、二女馨子生まれる。この年に小樽高等商業學校(現・小樽商科大学)講師をしていたニコライ・ネフスキーの寄宿舎に招かれ、宮古方言を一週間教える。1920年にも、大坂外國語大學(現・大阪大学)ロジア語教師をしていたネフスキーに招かれ、宮古語を教授し、そのまま大阪からネフスキーの第一回宮古島調査に同行する。当地では、富盛寛卓(東仲宗根)、国仲寛徒(佐田)、狩俣吉蔵(狩俣)、木村恵康(西原)などのインフォマートを紹介し、宮古を案内する。後に、この経験から、彼らは宮古研究をしたり、研究者に協力することになった。1923年、カメガマと協議離婚。カメガマは名をマツと改称(さらに静江と改名)し、再婚する。この時、上運天姓を離れて、平良村字東仲宗根五四番地に一家を創立し、稲村姓を名乗る。妻を一旦離別し、再び婚姻するのは。改姓の手段であったと伝わる。1924年、東京高等師範學校を卒業し、師範学校・中学校・高等女学校の修身・教育・歴史・法制・経済の免許を付与される。同年、沖縄縣師範學校教諭となり、後に學校舎監も併任する。同年長男夏彦生まれる。1925年、舎監を辞める。次男譲生まれる。台南州第二中学校教諭、台湾総督府立台南高等商業學校非常勤講師、沖縄第県立第一中學校(源・朱里高等学校)教諭になる。1928年、三女順子生まれる。1930年台湾で弁護士をしていた弟賢徳は、第十七回衆議院選挙に民政党から出馬したが、落選。この時使用した自動車が、宮古初の車である。1931年、四女豊子生まれる。1932年、母マツ、父賢英が多良間村字塩川三一番地で死去。祖母ウミト死去。三人とも12月になっているが、届け出が遅れただけで死去した年も月も違うと考えられる。1933年沖縄県立第三中學校(源・名護高校)教諭になる。1938年、長女英、胸を病み死去。1939年、嘉手納農林學校(現在は廃校)教諭となる。1942年、沖縄県立八重山中學校校長となる。1944年宮古中學校(現・宮古高等学校)校長になる。同年、長男夏彦、フィリピンのルソン島で戦死。1945年、次男譲、沖縄本島摩文仁で戦死。長男と次男の死が、郷土研究へのきっかけとなる。1946年、宮古高等女学校(源・宮古高等学校)校長になる。1947年、宮古女子高等学校校長と宮古男子高等学校校長をストライキなどの理由で辞める。同年、学校宮古社会党を結成に執行委員として参加。同年解散後は、宮古民政府の宮古文化連盟委員、宮古文化史編さん委員となり、戦火で荒廃した宮古を芸術や文化で再建しようと各地を回り、資料を収集した。その成果が、後の『宮古民衆史』に結実する。同年、宮古民政府の肝いりで宮古文化連盟が結成され、委員長となる。1948年、妻鈴江死去。1949年『郷土研究』を創刊。琉球政府が1952年に創立後、図書館館長となる。生活も安定する。同年、『宮古旧事 上巻』を刊行。その後、『宮古毎日新聞』に「平良市都市発達史」や「文化財指定」など、多くの雑誌に寄稿する。1957年、『宮古民衆史』を刊行する。一千部発行して、その大部分を宮古で持ち歩いて頒布した。この著書は、慶世村恒任の『宮古史伝』以来の宮古の通史である。同年、『琉球諸島における倭寇史跡の研究』を刊行。その後も、『宮古毎日新聞』を中心に、新聞や雑誌に寄稿する。1971年沖縄タイムス出版文化賞。1972年、外間政彰のあっせんで、『宮古民衆史』を三一書房から再販。1975年沖縄文化功労賞受賞。1976年、『那覇市史』資料編第一巻の「家譜資料について」を執筆。1977年、平良市(現・宮古島市)から文化功労章を受章・同年、『宮古島旧記並史歌』が至言社から再販される。1978年、脳溢血のため、那覇市小禄宇栄原団地C-8-106号の自宅で死去。告別式は那覇市大典寺で挙行される。1983年平良市出版記念感謝状が送られた。


仲宗根將二(なかそね まさじ)1935年~
郷土史家。沖繩縣平良市西里(現・沖縄県宮古島市西里)生まれ。1944年鹿児島縣姶良郡加治木町(現・鹿児島県姶良市加治木町)に疎開。鶴丸高校を経て、1956年宮古島に帰郷。宮古毎日新聞、日刊沖縄新聞、宮古教育委員会で、市史編纂や文化保護事業に従事。他方で、平良市役所税務課にも勤務。他にも宮古の所属機関多数。前宮古島市史編さん委員会会長。『宮古風土記』他、著作、論文多数。「宮古の生き字引」と呼ばれる。『軌跡』(2016年)で、東恩納寛惇賞受賞。精力的に、宮古の歴史や文化財に関する研究や発表を行っている。最近は、人生の集大成として宮古の学区研究に打ち込んでいる。


  


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