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2018年07月31日

第195回 「井戸鑿掘(更竹)」



先週の宮積に引き続き、宮原学区の井戸系の石碑です。懲りずに読んでくれたら嬉しいです。ちなみに、小字の順序としては「みやこの祭祀」の「宮原地域の年間祭祀」の掲載順に準じてみましたので、今回は「更竹」にスポットを当ててみました。実は宮積と更竹の間にもうひとつ土底(ンタスク)の小字がありますが、すでに第48回「土底村里井戸改修工事」(当時は水シリーズとして掲載)で取り上げてしまっているので、こちらをご参考ください(順序縛りなんかして、ちゃんとできるのかちょっとプレッシャーです)。

まず更竹という名の集落について、おさらいをしておきたいと思います。
今回紹介する「更竹」は、平良大字東仲宗根添字更竹です。一般的に「更竹」というと温泉病院のあたりを呼ぶかなと思いますが(バス停もある)、温泉病院の敷地は平良(東仲宗根添)になります。しかし、嶺を登った南側は城辺字下里添の更竹(上区)と西更竹(嶺沿いの北斜面)。温泉施設の東側にあたる長南公民館の周辺は、城辺字長間の西更竹。もうひとつ、城辺線を西里添へ進んだ吉田マンションのあたりが、城辺字西里添更竹となっています。
このように地域に広く分布していることから、更竹は地域呼称と呼べそうなのですが、実際には下里添は上区(上北)であり、長間は長南であり、西里添は吉田として親しまれています。同じ更竹でありながら、字の規模もそれぞれに大きいことから、混同を嫌って更竹を名乗らなくなったのような感じをうけました(興味深い事象なので機会があったら深く掘り下げてみたい気もします)。
そんな「更竹」についてのメモはこちらにまとめてあります。
第160回 「清泉(長南西更竹)」
あ、云い忘れましたが島的な読み方は「さらたけ」ではなく、「ザラツキ」と読むようです。

さてさて、肝心の石碑ですが、更竹集落の中ほどにあります(といっても集落戸数が少ないので表現に語弊があるかもしれません)。碑面には「井戸鑿掘」と読めますが、劣化が激しくかなり剥がれかけており、もう少し上に字があったかもしれません。というのも、並んで「泉」と書かれているので、こちらはこれまでの例から類推すると「清泉」と書かれていたのではないかと考えられるからです。
そして「泉」の下には、「五月六」とあり、掘削年月日を妄想させます。さらにその下方と左にも字が刻まれているようなのですが、激しい劣化のせいで、読み解くことは出来ませんでした。調べてみても掘削年については判りませんでした(ご存知の方がいましたら教えて下さい。この井戸のエピソードとともに!)。
そんな碑の前には、簡易な香炉と欠けた茶碗があり、時期になれば祭祀を行っている様子が滲みて来ます。

井戸は掘り込み式で、井戸のフチに茶色く錆びついたサクラ印の手押しポンプが据えられています。本体は固定されておらず、ハンドルもなくなっているで、もう完全にポンプは壊れているようです。
なにか他に現場で拾える情報はないかと、眺めていたら井戸の蓋として無造作に載せられているコンクリートの板に文字が刻まりれていることに気付きました。
とても薄くて判りづらいのですが、「1963年10月26(日)井戸ポンプを付ける」と書かれているように読めました(カッコは編集で加筆しました)。
どうやらこの井戸の上の蓋は、手押しポンプを井戸をに設置した時に使われたもののようで、戦後、公共上水道が敷設されるまでは間違いなく生活用水として利用されていたことが想像できました。


【ご不要となった資料を譲って下さい】
古い地形図、昔の道路地図、イラストマップ、観光ガイド、パンフレット、私家版の本、市町村史、報告書、紀要、古写真、etc
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2018年07月27日

Vol.27 「んきゃふ(海ぶどう)」



内地では、気温が40度越えも出るという異常気象の夏。宮古は暑いとはいえ、平均気温は32~3度。ここ数年「宮古に避暑に行かなくては」と内地に住んでいる友人たちは言う。
過ごしやすくなるのを願うばかりだ。

子どもの頃(昭和30年代から40年代)、この時季、我が家には、んきゃふ(海ぶどう、和名:クビレズタ)がたくさんあった。父がまいぬいん(前の海:川満の海のことをそう呼んだ。与那覇湾の一部)から採ってきたものだ。ふぁっふぁい(肥料)袋の数袋に入れられ水タンクの横に並んでいた。

んきゃふは、海水と淡水が混ざるところで育つらしい。まいぬいんはまさにそうで、海に淡水が流れている場所がたくさんある。そこには、んきゃふだけでなく、ワタリガニやアイゴもたくさんとれた。んきゃふは粒が大きく、ひとつの茎にズラーっと並んでいた。地元では川満と入江(編注:入江湾)の海で採れ、夏になると父はせっせと通った。
んきゃふは、冷蔵庫に入れたり、洗ったりするとしなってしまうので、袋の中から食べる分だけを取り、傷んだ部分などをきれいにする(つぶつぶの部分だけでなく、茎も食べるので茎付き)。まいぬいんは泥海のため何回も洗わなければいけないが、時々小さなカニが付いていて驚くこともあった。

んきゃふの我が家の食べ方は、大皿にどっさりと乗せ、鯖缶に水、砂糖、酢、醤油を入れたタレで食べるのが定番だった。が、実は子どもの頃は、美味しいと思ったことはなかった。味はしないし、ヌルっとしているし、大人は何が美味しくてこんなにワシワシ食べるのだろうと思っていた。大人になって判る味というのがあるが(私の場合、ごうら≒苦瓜も)、んきゃふもそうだった。

それにしても、んきゃふが「海ぶどう」という名前で呼ばれるようになり、観光客や内地でも食べられるようになるとは思いもしなかった。テレビで「ちゅらさん」が放送されたからだろうか。内地の沖縄料理の店のメニューで見るようになった。注文してみると、小さいサラに盛られ600円…。びっくりしたのを覚えている。今や、養殖が盛んで、いつでも食べられるようになった。

んきゃふの味が判るようになり、帰省した時は、天然のんきゃふが食べたいと父にお願いをしていたが、数年前から天然のんきゃふは採れなくなったと言う。10年くらい前まで父は張り切って取りに行っていたが、その量はだんだんと減ってきていたようだ。

時々考える。
んきゃふやカニが豊富にとれた頃は、それは当たり前で特に海に感謝して食べるということもしなかった(私の場合ね)。それが豊かなことだったと知ったのは無くなってからだ。何も感じず豊かな海の恩恵が受けられた時が幸せだったのか。気づいた今が幸せなのか。

無くなってしまった原因は判らないが(気象の変化、自然汚染、島に木々が少なくなっているせい?)、「まいぬいん」を見ながら、いつかまた昔のような豊かな海になってほしいと願っている。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年07月24日

第194回 「清泉(宮積)」



えー、懲りずまたまた戻ってきてしまいました。とってもローカルにして超絶的にマイナーで、地味で地道な井戸系の石碑へ。
とはいえ、人が暮らしていくためには水を欠かすことは出来ません。ですからそこには里の人々が、井戸の開鑿や改修の際に、水への感謝とともに末代まで残る記録を石碑にしたためました。
それは村建ての記録であり、里の息づかいであったりします。そして里に暮らす人たちの営みであり、祈りだったりします。井戸は同時に里の祭祀にも深くかかわり根付いていることを、小さな石碑がこっそりと教えてくれます。そんなかすか痕跡を丹念に拾い集めると、とても興味深いなにかを見せてくれることがあるのです。

これまでも何度か同じ「清泉」のタイトルで井戸に関する石碑を紹介しましたが、この地の井戸の石碑もまた「清泉」と刻まれています。
こちらの「清泉」は、東仲宗根添の宮積集落内の畑の中にあるンメズンガーの脇に建立されています。

宮積を含むこの地域は、古くは“山北”と呼ばれていた場所(山北分校跡地)。最近は元宮原小学校の学区名を取って、宮原と呼ぶ方が馴染みがあるようです。そんな“宮原”の一番西(鏡原寄り)にある小集落(里)が宮積です。漢字的な読み方は「みやづみ」ですが、島読みでは「ンメズン」とか「ムメズム」と呼ばれています(ヅではなくズと表記されるのは現代仮名使いの影響か?)。
もう少しこの地域を紹介してみると(簡単に)、大字・東仲宗根の添村(そえむら)であることからも判る通り、独立した村(字)としては、比較的新しい区域(1902年/明治35年)です。この宮原界隈は水はけのあまりよくない原野を開拓して拓かれた、いわゆる畑番屋(パリパンヤー)が発展して集落化した場所で、どうやら名子の集落が多かったようです。そうした要因もあってか、北は高野あたりから南は更竹あたりまで、かなり広範囲に小さな里が点在してます(宮積、ムトヤ、砂、南増原、北増原、瓦原、土底、更竹。ただし、高野は戦後の入植詳しくはコチラ)。

碑文には昭和二十八年五月三十日改修と記されています。戦後の日付なので、おそらくコンクリート製の釣瓶や井戸まわりのたたきなどとともに、使いやすく改修されたのだと思われます。
そして石碑にはもうひとつ年月が石碑に書かれています。少し欠けていて完全には読めないのですが「昭和二年四月」と読むことが出来ました。改修年月日よりも古いので、こちらがきっと井戸の開鑿された記録だと思われます。ちなみに昭和2(1927)年ならば、時代的にもあちらこちらで井戸の掘削が行われていた頃になるので、近代化が農村部に浸透している過程ではないかと考えられます(いわゆる上水道は1950年代以降まで待たたなくてはならないので)。

先頃発売された『宮古島市史第2巻祭祀編(上)重点地域調査』によると、宮積の「ユーヌタミ」と「シツ」の御願(同日に開催)で、このンメズンガーは拝まれているようです。
本よるとこの祭祀は旧暦の四月頃の甲午(きのえうま)に行われており、午前中に高嶺御嶽、ミドゥン御獄、ンメズン御獄、ユーヌヌス御獄の各所をツカサとともに廻って、集落の繁栄を祈願するそうです。そして午後は、各戸でンメズンガーに水香を備えて水への感謝を祈願しているようです。余談になりますが、水香とは特殊なものではなく、井戸など水系の神は火を嫌うので、香は焚かずに供えた香のことです(画像にもイビ代わりの石碑に供えられた香は、焚かれていません)。
記述についてはちょっと専門性が高いのですが、祭祀の詳細な情報が細かく書かれているので資料としてはとても素晴らしい本なので、興味のある方はぜひ早めの入手をお勧めします(販売数量がかなり少ない。宮古島市島内の主要書店にて販売中。税別5000円)。


【清泉関連石碑】
第109回 「清美 一九六三年三月四日」
第156回 「清水御神(福北・西嶺原)」
第160回 「清泉(長南西更竹)」
第161回 「清泉水建設記念(南根間)」
※井戸にまつわる石碑はこのほかにもたくさん寄稿しています。  続きを読む



2018年07月22日

第6話 「八丈島のメインビーチ、底土」



暑いですね。
いかがお過ごしですか。

今回から月2回の寄稿となった、扇授沙綾(せんじゅ さあや)による、『島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法』です。
海の日だった先日。畳の上で大の字になったら、そのまま昼寝をしてしまうという、プール帰りの小学生みたいなワタクシでした。

八丈島の海は透明度が高く、砂浜から泳ぎ出せばすぐに魚が泳いでいます。
水温は、入った瞬間に、冷たい!と感じるくらい。気持ちがいいです。

底土(そこど)の海は、ピンク色のこんもりとした珊瑚がよく見えます。
ピンク、百日紅の花の色のような。
テーブルサンゴもたくさん見えます。私はまだ、ウミガメに遭遇したことがないのですが、遭遇率はかなり高いそうです、すぐその辺に。

底土は、黒い砂のビーチで、そのきめ細かな黒砂はとても美しいです。
砂場の砂よりも、粒が大きいので、じゃりじゃりしないので快適です。
私がお世話になっているお灸の師がいうには、黒砂のデトックス効果は絶大で、砂浴は超おすすめだそうです。今時期は、ちょっと砂が、熱いけれども。。。
観光客が退いた、秋口くらいに私もしっかり健康になろうと思います。

この連休から、底土に海の家がオープンしました。
これが・・・
いいんだなあ。。

テーブルやベンチ、ビーチ椅子と勝手に呼んでいる屋外用のチェア。
あれが、かわいいピンクや水色にペイントされて、手作り感、ぬくもり感のある、広々とした空間になっています。

メニューも豊富です。迷ってしまうな。。。
生ビールはもちろん、島酒やハイボールもあります。
パッション生ビールっていうのが、とても気になります。

底土の海は、本土・竹芝桟橋への島民の足、大型客船橘丸が入る底土港の脇です。
沖にテトラポット(消波ブロック)があるので、海に向かって桟橋の左側は波が穏やかでとても泳ぎやすいです。
自然の岩で区切られたプールのような浜もあり、小さな子供たちがプカプカと浮き輪で浮かんで安心して遊んでいます。
少し大きな子供たちになると、桟橋の先から左側の海に飛び込みをして遊んでいます。
ここはダイバーたちの入り口でもあり、タンクを背負った人たちが桟橋脇の石段を降りて、次々に海に入っていきます。

桟橋のあたりは、海の深さ3~5メートルくらいで、珊瑚も魚も、桟橋から覗いただけで見ることができます。
もう、シュノーケルには最高です。

今日は、潮が引いている時間に、少し大きな珊瑚の近くを泳いでいたところ、小さな魚の群れがパーッとやってきて、自分と一緒に泳いでいる。
その感覚は、なんとも言えない、癒しです。

あんまり潮が引いたので、シュノーケルではお腹を擦ってしまいそうなところもあり、かといって、立ち上がって珊瑚を踏みつけるのもなぁ・・・っと。
海の中をウロウロしてしました。

底土の浜には砂浜もあるけれど、岩場です。
いくつかのエリアに分かれているので、自分で泳いでその地形というか、それを覚えたいなと思いました。
たくさん潮が満ちて、砂浜にたっぷりと海水が覆う時も、気持ちよく海水浴ができると思います。

四角い、ハリセンボンみたいな魚がいたので、後から訊いてみると、それは多分、「ハコフグ」という魚らしい。
箱みたいだった、確かに。かわいい顔をしていたな。
熱帯魚もたくさんいます。

八丈島では、今時期、桟橋からでもカンパチやムロアジなどの美味しい魚が釣れるため、釣りをする人が多く、釣り宿も多いです。
面白いのはレンタカー屋さんに、釣り人用の車の設定が必ずあります。

そして、海と山、ふたつの自然アクティビティが楽しめるのが、八丈島のいいところです。

山もまた、いいんですよ。。。
いくつかの見どころ、滝や沼、清流などがあるので、またご紹介できればと思います。
あ、温泉もありますよ。

さて、学生は今週で学校が終わり。夏休みに入りますね。
今年は9月1日、2日が土日のため、44日間という長~いお休みです。

子供たちの夏休みは、たとえば八重根の岩場で、かなりの高さからの飛び込みや、素潜りで遊ぶこと。釣り、そして夏祭りに花火大会。
夏はイベント目白押しです。

そうだ、私は星空ウォッチングにハマりそうで、夜毎、車で観測スポットへと繰り出しています。
それについても、また。

あぁ、書ききれてません。。。
八丈島の美味しいもののお話も、また(笑)



【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
バックナンバーはコチラから。  続きを読む


2018年07月20日

第4回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その2」



裏座から、毎度の宮国です。

下川凹天の弟子、森比呂志(もり ひろし)の2回目です。彼の出身地・川崎と沖縄の関係が深いというのは、誰もがご存知だとは思います。
ですが、ここでは、森比呂志の個人的な関係でさえ、地下茎のように深く静かにつながっていた、というお話です。ずばり、サブタイトルは「川崎と琉球の点と線を結ぶ ~佐藤惣之助と森比呂志~」です。

凹天の生きた時代背景を調べていると、その時代に包まれるような気分になります。凹天やその仲間たちが生き生きと現代によみがえったような気すらするのです。

さて、今回は、まず佐藤惣之助『琉球諸嶋風物詩集』(海風社、1922年)をご紹介したいと思います。

【大正初期の那覇港】

漲水港望海樓作


   川良山のうへなか、白雲の立ちゆらば
   白雲で思むよな、のり雲で思むよな
                     (かれやまふし)
橄欖の花で詠めゆる黑島口説
山査子の花で詠めゆる「戀の花」ふし
紺の宮古上布や透し
雲の峰に蛇皮線かけて
あかき南風に女ら騒ぐや
火の色にうたふ蒼蠅の歌を
沖の地獄の汽船につたへ
酒甕よき夏の日たけぬ


【初版本(国会図書館デジタルコレクションより)】

旧平良市の官公庁がある中心街から漲水港(現・平良港)を望んだ詩です。八重山と宮古が混在していて不思議な趣になっているのはご愛嬌。ゴーギャンに憧れていたようで、その直後の詩に「ゴーガンばりの女がパパヤのような乳房をはつて」というのが、後世の研究者から植民地目線だと批判される材料にもなっていますが…。それにしても、南方ならではの独特の色や温度を文字に落とす才能は卓越していると感じます。

望海楼のあった漲水港界隈は旅館が多く、島の中では派手やかな場所だったのでしょう。女を「いなぐ」と書いているあたり、宮古の滞在時間の短さを感じさせます。いやいやいや、もしかしたら、現在の宮古口である「みどぅん」ではなく、こうした宴会の席では「いなぐ」という沖縄本島方言が用いられていたのかもしれません。

この詩集では「漲水港望海樓作」という章が最終章になっていて、そのトップバッターが章題と同じ、この詩です。この章には、先島諸島の詩は18篇作られ、そのうちの2篇が宮古島について描かれています。

【『佐藤惣之助覺え帖』より、「書斎における佐藤惣之助」】
実は、この作者の佐藤惣之助(さとうそう のすけ)が先島諸島を旅行したのは、八重山で岩崎卓爾(いわさき たくじ)に会うのが大きな目的でした。その際に寄港した宮古島にも数時間だけですが、滞在したようです。詩集の後書きに「宮古島は象皮病患者が妙に恐ろしい」と書いています。

その頃、凹天は新聞を中心に漫画家として活躍していた時期。佐藤惣之助は凹天の2歳年上なので、同世代の昇り調子で新進気鋭のアーティストだったようです。当時の人からすれば、ふたりともキテレツに見えていたに違いありません。

そして、そんなふたりを結ぶ点と線を書き残したのが、森比呂志だったのです。
さて、裏座はこれまで。一番座から、佐藤惣之助の物語が始まります。

 では、一番座から片岡慎泰です。

 佐藤惣之助の実家は、東海道五十三次川崎宿の本陣(大旅館)。そうです。前回 取り上げた森比呂志の実家は、元々川崎宿の助郷でした。そして、石工を生業とする「森工務店」が、移り住んだ場所が川崎遊郭の大門の隣。ふたりとも同じ川崎小学校の学区でした。その頃、川崎はとても寂れていたようです。

【佐藤惣之助生誕の地】

 日本初の鉄道が、1872年東京新橋駅から横浜(現・桜木町駅)間まで走ることになったたためです。森比呂志の記録では、丸一日がかりだった川崎大師参りが、小一時間になったとのこと。

 鉄道がない頃は、江戸から川崎大師まで日帰りできないので、明治維新後であっても、それだけで宿場町としての機能があったのですが、鉄道の発展とともに川崎宿は活気を失っていきました。宿場町として有名だった頃は、今もさまざまな絵に残っています。安藤広重(あんどう ひろしげ)の『東海道五十三次』が代表的な作品でしょう。

 しかし、鉄道が通って数十年後経っても寂れた様子は、そこで少年時代を送った森比呂志が印象的な表現で記述しています。それは、関東大震災(1923年)後の様相よりもひどかった、と。

 面白いことに、その頃、東京漫畫会(1915年~1923年)に集まった漫画家たちが描いた『東海道五十三次漫画絵巻』(1921年)という絵巻物が生み出されました。

 奇遇なことに川崎宿は凹天が担当しました。『東海道五十三次漫画絵巻』は、まさに江戸の伝統を彷彿とさせる、肉筆浮世絵のような漫画からなる巻物です。この作品はYouTube(紹介動画)で見ることができます。

【東海道五十三次漫画絵巻 Youtubeよりキャプチャ】

 東京漫畫会とは、岡本一平(おかもと いっぺい)が音頭をとったグループで、当時の新聞に所属していた新進気鋭の漫画家たちが集まりました。

 皆で、全国各地でどんちゃん騒ぎをして新聞などに取り上げられ、漫画を世間に周知。凹天の得意技は、飛行機踊り。第1回は多摩川の料亭でしたが、最後の第10回は帝国ホテルと箱根。漫画家の地位が向上したことが伺えます。

 『東海道五十三次漫画絵巻』の成立が1921年ということは、先の詩集『琉球諸嶋風物詩集』出版と、ほとんど同時期。

 皮肉にも、宮古生まれの凹天は川崎を描き、川崎生まれの惣之助は琉球についての詩を作ると。このベクトルの向きには、人知を超えた妙味があります。交点には森比呂志が存在していました。

 ふたたび、話は川崎に戻ります。

 川崎は第一次大戦の景気をきっかけとして、大正ロマンを謳歌し、第二次大戦中まで重工業や大衆文化で栄えました。しかし、日本の他の都市と同じく、戦後は荒廃しますが、再度、不死鳥のように復興するのです。

 その光と影を映し出すのが、これまた川崎小学校出身の坂本九(さかもと きゅう)が歌った『上を向いて歩こう』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)や、長崎出身の三輪明弘(みわ あきひろ)こと丸山明弘(まるやま あきひろ)自身が作った『ヨイトマケの唄』ではないでしょうか。ふたつの歌は、日本の高度成長期をシンボリックに表現しています。

 川崎は、前回述べた、日本初のレコードを生産した日本蓄音機商会の舞台でもありました。佐藤惣之助が流行作詞家になったことは、偶然ではなく必然のような気すらします。

 このような時代背景とともに、佐藤惣之助の人生を辿ってみます。

 惣之助は、川崎宿本陣が寂れて雑貨商「藤屋」となった佐藤家の次男として、1890年12月5日に生をうけます。母親うめの記憶では、大きな病気もしなかったので、育てるのは楽な方だったと。

 3歳から釣りを覚えたり、4歳で百人一首を丸暗記してしまうほど記憶のよさがあり、川崎小学校尋常科の卒業式には全学童の代表して答辞をしました。上の学校に通わせることもできたのですが、父親惣左衛門は反対。当時、商人の常として麻布飯倉の糸屋「萬文」に丁稚に行かせます。ここは兄も奉公していたので、気心の知れた家でした。

 その頃、詩人サトウ・ハチローの父である佐藤紅緑(さとう こうろく)から、俳句を学び始めます。そして、丁稚奉公をしながら、俳句をずっと学び、千家元麿(せんげ もとまろ)らと知己になります。

 ところが、森比呂志によると、佐藤惣之助は丁稚に出されたものの、二宮金次郎像のごとく、紺の風呂敷を背負って、文芸書を読みふける毎日を送る始末。口さがない商家の人びとから「道楽息子」とまで。17歳の時に「奉公はいやだ」と実家に帰るのですが、うめは行李ふたつのなかには、衣類かと思ったら文芸書だけだった、と記しています。

 佐藤紅録が劇作家に転身すると、その後を追うように、1909年暁星中学校付属仏語科で、2年間学業に専念。ここの下宿屋で、後に築地小劇場を開設した小山内薫(おさない かおる)や歌人の吉井勇(よしい いさむ)と劇作に夢中。

【現在の暁星高校(東京都千代田区)】

 1911年、従妹にあたる川田花枝(かわだ はなえ)と結婚。翌年、岸田劉生(きしだ りゅうせい)のいた「フュウザンの会」の同人と一緒になり、夏には『生活』(ラ・ヴィ)を創刊。しかし、その年の後半になると、詩作にふけるように。当時、芸術を生業(なりわい)とする人びとの生活は、苦しかったようです。花枝は、三味線と琴の師匠をしながら、佐藤惣之助を支えます。

 1916年には第一詩集『正義の兜』を自費出版します。翌年には、第二詩集『狂える歌』(1917年)と立て続けに、詩集を出版。その最中にも、後進を育て『詩之家』(1925年~1932年)を創刊し、八木重吉(やぎ そうきち)や津嘉山一穂(つかやま いっすい)、伊波南哲(いば なんてつ)、藤田三郎(ふじた さぶろう)、永瀬清子(ながせ きよこ)、椋鳩十(むく はとじゅう)など錚々(そうそう)たるメンバーを育てます。

 まだまだ、佐藤惣之助と凹天が生き抜いた時代の話は続きますが、一番座はここまで。
裏座の宮国です。
お気づきになったでしょうか。津嘉山一穂や伊波南哲といえば、山之口貘(やまのくち ばく)と並んで、当時の沖縄を代表する若い詩人たちです。

伊波南哲は、東京の丸の内警察署に勤務しながら、佐藤惣之助に師事。1936年の長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』が代表作で映画化もされます。宮古島出身の岡本恵徳(おかもと けいとく)は、このあたりを論文で書いています。

佐藤惣之助は「沖縄学の父」伊波普猷(いは ふゆう)の『古琉球』(1911年)を読み、南島に興味をもったようです。その後、民俗学の柳田國男(やなぎた くにお)、古代学の折口信夫(おりぐち しのぶ)と親交を深めていきます。

また、最初にご紹介した『琉球諸嶋風物詩』の後書きには、宮古島でP音を求めたとの記述があるのですが、これは『宮古庶民史』(稲村賢敷、1948年)を書いた稲村賢敷(いなむら けんぷ)の影響かもしれません。さらに、柳田國男が雑誌『民族』を創刊(1925年)するにあたり、ニコライ・ネフスキーの名前も出てきます。
人の縁とはピルマスムヌ(不思議なもの)。個人的には、このニアミス加減がグッときます。

佐藤惣之助は、いわゆる芸術家であると同時に、当時の大衆の心をつかむ詩の名手。後世からみると流行歌の作詞家という印象が残り、芸術家ではないという評価からか知る人ぞ知る人になってしまったようです。

凹天も当時は流行漫画家ですが、今は知る人ぞ知る人。凹天と惣之助の共通点はそういうところだとも考えられます。

ふたりは、ほぼ同世代。佐藤惣之助が生まれた約1年半後の1892年5月2日に凹天は宮古島に生まれました。その後、1901年に叔父を頼り、東京に移り麹町小学校に通っている頃、佐藤惣之助は麻布飯倉で働いていたことになります。徒歩で30分ほどの場所にふたりは同時期に生活していたのです。

そして、その後、ジャンルは違えど、東京周辺を中心に活躍しました。森比呂志は、なんと、その時のふたりの様子を克明に書きあらわした人物なのです。
-つづく-   

<登場人物の簡単な経歴>
ゴーギャン1848年~1903年
画家。生まれはパリで、図版の商人であった父親の家業を継ぐ。そこで、当時無名だったルノワールやモネと知り合う。その後、株式仲買人になったが、成功するにつれて、余暇に自ら絵を描くように。世界さまざまな地域を巡ったが、1891年初めてポリネシアのタヒチに。南方にモチーフをとった多くの傑作が生まれたのは、これ以降のことである。

岩崎卓爾(いわさき たくじ)1869年~1937年
気象観測技術者。石垣島測候所の二代目所長を勤めるかたわら、八重山の生物や民俗、歴史、歌謡の研究を行う。日本最少の蝉、イワサキクサゼミの命名者。

安藤広重(あんどう ひろしげ)1797年~1858年
浮世絵師。江戸の定火消の家に生まれる。代表作の『東海道五十三次』以外にも、江戸名所シリーズが知られる。ゴッホやモネなどの画家に影響を与えて、現在では世界的に有名となった。特に、ヒロシゲ・ブルーといわれる「藍色」は、現在も影響を与え続けている。本人自身は、安藤広重と名乗ったことはなく、歌川広重が、本来の呼び名である。

坂本九(さかもと きゅう)1941年~1985年
俳優、タレント、歌手。『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』などのヒット曲を持つ。1985年8月12日、日本航空123便墜落事故で帰らぬ人となった。

三輪明弘(みわ あきひろ)1935年~
シンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。かつては本名の丸山明宏で活動していた。最初は、ゲイであることで芸能界から消えたが、中村八大の尽力もあり『ヨイトマケの唄』で復活。しかしまた、その歌詞が問題となり、再び追放状態になるも、再度表舞台に。なかにし礼によると『ヨイトマケの唄』は、戦後の日本を象徴する最高傑作と評価される。

サトウ・ハチロー1903年~1973年
日本の詩人、童謡作詞家、作家。本名は佐藤八郎。『うれしいひなまつり』『リンゴの唄』の作詞者。

佐藤紅緑(さとう こうろく)1874年~1949年
日本の劇作家、小説家、俳人。サトウ・ハチロー、佐藤愛子(小説家)、大垣肇(脚本家)の父。青森県弘前市出身。

千家元麿(せんげ もとまろ)1881年~1948年
日本の詩人。東京都千代田区麹町のうまれ。出雲国造家(出雲大社の系統)当主の千家尊福の長男(庶子)。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。

小山内薫(おさない かおる)1881年~1928年
明治・大正・昭和にかけて活躍した劇作家、演出家、批評家。東京帝国大学在学中から劇作を始め、日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。大正13年に築地小劇場を創設。

吉井勇(よしい いさむ)1886年~1960年
大正から昭和にかけて活躍した歌人、脚本家。華族(伯爵)であり、スキャンダルな「不良華族事件」の中心人物は、最初の妻・徳子であった(事件発覚後に離婚)。

岸田劉生(きしだ りゅうせい)1891年~1929年
大正~昭和初期の洋画家。娘の麗子(れいこ)の肖像を描いた麗子シリーズが代表作品。その一枚が、切手となり有名に。

八木重吉(やぎ そうきち)1898年~1927年
日本の詩人、英語科教師。東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)の出身。戦後、クリスチャン詩人としての評価を集めた。

津嘉山一穂(つかやま いっすい)1904年~1981年
沖縄出身の詩人。シュールリアリズムとマルキシズムの融合を目指した『リアン』で詩を発表する。のちにリアンでの中心人物となり、特攻警察より「リアンは芸術共産党」として警戒され、発禁、廃刊に追い込まれる。

伊波南哲(いば なんてつ)1902年~1976年
佐藤惣之助に見いだされた、沖縄出身の詩人。1923年近衛兵として上京。除隊後は警視庁に入り、丸の内警察に勤務。代表作は長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』。沖縄地方の民話・怪談を多数書き残している。

藤田三郎(ふじた さぶろう)1906年~1990年
埼玉県本庄市生まれ。佐藤惣之助に見いだされた詩人のひとり。詩之家の門下生となり、続いてその分身としての『リアン』後期に加盟する。代表作に『寓話』(1939年)や『雪の果て』(1962年)がある。『佐藤惣之助 -詩とその展開-』(1983年)は、佐藤惣之助の詩や経歴に関する貴重な資料となっている。

永瀬清子(ながせ きよこ)1906年~1995年
日本の詩人。高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事した。後年は岡山で農業に従事しながら詩作を行っていた。

椋鳩十(むく はとじゅう)1905年~1987年
日本の小説家、児童文学作家、教員。日本における動物文学の代表的人物。また、鹿児島県立図書館長を長年務めた。

山之口貘(やまのくち ばく)1903年~1963年
沖縄県那覇市出身の詩人。本名は山口重三郎。薩摩国口之島から琉球王国へ帰化人の子孫。その業績を記念して、山之口貘賞が創設される。尚、名前の表記は、ケモノ偏の獏ではなく、ムジナ偏の貘である。

岡本恵徳(おかもと けいとく)1934年~2006年
宮古島出身。近現代沖縄文学研究者であり戦後沖縄を代表する思想家。琉球大学文理学部を卒後、東京教育大学大学院文学研究科・修士課程を修了。後に、琉球大学の講師、教授(法文学部)を勤めた。

伊波普猷(いは ふゆう)1876年~1847年
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者。言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に亘る学問体系の研究により、「沖縄学」が発展したことから、「沖縄学の父」とも称される。

柳田國男(やなぎた くにお)1875年~1862年
日本の民俗学者。全国各地を調査旅行し、民俗学を築いた人物。東京帝國大を卒業したあと、明治政府の農務省の役人に。そこで、岩手県を始め各地を講演旅行するうちに、民俗的なものに興味をもつように。代表作は『遠野物語』、宮古島が最初に稲作技術がもった人びとがやってきたという仮説も載っている『海上の道』など。

折口信夫(おりくち しのぶ)1887年~1963年
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった。柳田國男と出逢い、沖縄を旅したことから、沖縄に古(いにしえ)の日本文化の面影を見出し、古代研究に系統する。詩人・歌人としては、釈超空の名で知られる。

稲村賢敷(いなむら けんぷ)1894年~1978年
大正-昭和時代の教育者、郷土史家。沖縄県に生まれ。東京高師を卒業した後、沖縄県の教育に情熱を注ぐ。昭和23年退職後、沖縄の郷土史、民俗学研究に従事。著作に『宮古島庶民史』『沖縄の古代部落マキョの研究』など。

ニコライ・ネフスキー(1892年~1932年)
ロシアの東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。日本への留学中にロシア革命により帰国できなくなる。小樽で教鞭をとるかたわら、柳田國男・折口信夫らと親交をもち、宮古方言の研究などを行った。折口信夫の唱えた説を覆すほど言語感覚に優れていた。


【2019/10/09 現在】
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年07月17日

第193回 「琉球政府標柱」


今回取り上げるのは、なにかを記念した石碑ではありません。実務的に建立された単なる石柱です。けれど、もう50年近く前に建てられ、それを建てた組織はもう存在しないという逸品。碑の経年変化に加え、環境の変化や開発行為などによって、徐々に失われつつあるので、完全に無くなってしまう前に文化財の仲間入りをさせてあげたい。それが無理なら、せめて保護の対象にして欲しい、そんな琉球政府時代の石柱(コンクリート柱)コレクションです。

まず、「潮害防備林」。もっとも絶滅が危惧される石柱です。
撮影したモノは新城海岸の不法ビーチハウスの隙間にある植え込み。以前はもう少しちゃんとしていたけど、興味のない人々にないがしろにされ、追いやられてしまいました。石柱はともかく、防備林さえも彼らによって現状が無残に変更されており、防潮の意味が失われつつあります。こうした状況は非常に遺憾です。
彼ら不法業者を誰も利用しなければ、儲けにならず撤退していくと考えていますが、実情は「海の家」に慣れてしまっている旅行者が、無秩序に利用する点が問題なのです(内地の海の家は、基本的に許可制です)。

まあ、ひとりでこうアジったところで、なかなか聞く耳は持たれないのでひとり言とでも思っておいてください。
それはさておき、「潮害防備林」についてみておきたいと思います。
石柱の状態は決して良くありません。クサトベラの茂みの中に隠れており、再発見するのに少し時間を要しました。石柱は少し頭が欠けて中の鉄筋が露頭しています。また、根元はかなり砂に埋没しており、どうにか炎天下に素手でここまで掘り返しましたが、さらに下の「政府」までは確認しきれませんでした。
すぐ隣には「潮害防備保安林」の標柱があるので、すでに琉球政府の「潮害防備林」の石柱は役目を終えていますが、近くの保安林内に県の許可なくトイレ・シャワー施設、駐車場を建設していたとして、2014年に宮古島市は沖縄県から森林法違反行為に抵触すると厳重注意文書を送付されました。施設は合併前の城辺町が独断で建設したもので、宮古島市はその後始末として、違法状態の施設を撤去して原状回復を行っています(が、ビーチの不法業者は変わらず居座っている)。
新城海岸、保安林にトイレ等 県が市に原状回復命令(2014年3月7日 宮古新報)
森林法違反で現状回復/新城海岸(2014年3月8日 宮古毎日新聞)

続いては、「防風林」です。こちらは東仲宗根添細竹集落の東方にある丘脈の森から顔を出しています。「潮害防備林」のように文字部分に墨が入ってないので、見た目が全体的に白っぽいですが、根元の枯れ草と枯れ木を退けたら、ちゃんと「琉球政府」の文字まて見ることが出来ました。防風林の石柱は、まだ割とあちこちに残っている方てすが、やはり琉球政府版はもうたくさんはありません。
琉球政府ではないけれど、上野村史(1968年 村制20周年版)によると、第二宮古島台風(1966年、コラ台風)で、村の基幹産業である農業も甚大な被害を被ったことから、農地を守る防風林・防潮林を効果的に配して、高度な土地活用を強化した耕地整理を施行したという。
上野村では「潮害防備保安林」と呼ばれていたらしい(残念ながら、根元の文字が読み取れない。現存しているのなら、探してみたいです~情報お待ちしています)。

続いてはちょっと変わり種。「琉球政府」の「文化財保護委員会」の石柱で、こちらは西仲宗根の知利真良の墓の前に建っているものです。
当時、文化財として指定されたもののそばに建てられていますが、現在、この知利真良の墓は「豊見親の墓 3基」として国指定の重要文化財(建造物)として指定されています(他2つは、仲宗根豊見親とアトンマ墓。1993年指定)。
2014年に外側の石積みが崩落の危険性があるほどに、内部から膨張して歪みが大きくなったため、国庫補助によって補修が行われました。この際、墓の入口にあったこの「琉球政府文化財保護委員会」の石柱は、取り壊したり廃棄したりせず、新たに墓の右角へと移築されました。国庫補助とはいえ宮古島市主体の工事なのに、よくぞ石柱をぶっ壊さずに移築で済ませくれたことには、ちょっと評価してます(でも、石柱の背面はなんとなく、その昔、意図的に琉球政府が文化財として指定日を、剥ぎ取ったようにも見えます)。
沖縄県教育委員会 Ⅷ 文化財保護(pdf)
重要文化財豊見親墓あとんま墓及び知利真良豊見親の墓保存修理工事報告書
※宮古島市でこの報告書を見ることは不可能なようです。

最後にオマケをひとつ。
「琉球政府」の刻印が入った、一等水準点の石蓋です。
これはかなりあちこちにあります。
こちらの石蓋のロケ地は、東仲宗根添サガーニ。ある意味、マニア向けの物件ではありますが、防潮林や防風林にしろ、文化財保護にしろ、どれも現在のの沖縄県の礎となる部分を支えている物言わぬ証人といます。
現在は国、県、市など規模に応じてたずさわる機関はさまざまですが、琉球政府はそのすべてをたったひとつでやっていたことを考えると、やっぱ国って凄いんだなっと改めて感心してしまいました。
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2018年07月12日

34冊目 「南琉球宮古語伊良部島方言」



東京は梅雨が明けて夏日の続く7 月です。今月の「島の本棚」はこの3月に刊行されたばかりの新刊書、下地理則著『シリーズ記述文法1 南琉球宮古語伊良部島方言』を紹介します。先日、伊良部高校の入学生の募集停止のニュースがありました。刻々と変わる島の状況を考えながら読みました。

本書の初めには、編集委員会より「シリーズ刊行にあたって」という文章が載っています。それによると、本シリーズは、「東京外国語大学のアジア・アフリカ言語研究所の研究活動の一環として企画され」、「いわゆる少数言語」、特に「これまでまったく,あるいは十分には調査研究されてこなかった言語(もしくは方言)」を対象に扱っていくそうです。編集委員には世界各国の言語を扱う著名な先生方が名を連ねています。そんなグローバルなシリーズの第1弾が宮古の伊良部島方言って、すごいことですね!
また、「本シリーズは専門性を高く保ちつつも、当該言語の専門家以外にも理解できる文法書を目指している。」とあります。執筆者が現地に赴き、「文法全体」と「格闘」を続けることの重要性が語られています。つまり、少数言語を研究するとき、話者から聞き取りはできても、体系はすぐにはわからない。その言い方が正しいか不自然か、言えるのか言えないのか、を教えてもらい、文法規則を探ることが言語研究者の役割なのです。それはもちろん簡単なことではなく、「文法記述の営みには終わりがない。」といいます。

さて、著者の下地先生の編著は2017年1月の「島の本棚」でも紹介させていただきました。(『琉球諸語の保持を目指して-消滅危機言語めぐる議論と取り組み』)そこに、少数言語が消滅していくことは避けられないとしても、
“記述言語学者たちは、消えつつある危機言語を体系的に記述・記録するスキルがあり、それを実践する責任がある。”
と書かれています。その責任を果たされていることに敬意を表します。

300ページを超える内容は、確かに専門性が高く難解にみえますが、例文にある「サトウキビ倒し」「イモの葉っぱ」「彼は平良にいる。」などの生活語彙に親しみを感じます。言語の勉強が好きな人には読み応えがあるでしょう。伊良部島方言ネィティブの人は、むしろ脳内再生される音声から発音記号を逆に学ぶことができるかも!?

最後に、下地先生によるあとがきが本当に素晴らしいので、ぜひ本を手に取ってご一読ください。
現在の言語学業界の周りでは、研究領域の細分化が進んで、各専門(文法とかアクセントとか各品詞とか)の研究者は他に関心を示さないこともあるそうです。また、仮説の検証に役立たせるために特定の現象のみを取り上げたり、その場しのぎをしたり、そもそも深く考えずにフィールドにやってくる人もいるとか(以上は、私の勝手なまとめですので、詳しくは本書を読んでください)。そういうのはたぶん言語の業界だけではなく、多くの研究者がうなずくところとだと思います。

“端的にいって、筆者はそういう現在の言語学の主流にうんざりしている。”
おお!、そう言い切って書いてしまう勇気!。続いて、下地先生は、もともと人類学志望であり、そういう入口の経緯もあって、「言語そのもの」「内的一貫性」に関心があるといいます。

“一度立ち止まって言語全体を俯瞰することは重要である。言語体系は、個々のパーツ(現象)が有機的に繋がっていて(中略)ゆっくりと変容していく”
“これらの事実に気づく唯一の方法は,実際に自分で言語体系全体を扱って、ひとつの記述モデルとして示すことである。”

そうして伊良部島方言と悪戦苦闘した結果を、“認めなければならないことがある。伊良部島方言は本当に手強い相手で,本書によってこの言語体系を満足いく形で示せたとは到底思えない。完敗である。”と表現しています。

“言語に対して謝辞をいう研究者はこれまでいなかったと思われるが、「対戦相手」の伊良部島方言に対して深く感謝の意を表したい。あんたは最強だ。これからもよろしく。”
こんなに胸の熱くなるあとがきもそうありません。
そして明かされるのは、下地先生のお父様が伊良部の人で伊良部島方言を母語とし、しかし下地先生自身はその方言を聞くことも話すこともなく育ったということ。

“父から継承できなかったものを、今更ながら継承したいと考えたからである。その試みに賛同し、惜しみなく協力してくれた父に、本書を捧げる。”

この本が発する熱さと強さは伊良部の情熱そのもの。小さな島の果てしなく豊饒なことばの世界に旅立てる一冊です。

〔書籍データ〕
シリーズ記述文1 南琉球宮古語伊良部方言
著者 /下地理則
発行/くろしお出版
発売日 / 2018/3/26
ISBN /978-4-87424-760-0  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年07月10日

第192回 「飛鳥御嶽改築記念碑」



先々週の棚根のバス停、先週のイストゥマイの幸せ神社と偶発的に発見した、とれたて新鮮“産直”の石碑を紹介していますが、今週はその第三弾!。これだけ石碑を取り扱っていながら、さらなる新発見(自分的に)が出てくるのですから、宮古島の石碑文化は本当に奥が深いのです。そして先人たちが地道に記録をしてくれているのです。
今回もそうした新発見の石碑なのですが、さすがにそのままだとただの「記念碑」というタイトルで、ネタ的な広がりもちょっと薄そうなので、マシマシにしてみました(それだけちゃんと調べ切れてないともいう)。

まずはタイトルの「飛鳥御嶽改築記念碑」です。こちらは既知の碑です。場所は宮原(増原)にある飛鳥(とびとり)御嶽の表参道から鳥居をくぐってすぐのところにあります。
ちょっと赤茶けたコンクリート製の石碑は、昭和13年に南増原集落の人々によって改修され、碑が建てられました。

【下:改修前、2011年4月の表参道】
飛鳥御嶽は平良は宮原(東仲宗根添)の増原と、城辺の長間(山川)の境にある東西に細長い小山で、御獄はその小山のほぼ中央にあります。小山を覆う御獄林は「飛鳥御嶽の植物群落」として宮古島市の天然記念物(植物)に指定されています。
この御獄がある場所は、かつてこの地域(西銘間切)を支配していた飛鳥翁の居城だって西銘城であり、翁の死後、御獄に祀られたといわれています。しかし、この飛鳥御嶽の北の海岸沿いには西銘御獄(北増原)があり、こちらも西銘城の跡に建てられた御獄とされています。
この西銘と飛鳥はそもそも血縁関係であり、飛鳥が子息が担当する支城であるとか、世代交代で移転した新しい居城であるなど、古文書の読み込みによって諸説が入り乱れており(伝承や書物も記載名の揺らぎが大きい)、郷土史研などて研究が行われている事象でもあります。
ざっくりとつながりを整理しておくと、まず登場するのは好青年、炭焼太郎(すみやきだる)です。色々あった野崎の真氏(もーす)と色々あって夫婦になり、西銘の主・嘉播親(かばにゃ)と名を変えて就きます。そして三男二女をもうけまが、三兄弟はとてもぼーちらーで、嘉播親は家督を譲らず、財産分与して分家させます。しかし、三兄弟は嘉播親を謀殺するプランを練るも失敗します。
また、姉妹の方は、姉・思目娥(うむいめが)は、根間(にーま)大按司の次男・角嘉波良天太氏(つぬがーらてぃだのうふむす)に嫁ぎ、のちに宮古島を統一する目黒盛豊見親を産みます。妹は保里天太の次男居士佐加利に嫁ぎ、眞徳金を産みます。この眞徳金は色々あって跡継ぎの男子がいなかった西銘按司(西銘城主)の家督を継ぎ、現在の飛鳥御嶽に城を移し、飛鳥翁となったなどなど(諸説あります)。
ご存知の通り、目黒盛豊見親子孫は宮古の超有名人、仲宗根豊見親であり、彼を養育した大立大殿は、目黒盛と覇権を争った与那覇原の一族(目黒盛と戦ったのは佐多大人)で、敗れた与那覇原の再興を目指した与那覇勢頭豊見親が、沖縄に出帆した白川浜(高野漁港のある浜)は、色々あって決闘して負けた飛鳥翁の最期の地だったりします。もう大河クラスの波乱万丈な物語が展開されるので、色々と妄想が捗る歴史と伝承が詰まっています。
詳しくはそう、宮古島市の通史「みやこの歴史」か、慶世村恒任の「宮古史伝」あたりが詳しいです。

【左:改築された籠り小屋と奥の祠 2018年】 【右:2011年に撮影した、改修前の祠】

さてさて、御獄の方なのですが、実は先ごろ飛鳥御嶽の祠がリニューアルしました。スタイルはオーソドックスな従来の形状を踏破していますが、まっさらなコンクリート作りに変貌していました。
それと同時に、この御獄に通じる裏参道などがちょっと綺麗になっていました。
実はこの飛鳥御嶽はメインの大鳥居から続く立派な表参道(西)とは別に、祠の裏手(東)に続いてる裏参道があり、さらに南参道(現在は利用者がなく廃道)に加え、北にも小径があり(尾根線で裏参道に合流する)、4方向からそれぞれ御獄に参詣できるような構造になっています。これは周辺の集落(西≒南・北増原、東≒山川、南≒当根川・山田、北≒真良瀬嶺)から続いている道があり、強い信仰の対象となっていたのだと考えられます(南参道の集落からの参詣は途絶え久しく、今回のリニューアルでも道開けはされなかった。理由として、最近まで山裾に鳥居があったのだけれど、鳥居そのものが崩落してしまったため現在は撤去され、名残りとして石段がわずかに見えているだけとなっている)。

【左:新しく改修されたことを祝す垂れ幕】 【右:御獄の北側に広がる圃場整備】

北側は御獄の森のギリギリのところまで、圃場整備が最近になって行われて風景が一変しました。そして圃場の中に強引に作った急坂の道(最早、北参道とは呼べないレベルと思ったので、小径と云い現わした)が造成されています。

さてさて、いよいよ、本題です。
この元・北参道てあった急坂が気になって登ってみたら、東からの裏参道に合流していたのでした。そしてすぐそばに裏参道の鳥居があり、その脇に今まで知らなかった記念碑を発見したのでした。

コンクリートで作られた碑には、大きく「記念碑」とだけ刻まれ、年月日なども一切不明ですが、裏に仲間恕和、仲間真徳金、平良玄信、下地朝宗4名に加え、戸主会長、清年團長と書かれていました(漢字は原文のママ)。
恐らく、鳥居の建立を記念したものと思われます。ささやかな碑ではありますが、この飛鳥御嶽のいわれや、御獄の構造、信仰の力など、さまざまなものが見えてきてとても興味深いです(もしかしたら失われた南参道の鳥居にも建立記念の碑があるかもしれないと、ちょっと萌えます)。

【右:裏参道の鳥居と記念碑。北参道の分岐付近より】 【左:西端にあるシュガーカー】

最後にオマケとして飛鳥御嶽の西側の端、圃場整備された畑との境にあるカー(川≒湧水)。シューガカーも紹介しておきましょう。漢字で書くと「主が井」と思われるので、飛鳥主(とびとりしゅー)を意味するものと思わます。
大きな祭祀では供物を煮炊きして作ることもあり(この地域は今もミキを作っている)、そうした準備の場が近くにあることから、このカーの水が使われていたものと考えられます(現代ではもっと近代的に衛生的な作り方をしているようです)。

※御獄と御嶽。
基本、市史編纂などでも山冠のない獄を使いますが、固有名詞として使われている場合はその限りではありません。  続きを読む


2018年07月06日

log14 「ピンザのいる暮らし」



もう7月!早くも1年の半分が終わってしまいましたね。
我が家の上半期の最大のトピックは、なんと言っても抽選で子ヤギが当たったこと!。
というわけで、今日はこの子ヤギの話です。

ヤギが賞品になること自体、内地ではなかなか無いけれど、宮古郡多良間村ではあるんですね~!。

去る5月。友人や息子2人と共に多良間島で開催される一大イベント、ピンダアース大会を初めて見に行きました。
宮古島から西南西におよそ67キロメートルにある多良間島。この日は特別に日帰り観光が出来るようフェリーのダイヤ変更(朝早く出て、夕方に戻る多良間での滞在時間を通常より増やした特別ダイヤ)があり、片道2時間ほどかけて行って来ました。
ちなみに、飛行機だと約25分なのですが、お高いので迷わずフェリー「たらまゆう」に乗って初の多良間島へ!。

【ピンダアース】
「ピンダ」は「ヤギ」の多良間フツ(多良間言葉)。
「アース」は「合わす」が変化したのかと思っていましたが、「喧嘩・闘い」の意味だと宮古の方に教えてもらいました。つまり闘牛ならぬ闘山羊ですね。
しかし調べてみると「合わす」もあながち間違いではないようです。
というのも、日本では12世紀頃から闘犬のことを「犬合(いぬあわせ)」、闘牛のことを「角合せ(つのあわせ)」と称してたという説も見つかり、「合わす」という言葉自体に「闘う」の意味もあるのでは?と調べると国語辞典には無かったけど、古語辞典にありました!
「あはす【合はす】」の意味の7番目に「当たらせる。敵対させる。」と!。
そういえば「歌合戦」にも「合」の文字が入っていますね。

ちなみに、宮古島でのスタンダードなヤギの呼び方は「ピンザ」。来間島では少し変化して「ピンジャ」。そして沖縄本島や八重山では「ヒージャー」です。
ヒージャーオーラセーは同じく闘山羊の意味で、本島北部の瀬底ではピージャーオーラサイと呼んでいるそうです。そして抽選会ではやはりヤギ1頭が当たる大会もあるそうな。宮古や多良間だけでなく、沖縄ではヤギはお祝いの席でご馳走として振る舞われるので、上等な賞品として喜ばれるのでしょうね。

ピンザアース大会は野外の広場で行われるので、誰でも観ることが出来ますが、私たちを含むほとんどの観光客は会場で1000円のチケットを買います。
このチケットにはオニギリとヤギ汁の引換券、そしてお楽しみ抽選会の抽選券が付いているので最後まで大事に持っていましょう。友人は失くしてしまい、ひもじい思いをして気の毒でした。

さて、ピンダアースは全頭オスで体重別の階級があり、小さなヤギの試合から始まります。中には戦意ゼロの逃げてばかりのヤギもいて、それもまた可愛くて笑いを誘っていました。
決勝戦にもなると、立派な角と角とが正面からぶつかり(正確には額をぶつけ合う)、カツカツと乾いた音を立てて、その様子は草食動物とは思えないほどの迫力でした!。
でも、その2頭の名前はピカチュウ号とイケメン号という、ちっともゴツくない名前。して、結果はピカチュウ号の判定勝ちでした。

さて、決勝戦の後はいよいよお楽しみ抽選会。
商品は島の特産品から電化製品までさまざまなものがあり、中でも一番目を引いたのが、子ヤギでした。
次男はずっとその子ヤギ狙いで、他の賞品のときに番号が読まれないように祈っています。抽選会の最後の最後。子ヤギの当選番号が読まれると、なんと次男に大あたり!。私も一緒に行った友人たちも、超~ビックリです。

次男は早速、子ヤギにメイちゃんと名付けました。メイちゃんはピンダアースの会場から帰る道々、草を食みながらマイペースな足取りで前泊港へ。フェリーではメイちゃんだけ貨物のところにタダ乗りさせてもらい、平良港からは私の軽自動車の後部座席に息子達と一緒に乗り、無事に我が家に辿り着きました。

最初の数日は、毎日息子の友達や先生も見にきてメイちゃんフィーバーでした。が、それも落ち着きヤギとの暮らしも早や1ヶ月半。

だんだんヤギのことがわかってきました。
 ・水は与えないで良い。濡れた草もダメ。下痢をする。
 ・糞は臭くない。水分がほとんど無く、カラッカラで硬い。雨に濡れてもベチョベチョしない。ちょうどフキャギに付いてる小豆みたい。

【フキャギ】
フチャギ・フカギとも。
薄っすら塩味の小豆が長細い俵型のモチの表面に付いているもの。初めて十五夜で食べたとき、おはぎっぽいものかな?と想像して食べたら甘みはまったく無くて衝撃的でした。
これはまた十五夜の頃、改めて掘り下げたいと思います。

ヤギ情報に戻ります。
・草の水分だけで1日何回もオシッコをする。そして臭い。繋いでるヒモにもオシッコがかかり、それを触ると手に臭いが着く。
・寂しがり屋で人懐っこい。メェメェ言いながら付いてきて、まるで1~2歳児の後追いのよう。
・花や葉っぱは食べるが、硬い茎や根は食べない。子ヤギだから?。次回のエサが生えてくるように?。
・草ぼうぼうのところに行くと、体にムツウサの種がいっぱいついてしまう。エサの種を自然と蒔いてる?

【ムツウサ】
宮古のどこにでも生えてくる雑草で、タネが衣類などにくっつく厄介者で、生命力がすごい。
近年はビデンスピローサと呼ばれ、お茶や化粧品などに加工されて、人気の高いハーブにクラスチェンジした雑草(それでも島の人の認識は、厄介な雑草でしかない)。こちらも機会があれば掘り下げでみましょう。

・ずーっと食べている。ウ◯コしながらも。自分で肥料も撒いてる?

もしかしたらヤギは草を食べ尽くさないように本能でコントロールしているのでは?と考えていますが、本当はどうなんでしょう?。
匂いを嗅いで食べない草もあるが、とにかくよく雑草を食べるので、本当に助かります。ビニールハウスのキワの所も食べるし、除草剤を撒くよりずっとエコで地球に優しいと思います。エサ代ゼロだし(笑)。

・高いところ大好き。エアコンの室外機の上もお気に入り。ジャンプしたり後ろ足で立ったりも上手。
・無計画に移動するので、よくヒモが絡まる。ビニールホースにヒモを通すと絡まりにくいと本で読む。ホース買ったけどヒモがうまく通らなくてまだやってない。
・メスでも角が結構伸びてくる。勢いよくすり寄って来ると私の太ももに刺さって痛い。
・毛の色が真っ白だったのにちょっと茶色ぽくなってきた。
・黒目が、細い横長で貯金箱みたいと思ってたけど瞳孔のようだ。暗いところでは黒い部分が大きく丸くなってさらに可愛い。
・犬のような散歩は不要なので楽だが、草があり日陰もあるところに1日何回か移動してやらないといけないので、これがちょっと面倒。
・「ヤギは雨に濡れると死ぬよ!」と色んな方に言われたので、そこに1番神経を使う。

6月の台風のときは思ったより強い雨風だったので、いつもの寝ぐらの東屋から家の玄関(室内!)に避難させるハメに。台風シーズンが到来する前に早く立派な小屋を作ってやらねば。

以上、皆様がヤギ飼う際は参考にしてみてくださいね。

ではまた!あとからね~。  続きを読む


2018年07月03日

第191回 「幸(しあわせ)神社」



先週は偶発的に発見したばかりの碑を勢いにまかせて速報級で紹介してみましたが、今回もやっぱり偶発的に発見した碑を紹介してみたいと思います。ある意味、とれたて産地直送的な(個人的に)鮮度のとても高い石碑です。
しかも、今回はタイトルからして気になる方も多いのではないかと思えるほど、なんともキャッチーすぎる石碑です。

発見時の雰囲気はこんな感じでした。
宮国線から城辺方面にと向かうのに、なんの気なしに入った脇道(移動に時間余裕のある時は、なにか興味をそそるものはないかと、普段あまり通らない道を通るようにしています。宮古は見通しがとてもい良いので、迷うことなんてまずありえないし、たとえ現在地が判らなくなっても少し走ればすぐにリカバリーできるくらい判り易いので)。畑の中に唐突に鳥居が見えて来て、接近するに従って「気になり度数」は爆上げ。思わず鳥居の前で車を停めて、いざ、突撃と相成りました!。

コンクリート製の鳥居と、ブロック塀で囲まれた四角い「神社」の敷地内には、大きなガジュマルと小さな祠がありました。大地は雑草対策なのか、ほぼコンクリートで覆われているので、市街地の御獄のような感覚です(でも、周囲はもちろん畑)。
敷地の左奥の隅(鳥居から見て)にある祠は、敷地に対して斜(はす)に置かれ、スチールの扉が硬く閉じられています。いわゆる御獄的要素の定番である、畏部(イビ)とか香炉などがまったく見当たりません(尚、祠のある位置だけ、一段高く作られている)。

道路に面して建つ鳥居を四角い敷地の中心線とした軸にたとえると、祠の線対称となる位置には、2本の屹立した金属製のポールと、謎めいたサークル状のコンクリート痕があります(鳥居から見て右奥)。
2本ポールは祠に対して備えてあるようにも見えることから、祭祀の時に日除け雨除けのテントでも張るための支柱でしょうか。正体不明の構造物です。また、サークル痕は形状からどことなく井戸を連想させますが、どうやら、なんらかの樹木が植えられていたけれど、枯れてしまいコンクリートで埋めたような感じに見え、こちらも謎の構造物です。

さてさて、肝心の石碑ですが、祠と相対するような位置関係で、ガジュマルの根元に建立されています。
コンクリートの台座の上に、小ぶりの墓石を思われるような雰囲気の黒御影と思われる石材で石碑が作られています。碑文には「幸(しあわせ)神社」と読み方もカッコで書き添えられ、ハイビスカス(?)のような花のイラストも見えます。
なんとも不思議で、現代的な雰囲気です。御獄の神社化は今に始まったことではありませんが、どことなくこれまで見て来たモノとはずいぶんと雰囲気が異なっている気がします。

台座に、この「幸神社」のいわれが記されていました。
幸(しあわせ)神社
平成十五年十月二十三日建立  
 幸神社は、上地マツが村の神様、心の原点である親や祖先に感謝し、村人皆が幸せになることを祈念して、イシドマイ旧ウタキに建立した。
 上地マツは大正元年、下地村字嘉手苅イシドマイの川満家に生をうけ、隣家の上地家の長男に嫁ぎ、貧しいながらねも両家を守って来ました。五人の子どもと十二人の孫、大勢のひ孫に恵まれ、幸せな晩年を過ごしています。
 マツが十歳の頃、母親が屋敷の東側にあったガジュマルの気を示し、神様がこの木にいるから大事にしなさいと教えました。マツはその教えを守って日々を懸命に過ごしてきました。
 生まれ変わった幸神社は、皆が親孝行に務め、村の伝統である豊年祭を継承していくこと、そして村人が幸せになることを願って、上地マツが思いを込めて命名しました。
色々と気になるワードがで出来ました。
まず、この神社が個人の想いから、御獄あった場所に建てられたということも。
なかなか衝撃的です。

いつもの平良市史御嶽編(1994年)を開いてみると、イストマリ御獄(漢字では石泊。イストゥマイとか、イシドマイと表記される)は、現在の幸神社の位置に存在し、老ガシュマルや老デイゴなどの木々が茂る御獄林に囲まていたようです。敷地内には4メートルほど円形の広場があり、祭壇には4つのイビと香炉が3個置かれているとあります(イビと香炉の数が異なるのは、祀られている神が、天神、世の神、大和神、水龍宮で、水の神は火を忌むため香を焚かないので香炉がないため)。
この御獄はヤーバリ御獄(屋原集落の南西)を遥拝しているもので、イシトマリ集落の人たちが拝んでいるが、当時ですでに4世帯しかおらず、祭祀を仕切るサスも那覇に住んでいて、年に一度のシツ(節祭)を執り行うために宮古を訪れるという、限界集落にして限界御獄の様相を呈していました。

【左】コンクリートの謎のサークル痕 【右】狛犬でもシーサーでもなく、龍柱です

想像に難くありませんが、幸神社を命名した大正元(1912)年生まれの上地マツさんは、この神社の碑の建立年平成15(2003)年の時点で91歳という計算になりますから、なかなかの高齢にありました。
また、時期的に見ても集落民の減少、祭祀の継続困難に加え、御嶽編掲載時のイストマリ御獄から耕地整理などもあったと見られ、そうしたタイミングから幸神社へと生まれ変わったのではないかと推察します。
もうひとつ物語の痕跡が御嶽編に記されていました。イストマリ御獄の項目の被調査者が、川満姓の方の名前があり、神社のすぐ西側に2軒並んいる家屋のひとつでした。
碑文に「母親が屋敷の東側にあるガジュマルを大事にするように」伝えたことも符号することから、おそらくそこがマツの実家の川満家であり、隣家は嫁ぎ先の上地家だと考えられます。なにかちょっと熱いものがこみ上げてきました。

最後に地名の話。
マツの実家である川満家は、「下地村字嘉手苅イシドマイ」と記されていますが、現在、この場所の住居表記は「宮古島市上野大字上野字側嶺(ソバンミ)」にあたり、字イストマイ(石泊)は県道を挟んだ向かい側にあります。また、この付近地域の呼称(地域名称)はソバンミと呼ばれており、近年、取り壊されてしまいましたが、もっと西側の福原に側嶺公民館跡があります(元公民館を発見した時点で、すでに農機具小屋に払下げられていた。その後、字公民館は設置されていない)。
また、大字の部分が「下地村嘉手苅」とあるのは、昭和23(1984)年に下地村から上野村が分村した時代まで溯ります。分村した上野村は従来の新里・宮国・野原の3大字と、新設された大字「上野」で構成されますが、この新しい「上野」は、ソバンミを含む嘉手苅の東部(ヤーバリ、ガーラバリ)にあたる区域でました。
下地から上野が分村し、さらに嘉手苅は東西に分離して新しい大字が誕生したことは、明治の町村制施行後、宮古では初めてのことでした(村名としても実は同様)。  続きを読む