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2015年07月31日

金曜特集 「うむいかーどぅある台湾」



毎週金曜日にお届けしている「月イチ金曜コラム」は、週替わりで4名のライターさんにコラムを執筆していただいておりますが、時に暦のいたずらで金曜日が5週あることがあります。そんな月は玉石混淆なゲストライターさんのスペシャルなコラムをお楽しみいただいております。
今月は先島のもっとも西の端にある国境の島・与那国から海を越えて届いた、とても興味深い知られざるエピソードです。

こんにちは。今回はゲストライターということで、私、小池が担当します。
私自身は沖縄、特に先島の戦後の歴史に興味があり、特に台湾との関係から終戦直後に行われたという、いわゆる「密貿易」に関心をもって調べています。「密貿易」というと何やら物騒なイメージを持たれますが、私が調べているのは特にサンフランシスコ講和条約が発効される頃までの、主に台湾と沖縄との間で行われた生活物資のやり取りについてです。
もちろん中には現在の犯罪と変わらないような密貿易もあったと思いますが、多くは台湾で作られた米などの食糧品を戦争で食糧不足に陥った沖縄側に運ぶ、つまり戦後復興のひとつの手段としての「密貿易」であっただろうと考えています。 

今回は私が調べた中から、その「密貿易」に巻き込まれたある宮古出身男性とそのご家族の物語について、ご紹介したいと思います。
まず、沖縄の戦後「密貿易」研究の第一人者である沖縄国際大学名誉教授の石原昌家先生が書かれた『空白の沖縄社会史』(晩聲社、2000年)の192頁に、こんな記述があります。
 『沖縄タイムス』(1952年10月17日付)によれば、―1950年2月24日、日本船日吉丸の臨時職員として雇われた宮古出身者が、久部良港から台湾密航のため出港した。その日の夜、台湾に着いたが警戒厳重のため上陸できず、断念して与那国に引き揚げようとした。だが、嵐にあい台湾沿岸に漂着し、監視艇に検挙された。軍事裁判にかけられ服役していたが、家族からの嘆願もあって、52年10月15日に台湾から強制送還されてきた。
この本で紹介されている記事に関して、当時の連合国総司令部(the Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)に関する公文書の中に類似する事件が報告されていました。これは占領下にあった当時の琉球列島に関する政策の調整を行う琉球民政局の記録として残されているものです。
その概要はこうです。ある宮古の女性が、警察に請願書を提出しました。それが当時の「南部琉球臨時政府」を通じて、1950年10月31日に「南部琉球宮古軍政府長官」宛に送られています。
その請願書の内容は、宮古で失業した彼女の夫が、生活の糧を求めて与那国島に渡ったところ、そこでも仕事がなく、たまたま同じ宿に居合わせた日本本土から台湾へ向かう途中のタケダという船主に、自分の船に船員として乗らないかと誘われ、即決で乗ることにした。
しかし、船は台湾に向かう途中嵐に遭い、火焼島(現在の緑島)付近で錨を降ろしたところ、台湾の当局に違法取引の罪で逮捕された。台湾当局は彼に台湾花蓮(kwarenko)県の刑務所での禁固25年の判決を言い渡し、船舶及びシャツ編み機、ヤンマーエンジンが没収され、他の船員は解放された。
彼はある程度罪を認めてはいるが、「密貿易」という危険な事業のために台湾へ行こうとした意向は、彼にではなく船主であるタケダにあるのであり、彼に対する罪は重すぎる。そのため、この件について適切な機関により十分に調査し、再検討されることを切に要望する、と記されていました。

当時の与那国島は「密貿易」で賑わっていたため、上述の石原先生の本などで、荷役などの仕事を求めて多くの人が与那国島に集まっていたことが指摘されています。台湾で捕まった彼女のご主人も、そのような仕事を求めて与那国島に渡ったのでしょうか。
また、石原先生が紹介された新聞記事と、琉球民政局の記録が関連すると思われるのは、事件のあらましが似ているからというだけではありません。新聞記事のなかでは捕まった船は「日吉丸」と書かれていますが、琉球民政局の記録では船名が「Hiyashi Maru」と書かれていました。これは「日吉丸」の訳し間違いかもしれません。
もし、このふたつの記録が同じ事件を指しているならば、1950年の2月24日に与那国を発って、台湾で捕まってしまった彼女の旦那さんは、彼女が少なくとも同年の10月31日までに再調査の請願書を出したことによって、その後の詳細はわかりませんが減刑され、2年後の1952年10月15日に沖縄側に戻ってくることができた、ということになります。
台湾で一度確定された刑がどのように減刑されたのか、そこに宮古や沖縄の軍政府、またSC
APがどのように関わっていたのか興味のつきないところですが、彼女たち家族が生きていくために相当な苦労をしたことと、もしかしたら一生生き別れになるかもしれなかった家族を取り戻すため、多くの人が尽力したことが想像できます。つづきはまたいつか、どこかでご報告したいと思います。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2015年07月28日

第41回 「730記念之塔 砂川学区交通安全協会支部」



復帰から6年目の1978年7月30日。沖縄全県で一斉に道路交通法が改正され、米国式から日本式の「人は右、車は左」へと変わりました。この交通方法の変更を告知するキャンペーンとして広く使われた「ナナサンマル」の名を冠した、「730記念之塔」について様々に回は紹介しました。
那覇、石垣、宮古の各地にひとつずつ設けられたナナサンマルの記念碑ですが、宮古にはもうひとつの「730記念之塔」があるのです。
場所は砂川小学校前バス停脇(小学校の北西角、砂川駐在所の向かい)にあります。

三角柱の上に三角錐を載せたコンクリート製で、塔頂部の三角錐の部分にはナナサンマルのシンボルマークが三面とも描かれています。本体部分の道路側(南面)には、交通啓蒙の標語「手をあげる幼い信頼裏切るな」と、ナナサンマルの解説文(北側)が描かれています。
沖縄県の日本復帰に伴う道路交通法変更により、昭和五十三年七月三〇日午前六時三〇分を期して実施された。全国一交通安全な郷土たる事を願い、この交通事業を記録する。
砂川学区交通安全協会支部
このナナサンマルの解説文は熱帯植物園前の「730記念之塔」の碑文から流用されていることがよく判ります。

残る一面(学校側)にはこの碑の建立に関係する情報が記されていました。
ただ、惜しいことにペンキ書きの文字はコケがこびりついて、残念ながらちゃんと読むことが出来ないのです。

上段はナナサンマル指導要員として活躍したと思われる、当時の砂川学区交通安全協会支部のメンバーが、支部長、副支部長に続いて、友利、砂川、下北、下南(下北・下南は下里添の小字)の4集落の担当と、駐在さんの名前が記されています。
そして下段には昭和63年度役員として支部長以下、砂川学区交通安全協会支部のメンバーと、駐在の名前が書かれており、ここから推察するに、ナナサンマルから10年という節目に砂川学区交通安全協会支部が独自にこの記念碑を建立したものと考えられます。

字名が判明して砂川小中学校の学区が、南部の海岸部から北は県道246号線(城辺下地線)付近までの南北に細長い学区だと気づきました(広大な学区ではあるが、2015度の生徒数は約60名)。これは西側の丘脈を境に旧上野村に接しおり、東側の丘脈の向こうは西城小学校の学区(西里添)には挟まれていることも関係しているかと思います。
そしてこのエリアは海岸部を除き、おおむね砂川地下ダムの上にあり、起伏がほとんどありません(むしろ海岸部から中央に向けて緩やかに凹んでいる)。そのためとても遠くまで見通すことができ、山のない(実際にはあるが)宮古島の広がりを体感することが出来ます。以上、オマケの地理的な考察でした。
【画像】西の丘脈の中腹から東方向を望む(右端付近が砂川小)  続きを読む



2015年07月24日

その3 女たちの味噌づくり



宮古の料理に味噌がかかせない。
豚の味噌煮も魚汁も、カツオ味噌も肉味噌も、もちろんタテ汁も宮古の麦味噌がなければ成立しない。刺身ですら、漁師たちは味噌で食べるのを好む。材料は大豆と麦と塩だが、麹のつくり方や手順など、作り手によってさまざまで、それが風味の個性になる。

少し前まで、味噌作りは“ゆいまーる”。臼と杵で大豆をつぶす作業は大仕事で、集落の女たちが共同でおこなっていた。味噌の個性は代々引き継がれてきた地域の伝統なのだ。ミンチの機械が導入された今も、味噌の仕込みは1日がかり。親戚や近所の人々が、次々と助っ人にやってくる。

麦を寝かせたら、出産にも葬式にもいかないよ
病院に行ってもいけないよ
そんなにしたらね、麹はたたないよ(麹はできないよ)


味噌名人、池間のミエコさんも、佐良浜のミヨさんも、味噌作りの禁忌として同じことをいう。麦に麹づくりの間は、義理を欠いても許される。
そして何より日取りが大事で、味噌を仕込む日は、ミエコさんは“戌の日”と“子の日”と自分の干支の日を避け、ミヨさんは“午の日”と“未の日”と、やはり自分の干支を避ける。「わからないけど、そうなってるよ」がその理由だ。

ミエコさんはいう。
「どうしても病院に行かないとならんことがあってね。そのときは、味噌は腐れてしまったよ」
ミヨさんもいう。
「一度だけ、麦を寝かせてからお葬式に行ったことがあったよ。麹がたたないでべったべたになったよ」
経験は禁忌に説得力を持たせ、語り継がれて、それはさらに強固になるのだ。

麦は麹菌がついて麹に変わる。その麹の力で大豆が発酵して味噌になる。
今では麹そのものを購入して手軽に手前味噌を作ることもできるけれど、ミエコさんもミヨさんも、変わらず、炊いた麦を寝かせて麹をたてる。「ずっとそうやってきた」からだ。

麦はよく日に当てて乾燥させて
海水をかけ、上にススキをのせて
この古い箪笥に寝かせるさ


それがミエコさんのやり方だ。
一方、ミヨさんは『ッキ』と呼ばれるクサトベラを使う(最近は失敗の少ない種麹を使うことが多いとはいう)。寝かせる場所は押し入れの中だ。城辺のおばあは、ススキでもクサトベラでもなくバナナの葉を乗せると聞く。
クサトベラ。宮古では「スーキー」とも呼ぶ植物には、麹菌や酵母菌などの微生物が無数に宿る。仕込みに使うムシロやタンスにも、多分それらはついている。発酵の専門家は、味噌でも酒でも、風味を決めるのはそこに含まれる酵素だという。池間には池間の、城辺には城辺の味があるのは当然なのだ。

発酵のメカニズムは、科学的にある程度説明されるとはいえ、麦がじっくりと美しく緑色の麹に変わるのも、仕込んだ大豆が半年後には香ばしい味噌になるのも、やはり不思議なことだ。味噌作りは、本来、自然の聖なるものと向き合う儀式。女たちの味噌は、神秘もまるごと含めて熟成される。  続きを読む



2015年07月21日

第40回 「730記念之塔」



沖縄の五月は「復帰の日」。沖縄の六月は「慰霊の日」。そして沖縄の七月は「ナナサンマルの日」。ということで、少し早いですが今回はナナサンマルの碑を取り上げてみたいと思います。

沖縄県の日本復帰に伴う道路交通方法の変更は、53年7月30日午前6時30分を期して実施された。これを機会に日本一交通安全な宮古島になることを願いこの変更事業を記録する

宮古地区交通安全協会
宮古市町村長会   
(施工:宮古建設)
ナナサンマルは沖縄県において日本への復帰後6年目にあたる1978年に、自動車の対面交通が右側通行から左側通行へと変更することを事前に周知するため実施されたキャンペーン名称で、ナナサンマルの呼称は変更施行月日である7月30日に由来しています。
宮古島のナナサンマルの記念碑は宮古島市熱帯植物園の前に建立されていいます。以前は隣に立つ木々の影に隠れ知る人ぞ知る記念碑でしたが、ある日突然、ばっさりと木が根元から切られ、謎のお地蔵さんが脇に安置され、さらに碑の向きを土台ごと180度回転させるという大改築までなされ、過去の趣きからは大きく刷新されました。

ナナサンマルは全県域に渡る大規模な改正で、大々的なキャンペーンと大がかりな準備が行われたので、今も様々な記録と記憶と資料が残っています。

◆「沖縄730 道の記録」(沖縄県土木部) 動画(30分)
なかなか見ごたえのあるドキュメンタリーです。在りし日の沖縄の風景が見ることが出来るも楽しいです。
  科学映像館YouTube

◆ナナサンマル車(バス)
今やわずかとなったナナサンマル時代に導入されたバス(当時は新車だった)。東陽バスと沖縄バスにそれぞれ一台つづ動態保存されており、定期的に営業運転も使われています。
  東陽バス 動態保存車両 日野RE101
  東陽バス公式DEEokinawa/【730】ナナサンマル車でGO!

  沖縄バス 動態保存車両 三菱MP117K
  沖縄バスのナナサンマル車ナナサンマル車(沖縄バス)
  ※バスマニアレポート

730告知ポスター ※クリックで大きくなります。
よーくみると、ちょっとニヤリとしてしまうポスターです(笑)。

ナナサンマルの記念碑は宮古以外の地にも建立されているので、そちらについても簡単にふれておきたいと思います。

【左】 那覇市 県庁の裏手の敷地にあります(地図)。
【右】 石垣市 旧離島桟橋のそば、「730交差点」としても有名です(地図)。

記念碑の紹介に絡めて、色々なナナサンマルのネタを披露してきましたが、このままで終わらないのが「んなま to んきゃーん」です。
実は宮古島にはもうひとつ、ナナサンマルの碑が存在するのをご存知ですか?。次週は、知られざるナナサンマルの碑に迫りたいと思います。お楽しみに!。  


2015年07月17日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第三話



ある方から、「続ロベ」という略称までいただくようになった「続・ロベルトソン号の秘密」。あまり小難しい話はやめて、気軽に読めるよう、順風満帆に航海したい、と思ってはいるものの、ついついニッチな話題にはまり込み、八重干瀬に座礁する異国船の如く(?)抜け出せなくなってしまいます。そんなわけで、今回も風まかせに航海を進めて、太平山を目指したいと思います。

今回は、前回のブログに登場した「江崎悌三先生」をクローズアップ。キーワードは「解体新書から博愛記念碑へ」です。

あまりに突拍子のないつながりに、驚かれた方もいると思いますが、「解体新書」とは、そう、小学校で習ったあの『解体新書』、オランダ語の本『ターヘル・アナトミア』の翻訳書のことです。これと博愛記念碑とが、江崎先生を介して繋がる、というのだから面白いものです。

そもそも江崎悌三氏は、本来の理系の研究者、詳しくは昆虫の研究者でいらっしゃいました。例えば『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説によれば、
江崎悌三(えさき・ていぞう、1899-1957)
昆虫学者。東京に生まれ。1923(大正12)年、東京帝国大学理学部動物学科卒業。同年九州帝国大学助教授。1924(大正13)年、昆虫学研究のためヨーロッパに出発。1928(昭和3)年帰国。1930(昭和5)年、九州帝国大学教授、理学博士の学位を受ける。
その後、九州大学農学部長、教養部長、日本学術会議会員、日本昆虫学会会長、日本鱗翅(りんし)学会会長などを歴任した。水生半翅類分類の世界的権威で、国際昆虫学会議常任委員として国際的に活躍。昆虫全般、動物地理学、動物関係科学史にも造詣が深く、全国の昆虫研究者の尊敬と信頼を集めた。水生半翅類の分類のほか、日本とその近隣のチョウ、ミクロネシアの動物相、ウンカの生態などの研究に貢献が大きい。
『日本昆虫図鑑』『動物学名の構成法』『土壌昆虫の生態と防除』『太平洋諸島の作物害虫と駆除』などの著書がある。(コトバンクより)
とあり、その道ではかなりの泰斗であったことが窺われます。では、なぜ「ロベルトソン号」の史実と関わって来るのか、という謎なのですが、それを解くカギが、九州大学附属図書館のホームページに記載の彼の年譜にありました。
江崎悌三博士年譜
1899年 東京に生まれる
1923年 東京帝国大学理学部動物学科卒業。
    九州帝国大学農学部助教授に着任
1924年 昆虫学研究のため、渡欧
1928年 ドイツにおいてシャルロッテ・ヴィッテと結婚する。
    在外研究より帰国
1930年 九州帝国大学教授に任ぜられる 
1948年 九州大学農学部長に補される(-1950)
1950年 動物命名法国際委員会委員に選ばれる 
1951年 日本昆虫学会会長に就任。以後、没年まで歴任する。 
1955年 九州大学教養部長を命じられる(-1957) 
1957年 肺癌のため、福岡県大宰府町(現太宰府市)の自宅で逝去。
    享年58歳。勲二等に叙し、瑞宝章を授かる。
    特旨を以って正三位に叙せられる。
そう、先生のご夫人は、在外研究中に知り合ったドイツ人ということで、江崎先生もかなりドイツ語に堪能だったようです。彼が『南島』第3輯に掲載した論文で、ドイツ語資料をフル活用できた理由も、この辺にあったようです。他方で、江崎氏と宮古島の出会いについては、まだ詳細はわかっていないのですが、おそらく昆虫研究の一環で宮古島を訪れた際に、ロベルトソン号の史実に出会い、このテーマを自身のドイツ語力を駆使して掘り下げてみよう、と考えた、といったところではないでしょうか。

江崎先生は、1936(昭和11)年11月の「博愛記念碑60周年式典」にも出席していますが、その時はドイツ側来賓のトラウツ博士と共に、福岡から空路で(!)那覇へ入り、その後大阪商船の「湖北丸」で宮古に向かっています。復路も、那覇までは同一行程だったことが確認できています。ですから、トラウツ夫妻にとって、ドイツ語の堪能な江崎教授の存在は心強かったと思いますし、江崎氏にとっても、帰国後なかなかドイツ語を話す機会のなかった日本で、ドイツ人と旅を共にするよい機会に恵まれたと言えそうです(もっともトラウツ夫妻には、他に通訳として京都大学出身の津田さんという方も同行していていますが)。

なお、夫人の江崎(旧姓Witteヴィッテ)シャルロッテさんについては、興味深い数々の逸話が、あるブログでアップされていますので、こちらをご覧下さい。
江崎悌三夫人・シャルロッテ/かささぎの旗

例えば江崎氏が

一年間、三百六十五日シャルロッテさんに恋文を送り「東洋の果てに一人娘はやられん」という父親をくどいて、出身地の西独ウェストファーレン州ヘルフォルト市で挙式

という下りなど、二人の一途さが伝わってきます。あるいは、シャルロッテさんが「日航の操縦士を務める息子が人質に取られても、本人は少しも騒がず、大阪万博を見物」というのも、すごい肝の座りようで、なかなかの真似できるものではありません。

さて、江崎夫妻については別のブログにお譲りして、解体新書に話を近づけましょう。江崎氏は、「乙骨太郎乙」(おつこつ・たろうおつ)という幕末・明治初期の蘭学者の孫なのですが、この乙骨は、彼が師事する杉田成卿(すぎたせいけい:1817-1859)の娘「つぎ」と結婚しています。杉田成卿は玄白の孫に当たるため、「つぎ」は玄白の曾孫になります。つまり江崎先生の祖父が乙骨太郎乙、祖母が「杉田つぎ」となり、杉田玄白から見ると、江崎は5代目の子孫ということになります。
乙骨太郎乙(おつこつ・たろうおつ、1842-1921)
幕末・明治時代の英学者、翻訳家。天保13年生まれ。乙骨耐軒(たいけん)の長男。杉田成卿(せいけい)に蘭学・英学を学び、その娘つぎと結婚。元治(げんじ)元年開成所の教授手伝並出役となる。明治元年沼津兵学校教授。11年海軍省御用掛となり、翻訳に従事した。大正10年7月19日死去。80歳。江戸出身。名は盈(えい)。号は華陽。
ここで改めて、杉田玄白先生とその業績を振り返っておきたいと思います。杉田玄白は1733(享保18)年、若狭(現在の福井県)小浜(おばま)藩の蘭方医の子として江戸牛込の藩邸で生まれ、1753(宝暦3)年に父と同じく小浜藩の藩医となります。数え年39歳の1771(明和8年3月4日(旧暦)、江戸千住骨ケ原(小塚原)で前野良沢(まえの・りょうたく)、中川淳庵(なかがわ・じゅんあん)らと共に、腑分け(ふわけ、つまり解剖)に立ち合います。これがもとで彼は、『ターヘル・アナトミア』と当時日本で呼ばれていた解剖学書の翻訳を思い立ち(一説には翌日から着手)、前野、中川と3年間の訳業に取り組み、1774(安永3)年、『解体新書』刊行に漕ぎつけたのです。

さて、以上の経緯には、宮古やドイツとの関わりで特に興味深いふたつの点があります。ひとつ目は、玄白先生が解剖に立ち会った日付。敢えて旧暦で明和の元号を使ったので、ピンときた人もあるかもしれませんが、実はこの6日後の明和8年3月10日に、後に「明和の大津波」と名付けられた津波の元凶となった「八重山大地震」が発生しています。偶然のこととはいえ、玄白と宮古の間に何か縁を感じてしまいます(当時の琉球は中国の暦を使っていたため、乾隆36年となります)。
そして二点目は、玄白らが翻訳した『ターヘル・アナトミア』が、実はヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus, 1689-1745)というドイツ人の書いた解剖学書Anatomis
che Tabellen(『解剖図譜』)のオランダ語版Ontleedkundige Tafelen(ontleedkungigは「解剖学の」、tafelは「表、一覧」)だったこと。翻訳の翻訳を重訳(じゅうやく)と言いますが、玄白らは、オランダ人医師ヘラルド・ディクテン(Gerard Dicten)がドイツ語から訳したオランダ語版からの和訳をすることで、クルムスの著書を重訳していたことになります。なおディクテン訳による『ターヘル・アナトミア』原書(Ontleedkundige Tafelen)は、デジタル版が公開されています。

玄白が、自らが訳した著書の「種本」がドイツ語だったと知っていたかは不明ですし(一部の蘭学者は、オランダ語に似た「日曼=ゼルマン」なる言葉があるらしいことに気付いていた)、明和の大津波の被害をどの程度把握していたかも不明ですが、とにかく、玄白の同時代に甚大な被害を受けた宮古島を対象にした研究、それもドイツの船の遭難救助についての研究を、玄白の5代後の、ドイツ人と結婚した子孫が、ドイツ語を駆使して進めた、ということで、何となく『解体新書』から「博愛記念碑」へと、一連のことがらが(かなり強引ですが)紆余曲折の末にひとつの線でつながったような気がしているのですが、いかがだったでしょうか。  続きを読む


2015年07月14日

第39回 「青雲の志」



先週の「池間小学校発祥の地」(奉安殿)に続く池間小学校ネタ。それも百周年を記念した石碑になります。発祥の地を訪ねた後(正確には奉安殿を見に行った)、なんとなく予感がして池間小学校に立ち寄ってみると、プールの脇に「青雲の志」と揮毫された立派な石碑が建立されていたのでした。
 碑の解説文
「記念碑によせて」
池間小学校は、明治28年池間島の東南海岸“スクニャー”と呼ばれる地に茅葺校舎を建て、西辺尋常小学校池間仮分教場として始まった。
その後、明治36年4月19日県令第15条により池間尋常小学校と改称され、池間における普通教育が始まった。これが池間小学校の創設の年である。
以来、大正10年4月に池間尋常高等小学校と改称され、昭和13年には現在地のユニムイ原に移転し、昭和16年に池間国民学校、昭和20年に池間初等学校、昭和23年に池間小学校と改称され現在に至る。
その間、幾多の困難を経ながら、祖先から受け継いだ勇気と粘り強さの精神をもって教育の道に邁進(まいしん)し、あらゆる文やで貢献する多くの人材を生み、親しみのある地域の学校として、その伝統を築き隆々発展してきた。これは偏(ひとえ)に、歴代の学校職員並びにPTAの皆様をはじめ、地域の先輩諸氏の御理解と御熱意賜物である。
この学校創立百周年という節目に当たり、これまでの歴史と伝統を祝福すると共に本校の限りない発展を祈念し、ここら記念碑を建立する。
平成16年11月28日         
池間小学校創立百周年記念事業期成会 
会長 与那嶺誓雄          
※読み仮名を加筆しました。

この「青雲の志」は2004(平成16)年の百周年の記念に、発祥の地の碑とあわせて建立されたようです。
ちなみに「青雲の志」とは、『立身出世して高い地位につこうとする志。また、行いを清くしようとする心。』という意味だそうです。
尚、現在池間小学校は2011(平成23)年に新校舎の建て替えが完了し、中学校併置の「池間小中学校」に生まれ変わっています。

【池間小中学校の沿革まとめ】
明治28年(1895) 西辺尋常小学校池間仮教場(9月10日) ※1
明治34年(1901) 小学校令改正により池間分教場に改組(4月1日)
明治36年(1903) 池間尋常小学校、創立(4月19日) ※2
昭和10年(1935) 池間尋常高等小学校に変更 ※3
昭和16年(1941) 池間国民学校に改称 ※4
昭和23年(1948) 池間小学校に改称
         平良南中学校池間分校が設立 ※5
昭和24年(1949) 池間中学校として独立し、池間小学校に併置され池間小中学校となる。
昭和28年(1953) 池間小学校創立50周年
平成11年(1999) 池間中学校に専任校長が置かれ、小中学校が分離独立される
平成16年(2004) 池間小学校創設100周年
平成23年(2011) 小学校と中学校が再び併置され、池間小中学校となる。

 ※1 西辺尋常小学校は明治19年に創設され、明治15年創設の北小・平一小に次ぐ歴史がある。
 ※2 百周年はこの日を小学校創設の基準としている。
 ※3 義務教育の6年化に向け、小学校令により高等科が増設された。
 ※4 国民学校令で昭和19年から22年にかけて存在した。
 ※5 学校の枠組みが変更され、初等科が小学校に、高等科・特修科が中学校に分割。


最後に余談として、池間小学校の校史に散見された、ちょっと気になった人物を何人か紹介しておきたいと思います。

大正12(1923)年6月15日
京都大学教授理学博士 小泉源一(1883-1953)他5名、植物採取に来島し校舎に一泊。
~日本の植物分類学の基礎を築いたひとり。

昭和2(1927)年6月17日
鎌倉芳太郎(1898-1983)講話(ただし、女子教諭と注釈があるので本人ではない?)。
~染色家。人間国宝(重要無形文化財「型絵染」保持者)。

昭和11(1936)年11月10日
国民精神文化研究所 河村只雄(1893-1941) 家族制度研究のため来校。
日本の社会学者。縄、南西諸島、台湾の民俗学的調査を行った人物で、この時は6日から13日まで滞在後、八重山へ(その後、昭和13年、15年にも来島する)。
翌14日より独逸皇帝感謝碑六十周年記念式典が開催(トラウツ博士ら一行と入れ違い)。

昭和25(1950)年10月30日
森田眞弘(1912-1980)の講演
池間小学校の卒業生。中央大学を卒業後、水産系の行政を渡り歩き、沖縄の水産業振興に尽力した人物。また、宝山曽根の宝石珊瑚漁を開拓した。主な著作に「仲間屋真小伝 池間島漁業略史」(1961)がある。
※「宮古教育誌」宮古連合区教育委員会(1972年刊行)より


【資料】
宮古島市立池間小中学校  続きを読む


2015年07月10日

金曜特集「宮古 DE 東京」



月イチ金曜コラム第二週「東京 de 宮古」を楽しみにいていた皆様ごめんなさい。
先週の「みやこのこよみ」の“産休”に続き、今週は江戸之切子さんが“熱発”のため、休載となります。さまかの二週連続の代原はやりくりがつかず(ついでに颱風チャンホン9號来襲中でもある)、お茶を濁すようなネタだけで乗り切ってみたいと思います。
そこで休載となった本編である「東京 de 宮古」をひっくり返して、「宮古 de 東京」なんてモノをやってみました(嗚呼、もう出落ちだよ・・・)。

で、コレでちゃったら、もうナニしようとしているか判っちゃいますよね(笑)。
ええ、そうです。宮古島にある「東京」っぽいモノを探してみたっていう軽いネタです。
だから、「宮古 de 東京」なんです。ハイ。ほんっと単純でごめんさない(汗)。
というこで、気を取り直してひとつ目。
『CLUB 有楽町』

こちらはイーザトにある、老舗の有名店です。
夜のクラブ活動などはしないので、行ったことはありませんが、こんな感じでピアノがあるお店のようです。

出落ちが「有楽町」だっただけに、近所には「銀座」もあるのですが、どうも看板がなく、入口も閉まっており、HPも閉鎖されており、もしかしてコレは閉鎖なのでしょうか?(島に住んでいると宿情報に疎くなるので、旅人の方からの情報をお待ちしています)。

ホントは宮古で有名な「東京」の名を持つ有名なこのふたつで押し切ろうと思っていたのですが、ちょっとそうもいかなくなったので颱風前に仕込んできました(爆)。では、続きをどーぞ!

ふたつ目はド直球。
『東京靴流通センター 宮古島店』

まあ、内地でもロードサイドでよく見かける系のお店なので、特段の珍しさはありませんが、最近、東京でも人気らしいというあやしい噂のある、「ギョサン」が、ここにはワゴンでいっぱい並んでいます。
しかも、オーソドックスな“大人”カラーから、ラメの入ったハデな色彩の“きゃわわ”な奴まであります。その上、東京価格の半額で買えるので、島のお土産にいかがですか、ギョサン(笑)。

3つ目。
『麻布十番犬猫クリニック 宮古島分院』

こちらはしばらく前に、城辺線ぞいにオープンした動物病院です。なんとなく宮古島にありがちなポイポイな名前をつけた動物病ではなく、ちゃんと麻布十番に本院があるホンモノの分院でした。
さすがはトーキョー1の日常会話が聴ける町、麻布十番ですね(謎)。


最後はこちら。
『BER 東京』

そのものズバリなネーミングです。
場所はやっぱりイーザト(CLUB有楽町の近所)にあります。
看板を中心とした画像になっていますが、オレンジに紫というなんとも素晴らしい色彩の建物のカラーリングがたまりません。
ちなみにネットを検索してもこのお店はヒットすらしませんので、我こそは云う方がいましたら、ぜひ入店レポートをお願いします。

以上、アカデミックさのかけらを微塵も感じさせない、Z系な金曜特集でした。
≪モリヤダイスケ≫
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2015年07月07日

第38回 「池間小学校発祥之地」



月替わりのご当地石碑シリーズは、一応、宮古島市内をひと回りしたので今月はひと休み。今回は池間で見つけた教育発祥の地シリーズ(上野村教育発祥之地伊良部公教育発祥之地下地小学校発祥之地)を紹介したいと思います。
場所は集落の西側、スクニャーと呼ばれる海から少し登った低い丘脈の上にあり、前里ムトゥの西側にある小さな岬へと連なっています。また、ここは前里村番所があった場所でもあり、隣接してミヤーカ(巨石墓)を抱えたトゥヌガナス御嶽があるなど、どことなく集落の重要な土地であったことを伺わせます。

池間小学校の沿革によると、1903(明治36)年に池間尋常小学校としてこの地に創設され、1938(昭和13)年に現在のユニムイ原へ移転するまで、小学校はこの地(途中、何度か拡張されたらしい)にありましたが、現在は雑草が生えた原っぱに百周年で建立された小ぶりの記念碑が建っているだけにすぎません。
石碑の紹介としてはこれで終わってしまうのですが、それだけではここはちょっと惜しい場所なので、石碑とはやや方向性がズレてしまいますが続けてみたいと思います。

この記念碑の隣り(画像ではバックに写りこんでいる石垣の向こう側)に、かつては大きな木々が茂っていたトゥヌガナス御獄があるのですが、この御嶽の入口(小ぶり鳥居がある)の部分に無残にも破壊された遺構がぽつんと建っています。

この遺構は県内だけでなく全国的にも数少ない、旧池間小学校の奉安殿(ほうあんでん)跡というものです。
1890(明治23)年に教育全般の規範として発布された、教育勅語(教育ニ関スル勅語)をもとに、主に戦前に行われていた政府の教育方針で、奉安殿は天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納め、保護する建物として学校に作られ、登下校時などに奉安殿の前を通過する際は、職員生徒すべてが服装を正してから最敬礼するように定められていました。

また、四大節祝賀式典(元日、紀元節、天長節、明治節)の際には、職員生徒全員が御真影に対しての最敬礼を奉り、教育勅語の奉読をする儀典が催されていました。特に戦中から終戦にかけて、職員生徒はこれに翻弄されることとなります。
戦後、本土では1947(昭和22)年に教育基本法が施行され、教育勅語は学校教育から完全に排除されますが、米軍政権下となった沖縄ではどのような動きがあったのかと云うところまでは、ネタが大きくなりすぎて調べきれませんでした(後に民政府が設立され琉球教育法が発布されるが、教育勅語については特に触れられていなかった)。

そして残念なことに旧池間小の奉安殿は戦後、何者かによって無残に破壊されてしまい、このような姿となってしまいました。
そんな一方で、沖縄市美里国民小学校跡(現・童養護施設美さと児童園/市指定文化財)や、本部町謝花国民学校跡(現・本部町営謝花団地/町指定文化財)、石垣市登野城小学校(県内では唯一、現存する学校に設置されている/市指定文化財)などの奉安殿は、公共の財産として文化財に指定され現在も保存されています(昭和16年に尋常小学校から国民小学校に改称されているので、呼称を統一しました)

中でも石垣市の登野城小学校の奉安殿は、旧池間小の遺構の残存部分が酷似しているので、かつてはこんな感じだったのだろうと妄想を上乗せしておきます。

池間小学校の校史を紐解いてみると、奉安殿(御真影)に関する記述がいくつか目に留まったので、最後に列記しておきたいと思います(これ以外にも四大節などの行事もある)。
1928(昭和3)年9月6日 奉安殿 工事竣工
1928(昭和3)年10月20日 奉安殿御真影奉載 奉載祝賀会
1928(昭和3)年10月22日 在郷軍人御真影拝賀
1931(昭和6)年2月5日 御真影奉迎 拝載式挙行
1931(昭和6)年4月9日 御真影奉還式挙行
1932(昭和7)年4月28日 教育者ニ賜ハリタル勅語伝達奉載、奉読式挙行
1983(昭和8)年9月17日 暴風ニツキ御真影ヲ校長宅ニ安置シ奉ル
1983(昭和8)年10月19日 御真影ハ勝連氏宅ニ遷ス。21日奉遷ス
1938(昭和13)年2月3日 新校舎移築のため仮校舎にて授業。
             四年生以上は共同削場を教室としていた。
1938(昭和13)年6月7日 新校舎ヘ移転ス(学校のみ移転した模様)
1940(昭和15)年11月1日 教育勅語換発五十周年記念式挙行
1944(昭和19)年10月31日午前7時半 御真影 宮古中学校(現・宮古高校)へ奉遷
1944(昭和19)年11月1日 御真影宮古中学校ヨリ宮古郡御真影奉遷所へ奉遷
1944(昭和19)年12月29日 砂川教頭 奉護当直ノタメ郡御真影奉遷所へ出張

※「宮古郡御真影奉遷所」は野原岳の北側に作られた壕で(颱風マエミーで入口が崩落)、宮古郡教育部と軍当局が協議し、御真影の安全のため各学校から集めて疎開をさせた。御真影壕は教職員が交代で24時間奉護をしていたという(沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅴ 宮古諸島編 沖縄県立埋蔵文化財センター 刊行より)

【資料】
宮古島市立池間小中学校
「奉安殿 国文化財に」 戦争遺構研が本部町調査(琉球新報 20130206)
登野城小の奉安殿、市文化財に指定 石垣市教育委員会(八重山毎日新聞 20081101)  続きを読む


2015年07月03日

金曜特集「だいずばかーふりかえってみたよ~心に残った三名言」



本来であれば第一週の金曜なので、本村佳世の「みやこのこよみ」をお届けするところなのですが、先日、お子さんが生まれまして産休とあいなりましたので、今回は代打コラムとなります(金曜特集扱い)。ですが、予想を超える大作が届きました。色々と唸ったり、うなづいたり、ハッとさせられたり・・・。ともあれ、じっくりお読みいただければ幸いです。

※     ※     ※

ピンチヒッターの宮国です。

かよちゃんに子どもが生まれたので、なんともうれしいことで、やらなきゃいけないことがあっても、まずはかよちゃんの代打を最優先!と思い、書いております。関係各所のみなさん、仕事が遅くてすみません。

世の中の一番の「ぷからすむぬ(喜び)」はなににおいても、子どもの誕生さいが。まーんてぃ、ばんまいおばーになりどぅ(ほんと、私もあばーになったみたい)。

なにを書くか!はい、どーするか、まず!と、またしても方言になってしまいますが、書く事は実はたくさんあるのですよね。書く時間がないだけで。

今回は、私が最近このプロジェクトで感じた事をみっつにまとめました。
6月の講座での伊志嶺敏子さん(伊志嶺敏子一級建築士事務所 代表)や、公益財団法人沖縄県文化振興会のプログラムディレクター・杉浦幹男さんの言葉も含めて、想いを色々と綴ってみました。
尚、ご本人たちには、まったく同意を得ていませんが、私の妄想宮古ワールドへの切っ先になってしまいました・・・。お許しください。


「宮古は100周遅れのトップランナー」 伊志嶺敏子さん
昨今は、宮古が「日本文化の古層」と呼ばれて注目を浴びていますが、さもありなん。だから100周遅れにみえるかもしれませんが、ある意味、人間的でそれはかなりのトップランナーなのかな、と思います。

自然と共生するひとたちがまだまだ宮古にはいます。と、いうか、その風貌と行動は、かなりの勢いで、人間も自然の一部じゃないかと思わせてくれる。

一見、牧歌的なのに野性的です。いや、その反対も。

日本の自然は基本的には牧歌と野生のバランスなのかもしれません。

自然に対しての適正規模を超えて、科学発展とともに、伸びしろいっぱいの日本になった現代。おおかたの人はおなかはすいてないし、雨露しのいでいるし。昔に比べれば豊かなんだろうなぁ。

でも、たまにあくせくしてて、つまらない、と思う。自分自身が。せかされるように生きているって、ちょっとつまらない。豊かかな?

失われるものがある気がする。それは、豊かな時間。人を思いやる心。特に、女性なんて、おしゃべりで癒されることがほとんどだと思う。合理的じゃないし、時間も食う。でも、たぶん、人が人として生きて行くには、かなーり重要なことではないかと考えます。

最近、合理的過ぎる判断や、経済的価値だけで動く社会に女性たちだけでなく、男性までもノーと言い始めた気がする。ある意味、マッチョな世界。損得、大義名分、滅私奉公。キーワードは出てくる。でも、それが一概に悪いわけじゃないけれど。なんとなく、それ一辺倒だと辛いよね、ってこと。

宮古の女性はずっとノーと言っている。かなりやんわりなので、誰も気付いてないかもしれないけど、そういうことだと思う。

社会がどう変わっても、あのスタンスは変わらない。まずは、自分の子どもを守る。そして、心を通わせる女同士の子どもも守る。その輪は、どんどん広がる。おばぁたちは、喧嘩しているのは余裕があるからだ、くらいに思っているふしがある。

男どもが(あら失礼!)戦争したり、覇権争いしたりしている間も、自分の「かなすふっふぁ(愛しいこども)」を守るために、力を合わせている。その土俵にのらない、知らないふりをするってこともノーのひとつの形かもしれない。

弱い子どもはまわりの人と仲良くしていないと守れない。まずは食わせられない。生きて行かせられない。明日の子どものご飯と自分のちっぽけなプライドを天秤にかけるほど、おばぁたちは馬鹿じゃなかった。それは、別に宮古のおばぁだけじゃないかも。

けっして声高ではないけれど、連携が当たり前という気持ちは通底している。子どもを守る女同士のあの連携はとても古代的。「育てる」ってことはそういうことだと思う。食べ物を確保して、与える、それがスタート。

宮古出身の男の人で自分の母親をえらそうに罵倒しているやつは、昔から井戸に投げ込まれるくらい制裁を加えられるんですよね。いくら偉そうなことを言っても

「うわー、みどぅんからんまりどぅ(お前は女から生まれたんじゃないか)」

と言われ、反論をシャットアウトするおばぁたち。そして、また冷静にコツコツと仕事をしはじめてました。

子どもの私は「だいずずみ(とてもかっこいい)」と感動していた。女をいたぶるやつは、島では心底馬鹿にされる。それがおばぁたちの本質的なところは、100周遅れても、トップランナーかもしれない。


「都市は文化遺産があるんです」 杉浦幹男さん
「じゃ、なんで、都市出身のあなたが沖縄に来たの?」とは聞きませんでしたが、彼の言葉の裏を返せば、それだけじゃ物足りないってことなんだと思います。その先があるということ。その先を沖縄にも感じているということ。深読みし過ぎか。

彼はもっと深いことを自分の生き方に体現させているように思う。芸術を幼少期から血となり肉としてきた半生を多くは語らないけど。時折、言っている事の背景が見えてくる。ほんとはいろいろ聞いてみたいと思う。長い付き合いになりそうなので、徐々に聞いていきたいです。その話も長くなりそうだけど(笑)。

都市の文化遺産の源。それこそ、人が人である所以。芸術に対する情熱、葛藤、成熟。それをひっくるめての人間の人間らしい発露。都市は、たくさんの文化が集まり、洗練させた場所。芸を極めた手仕事のオンパレードになっていった。グーグルの絵はやっぱり私には響かない。人間臭いものに惹かれる。

そして、柳宗悦が愛してやまなかった地方の民具にもその萌芽が隠されている。その目を当時の芸術家たちはいち早くアナウンスしただけだと思う。

人が何かを表現する喜び。それは、形あるもの。自分の芸術が完成し、目の前にした人の喜びは、尋常じゃないと思う。

ある人が宮古上布の美しさは、ただ、やらされているだけではあそこまで作品として昇華できない、と言っていた。私も同意。あれが、労働でなく、訓練だとしたらどうだろう。もしくは熟練した手仕事への満足感だったとしたら。

人頭税をさておきなので、暴言なのはわかっています。でも、手仕事としての美しさは、群を抜いている宮古上布。その美しい上布を仕上げたとき、喜びはなかっただろうか。私はあったと思う。

蝶の羽より薄い美しさ、模様のそろった心地よさ、藍の色が織りなす美的デザイン。その胸にあふれる喜びは、まさしく芸術家の心の震えと同じじゃないだろうか。

それが年貢として持って行かれる悲しさもあるけれども、心が浮き立つ瞬間はなかったか。あったのではないだろうか。

私が小学生のとき、まだ宮古上布の糸を紡いでいるおばぁたちがいた。彼女たちは、売り物でもない糸を紡いでいた。人間が手仕事を通じて、無心になれる、その心の状態を良しとしていたのではないかと思う。

寝転んで、テレビ見ていても良かった時代に、娘時代に教わった糸を紡ぐ作業をしていたことは、彼女たちの神聖な芸術的な時間であったのだろうと思うのです。

「使われるふりをして使いなさい」
まず「使う」という言葉の定義をさせてください。
宮古では、ものだけじゃなく、有用に人を働かせる場合にも「使う」と言います。
けっして、もの扱いしているわけではありません。あるものは何でも使う、使い尽くすこと、が宮古においては最上です。本来の役割を果たすことにつながるので、とても良い言葉です。

まさしく、consumeの語源と同じです。使い尽くす、のです。
人も自然も物も、縁も神様も、使い尽くす。
それが宮古の「使う」ということです。

使い尽くしてから、また新しいものが生まれるという発想だと思います。もんのすっごいポジティブワードです。
(ちなみに、子どもを産んだりするのも、自分の心と身体を使い尽くす行為だと思います。だから、かよちゃんは、子どもを産んで、かよちゃんの命を使い尽くし中なのです。それは宮古では一番喜ばしいことなのです)

最近は「consume=消費」という訳が誤訳かも、と言われています。「消費」ではなく「完受・享受」が一番最適だという人もいます。消費という言葉を良く使う経済は、完受であり、享受なのです。そう思えば、人を使うというのも、悪い言葉に感じない気がします。

使う、という言葉にある本質的な部分を宮古の人は「使う」と表現しています。享受であり、完受なのです。

「使われるふりをして使いなさい」

これは、ある宮古の人が言った言葉です。個人的な言葉なので、お名前を出すのが憚られます。ですので、出しません。悪い言葉ではないと思います。私が、いやはや役所的な事務作業がつらいと愚痴を言ったからだと思います。単に私の能力不足です。

話がとびますが、沖縄は戦後、日本に使われていたと言える状況だったと思います。特に復帰後は。他の自治体とは明らかに違う一括交付金。でも、そこには、お金を出すだけの意味もあり、日本のシステムにのらなければいけないこともたくさんあったのでしょう。

税金を投入している以上、国にもその決定をする人たちにも責任があるし、沖縄の適当な(そう見えるというだけ)有機的な広がりや人材登用を主としたやり方だけを良しとするわけにはいきません。それは沖縄のやり方を尊重していないという事ではなく、フェアな取引でもあります。

ですが、価値観も分母も違う沖縄、一筋縄ではいきません。いったら、おかしい。どっちかが無理をしていると思う。

そこは相互理解ですが、個人的には、圧倒的に日本のなかでは沖縄が少数なので、みんなの税金を使うのであれば、日本のルールにのっとるのが当たり前だと思います。わかりやすく、自分のたちのことを開示して行くこと、その先に、交渉して行くことも含まれると思います。それはどこの地域でもいっしょかなと。

だからこその「使われるふりをして使いなさい」なのです。
けっして、悪い意味ではありません。あるものを十分に享受しなさい、ということです。

違う価値観のルールにのっとったとき、人は抵抗を感じます。めんどくさいし、嫌にもなる。だって、今までが自然で、心地よいから、その世界にいるのですから。歩幅を合わせるのは、二人の人間でもとても大変なことです。どちらにも合わせる気持ちがないと離れてしまう。

近づいた関係性があって、新しい価値観が自分の価値観と相まって来たとき、刺激ととるか、攻撃ととるか、その人のものの見方が試されるのだと思います。そこは沖縄宮古の得意な部分です。話をする。ぎりぎりまで近づく。切らない落としどころをつける。

このお金を使うなら、こうしなさい、と一方的に言われるのはなんとなく違和感を覚えるのも無理はありません。ですが、とりあえず、今の段階では、東京ルール、いや、霞ヶ関ルールでお金は落ちるのです。そこにはいろんな攻防がある。

信頼があるならいちいちこんなことしなくてもいい。そう、今まではそれで良かったし、身内なら良いのだと思います。でも、よそのお金を使うっていうことは、他人のパワーを使うことでもあるのです。そこにはどんなお金でも、出してくれる人に説明が必要な場合もあるのです。

伊志嶺敏子さんが「宮古の人がお金を使うようになったのはここ50年さー」とおっしゃっていましたが、まさにそのとおり!宮古の人はお金を学んでいる最中なのです。それは私もしかり。特に公的なお金ですね。だからこそ、その方は「使われるふりをして使いなさい」と言ったのでしょう。深い、深すぎる。まるで、通り池。


話が変わりますが、文化事業なんて、そんな金にもならんもの。と、言う人がいます。確かにそうでしょう。短期的な見方をすれば。文化なんて、かなり抽象的なものです。とらえどころがない。まず、何が文化かわかりづらい。

でも、その抽象的なものだからこそ、人間が残す意味があるのじゃないかと考える人が増えてきたと思います。それは杉浦さんのような、都市と地方を行ったり来たりしているひとが痛感している事だと思います。私も末席ながらそう思います。

私は、宮古の文化は近代の産物でないと考えています。特に沖縄では文字文化は日本ほど成熟しなかった。文化は文字ではなく、宮古のメンタリティのなかにこそ残っているのではないかと思います。例えば、そのメンタリティが生みだす歌や口承の物語、宮古人の言葉、行動そのものです。まぁ、普通に考えれば、近代より古代の方が長いですからね。その智慧の方が智慧かもしれません。

近代で良いものと言われてきた価値観がすこしずつ綻んできたのは、多くの人が肌身で感じ始めている。だからこそ、宮古が文化の古層ではないか、と言われるようになったのではないでしょうか。いや、単に若干のガラパゴスのよーな気もします。

戦後、日本が目指した強い国、アメリカ。M&Aを繰り返し、格差が広がるアメリカは日本の人が目指す幸せな社会でしょうか。都会の競争(狂騒でもありますね)に疲れて、なんとなく受け入れてくれる田舎や沖縄にたくさんの人が訪れるのも事実もありながら、いろいろ考えるのです。豊かさの物差しってなんだろう、って。

他人の作った合理主義のレールは疲れるもの。人間的なふれあいを野生の宮古に求めている気がします。そこには、別の狂乱というか熱さみたいなものが満ちあふれていますが・・・意外と悪くない。


すっごい長くなりました。すいません。

最近、ずーーーっと、こんな感じのことを考えてました。きっと、読んでいて引っかかった人も多いんじゃないかと思います。どこかひっかかったか、教えていただけると、有難く存じます。この文章を読むような人は、宮古・沖縄の人に関わる人だからです。私はその人と人のつながりを信じたいと思うからです。それが豊かなことじゃないかな、と感じるから。

その引っかかった部分に、何かわくわくするような出来事への糸口があるような気がしてたまりません。

最後に、かよちゃん、おめでとう!しつこいけど、言いたい(笑)。

※     ※     ※

切り込み隊長の一番バッターに、四番でエースのプレイングマネージャーが代打に立ってくれたおかげで、いつものコラムとはまた違う面白さにあふれていました。代打、ありがとうございました~♪  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編