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2015年07月31日

金曜特集 「うむいかーどぅある台湾」

金曜特集 「うむいかーどぅある台湾」

毎週金曜日にお届けしている「月イチ金曜コラム」は、週替わりで4名のライターさんにコラムを執筆していただいておりますが、時に暦のいたずらで金曜日が5週あることがあります。そんな月は玉石混淆なゲストライターさんのスペシャルなコラムをお楽しみいただいております。
今月は先島のもっとも西の端にある国境の島・与那国から海を越えて届いた、とても興味深い知られざるエピソードです。
金曜特集 「うむいかーどぅある台湾」
こんにちは。今回はゲストライターということで、私、小池が担当します。
私自身は沖縄、特に先島の戦後の歴史に興味があり、特に台湾との関係から終戦直後に行われたという、いわゆる「密貿易」に関心をもって調べています。「密貿易」というと何やら物騒なイメージを持たれますが、私が調べているのは特にサンフランシスコ講和条約が発効される頃までの、主に台湾と沖縄との間で行われた生活物資のやり取りについてです。
もちろん中には現在の犯罪と変わらないような密貿易もあったと思いますが、多くは台湾で作られた米などの食糧品を戦争で食糧不足に陥った沖縄側に運ぶ、つまり戦後復興のひとつの手段としての「密貿易」であっただろうと考えています。 

今回は私が調べた中から、その「密貿易」に巻き込まれたある宮古出身男性とそのご家族の物語について、ご紹介したいと思います。
まず、沖縄の戦後「密貿易」研究の第一人者である沖縄国際大学名誉教授の石原昌家先生が書かれた『空白の沖縄社会史』(晩聲社、2000年)の192頁に、こんな記述があります。
 『沖縄タイムス』(1952年10月17日付)によれば、―1950年2月24日、日本船日吉丸の臨時職員として雇われた宮古出身者が、久部良港から台湾密航のため出港した。その日の夜、台湾に着いたが警戒厳重のため上陸できず、断念して与那国に引き揚げようとした。だが、嵐にあい台湾沿岸に漂着し、監視艇に検挙された。軍事裁判にかけられ服役していたが、家族からの嘆願もあって、52年10月15日に台湾から強制送還されてきた。
この本で紹介されている記事に関して、当時の連合国総司令部(the Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)に関する公文書の中に類似する事件が報告されていました。これは占領下にあった当時の琉球列島に関する政策の調整を行う琉球民政局の記録として残されているものです。
その概要はこうです。ある宮古の女性が、警察に請願書を提出しました。それが当時の「南部琉球臨時政府」を通じて、1950年10月31日に「南部琉球宮古軍政府長官」宛に送られています。
その請願書の内容は、宮古で失業した彼女の夫が、生活の糧を求めて与那国島に渡ったところ、そこでも仕事がなく、たまたま同じ宿に居合わせた日本本土から台湾へ向かう途中のタケダという船主に、自分の船に船員として乗らないかと誘われ、即決で乗ることにした。
しかし、船は台湾に向かう途中嵐に遭い、火焼島(現在の緑島)付近で錨を降ろしたところ、台湾の当局に違法取引の罪で逮捕された。台湾当局は彼に台湾花蓮(kwarenko)県の刑務所での禁固25年の判決を言い渡し、船舶及びシャツ編み機、ヤンマーエンジンが没収され、他の船員は解放された。
彼はある程度罪を認めてはいるが、「密貿易」という危険な事業のために台湾へ行こうとした意向は、彼にではなく船主であるタケダにあるのであり、彼に対する罪は重すぎる。そのため、この件について適切な機関により十分に調査し、再検討されることを切に要望する、と記されていました。
金曜特集 「うむいかーどぅある台湾」
当時の与那国島は「密貿易」で賑わっていたため、上述の石原先生の本などで、荷役などの仕事を求めて多くの人が与那国島に集まっていたことが指摘されています。台湾で捕まった彼女のご主人も、そのような仕事を求めて与那国島に渡ったのでしょうか。
また、石原先生が紹介された新聞記事と、琉球民政局の記録が関連すると思われるのは、事件のあらましが似ているからというだけではありません。新聞記事のなかでは捕まった船は「日吉丸」と書かれていますが、琉球民政局の記録では船名が「Hiyashi Maru」と書かれていました。これは「日吉丸」の訳し間違いかもしれません。
もし、このふたつの記録が同じ事件を指しているならば、1950年の2月24日に与那国を発って、台湾で捕まってしまった彼女の旦那さんは、彼女が少なくとも同年の10月31日までに再調査の請願書を出したことによって、その後の詳細はわかりませんが減刑され、2年後の1952年10月15日に沖縄側に戻ってくることができた、ということになります。
台湾で一度確定された刑がどのように減刑されたのか、そこに宮古や沖縄の軍政府、またSC
APがどのように関わっていたのか興味のつきないところですが、彼女たち家族が生きていくために相当な苦労をしたことと、もしかしたら一生生き別れになるかもしれなかった家族を取り戻すため、多くの人が尽力したことが想像できます。つづきはまたいつか、どこかでご報告したいと思います。

ゲストライター 小池 康仁(コイケ ヤスヒト)
1980年 千葉県生まれ。
宮古島よりはるか西の地で汗をかく日々。

【著作】
『琉球列島の「密貿易」と境界線 1949-51』 森話社(2015/3/19)
http://www.shinwasha.com/075-3.html



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