てぃーだブログ › ATALAS Blog › 島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法

2018年11月11日

第13話 「おじぎ草と落花生」



前回の文章から2週間。
スマホの写真を開いてみると、まったく写真を撮ってない。

すごく正直なところを書くと、写真を撮りたくなるような、真新しい景色に出会っていないんです・・・。
八丈島。
紅葉しないし、はっきり言って景色の変化に乏しいです、今。

そんな中で、ちょっと面白い植物にハマっている。

おじぎ草、という植物を知っていますか。
指先でちょこっと触れると、まるでお辞儀するみたいに、すーーっと茎や葉を下向きに折る。
ブラジル原産で、寒い冬は枯れてしまうらしい。
うちにある鉢植えは、まだ青々として、夜に閉じた葉は、また朝には自分で開いている。
八丈島ではハウスで発芽・生育させているようで、先日手に入れた2鉢を、大事にしている。

実は一度、水やりを忘れて葉がほとんど散ってしまった。
丸坊主に近くなった枝だけのおじぎ草に、水をたっぷり与えて屋外の日光に当てたら、気づけばまた鮮やかな緑色の、かわいい葉が生え揃っていた。
とても強い植物だ。

沖縄では自生しているらしい。
気温が低いと、枯れるらしいので、八丈ではいつまで元気かな、と気になっている。
1鉢はベランダに、もう1鉢は室内の窓辺に置いてみている。

おじぎ草と一緒に、落花生もいただき、すすめられた通りに塩茹でして食べた。
ものすごーーーーーく、美味しかった。
塩茹でする食べ方は、沖縄も同じ。
豆のふっくらとした甘みが感じられて、落花生は茹でに限る!と個人的に強く思う。

カツオ、マグロも安価で美味しいのがスーパーに並ぶ。
半身を買ってきて、皮を取って、いいところは刺身にする。
ブツになったところは漬けにする。
自宅で食べる分だから、適当だけれども、自分で下ろした刺身はなぜか美味しい。

切り口も、鮮度がいい方が美味しいのかな。
それとも、季節のせいなのかな。

味覚の秋も深まったと思いきや、このところの八丈島は、蚊が再び発生中。
雨が降り、妙に蒸す日が2、3日続いて、蚊に刺された。
すごくかゆい。しつこい。
シブトいやつらなんじゃないかと思う。

風が強い。
海から潮が運ばれて、車のフロントガラスが汚く曇っている。

かと思うと、風のない、布団干し日和の、最高に秋らしい太陽の日もある。
ぽかぽかと暖かく、まだニットを着る気候ではないなぁ。
昼間は汗ばむ気温の日もある。

かと思えば、これは暖房ほしいな・・・と、室内でじっとしているととても冷える日もある。
でもまだ、基本的には暖かく、シャツの上に、薄手のジャケット一枚あれば、朝夕の気温差もまだ大丈夫。

けれど、雨だけは内地の東京より断然多いな、と感じる。

晴れていても、スコールというか、まぁ。小雨、霧雨、スコールが突発的に発生するので、洗濯物はいつでも心配だし、2、3日前には、土砂降りだった。
雲が低く降りてきて、島をすっぽりと包み、飛行機が条件付きになってしまった。
そんな不安定な、混沌とした季節。

立冬を過ぎました。

次に更新される2週間後の日曜日は、私は宮古島にいます。
マティダ市民劇場で行われる「危機的な状況にある言語・方言サミット(宮古島大会)」に参加する予定です。

と、いうわけで、次は方言サミット直前のレポートということになりそうです。

冬が近づいてきました。
体調に気をつけてみなさま元気にお過ごしください。  続きを読む



2018年10月28日

第12話 「ススキが海風に靡いている」



いつの間にか、ススキの穂だらけになってしまった、島のどこもかしこも。
シュッと伸びた柔らかなアイボリーのふわふわ。
綺麗だな、特に夕日を浴びたとき、海を背にしているとき、青空の下、もしくは、明るい月の夜。

ススキは絵になるなぁ。
そして、あっという間に冬を運んでくる。

島の冬は普通に寒いそうだ。
雪が降るのは稀だとしても、暖房はもちろん必要で、着るものも都内の冬と同じような感じだと。
セーターとか、梅雨時期の猛烈な湿気に、衣装ケースの中で傷んでしまうのではないかと心配だったけれども・・・。

11月になる。
今年はもう、残すところあと2か月。

運動会や文化祭、地元の神社のお祭りなど、10月は行事の多い月だった。
伸び放題の髪にかまう暇なく、金八先生みたいな髪型になっている、私。

コンタクトレンズを落としてしまった。
円錐角膜で、普通のレンズでは視力矯正がむずかしいので、特殊なハードレンズを使っている。
そのため、なかなか取り寄せられない。
眼科の処方箋がないと・・・ということなのだ。

島に眼科はない。
月に1回程度の、町立病院での臨時診療のみだ。
仕方がないので、眼鏡で過ごしている。
眼鏡では矯正しきれなく、段差が見えない。
だから、慣れないところへ行くのは怖いのだが、八丈島内であれば、なんとかなっている。


都内は看板や表示など、街に文字が溢れていて、文字が見えないと迷う。
例えば地下街なんかは、どちらへ進めばいいのか、さっぱりわからない。
けれどもこちらでは、文字を見つけることの方がレアだ。
よくよく見ようとして目を凝らすのは、スーパーで食材の値段を見るときくらい。
あとは、人を見て、誰か判別できるくらいの視力があれば、暮らしていける気がする。
ただし、夜の暗闇はとても深いので、日が暮れてからの車の運転だけは、自分の目の力の弱さが心もとない。


夏から秋にかけて、雨が多かった。
9月は6月よりも降水量が多いのだそう。
今年は少し後ろにずれて、10月の頭くらいまで、常に雨が降るつもりで計画をしていた。
秋の長雨だった。

いつの間にか雨が少なくなって、太陽が頻繁に顔を出し、秋晴れの日が続くようになったなぁ、と思ったら、中秋の名月も過ぎていた。


衣替えをした。
長袖や上着など、ウール素材のスカートやスラックスが、そろそろちょうどいい気温になってきたな。
仕舞っていた息子の制服のシャツ、長袖を出した。
ハンガーに掛けてみたら、なんだか袖が短い。
着させて見たら、いつの間にか、腕がこんなに伸びていたんだ。
腕だけじゃない。肩も、胸も、シャツが狭そうになっていて。
季節が、春から秋になるだけの間に。

大人である私はもう、同じものを20年も着ているというのにな。
伸びている。
今が、大事なんだ。

大人である私はもう、身長が伸びたりはしないけれど、こんな人間になりたい、と思う憧れだけはある。
それに向けて心は伸びやかに、たおやかに、謙虚さを、忘れずに、日々、変容していきたい。

人生の、春から秋に、なるように・・・。  続きを読む



2018年10月14日

第11話 「虹色の魚」



夢を見た。
サバニの船底は、虹色の魚でいっぱいだった。
大漁だ。

いつかの、虹色の魚。

友人に、八丈で釣ったばかりだというアカハタをもらった。
お宅まで取りに行くと、縁側に出された大きなクーラーボックス。
宝箱のように蓋を開けると、揺れる海水の中に赤とオレンジのヒレを広げて、綺麗な魚があった。
それを手で掴んでビニール袋に入れた。

新鮮な魚が2匹。
ビニールの口を閉めないで、そのまま車に乗せて、
運転していたら、ふと、海の匂いがした。

いつだったか、小さかった息子が、後部座席で、魚を詰めたビニール袋と一緒に座って、
「いいにおい…!」
と言ったのを思い出した。

あれは10年くらい前。
私は宮古島の狩俣という集落に住んでいて、車で、西の浜に向かっていた。
漁港に魚が揚がったと、防災無線で放送が流れたからだ。

息子はまだ4、5歳で、私も魚を捌(さば)けなかった。
けれども、なんの気なしに、漁港へ行ってみたい気持ちになったのだ、その時。

着いてみると、白いビニール袋に、ぎゅうぎゅうに、いろんな魚が一緒くたに入っていて、一袋いくらだったかな。。。

息子と2人だから、1匹でいいんだけれど・・・。
と行っても、とにかく魚をはけたいのか、袋売りだという。
値段は激安だ。
ひと袋で1匹くらいの値段。

じゃあ仕方がない、と。
なるべく少ない袋を探そうとして、いちばん端にあった袋を覗いて見た。

驚いた。

夢で見た、虹色の魚がいる。。

不思議だった。。。
けれども、
漁港に誘われて来た理由がわかった気がした。

虹色の魚がいます。
宮古島には。

漁港からの帰り道。
「いいにおい!」と、息子はうれしそうだった。

自分が子供の頃、東京下町の魚屋は、生臭い匂いと、血を洗う床の水は流しっぱなしだ。
魚の見た目も私には怖くて、よくおばあちゃんに連れられて買い物に行ったけれど、魚屋だけは苦手だった。
でもなぁ。。
私も、息子くらいの時に、新鮮な、ほんとに海から揚がったばかりの魚に触れていたら。
きっと、絶対、魚が好きだったと思う。

今は魚を、釣るのはそれほど興味はないけれど、捌いて美味しく料理するのは大好きだ。
八丈島に来てから、出刃包丁と柳包丁を揃え、初めて自分で魚を捌くことに挑戦した。
まだまだ下手で、時間もかかるのだけれど。。。

海の魚。

当たり前だけれど、魚は海にいるんだ、ってことを実感できるのだ。

宮古島で、西の浜から帰る道。
子供の無垢な言葉に、車に満たされる海の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、今晩のおかずを手に入れたんだっていう、満足感。
しあわせだな、って感じたことを、思い出した。

八丈島のアカハタは、ぷっくりとして、釣った本人は、こんなの小さいよーと言っていたけれど、30センチ以上はあるかな。

刺身と、マース煮。それとマース煮の後、みそ汁でいただきました。
ついでにいただいたカツオの刺身も、新鮮で美味しかった。
息子は魚を本当によく食べる。
それは魚が美味しいから。
ほんとにしあわせなことだ、と。

感謝しています。  続きを読む



2018年09月23日

第10話 「島の味覚」



八丈島では今、真っ赤なハイビスカスと真っ赤な彼岸花が同時に咲いています。
八丈島のハイビスカスは、いつまで見られるのかな。
住み始めて1年目の私は、この島の季節の移り変わりが新鮮です。

島の野菜は地元でもそんなに安いわけではないのですが、春から夏にかけては、明日葉(あしたば)を筆頭にいろいろな野菜がスーパーや商店に並びました。

大根。じゃがいも。きゅうり。トマト。ピーマン。
島産のスイカは大玉が3000円ほどで、冷やして食べたら甘くて美味しかった。
このスイカは、なんと給食にも出て来ました。

今はナスやネリが多く出ています。
ネリとは、オクラなのことなんですが、私の知っているオクラよりも大ぶりで、柔らかく甘みが強いです。
ちなみに、ネリって呼ぶのは沖縄でも同じだそうです。沖縄本島。
他の地域でも、呼ぶところあるかな?。

沖縄で、「うりずん豆」と呼んでいた、しかくまめも島で手に入りました。
うれしいです。これ、好きなので。。。

島の給食には、魚がよく出されます。
子供たちに、こんなアンケートを取りました。
もし、3日間連続して食べなければならないとしたら、唐揚げ定食?か、刺身定食か?。

結果は、全員が刺身定食でした(対象中学3年生)。

もっと低年齢だと、ちがうかな~?。
これは釣りをするのが子供たちの娯楽なので、その影響もあるのではないかと思います。

私のお気に入りは、『スーパーあさぬま』の鮮魚コーナーで販売している、トビウオのすり身です。
生姜やネギとこねて、つみれにしてあって、それを団子にしてみそ汁に落とすと、もう美味しすぎてほっぺたが落ちます。
初めは、なめろうかと思ってそのまま食べていましたが、子供はそのままでは食べなかったので、おつゆに。
美味しいのです。
ハンバーグほどの量で、250円です。

あとは、島寿司。
漬けにしたネタに、わさびではなくカラシという島伝統のスタイル。
画像は島の食材がリーズナブルに食べられる、「宝亭」の島寿司と刺身。

島の魚は新鮮で、スーパーなどで気軽に安く手に入り、美味しいです。
黒潮が島から離れて寒流が入ってくると、釣れる魚も変わるそうなので、ぜひこれからの季節の八丈島にも遊びにきてください。

【島メモ】
明日葉(あしたば)
日本原産のセリ科の多年草。実際にそこまで早いわけではないが、今日、葉を摘んでも、明日にはもう新しい芽を出す、と云うくらい成長が早い。
スーパーあさぬま 大賀郷店
東京都八丈島八丈町大賀郷2370-1
※海風おねえさん(@umikaze8jo) Twitterでスーパーあさぬまの情報を発信しています。
活魚料理 宝亭
東京都八丈島八丈町三根765
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2018年09月09日

第9話 「台風、帰郷」



この夏は台風に振り回された夏でした。
仕事を含めて、飛行機で3往復、6回搭乗したけれど、そのうち予定通りだったのは、いちばん最初と真ん中のたった2回。
3旅程とも、台風に当たってしまったという顛末。

八丈島も100年以上前から東京都である。けれど、東京は内地であり、島から東京へ行くことは「上京する」と言う。
八丈島で暮らしていると「上京」とは、大人も子供も島民にとって特別の楽しみだということが、よく判る。

しかし、上京するには八丈は島なので、必ず船か飛行機に乗らなくてはならない。それも内地から船舶・機材が到着しなければならない。
なぜなら船も飛行機も島に常駐していないからだ。だから、内地から到着しなければ、島から“出る”手段はなにもないのである。

この夏は、羽田空港を出発した飛行機が、八丈の上空まで来て、羽田へ引き返したことがあった。
乗っていた人も、待っていた人も、たまらない気持ちだろう。
これは、当事者になってみなければ、言葉で説明し尽くせない感覚かもしれない。

気候の条件だけは、どうにもならないのだ。
それはわかっているのだ。

だからこそ、とても、無力感というか、それこそ、脱力して、抜け殻になってしまう。

8月8日に、台風が八丈島を直撃するという。
そんな天気予報をまったく知らずに、6日の月曜日、仕事場に出勤した私は、「ああ、8日は飛行機、飛ばないよ」という周りの声に、目の前が真っ暗になった。

休暇だった。
この夏の。待ちに待った。
自分が暮らしているところが、島だいう事を思い知る出来事だった。

羽田-八丈島間の便は、お盆を挟んで2週間くらい連日満席で、もう席が取れないのだ。
欠航になったら、じゃあ明日の便に振り替え、というのができない。
もしも次に席を取れるとしたら、予約状況を見る限り8月20日以降である。
それまで島から、出られない…?

意識が遠のきそうだった。

船もある。
船が満席になることは、ないと言っていいのだけれど、船は飛行機よりも弱く、飛行機が欠航なのに船が就航することなど、絶対にあり得ない

船は、この台風でいえば、1週間欠航したのだ。

目には見えないけれど、海上では「うねり」というものが出始めていた。波の高さが5メートルになると、だいたい船は欠航だ。
しかも、10時間以上かけて八丈島までやってきても、波が高いと接岸できずに引き返すということもあり得るのだ。
そして、途中の大島までで引き返すこともある。

私は、待ちに待った夏休みを、どうにか成立させるために、まず考えたのは翌7日の船。
朝9時30分に八丈を出発する船。
6日の時点では、天気も穏やかで、明朝の船はいけるんじゃないか、と思えた。

が、電話した旅行代理店のベテランのおばちゃんは、無情にも「明日の船はもうダメよ」、とひと言。
「もう遅いよー、みんな昨日一昨日から電話バンバン掛かってきて、今朝の船なら行けると言ってあげたから、船で行ったよ」
ということだった。
ダメだ。私は遅かったし、それでなくても、動けない。

なぜなら、6日・7日は日直という仕事場の留守番役で、これは職員全員が輪番で担う、何よりも優先される絶対に動かせない仕事なのだ。

これを事前に個別交渉して、代わってもらうことはできるのだけれど、6日になって、6日の仕事は代わってもらえない。
同じように、誰ももう、島内にいる人が少ないのに、さらに急遽明日、いきなりこんな重荷を背負ってくれる人なんて、探せない。。。

と、思っていたら、いたんです。。。
代わってくれる優しい人々が。。。
午前午後と、それぞれ2名が、分担して代わってくれた。

なんとか上京できるといいですね、と。
声をかけてくれる。優しい。
みんな、思いを理解しているんだな。

そんな親切を無にしないように、6日は、仕事場に缶詰めになり、仕事をしながら、逐一航空会社のホームページを開き、7日満席の表示が、万が一、数字の表示にならないかと、見張りながら過ごしました。

すると、午後に一瞬、7日の最終便に、2名の空きが!!!!
すぐに自分と息子の名前を打ち込み、予約ボタンを押すと、成功!

しかし、代理店のおばちゃん予報だと、7日は朝の1便しか飛ばないだろうと。2便はギリギリか。
あぁ、だから3便に空席が出たんだな。。。

予約の取れた最終便の3便は、台風に追いつかれて飛ばない可能性が高い。
私は翌7日、朝一番で、空港の空席待ちの列に並びました。
1便か2便、なるべく早い時間の飛行機に、乗るための行動をせずにはいられない。

空席待ちの列は、朝6時台に着いて、すでに12~3人くらいいる。
それなのに、もらった番号は31、32番。そうか、代表者がね。
並んでいるのだね。

空港が開く頃には、100人くらいになっていた。
1日にたった3便しかない、166人乗りの飛行機の空席待ちに。

中には知り合いもいたし、旅行者もたくさんいた。
私は家があるからいいけれど、旅行の人は、このまま島に缶詰とか、たまったもんじゃないよなぁ。、

宿だって、ないかもしれない。
滞在費だってかかるし、食事も、お店が開いていればいいけれど、スーパーだって台風だからこのまま食材がどんどん無くなっていくだろうし。
コンビニがない島なのだ。
台風なら個人商店は、閉めるだろう。
大丈夫だろうか。。

と、私の後ろに並んでいた、小学生の女の子とお父さんというコンビを心配に思いながら、なんとなく言葉を交わしたりして、整理券をもらって別れるまで、妙な連帯感だった。

ネットで空席待ちをチェックしていたら、正午に240人を超えて、さらに増えたのかどうか。。。

旅支度をすべて整え、1便の空席待ちのアナウンスを祈る気持ちで待ち、呼ばれずに締め切られ、飛行機は飛び立ち、気持ちの糸をつなぐために、空港のレストランで食事なんかしちゃって。

2便もまた、呼ばれるかもしれないので、空港でスタンバイ。

チケットを持つ人は、次々に手荷物を預けて乗り込んでいく。
知り合いの顔も多くある。
みんな上京の時期、そうか、航空券の予約日の1日の違い。
運だよなぁ。
私、ドンピシャだったなぁ。

2便が飛んだ。
風はかなりあるけれど行けた。
望みを繋ぐ。
どうか、3便、来ますように。
この台風に向かって、来たら、来さえすれば、引き返せるだろう。

気だるい午後、家のソファで、あんなに時間を持て余した1日はない。
腐りそうだった。

そして、以前、八丈よりももっと遠い、青ヶ島に暮らしていた人の話を思い出していた。

飛行場はない。
ヘリコプターか船。

八丈行きのヘリコプターに望みを託しても、目の前で引き返して行くんだって。
あの時は、家に帰って酒を浴びたね~と、語っていた。
今ならその気持ち、とってもよくわかる。

私も、家中の準備を整えて、植木もバスタブに水を張ってそこに浸けて、冷蔵庫もきれいにして。
これで、3便、飛ばなかったらどうなるんだろう、と思った。

食料、ないじゃない。
野菜もない。果物も。
牛乳も納豆も豆腐も買ってない。
しばらくスーパーから消える、これらの食料。

もし、3便が来なかったら、お酒を浴びる日々になりそう。

3便の時間になり、その日3度目、いや、空席待ちの列に並んだのを入れたら4度目の空港への出陣。
搭乗案内をしている。
ということは、羽田を出たんだ。

しかし、搭乗口で待ちながら、乗客予定の人々は、飛行機の話題で持ちきりだ。
前に目の前で引き返して行ったことがあるぞ!と、大声で武勇伝を語るかのようなおじさん。
スマホや電話で迷走する近況を報告する人々。

3便、と呼ばれる最終便が、通常より遅れ、午後5時近くになって、ついに雲の中から姿を表した時、
「きたきたきたきた!!」
と、音を聞きつけた誰かが言って、みんな総立ちで、前のめりに窓ガラスの向こうを覗き込み、無事に着陸した小さな航空機が、滑るように目の前を通り過ぎたのを目にした時、すんごい歓声が上がりました。。

なんという一体感。
笑顔。。。みんなで喜び合いました。

空港内アナウンス。
「みなさま、ただいま、〇〇便が到着いたしました。」
のところで、あたたかい拍手が起き、アナウンスしていた若い女性は思わず、
「ありがとうございます。」
と言ってしまい、それが思わず、という感じだったので、乗客に笑いが起きたりして、空港の搭乗口はくつろいだ、ほっこりとした空気に包まれました。

しかし、3便の空席待ちで、待っていたけれども呼ばれず、帰っていった人々を思うと、胸が痛んだ。
今日一日が、それで終わった。それだけじゃない。
夏休みが、終わったかもしれない。
お酒を浴びた人が、たくさんいたかもしれない。

翌日8日は全便が欠航。
次に飛んだのは、いつだったんだろう。
とにかく、飛行機に空席が出ない場合、欠航に当たってしまった人は、空席が出るのをひたすら待つか、船しかない。
その船は、結局12日まで就航しなかったというのだからやるせないです。

飛んだ3便の予約を、運良く前日に取れたことが幸運だった。
台風が予想よりも遅い速度だったことも。

夏休みには、いろいろ楽しい予定があった。
内地には、とにかく運よくこちらに来れたら、なんとかなるんだから、と。
逐一連絡を入れて心配する私に、いつでもなんでもオーケーでスタンバイしていてくれる家族がいるってことで、あぁ、これは上京ではなく、帰郷だった、と。
会えた喜びが、身に沁みたのでございました。  続きを読む


2018年08月26日

第8話 「八丈太鼓」



八丈太鼓を習い始めた。
もともと打楽器に憧れがあって、できれば人前で打てるくらいになりたいという気持ちで。

4月に八丈島に住み始めて、やっとひと月というゴールデンウィークのことだった。
反抗期の息子は、私と一緒に行動するのが嫌で、今までのように一緒に食事や、買い物に連れ出すことも難しい。

仕方ない。せっかくの休日、一人でカフェにでも行ってこようと、本を持って車で家を出た。
海辺を通りかかると、真っ青な空と海を背景に、芝生の地面に和太鼓を置いて、太鼓の両側からふたりがそれぞれ、舞うように叩いている光景が目に入った。

あぁ、これが八丈太鼓だな、と。
思わず車を停めて、近づいて行き、見学。

その時、どうぞ、とバチを渡され叩かせてもらった時の、風の気持ちよさ。
もちろん、見よう見まねの適当です。
でも、それでいいと受け止めてくれるおおらかな皆さん。
練習日と場所を聞いて、参加したいことを伝えてその場を離れた。

それからしばらく仕事や私事で都合がつかず、結局練習に足を運べたのは7月に入ってからだった。
だからまだ、ほんの数回の練習しかできておらず、
基本も何も、まったくこれからという初心者だが、すでに八丈太鼓のおもしろさと、魅力にどっぷりハマってしまっている。

習うと書いたが、教室ではない。
八丈島では、太鼓は習うものではなく、初めから皆で一緒に楽しむものだ。
だから、打ち方やリズムは、教えてくださいと言えば教えてくれるが、本来、見て聞いて真似て覚えていくものなのだと思う。

八丈太鼓は、二人組で打つ。
太鼓の両面を。
一人は下打ち。
もう一人は上打ちといって、下打ちの一定リズムに重ねてアドリブで自由に打つのだ。

下打ちはいくつかパターンがあって、まず、初心者が一番に覚えたいのは「ゆうきち」というリズムだ。
リズムの名前はその集落によって異なる(私は三根という集落です)。

「ゆうきち」は、右手・右手左手の順に、「トントコトントコ」と鳴らす。
(文字で書いてもイマイチ伝わりにくいですが‥・)

その「ゆうきち」に乗せて、上打ちは心のままに打つ。
普通は1拍目と3拍目に打つところを、2拍目4拍目に打つこともある。これを「裏を打つ」というのだが、その表拍から裏拍へ移行する瞬間や、裏が続いて打ち手がそれを表拍と捉えた体の動きになってくところが、美しいのだという。

太鼓の会のメンバーに、かっこいい年上の女性がいる。
とても上品に、繊細に入っていくのだが、気持ちの高揚とともに男らしい豪快な打ち方があらわれる。
観ている者が、ぐっと引き込まれ、聴き惚れる。
思わず拍手が起こる。
八丈太鼓は、そういう見せ場を、打ち手がアドリブで作り出す芸能なのだ。

しかし、例えば盆踊りの太鼓のように、踊りの下請けとしての役割もする。
その場合、内地と異なるところは、必ず二人で両面から打つことだ。八丈では太鼓を一人で打つのを見たことがない。

そういえば、八丈空港に貼ってある中学生の調べ学習の壁新聞では、八丈太鼓の打ち手は、もともと女性だったとあった。
そういう古い資料があるのだろう。木の枝に太鼓を吊るして、両面から二人組で打ち鳴らしていたということだ。

そして、下打ちのリズムは長く長く鳴らすものだから、その土地の気候や風土、人々の生活などにフィットするもの。心地よいと感じるリズムが、伝えられているはずだと、私は思っている。

8月半ばのお盆休みあたりには、どこの墓場も、夜通し灯明がぼぅっとオレンジ色に灯り、お供えとお線香をあげに来る人影が絶えない。

集落も順番に、盆踊りを催す。それぞれの地域色がある。
三根は豪華賞品の大抽選会があるので、400名以上の人出だったそうだ。

大賀郷は、集落に伝わる「石投げ踊り」を輪になって皆で踊るが、数年前から開催されている「石投げ踊りコンテスト」も大いに盛り上がる。
チームで出場し、石投げ踊りを披露するのだが、観せるパフォーマンスを加えて毎年創意工夫されている。

「石投げ踊り」とは、太鼓に合わせて、地面から石を拾って放り投げるような振りをする踊りで、「すっちょい、すっちょい」という合いの手が入る。
先日、八丈方言委員会の先生に聞いてみたところ、八木節と共通するところが多くあり、そんなルーツも考えられるのでは、ということだった。

「石投げ」は、昔、畑に落ちている溶岩のかけらが農作業に邪魔だったので、それを外に放って投げたことに由来しているらしい。
その石投げ踊りの太鼓のリズムは、「ゆうきち」が多いが、次第にペースが速くなっていくのが特徴だ。
その頃合いは、太鼓の打ち手が決める。

末吉という集落では、盆踊りでは恒例の「超高速マイムマイム」というのがある。
私はまだ未体験だが、それもリズムが次第に速まって、大変に盛り上がるそうだ。

皆で太鼓を打ち鳴らし、輪になってエンドレスに踊る。
踊りはもちろん、太鼓も、八丈島では誰でもチャレンジできる身近な楽器として存在している。

【八丈太鼓 サンプル動画】

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2018年08月12日

第7話 「近くて遠い絶海の小島」



八丈島に暮らそうと決めたのには、1年前。
夏休みの旅行で訪れた際に、息子がこの島を気に入ったことが大きい。

特に、西側の海に浮かぶ八丈小島は、八丈島から沖合いおよそ4キロのところにある。
手が届きそうな、目を凝らせば島にいる生き物まで見えそうな距離で、形もこんもりと愛嬌があって、息子はなぜか、その小さな島に親しみを抱いたのだ。
親離れの時期でもあり、小島に一人で住みたいなどと夢をぼやいて、私も、行ってみたいなぁと思っていた。

あの夏休み旅行から、ちょうど1年経ったのだ。
そして今は、ここに、暮らしている。

現在の八丈小島は無人島だ。
室町時代から人々が住んでいた。電気も水道もなくそこに暮らしていた。
しかし、1966(昭和41)年に島民全員で島を離れることを決定し、1969(昭和44)年に八丈島へ移り住んだ。

集落の形はそのまま残して来たのである。

八丈島の西側、大賀郷(おおかごう)という集落の、八重根(やえね)という港から、まっすぐ坂を上った見晴らしのいい場所に、空と八丈小島へ向けてせり出すように建っている家がある。

いつもそこの細い裏道を通りながら、こんな眺めの良い家って、他にないよなぁ・・・と思っていた。
隣近所や、目下にも目ぼしい民家はなく、その辺りの景観を独占する広々とした家だ。

つい最近、厳密に言うと、実は昨日。
その家は、八丈小島の村長の家だと知った。家の前のかなり広い土地も。なるほどと思った。
先見の明、この場所なら、どんなに時代が流れても、同じように、家の中のどこからでも八丈小島を眺めることができるだろう。

ふたつあった集落のひとつ、鳥打(とりうち)という村の最後の村長だった鈴木文吉さんは、島を離れるときに、小中学校の壁に赤いペンキで自作の詩を書いたそう。

「五十世に暮らしつづけた我が故郷よ 今日の限りの故郷よ かい無き我は捨て去れど 次の世代に咲かせて花を」
「ともしびの如く消え去る故郷かな 花咲く色は変りなく ちりて誰かを待つごとし」

『惜別の詩』一部抜粋 

さて、2018年7月22日である。
私は子供たちの自然体験の一環で、八丈小島に上陸することができた。
結果から言ってしまうと、学校は朽ち果ててすでに影も形もなく、石積みの門だけは確かにあり、ぼっとん便所の穴というのも確かにあり、けれどもそこは、山の中にぽっかりと現れた、ただの草むらだった。

島に桟橋はないので、船の頭につけたタイヤをクッションがわりにして、船の頭を岩場に接岸し、上陸。
山の裾野の、なだらかな平地がしばらく続いており、船着場からすぐ上ったところに、自然ではない形の石が積まれたり、並べられたりしている場所があった。
尖った石や丸い石、これが拝所であることを告げられた。

集落に入るずっと手前、港の入口といったあたりの位置で、確かにその場所でその石を見ていると、空と、海が一体で、そしてこの島も、その、何ていうか、宇宙と一体。そういうことを体感できるような気がした。

どんな神様なのか、空、海、陸の、無重力の世界に見守られている気がした。

集落の入り口には教員住宅もあった。
離島と言っても定期船のある島と違い、教員は集落で一緒に暮らしたのだ。
住民がお風呂を沸かすと、呼んでもらって入ったのだと、聞いたことがある。

水は雨水を貯めて使うので、とても貴重なものだ。
五右衛門風呂に、そうやって、みんなで浸かったのだろう。

学校までの道は、今でも都が管理している。
だから埋もれずに、かろうじて今も歩けるようになっているのだ。
しかし、遠目に見たらただの山肌である。
とても道など目視できず、歩いていくときにも、よく見分けないと、判らなくなる。
道幅がかなり狭いところもあり、下生えで足元が見えにくく足を踏み外したら滑り落ちる。
そういう道だった。

この島は山だ。
平地と言っても、なだらかな丘陵。
人々の生活は、いつも、山道を行っていたのだろうなぁと思った。

学校跡地を探索したあと、船着き場に戻って来たところで、ドボンと海に入った。

海はいきなり深さ8~10メートルくらいある。
岩場なので、海に入ったは良いが陸に上がれない。
そのために、自然体験ツアーの猛者がハシゴを持ってきており、ロープで岩場に取り付けてくれた。
深さのおかげで、どんな場所から飛び込んでも大丈夫。
子供たちは思い思いの岩場へ登り、飛び込んではまた登っていた。

大人たちは、その道の猛者揃いで、まずは素潜り隊が魚を捕りに潜る。
やがてフグがあがった。
そのあとさらに、とても大きなフグが捕れた!
あっという間に、2匹の立派なフグが手に入ってしまった。他にも、様々な魚が水揚げされてくる。

続いて調理隊がまな板の上で、出刃包丁を使って器用に次々と魚を捌いていく。
そしてさっきまで、道案内ガイドをしていた方が、普通にフグを解体し始めた。
グローブとハサミだけで、瞬く間にフグがバラバラだ。
剥がされた皮が、石の上にマスクのように綺麗に干されている。

ほかにもここは「亀の手」と呼ばれる貝がよく捕れる。
子供たちが次々とフジツボだらけの岩場から、ドライバー1本で亀の手を捕ってくる。
いつしか火が焚かれており、鍋が出来あがってゆく。

こうして魚や貝を入れた磯もの汁とフグ汁に、持参したおむすびとで、海の幸をいただくとびきり贅沢な島のランチとなった。

海の中は透明で、黒い岩がゴツゴツと良く見えた。
珊瑚も少しある。
熱帯魚のような魚も、岩や珊瑚のそばで遊んでいた。
シュノーケル的にはあまり面白くないのかもしれないけれど、魚を捕るという視点で捉えたら、本当に豊かな海だと思う。
小島は釣り船で訪れるというのをよく聞く。

八丈島から小島は、一番近いところで対岸から4キロだが、海流があって、泳いでは渡れないそうだ。
船でもぐるっと回って行くので、八重根港から、そんなに近くはなかった。

船頭さんが、八丈小島出身だった。
島を離れて50年が経っている。
当時10歳だったら、今は60歳。

小島で教師をしていたという方が、今まだ八丈島にいる。
20年前に小島の学校跡を見に行ったという人に、今行ったらもうなくなっていました、と告げると、当時でも崩れかけていたけれど、よくこんなところに暮らしていたなぁと思ったよ、と。

私が見た「今」は、ほとんどもう、なにもなかった。
道も都が管理しているので、ある程の草刈りをして保たれるのだろうが、もう、その先の学校が、跡形もないのであるから、それを見に行こうという人も、これからはいなくなるはず。

そうして、人の暮らした跡は、山の緑に飲み込まれて、擦りむいた膝小僧の傷が癒えるように、消えてなくなっていくんだろうと思う

近年、クロアシアホウドリの繁殖が確認されたと。
人間たちの代わりに、今度はクロアシアホウドリが、棲家としようとしている。

そうやって、続いていくんだ、いい島だな。


八丈小島(はちじょうこじま)
行政上は東京都八丈町に属する伊豆諸島の無人島。面積3.07キロ平方(来間島が2.84キロ平方)。八丈島の西、八重根港からおよそ7.5キロの沖合にある。島の周囲は海食崖に囲まれており、海岸線の大半は急斜面を成している。そのため面積に比べて標高が高く、616.6メートルの大平山(おおたいらさん)がそびえている。
室町時代から定住集落があったと考えられており、江戸時代には島の北西部に鳥打、南東部に宇津木の2か村が置かれていたが、1908(明治41)年に島嶼町村制が施行されたが八丈小島には施行されず、1947(昭和22)年の地方自治法施行で、鳥打村および宇津木村が置かれるまで名主制が存続していた(法的な村となるまでの村名は通称であった)。
特に宇津木村は名主制度にかわって地方自治法施行が施行されたのちも、1951年に宇津木村議会を廃止して町村総会が村が設置された。八丈村(当時)に合併される1955年までの8年間は、直接民主制が実施された地方制度史上極めて珍しい自治運営がなれさた村であった。


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2018年07月22日

第6話 「八丈島のメインビーチ、底土」



暑いですね。
いかがお過ごしですか。

今回から月2回の寄稿となった、扇授沙綾(せんじゅ さあや)による、『島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法』です。
海の日だった先日。畳の上で大の字になったら、そのまま昼寝をしてしまうという、プール帰りの小学生みたいなワタクシでした。

八丈島の海は透明度が高く、砂浜から泳ぎ出せばすぐに魚が泳いでいます。
水温は、入った瞬間に、冷たい!と感じるくらい。気持ちがいいです。

底土(そこど)の海は、ピンク色のこんもりとした珊瑚がよく見えます。
ピンク、百日紅の花の色のような。
テーブルサンゴもたくさん見えます。私はまだ、ウミガメに遭遇したことがないのですが、遭遇率はかなり高いそうです、すぐその辺に。

底土は、黒い砂のビーチで、そのきめ細かな黒砂はとても美しいです。
砂場の砂よりも、粒が大きいので、じゃりじゃりしないので快適です。
私がお世話になっているお灸の師がいうには、黒砂のデトックス効果は絶大で、砂浴は超おすすめだそうです。今時期は、ちょっと砂が、熱いけれども。。。
観光客が退いた、秋口くらいに私もしっかり健康になろうと思います。

この連休から、底土に海の家がオープンしました。
これが・・・
いいんだなあ。。

テーブルやベンチ、ビーチ椅子と勝手に呼んでいる屋外用のチェア。
あれが、かわいいピンクや水色にペイントされて、手作り感、ぬくもり感のある、広々とした空間になっています。

メニューも豊富です。迷ってしまうな。。。
生ビールはもちろん、島酒やハイボールもあります。
パッション生ビールっていうのが、とても気になります。

底土の海は、本土・竹芝桟橋への島民の足、大型客船橘丸が入る底土港の脇です。
沖にテトラポット(消波ブロック)があるので、海に向かって桟橋の左側は波が穏やかでとても泳ぎやすいです。
自然の岩で区切られたプールのような浜もあり、小さな子供たちがプカプカと浮き輪で浮かんで安心して遊んでいます。
少し大きな子供たちになると、桟橋の先から左側の海に飛び込みをして遊んでいます。
ここはダイバーたちの入り口でもあり、タンクを背負った人たちが桟橋脇の石段を降りて、次々に海に入っていきます。

桟橋のあたりは、海の深さ3~5メートルくらいで、珊瑚も魚も、桟橋から覗いただけで見ることができます。
もう、シュノーケルには最高です。

今日は、潮が引いている時間に、少し大きな珊瑚の近くを泳いでいたところ、小さな魚の群れがパーッとやってきて、自分と一緒に泳いでいる。
その感覚は、なんとも言えない、癒しです。

あんまり潮が引いたので、シュノーケルではお腹を擦ってしまいそうなところもあり、かといって、立ち上がって珊瑚を踏みつけるのもなぁ・・・っと。
海の中をウロウロしてしました。

底土の浜には砂浜もあるけれど、岩場です。
いくつかのエリアに分かれているので、自分で泳いでその地形というか、それを覚えたいなと思いました。
たくさん潮が満ちて、砂浜にたっぷりと海水が覆う時も、気持ちよく海水浴ができると思います。

四角い、ハリセンボンみたいな魚がいたので、後から訊いてみると、それは多分、「ハコフグ」という魚らしい。
箱みたいだった、確かに。かわいい顔をしていたな。
熱帯魚もたくさんいます。

八丈島では、今時期、桟橋からでもカンパチやムロアジなどの美味しい魚が釣れるため、釣りをする人が多く、釣り宿も多いです。
面白いのはレンタカー屋さんに、釣り人用の車の設定が必ずあります。

そして、海と山、ふたつの自然アクティビティが楽しめるのが、八丈島のいいところです。

山もまた、いいんですよ。。。
いくつかの見どころ、滝や沼、清流などがあるので、またご紹介できればと思います。
あ、温泉もありますよ。

さて、学生は今週で学校が終わり。夏休みに入りますね。
今年は9月1日、2日が土日のため、44日間という長~いお休みです。

子供たちの夏休みは、たとえば八重根の岩場で、かなりの高さからの飛び込みや、素潜りで遊ぶこと。釣り、そして夏祭りに花火大会。
夏はイベント目白押しです。

そうだ、私は星空ウォッチングにハマりそうで、夜毎、車で観測スポットへと繰り出しています。
それについても、また。

あぁ、書ききれてません。。。
八丈島の美味しいもののお話も、また(笑)



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2018年06月29日

第5話 「島ことば」


第4話 「島酒と望郷」

近ごろ家で、『スケッチ オブ ミャーク』のCDをよく流す。
久保田麻琴というアーティストが、宮古の人々から記録した古謡をそのままに、重ねる音をアレンジして仕上げたとても雰囲気のある音楽CD。
映画にもなっている。

宮古島にいた頃、平良図書館で借りられるCDの中に、もちろん宮古民謡もあったので、それを、当時の部屋の、畳の上に寝そべって聴いたことを思い出す。

好きな謡があってね。
そのうち三線教室に通い、宮古民謡の基本的なものから弾きながら唄えるように、練習した。
師匠のステージに、たまたま太鼓で参加したときに、私は三線よりも、唄よりも、太鼓がいいと言われ、そうかと思い、なんとなく民謡を、リズムで聴くようになったりして、民謡を、うたうことが宙ぶらりんになって。

畳の上に大の字に寝そべって、民謡CDを聴いていた。
あの畳は、数日間家に戻らなかったら、閉め切っていたせいでカビた。
うっすらとカビの粉が、畳の上に全面に被ってるいてね。

だからビビらない。
今、八丈で窓に近いところの畳に、緑色の粉が発生しても、なんのことはない、掃除機をかけて、固くしぼった雑巾で拭くだけだ。

八丈島は、梅雨真っ只中です。
猛烈な湿度により、紙もしなしなになっていますが、宮古と大きく違うのは、気温がそんなに、高くないことです。
むしろ寒い。

宮古の海の水温を思い出すと、とにかく逃げ場のない暑さの中、海で汗を流すという過ごし方だったけれど、こちらは海水が冷たいので、そして気温が、内地の東京よりも低くむしろ過ごしやすいため、全然海に入りたいと思わないのです。

そんな中、八丈語教育推進委員会という、集まりに参加してきました。

ユネスコの認定する、日本における消滅言語8つ。

アイヌ語,八丈方言,奄美方言,国頭方言,沖縄方言,宮古方言,八重山方言,与那国方言

宮古の言葉も、この8つのうちのひとつです。

明らかに宮古は、言葉がまだ残っている。
「おごえ」「あいじゃ」など、言葉自体を、若者だって子供だって使っているし、言葉のイントネーションや語尾は、とても自然に、宮古的だ。

「~べき」、「~か」、「~さ」。
伊良部に至っては、「~い」。
そして、「だからよ」。

私ももう忘れかけてしまって、自分の口には出てこないけれど、いつだったか東京で、居酒屋の店員の女の子が、注文を取りにきた。
その話し方ですぐにわかって、沖縄出身ですか、って、話しかけちゃったよ。
共通語を話していても、愛すべき独特のイントネーション。
懐かしくってね。

八丈には、それがない。
全く、どこにも八丈らしい言葉がない。
言葉の語尾にもないのだから、人々が話す言葉は、東京と同じ。

もう、話す人が、80歳以上のごく一部とか、そういう少数でしか、ないのだという。
同じ消滅言語に認定されていても、沖縄に比べて八丈の場合は、もう本当に虫の息だ。

それを、教育でもう一度、子供達におしえたり使わせたりして、何とか残そうとしている。町をあげて。

町の教育目標にも文言があるほどなのだ。

島言葉をまとめた辞書のような本もあるが、
大事なのは、言葉の場合、発音とかイントネーション。文字だけでは、伝えきれないのだ。
口伝。

本当は言葉は、民謡として、歌われていくもの。
そういう古謡が、この島にちゃんとあるのだろうか。

私は、それを探したいと思っています。
それを、うたえる人に、直にうたを、習いたいのです。

今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
第1話 「宮古の暮らし、八丈の暮らし」
第2話 「海までの距離感」
第3話 「路傍の燈り」
第4話 「島酒と望郷」

※     ※     ※     ※     ※

【おしらせ】
ATALAS Blogでは、毎週火曜日と金曜日の週2回にレギュラーコラムの連載を続けて来ましたが、2018年7月から新たに、日曜日更新の“日曜版”をスタートすることになりました。
それに伴い、これまで不定期に連載を続けて来ました、『島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法』がお引越しとなります。
『ATALAS Blog 日曜版』の第2週・第4週の日曜日に定期掲載。月に2回のお届けとなります。
ゆったりと、のんびりと、たゆたうように、“島”の話がたっぷりと楽しめるようになります。お楽しみに~!
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2018年05月29日

第4話 「島酒と望郷」


第3話 「路傍の燈り」

前回の掲載から約4ヶ月が経ち、私は今、八丈島に暮らしています。。。

‥えぇっ!?

という感じですが、土地との縁って、不思議とそういうものなんだな、と。
トントン拍子といいますか。。
ありがたいことです。

内地の東京から、ここ八丈町へ引っ越して来ました。
まぁ、ここも東京都なので、例えばゆうパックは都内料金です。
車は品川ナンバーです。
でも、昔は伊豆の管轄だったので、ここは富士箱根伊豆国立公園です。
複雑ですね。

島にフリージアが咲き、島中にいい香りが漂う頃、小さな八丈島空港に降り立ちました。

めずらしく、いい天気が続きました。
引っ越しの片付けはとても大変でした。
船便だった冷蔵庫は、10日以上も来ませんでした。
大きなスーパーでも、夜8時には閉まってしまいます。
夜の闇は濃く、星はいつも瞬いています。

今日は、島のお酒について。
八丈島は焼酎です。酒造所が、6つほどあります。
「島酒の碑」というのが護神山にあります。
町の真ん中にある小さな山の入口で、綺麗に玉石垣が積まれているところです。
山自体が信仰なのか、鳥居の向こうを登っても、特に何もありません。
火口の跡があって、それは教えられなければ気づかないほど、植物が生い茂っています。

さて、島酒の碑。
昔、八丈島では日本酒が飲まれていたのですが、しかし飢饉のときなどには、米は貴重なので、お酒が作れなくなるわけです。

八丈島は江戸時代、流人を受け入れて来た土地です。
大島、三宅島、八丈島、
と、罪が重い順番に遠くなるようです。

しかし、当時の流人は、知識や技術を運んでくるという役割をして、政治犯で流罪になった大名、豊臣秀吉の養子である宇喜多秀家は大変有名です。
秀家の流罪は八丈にとってはひとつの文化だったと思います。
また、近藤重蔵の息子、近藤富蔵は、八丈に暮らしながら、室町からの八丈の歴史を文字に起こし「八丈實記」を書き上げます。

そのように、流人が八丈島にもたらした技術や文化、知識は数多く、流人もいろいろで、島民にとってどのように受け止められていたのかは、興味深いところです。

さて、話はお酒に戻りますが、
酒が作れない、酒が飲めない、というのは、過酷な自然環境で労働し、生きる人間にとって、とても辛いものだと思います。

そこで、芋から酒を作る方法を、薩摩藩から流されて来た、丹宗庄右衛門が島民に伝授したわけです。
島では、穀類で酒を作ると飢饉を招くと、禁酒令が敷かれていましたから、島民の喜びようは、想像に難くありません。

ところで、私は島に移り住んでやっと10日が過ぎようという頃。
友人のお宅に呼んでもらい、釣った魚の刺身と煮付け、それから、島酒を水割りでいただきました。

そのときに、予想だにしていなかったことがおきました。
なんて言うか、まぁわかりやすい言葉でいえば、ホームシックです。


その水割りは、沖縄・宮古島の水割りと、奇跡のように似た味と香りがした。
水のようにするすると。狩俣の酒のように。

如何して。

理由は、説明できませんし、検証しようとも思いません。

心象、かも、しれないから。

人生の歴史が一巡り、何年振りかに飲んだ、島酒が体にぐっと沁みました。

恋しかったなぁ。。。宮古島が。

遠くまで来ちゃったなぁ、と言う。
距離的というよりも、時間的望郷の思いです。

島の焼酎、とても美味です。
いろいろ好き好きですが、やっぱり古酒はおいしいですね。
琥珀色の、まろやかな口あたりの、けれども、魅惑の香りの島酒、ぜひどこかでご賞味ください。

島の三原山側は至るところ、滝だらけですが、
八丈富士側の島の神社に湧き水があり、そこの水を汲んで、コーヒーを淹れると美味しいと聞きました。

今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
第1話 「宮古の暮らし、八丈の暮らし」
第2話 「海までの距離感」
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