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2018年04月27日

Vol.24 「ウギャスギーとフギャン」



太陽の光が降り注ぎ、花々は鮮やかに色づいて舞う蝶も美しい。気持ちのいい季節だ。
私が子どもの頃、実家の前の道添いには、ウギャスギー(モクタチバナの木)がたくさん植えられていた。
ウギャスギーには白い小さな花がたくさん咲き、それが終わると小さな実が生る。その実を男の子たちは、鉄砲の玉に見立て、竹で作った筒に入れて押し出すように飛ばし、女の子は、ままごと遊びに使った。

家の前の道は、私道で車の往来がなく、そこでゴザなどをひいてままごとをして遊んだ。
アカバナ(ブッソウゲ)の葉にしおれた赤い花を巻き、刻んで葉っぱの皿に並べたり、ウギャスギーの実は、みそ汁の具にしたりした。
しかし、この季節になると、ウギャスギーの葉には、フギャン(イラガの幼虫)がいて、注意が必要だった。フギャンは薄緑色をした毛虫で、これに刺されるとひどく痛み、腫れる。

ウギャスギーの葉は、フギャンの大好物らしくその数たるや葉っぱの数いるかと思うほど。
男の子も女の子もフギャンは怖くて嫌いなのだがなぜか、気になる。おそるおそる、葉ごと木から取り、わざわざフギャンを見たりする。そして集める。これだけ集めたと見せあう。何のためだ(笑)。
また、フギャンを自分の腕にたくさん乗せて平気な顔をした剛の者もいた。(叔父であるが)なぜか叔父は、フギャンに刺されないらしく、どこもなんともない。ぴるますむぬやたん(不思議なことであった)。

実家の前の道は現在はないが、ウギャスギーは少し残っている。そして、昨日フギャンを発見した。
おおー、いたか!。何十年もウギャスギーで命は繋がれていたのだと思うと感慨深いものがあった。

それにしてもフギャンとは、すごい名前だ。
語源は知らないが、日本語の「驚いたことを認める」という意味の「ぎゃふん」からきているのか??。
音の入れ替えがあり変化したのか??。はてさて・・・。

ともあれ、この時季、ほかの虫も活発だ。
小さな虫でも結構毒をもっているので気を付けよう。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年04月24日

第182回 「迎御嶽大明神」



「平和の犬川」「観音堂経塚」「宮古熊野三所権現鎮座之地」と、はからずも漲水界隈三部作が続いたので、気をよくしてひとつだけ延長戦をお届けしてみることにしました。今回ご紹介する石碑は、宮古神社の社殿の裏手。北側(図北)にひっそりと佇む、赤い鳥居が建つ迎御嶽の敷地にあります。石碑に記された碑文は、なかなか渋くて今風な表現をするなら、クールともいえるのですが、石碑そのものには見かけほどの“強さ”がありません。

この場合の“強さ”は石碑の内容と云うことで、簡単に申し上げてしまうと、こちらの石碑はよくある御嶽の改修記念碑にすぎません。
石碑に記されている情報によると、1959年2月1日に多くの寄付金を集めて建立されています。戦後、復帰前という時代なので寄付額は「弗」の字をあてたドル表記になっています。
ちなみに筆頭寄付者は富山兄弟一同とあり、2位以下を大きく引き離す100ドルを寄付しています(2位で30ドルなので圧倒的)。どのような人物なのかはこれだけ判りませんが、豊見山のように三文字姓ではないことから、内地人もしくは寄留民の系統ではないかと思われます。また、ずらりと並んだ寄付者の名前を見ると、苗字はさまざまですが、名乗り頭に「恵(惠)」の字が多いことから、白川氏の系統が関係しているようです。
実はこの御嶽、頼みの平良市史御嶽編には掲載されていません(注①)。なので、いわれや詳細を知ることが出来ないのですが、佇まいなどから考察して妄想力を全開にして、トンデモで身勝手に紐解いてみたいと思います(もしも、詳しくご存知の方がいらっしゃいましたら、なにとぞご教示下さい)。

まず、石碑にも書かれている「迎御嶽大明神」。御嶽は過去に神社化への道をたどり、数多くの御嶽に鳥居が建てられてきましたが、大明神ってのは元々は仏教用語とされ、いわば明治維新以前の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の名残ともいえる言葉なのだそうな(ただし、鹿島大明神や稲荷大明神など大明神号を使用する神社もある)。また、赤い鳥居の赤(正確には朱)も、神仏習合の時代に仏教から導入された色だとか(確かに寺院は朱塗りが多い)、だいぶチャンプルー感が高まってまいりました。
面白い解釈のひとつに四象(四神霊獣)との関係がありました。この御嶽にある鳥居は南を向いており、南の四象は朱雀なので、その赤(朱)に由来しているというもの。この解釈は方角的には当てはまっていますが、宮古神社の二の鳥居は同じく南向き(厳密にいえば、どちらも南南東)ですが白木のままです。

もっとも、宮古神社と違い、迎御嶽は鳥居の正面に祠(社殿)がなく、正面には今回紹介している石碑が建立されています。祠は鳥居に対して東に90度曲がったところにあるのです。この点から類推すると敷地の関係と神社化のための鳥居の建立を両立させた結果、このような位置関係になったようにも思われます。またしてもチャンブルー感が薫って来ました。

そんな祠の中にはご神体と云うべきなのか、三種の神器とされる八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草那芸之大刀(くさなぎのたち/草薙剣の旧名)をなぞらえたような、神鏡がひとつと、水晶玉(真贋は?)が安置されています。御嶽にしてはどことなく本格的に神社率が高めな感じがします。
しかし、ここで石碑にの裏面に寄付者とともに記されていた、重要なカードを切ってみたいと思います。
それは
「大黒出雲之神 天乃金殿」
と、ふたつの神の名が記されているのです。
書き方がちょっと気になれますが、大黒出雲之神は大黒様は、大国主命のことなので出雲大社の神様です。三種の神器ってのは、天照大御神のお話なので伊勢神宮系ですよね。朱雀はともかく神仏習合だのなんだの語りましたが、チャンプルー感が暴走し始めている気がしてなりません。

つたない知識ではありますが、ちなみに宮古神社は熊野三神系(と三豊見親神)なので、確かアマテラス寄りです。もっとも、沖縄の神社は「琉球八社」を見てもアマテラス側なので、さすが南国の太陽神はキョーレツです(それは陽射しだ)。とはいえ、琉球にとって内地式の神社神道は、新しい概念でしかないので、この辺はチャンプルーというより、テーゲーなのかもしれません。
ま、こうしてあれやこれやと色々ながめてみると、まさにスピリチアルなんてのは「鰯の頭も信心から」ってとこなのかもしれませんね。

そうそう、大黒出雲之神と並んで書かれていた地元代表の「天乃金殿」ですが、単に金殿といわれると鍛冶屋神のこと(金属を扱うのでカネ≒金)。これはつまるところ農具を作り直す人が神格化されたもので、廻り廻って農耕の神のことであり、転じて繁栄をもたらす恵みの神様とされています。ちょっと盛りすぎなような気もしますが、“天の”って修飾されるってことは、もしかしたら天照(アマテラス)のことだったりするのかもしれませんね(大局的な時系列からすると、まったく違うのであとづけ設定ならありそう)。さすが八百万も神様がいるので、妄想考察すると面白いですね。

そこでさらに思ったのですが、この迎御嶽を神社化せしめるのであれば、単にヤマトガム(大和神)を祭神に足すことで方向性が出る気がするのですが、出雲や伊勢の神がより具体的な形で登場するあたりは、内地人らしき人がメイン(寄付金)になって改修したからなのでしようか。
また、特定の家(門中?)に繋がる人たちだけが拝んでいる様子も、どことなく感じられる気もする点に加え、平良市史の御嶽編には御嶽でありながら一切取り上げられていない。このあたりを妄想たくましく考えると、もしかすると、ここは御嶽を神社化したのではなく、私設の神社(戦時中に一部の部隊が独自に拠り所としての神社を建てたという流れもある)を、御嶽化したのではないかという大胆な仮説をたててみました。身勝手なこの説、皆さんの印象はいかがでしょうか?。

【関連石碑】
第179回 「平和の犬川」
第180回 「観音堂経塚」
第181回 「宮古熊野三所権現鎮座之地」

【20180427改訂】
初稿で『平良市史御嶽編には掲載されていません』と書いてしましたが、改めて御嶽編を見直したら、西仲宗根の項目に「ンカイ御嶽」として掲載されていました(P252)。実は、この御嶽の東角は、東仲宗根と西仲宗根と西里の3字の境界になっていたのでした。勝手な思い込みで、東仲宗根と西里しかチェックをしていませんでした(謝)。  続きを読む



2018年04月20日

第1回 「巨星、墜つ。」



下川凹天(しもかわへこてん)。
明治の世。宮古島に生まれ、日本で初めてアニメーションを作った男。

兎にも角にも、生涯ペンを折ることがなかった凹天に興味をもち、ATALASネットワークでは凹天チームを結成して、あれやこれやと調べて始めました。掘れば掘るほどに、噛みしめれば噛みしめるほどに、凹天の物語があまりにも面白く、この面白さを多くの人に、少しでも知って欲しいと、「Ecce HECO.」をスタートさせることにしました。ところが凹天の物語~人の一生~を語るということは、あまりに細かく、あまりに深く、あまりにも複雑でした。そこで担当を決めて、「ふたり語り」で挑むことにしました。

一番座”番は、片岡慎泰(Noriyasu Kataoka)。がっちりと主軸の下川凹天の物語を担当。
裏座”番は、編成とストーリーテラーを担います。別名を狂言回し担当の宮国優子(Yuko Miyaguni)。
このふたりを軸に、ATALAS凹天チームが一体となって、「Ecce HECO.(エッケ・ヘコ) 見よ!凹天を!~日本で初めてアニメを作った男~」をお届けいたします(毎月第三金曜日)。

ではでは。時代と場所の世界線をこえて、まるで探偵のようなしつこさで凹天に迫ってみましょう。いざっ!

※      ※      ※      ※      ※

まずがーと、裏座からんみゃーち!。
宮国でございます。どうぞよろしく!。

第1話のタイトルは、「虚勢、乙!」・・・ではなく、「巨星 墜つ」です!。
って、出オチしてる場合ではありませぬ。
われらが凹天こそ、宮古の巨星!。

ATALAS凹天チームは、この連載を始めるにあたって、まず下川凹天の最期から調べることにしました。

まずは、亡くなった場所から始まります。
当時、結核医療で最先端の病院。茨城県の利根川沿いにあり、千葉県との県境のほど近く。

私の住む東京・大岡山からだと電車で二時間半、下総神崎駅から送迎バスという地域密着型の大病院です。車だとこんな感じ。凹天先生、終の「終の棲家」の千葉・野田を中継地点にしてみました。

120キロだそうです。あがい、宮古本島一周とちょうどおんなじくらいさいが!122キロなので、ほとんど変わらん!。

ちなみに、かの久松五勇士は、およそ120キロ移動しました(諸説あります)。久松のウプドマーラ(大泊)から、石垣島の北部・伊原間に上陸し、八重山郵便局まで最速でたどり着いたという、猛者すぎる話を思い出しました。そんなことを考えると、だいず、うむっしだよ、宮古の歴史。

あっ!あちこーこー(熱くなってしまった)ところで、どうぞ一番座へ~!。

 一番座へようこそ、片岡慎泰です。

 沖縄が日本に復帰した翌年の1973年5月26日、茨城県稲敷郡東村幸田1273(現・稲敷市幸田1247)の宮本病院水郷荘でひとりの男が息を引きとりました。享年82歳。5月2日に誕生日を迎えたばかりでした。

 名前は下川貞矩(しもかわ・さだのり)。かつて“凹天”というペンネームで一世を風靡した漫画家です。
 死因は肺結核。
 結核はかつて「死病」といわれてました。伝染性の病気のため、長期的な療養をする場合はサナトリウムに入りました。そのため、画家のムンクや小説家のトーマス・マン、本邦では俳人の正岡子規や映画家の黒澤明、最近ではスタジオジブリの『風立ちぬ』(2013年)など多くの芸術家をインスパイアさせ、作品も多く作られました。

 私事になりますが、私の母方の祖父も結核になり、母は、家じゅうが食器類まで消毒され、祖父の居る部屋に入ることも許されなかったと語っています。
 現在では厚生労働省が主管する『人口動態調査』によれば、当時の死亡率は人口10万あたり、11.1名です。かつて死因の第1位だった頃は、100名以上が常態化してたのと比べると、隔世の感があります。
 宮本病院は、当時と同じ場所にありますが、凹天が運ばれた年に、結核病棟が開設されたばかりでした。もし、結核だったとしたら、野田醤油(現・kikkoman)の「食客」として、醤油会社創業一族の茂木家が下川凹天をいかに大切にしていたかがわかります。
 しかし、凹天の死因は、本当のところ分かっていないというのが正確なところです。おくやみ欄では、肺結核と記しているのですが。

 現在働いている方に、下川凹天の名前を出して尋ねてみてもよく分からないとのこと。あれからすでに30年半も年月が過ぎようとしています。

 この男こそが、宮古島生まれで、日本で初めて商業アニメーション映画を制作した人物なのです。

一番座からは、以上です。
裏座から、ふたたび宮国です。

生涯で何度も入退院を繰り返した凹天。自ら病弱だと何度も書き残しています。
昭和48年(1973年)の平均寿命は70.7歳。82歳で息を引き取ったのは、一病息災であり、大往生だったのかもしれません。

夢にまで見たふるさとが、日本復帰した翌年のことでした。

当時の宮古はどうだったかといえば、「この年、本土資本による土地の買い占め進む」と宮古島市史『みやこの歴史』(附編 96ページ)には書かれています。だいず、んびゃーいん。

不思議なことに、宮本病院のそばには浅間神社があり、どことなく凹天が晩年暮らした風景に似ています。

凹天が晩年暮らした千葉県野田市にある稲荷神社。この右手の空き地に、凹天「最後の棲家」がありました。

【茨城県内現地調査協力 村下悦子】

To be continued

※      ※      ※      ※      ※

2017年12月最終金曜日の大予告から、順調に発刊が遅れている下川凹天のファンブックですが、ようやくどーにか最終コーナーを曲りました。あとはラストの直線を走りきるだけ?。でも、そこがゴールではありませんよ(笑)。


【2019/10/09 現在】  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年04月17日

第181回 「宮古熊野三所権現鎮座之地」


 
「平和の犬川」に始まり、先週のボーンヘッドな「観音堂経塚」を経て、仕切り直しの「宮古熊野三所権現鎮座之地」です。つまるところの「権現堂」です。なんとなく期せずして三部作のような形になったので、の~天気に結果オーライで怪傑解決したことにします。

今回の石碑は「宮古熊野三所権現鎮座之地」という、やや厳めしい感じのもの。まあ、ひらたくいえば権現堂ということになるのですが、特段、ここに御堂があるわけではありません。もったいぶららずに判りやすくしてしまうと、現在の宮古神社のことになります。

とりあえず、今どきの神社はHPもあるので、そちらから御由緒を引用させていただくことから始めましょう。
宮古神社 御由緒(一部補足として加筆) 
御嶽由来記などによると、昔、宮古島の志里満の里の平良首里大屋子(平良の頭職)が、首里へ貢進のために上国した帰路。逆風にあって遭難し、高麗へ漂着し5年、北京に移送されて3年を経た、8年後に宮古へ帰国を果たしました(歴代の平良首里大屋子の一覧表を見ても、個々の詳細がはっきりしないとあるのですが、時期的にもなんとなく合致している、4世恵本という人物の屋号が“尻間前屋”といい。これが“志里満の里”なのではないかと大胆予測。ただし、尻間の今の読みは“しすま”)。 故国の神に強く感謝し、波上宮の神を宮古へと勧請して祀ったと記されています(1590年)。
その後、慶長18(1611)年の先島検地の折、 薩摩藩の進言により琉球王府は瓦葺の社を造営し「宮古熊野三所大権現」と称した。

大正14(1925)年、平良町では西里1番地に町社・宮古神社を創建。与那覇恵源(与那覇勢頭豊見親)、仲宗根玄雅(仲宗根豊見親)を祀ると共に公認の神社を目指していた。 しかし、昭和に入っても長らく認可が下りないまま白蟻や台風の被害を受け、宮古権現堂と共に修繕が望まれるに至る。

昭和15(1940)年、紀元二千六百年記念事業として、当時荒廃していた両社を合わせた新・宮古神社 の建立が決定し、奉賛会を組織。同年、すでに神社明細帳に登録されていた権現堂を宮古神社へと改称し、旧・宮古神社の豊見親二柱を増祀。
昭和18(1943)年、西里5番地(現行の場所)に新社殿が竣工し、翌、昭和19(1944)年に本殿遷座祭を斎行するが、 戦禍に遭い終戦を迎える。やむなく御祭神は張水御嶽に一時遷祀することとなった。

昭和24(191949)年「宮古神社復興期成会」が組織される。昭和31(1956)年に目黒盛定政(目黒盛豊見親)を増祀。本土復帰の昭和47(1972)年、西里1番地に仮社殿を建立し、 宗教法人格を取得。その後も神社復興が進められ、昭和55(1980)年に社殿が竣工。同年、遷座祭を斎行した。

平成に入り、宮古神社は社殿の老朽化が顕著であり、また宮古島市誕生といった歴史的節目を迎え、「宮古神社を発祥の地へと移転し、 我が国最南端の神社に相応しい社殿を復興すべし」との気運が高まっていた。平成18(2006)年「宮古神社御造営奉賛会」が組織され、奉賛活動を開始。 平成22(2010)年6月25日、西里5番地の新社殿にて新殿祭・正遷座祭が斎行され、平成の御造営が完遂した。
ということで、社格のあった権現堂と、ローカルな旧・宮古神社を合祀して、現在の宮古神社となったということになったので、宮古神社の神様は、熊野三神の伊弉冉大神(いざなみのおおかみ)、速玉男之神(はやたまおのかみ)、事解男之神(ことさかおのかみ)に加え、豊見親三神の與那覇恵源命(よなはけいげんのみこと/与那覇勢頭豊見親)、目黒盛定政命(めぐろもりていせいのみこと/目黒盛豊見親)、仲宗根玄雅命(なかそねげんがのみこと/仲宗根豊見親)が祀られています。なんとも賑やかですが、御由緒の流れを見ると、時代の流れに翻弄されている部分も見えて、なかなかに興味深いです。

【左】戦後の宮古神社。屋根に十字架が見える。また、セーラー服の少女や白いワンピースの女児も写っている。
【右】平良市制50周年記念誌より。上は灰塵と化した街並の奥に宮古神社がある。下は問題の骨組みだけの社殿。


やや余談になりますが、戦後と思しき一時期、古い宮古神社の社殿の屋根に、十字架が掲げられ教会として流用されているという写真を、中央公民館の廊下で見つけた時は、なかなか衝撃でした。
一方で、平良市制50周年記念誌(1997年)に、「空襲で破壊された宮古神社」というキャプションで、瓦が落ち梁と柱ばかりになった無残な姿をさらす宮古神社の画像が使われているのですが、同じ戦後の写真とされる中に映る宮古神社は、遠景なので鮮明ではありませんが、まだ屋根が残っていることが判ります。この矛盾が謎だったのですが、どうやら本のキャプションがおかしいのではないかという疑惑が浮かび上がりました。
と云うのも、戦後のある時期、境内では幼稚園が営まれていたという情報があり、この写真には遊具も写っていることから、時系列としては終戦直後よりも少したった頃で、おそらく台風で被害を受けた時の写真であろうという推察されました(キリスト教系なら幼稚園を運営している可能性もありますし…)。

現在の宮古神社は本殿や鳥居、手水舎などは移転時に完全に新築となっていますが、黒ずんだ狛犬は明らかに古く、台座に刻まれた建立の日付は、昭和55(1980)年とあることから、旧所在地に社殿が完成した時に作られたものを移転してきたようです。
また、宮古神社の手水舎のそばには御獄があります。勿論、境内の敷地内です。もっとも、熊野権現に島の偉人である豊見親を合わせて祀っている宮古神社ですから、原始神道にも似た御嶽があってもなんら不思議ではありません。ただ、先にも書きましたが宮古神社は御嶽を神社化したタイプではありませんから、特異な組み合わせであることは否めません。
もっとも、道を隔てた向かい側には祥雲寺があり、その隣には先週の紹介した観音堂。石畳道を下れば宮古一の漲水御嶽と、色々とこの場所に集中していることから作為的なものが感じられます。

今は短くなってしまった漲水の石畳道を登ったところに、宮古神社の一の鳥居があります(ということは、この石畳道は宮古神社の表参道にあたるのでしょうか?)、一の鳥居の脇には昭和天皇が皇太子時代の1921(大正10)年に沖縄へ行啓の後、 渡欧する際に宮古沖を南下中に、飛魚が船に飛び込んできた様子を1967(昭和42) 年の歌会始で詠んだ和歌の歌碑が建立されています(建立は2011年)。

「わが船にとびあがりこし飛魚を さきはひとしき海を航(ゆ)きつつ」

石段を登った上に駐車場を兼ねた広場があり、そこに二の鳥居があります。こちらの鳥居はラオス産の千年木が使用されているそうです。今回、宮古神社の立地ををまとめたことで、ふたつの鳥居の序列と、参道の位置づけに気付くことが出来ました。
そうした一連の流れで、本殿の裏手にある共和ホテル新館(旧・嘉手納旅館)方向へ下る道は、裏参道なのではないかと、勝手に意味づけをしてみる。
ここからは漲水御嶽の方へ降りてゆくだけでなく、仲宗根豊見親の墓などの一大墓地団地が崖沿いに形成されており、墓の間を縫うように細い徒歩道が縦横に張り巡らされており、字数が許すなら、この興味深いエリアも見どころが多いので、紹介したいところではありますが、それはまた別の機会に。。。


【参考資料】
宮古神社
昭和天皇御製碑建立、宮古神社内(2011年8月9日 宮古新報)  続きを読む


2018年04月13日

31冊目 「平良市史第9巻 資料編7(御嶽編)」



毎度おなじみ(?)モリヤダイスケでございます。そもそもがATALAS Blogへの出塁率は高いのですが、初めて「島の本棚」を、諸般の事情から代打として性懲りもなくでしゃばって担当させていただくことになりました。とはいえ、自分ごときが本を紹介するなんて、非常におこがましいと思っておますので、やれるだけのことだけやってみたいと思います(といいつつ。知る人ぞ知る、某あんちーかんちー時代の「島の本棚」で、何回かこっそりやっていたりします)。

ということで、今回紹介させていただく本は、今や消滅自治体となった「平良市史」です。もちろん、全巻ではありません。その中のひとつ、第9巻 資料編7(御嶽編)という一冊です。タイトルが長いので、通称を“御嶽編”と云い慣わしています。
本を紹介するといいながら、純粋な読み物ではなく、思いっきり「資料」とタイトルにあるので、期待していた方はごめんなさい。
けれど、時刻表とか、電話帳とか、広辞苑とかを、そういうのを“読む”のが好きなタイプの人にとっては、実にうってつけの本だと勝手に自負しています。思い立った時に気軽に手に取って、ペラペラとページを捲り、気になったところをちょこちょこっと読んだりするには、それはもう最適解です。QEDといっても過言ではありません。その上、読み疲れて眠くなったら枕のかわりにもなるんです。

冗談はともかくとして。。。
平良市史ですが、1977年に第1巻通史編Ⅰ 先史~近代編が、平良市史編纂委員会によって編纂され、平良市教育委員会よって発刊されました。
それ以降、第2巻通史編Ⅱ 戦後編(1981年)、第3巻資料編1 前近代(1981年)、第4巻資料編2 近代資料編(1978年)、第5巻資料編3 戦後新聞集成(1976年)、第6巻資料編4 戦後資料集成(1985年)、第7巻資料編5 民俗・歌謡(1987年)、第8巻資料編6 考古・人物・補遺(1988年)、第9巻資料編7 御嶽編(1994年)、第10巻資料編8 戦前新聞集成-上-(2003年)、同資料編9 戦前新聞集成-下-(2005年)と、全10巻11冊が刊行されました。
記憶によると通史編の刊行後、それを補う資料編として、様々な角度から平良の、宮古の歴史をまとめ、資料編を13巻まで刊行する計画が予定されていましたが、2005年の市町村合併によって宮古島市となったため、平良市史のプロジェクトは計画は棚上げされ、新たに宮古島市史として編纂が開始され、2012年に「みやこの歴史」第1巻通史編が発刊されました(こちらは完売のため入手不可)。

さてさて、平良市史第9巻の御嶽編。
こちら平良市のみならず、宮古群全域(城辺町、下地町、伊良部町、上野村、多良間村)の御嶽を、10年に及ぶフィールドワークを経てまとめられた云うなれば御嶽名鑑ともいえる一冊です。収録されている御嶽の数はおよそ900。宮古の御嶽の総数が、うろ覚えですが確か1800くらいあったと記憶しているので、およそ半分もの御嶽か一冊に納められている計算になります。半分とはいえ、その圧倒的な数量は目を見張るものがあります。

毎週火曜日にお届けしている、島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」の現調査や、極私的で些末な自由研究のフィールドワークで、御嶽に出逢うことも少なくありません。そんな時、この御嶽編がとても役に立つのです。どこの集落のなんという御嶽で、なにが祀られているといった基本的な情報だけでなく、その御嶽にまつわる歴史や物語を知ることができるのです。
なんて素敵で素晴らしい本を作ってくれたことでしょう。ホント、先達の皆々様に大感謝です。この本のおかげで、宮古の文化と歴史を紐解き、謎を知る手立てとなり、知的好奇心を満たしてくれるのですから。

ただ、唯一の難点というか、弱点としては、これを読み解くにあたって、過去視の能力も必要なことです。
なにしろ刊行が1994年なので、御嶽の位置を説明する文章や、御嶽そのものが現在とは大きく様変わりしてしまっているからです。特に市街地と圃場整備が行われたエリアは、御嶽を囲う森が失われコンクリートの祠に変貌している場所などが多々あります。
また、一方で限界集落化、限界突破集落化人している地区でも、里の人たちが減り、高齢化も進み、御嶽の護り人となる人たちがおらず、祭祀が行われなくなり、門(ぞー)開きすらままならず、御獄が自然に還ってしまっている場所も多くあります。
それでもこの現代の「御嶽由来記」ともいえ御嶽編のる記録は貴重にして重要で、自由研究を進めるには欠かせない史料となっています。

この平良市史御嶽編の発刊から、およそ4半世紀。宮古島市教育委員会からの情報によると、『「みやこの祭祀」宮古島市史第2巻 祭祀編(上重点地域調査』が完成したそうです。上巻では、御嶽における祭祀の内容にまで踏み込み、仔細にして詳細な調査がなされ、宮古島市史編纂委員会が編集した、渾身の一冊になっています。早ければ4月中頃には書店の店頭に並ぶという話なので、見つけ次第、即ゲットの必須確定の激レア本です。

[書籍データ]
平良市史第9巻 資料編7 御嶽編
編 集 平良市史編纂委員会
発 行 平良市教育委員会
発行日 1994年3月31日
※残部はわずかですが、まだ島内の書店にて販売中。  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年04月13日

連載一覧(2018/04)

ATALASネットワーク公式Blogに掲載されいる、企画・コラム一覧です(随時更新)。

【月イチ金曜コラム 連載一覧】
 ~週替わり担当で金曜日に掲載しています。

《第一金曜担当》 「宮古口見聞録" ~みゃーくふつけんぶんlog~」 川上良枝(@ 内地人)
フシギでキニナル島のことばを、拾い集めて宮古を知る。体験型みゃーふつlogbook!。


《第二金曜担当》 「島の本棚」 江戸之切子(@東京) + サポーターのみなさん!
この世に存在するあらゆる書物の中から、オキナワ宮古が登場する本をレビューします。


《第三金曜担当》 「Ecce HECO.(エッケヘコ) 見よ!凹天を!~日本で初めてアニメを作った男~」 片岡慎泰&宮国優子
強力にして強烈なタッグが協力して綴る、島生まれの国産アニメの始祖・下川凹天の物語。


《第四金曜担当》 「 宮古島四季折々」 松谷初美(@宮古人fromみゃーくふつメルマガくまかま)
南国の小さな四季を暮らしの中の風景を通し、宮古口を織り交ぜて優しく綴るものがたり。


《第五金曜》 「金曜特集」 ※不定期
第五週のある月にお届けするスペシャル企画として、ゲストコラムを掲載します。


《ATALAS 日曜版》
《不定期連載》 「島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法」 扇授沙綾(せんじゅさあや@八丈島)
島は宮古や沖縄だけじゃない。海でつながる島模様。宮古島→東京→八丈島。
※不定期から、2018年7月から新設された日曜版にて移籍。毎月第2・第4日曜日に連載となりました。

毎週火曜連載 島の石碑を巡る旅
「んなま to んきゃーん」 モリヤダイスケ(@東京人from宮古島)


【2018/07/20 一部改訂】  
タグ :宮古島


Posted by atalas at 11:59Comments(0)連載企画

2018年04月10日

第180回 「観音堂経塚」



先週の「平和の犬川」の石碑があったあたりに、宮古島の道路元標ともいえる、幻の「距離測定基標」という構造物があったそうなのでが、大正10(1921)年の第二次築港に際して、蔵元周辺はすべて取り壊されて再開発されており、「距離測定基標」もこの頃に取り壊されたと推定されています。その折にふれた『元禄国絵図』(1696年 国立公文書館デジタルアーカイブ)に、平良間切から各字までの距離が記されていいました。その絵図の平良間切の脇に権現(堂)と書かれており、まるで元禄絵図の道路元標のような雰囲気だったので、思いつきで今回取り上げてみようとしたのですが、なにを勘違いしたか、観音堂経塚へ行ってしまいました(権現は現在の宮古神社なのに)。なので、急遽、変更して観音堂経塚をお送りします。

【左】表側の碑文。【右】裏側の碑文。どちらもよく見えず、判りづらいのが特徴です。

観音堂経塚。祥雲寺の隣りにある小さな御堂の前にある由緒ある石碑です。ちょうど漲水の浦(港)へ下る斜面の肩附近にあり、港を見下ろすロケーションは伊良部島佐良浜まで眺望することができます。
1611年、薩摩藩検察使の進言で祥雲寺が創建されたのち、仲保屋(字西仲宗根の内会)にかつて新里与人を務めていた人物が、中山へ上国した際、観音像を一体持ち帰り、生涯信心しいといいます。
その孫にあたる、砂川大首里大屋子 (白川氏)恵宣は、御堂を建て島中で信心すれば宮古は幸せになれると考え、1684(康熙23)年に上国の折、御堂の建立の許可を得て宮古に戻りましたが、観音像を祥雲寺に託して翌夏に亡くなってしまいます。
その志を祥雲寺の十代目住職・道林西堂が受け継ぎますが、これまた建立の途中で死去。続く十一代住職の江外西堂が寄付を募って1699(康熙38)年にようやく創建されます。

【左】御堂の正面。経塚はこの左手、背を向けた看板の隣りにあります。 【右】御堂の中の観音様・・・。

ここまでが権現堂のお話。やっとら経塚の話に入ります。
御堂の前庭に建つ経塚は、宮古における仏教伝来の事跡を示す、数少ない遺跡です。碑文の表(海側)には「経呪嶺(きょうじゅれい)」、裏(観音堂側)には「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉(ようせいひのえたつふゆしらかわうじけいどうここにたてる)」と記されています。
雍正丙辰は雍正14(1736)年のことですが、実際はこの年に改元されており、乾隆元年となっています。経塚は観音堂が創建されてから37年後に建立された物であることが記されています。
また、この経塚を建てたのは、白川氏(11世)恵道で1731~7年の間、平良大首里大屋子を務めており、在職中に建立されたことになりますが、調べてみると恵道は病死によって平良の頭職を退いていますので、もしかすると大病を患っていて病を祓おうとして強い信仰を求めたのかもしれません。
尚、この観音堂は上国船の航海安全を崇敬を集めたと伝えられており、確かに港を見下ろすこの立地はまさにうってつけかもしれません(今は建物が多くてよく見えませんが)。
また、この経塚。とても霊験あらたかであったのでしょうか、雍正旧記(1727年)では、祥雲寺よりも観音堂は先に記されおり、「島中萬事宿願ニ付、崇敬仕候事」という人気のある観音様だったようです。

現地を改めて見回してみると、道路から観音堂へ入る階段脇の擁壁に、「史跡 平良市文化財指定 観音堂及経塚参道」とあります。市町村合併で宮古島市に移管され、市指定の史跡として「綾道」などに書かれている名称は、「観音堂経塚」となっています。
あれ、参道はどこに?。
観音堂に登って見ると、経塚の脇にその名残がありました。段数にして三段ほど。どうやら大正道から祥雲寺へ向かう道すがらの道路拡幅によって、参道の階段は削り取られてしまったようです(この参道部分は史跡ではなかったのでしよぅか?)。

【左】道路拡幅により擁壁で隔絶された参道 【右】観音堂の奥。実は関連の深い祥雲寺と繋がっています】

ちなみに大正道は、現在の平良港から平良交番への直登する坂道になる以前。漲水御嶽から犬川、美島旅館の前、八城旅館の裏手をS字に曲がりくねりながら、平良交番の交差点へ登ってゆく道のことで、今もその痕跡が見て取ることが出来ます。
また、祥雲寺前の通りは昭和にも拡張工事(この時、祥雲寺の石垣をセットバックさせた。その後、平成の石垣改修でとある問題が発覚しますが、それは別のお話…)がなされているので、当時とはずいぶんと雰囲気も変わってしまっているようです。

どうも思いつきだけで進行しているので筋道が怪しくてすみません。道ネタで〆ようと、先週から続くネタを用意していたのですが、観音堂経塚は航海安全を祈る場で、海路に挑む心の基点といったものだったようでした。せっかくなので、先週少し言葉足らずだった道路の話を無理矢理に繋いでおきます。

【左】御堂の前の何かの台座。他にもいくつかある。【中】謎の石柱。文字のようなものも見えるが判読は不能。【右】裏手の石垣。わずかに祥雲寺の方が高い。

二代目とおぼしき道路基点のお話。
犬川の距離測定基標同様、こちらにもすでに影も形もありませんが、宮古警察署(現平良交番)の角にあったと云われています。1923(大正2)年から始まった三村組合道路(平良、城辺、下地の三村のこと)が平良と各地を結ぶ街道の近代化をはかりました。
平良町制施行十周年記念誌によると、ほぼ同時期に整備が進められた、県道の城辺漲水港線(城辺線、西里~福里)、新里漲水港線(上野線、下里~新里)、与那覇漲水港線(西里~与那覇)を補完する、三村組合の整備区間は、狩俣漲水港線(西里~狩俣)、砂川線(野原越~砂川)、宮国線(新里~宮国)とあります(久松線の文字も見えるが、詳細は不明。尚、判り易くするため、新漢字に改めています)。
これのまで主に徒歩道だった里と里を結ぶ親道(うやんつ)に変わって、道幅が三間から二間半の道路が作られ、馬車や自動車を走らせることが出来るようになり、島内の流通が飛躍的に向上しました。
余談ついでに、この連載でも以前紹介した、友利の「道路開鑿紀念碑」、新城の「(新城道路改修)記念碑」などは、その流れを汲んだ道路開鑿の記念碑となっています。伊良部の五ヶ里道開鑿記念碑は、伊良部村単独の公共工事ではありますが、時系列的にはほぼ同時期となりますから、これによりヤマグが跳梁し、マズムヌが跋扈した時代は終わりを告げ、文字通りの近代化が宮古に訪れるのでした。

最後の最後で、結果オーライの上手くまとまりそうなネタを見つけました。
勢いだけで今回紹介した、メインの観音堂経塚とオマケの三村組合道路ですが、どちらも元平良村長にして教育者であった立津春方が関わっていたのでした。村長を務める前、村議員の時代に観音堂の改築を援助。三村組合道はさらに前、平良尋常小学校の校長時代に、宮古の近代化のために奔走したと云われています。

【関連石碑】
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第123回 「道路開鑿紀念碑」
第124回 「(新城道路改修)記念碑」  続きを読む


2018年04月06日

log11 「スイーツ・メモリーズ@ミャーク」



新年度が始まりました!
1月は往(い)ぬる。2月は逃げる。3月は去る。と言いますが、もう1年の4分の1が過ぎ去ってしまいました。このペースで行くとあっという間にオバアになりそうです。
元気なうちにちゃんとやりたいことやっていこうと思います。がんずうさ1番!

【がんずうさ1番】
がんずうさいつばん。
「がんずう」は健康。健康第一。
同様の意味で「がんずううやき」。「うやき」は、金持ちや財産の意。健康が何よりの財産ということですね。
「がんずううやきかーす」は宮古のお菓子屋さんの商品名。「かーす」は菓子。あんこがサンドされたヨモギのナボナ(c)といった感じのお菓子。

さてさて。生まれてからオバアになるまでとかくお祝いごとの多い宮古ですが、中でも盛大なのが入学祝いです。これは、子供がいる人は内地からの移住者だからといって避けて通ることは不可能に近いでしょう。
なぜなら招待しなくても皆様ちゃんと職場関係、ご近所、友達関係をリサーチしていて、どこの家の何番目の子供が小学校に入学かを把握しているのです。
しかも、会場は自宅です!。新一年生がいる家庭では大人数を収容するため、部屋を仕切る襖は取り外し、テーブルも借りられるところから借り、料理や酒、お返しの準備に奔走します。
お祝いに行く側は今年はどのルートで回るか、件数が多い場合は旦那さんと奥さんとで、どう手分けして回るか計画を立て、御祝儀袋に3000円をしたため宮古中を移動しまくります。

さぁ、このお祝い回り、団地の場合は注意が必要です。あちこちで賑やかな宴会の声が聞こえるので間違えることがあります。私も去年間違えて3階に行くべきなのに2階のお宅も盛り上がっていたのでうっかり玄関までお邪魔してしまいました。先に階段を駆け上がっていったはずの長男も次男も室内に見えないし、知ってる顔が全くいないのでアレ?と思い、慌てて退散しました。

さてさて、お祝いではオードブル、寿司、ピンクいおにぎり、親戚や友人の手作りのお料理などが所狭しと並べられます。
中身汁やソーミン(素麺)汁のシームヌ(汁物)は来客があり次第、台所チームが素早く人数を確認しその都度用意します。
さらにお祝いで欠かせないのがスイーツ類。サタパンピン、ゼリー、くず餅、駄菓子、とどこのお宅も夢のようなラインナップです。

【サタパンピン】
サーターアンダギーの宮古の呼び方。「サタ天」とも。
サタ→砂糖
パンピン→天ぷら
我が家の長男の入学祝いの際、夫がお世話になっている方がダンボールいっぱいのサタパンピンを差し入れしてくれて、本当に感激しました。

余談ですがダンボールって偉い!。
入れ物としての役割はもちろん、保温性もあり、直に入れられたサタパンピンの油も程よく吸って使い捨て出来る。一石二鳥、三鳥くらいありますね。

【ゼリー】
宮古のお祝いでテーブル上に積んである小分けされたカラフルなゼリー、実はゼラチンではなく海藻から抽出した寒天ぽいものなので、常温で置いていても液体にならないんですね。
サタパンピンとともにお土産にもなるスイーツとして必須アイテムと言えるでしょう。

入れ替わり立ち替わりお客さんが来る中で、主役の新一年生は何をしているかというと、お客さんから御祝儀を受け取り親に渡し、お返しに内祝いを渡す、という重要な任務があります。帰るときだと渡しそびれる恐れがあるので、だいたい先に渡します。おそらく、酔っ払う前に、という意味もあるでしょう。
何年も前になりますが、夫婦ともにナイチャーで宮古に親戚のいない我が家でも、たくさんの方がお祝いに来てくださり、息子達もとても嬉しそうでした。母としては慣れないお祝いで少し、いやかなり大変だったけど、やって良かったと思えました。

【お返し(内祝)】
最近はスーパーの商品券やお米券がほとんどですが、私が宮古に引っ越して来た頃(2002年)は化粧箱に入った3キロのお米や四角いケーキもありました。
化粧箱のお米は今もお歳暮や贈答品として見ることがありますが、さすがに四角いケーキはもう10年以上お目にかかったことがありません。

【四角いケーキ】
白い箱に入っていてフタを開けると箱とほぼ同じサイズの四角いスポンジケーキがドーンと収まっています。表面には赤い字で「寿」と大きく書かれていました。
フルーツやデコレーションは無く、「寿」の文字のみ。これを初めて見た衝撃は忘れられません。私はまだ子供もいなかったので夫婦2人で数日かけて頑張って平らげました。
もうどこからも貰うことのないあのケーキ。
もう会うことは無いのかしら?と思うと会いたくなるのが人情というものです。
という訳で、注文しました!四角いケーキ!

「立津菓子店のが美味しかった」と友人に教えてもらい早速お店へ。
しかし四角いケーキの名称が分からないので、まずはケーキの思い出話から始めて、今でも作れるかを確認。「出来るけど2個からの注文になります」とのことで2個注文。
翌日ワクワクしながら受け取りに行くと、ケーキの箱は記憶では長方形でしたが、正方形でした。
帰宅して開けてみたら「寿」の文字が無い!
しまった!「自宅用」と言ったからだ!!

残念ながら、「寿」は無かったけどビビッドな3色のボリュームたっぷりなケーキは堪能することが出来ました。
もう1個は次男の部活終わりに持って行ったら奪い合いであっという間に無くなりました。

ケーキ受け取りの際、お店のおばさまから「スプーンで食べると美味しいよ」と教えてもらいました。おばさまは家族で食べるときは切らずに出して、各々スプーンで食べるそうです。鍋をつつく感覚ですね。
皆さんも機会があったら是非試してみてくださいね!

ではまた来月。あとからね~

※今年平成30年度の入学式は4月10日(火)です。ムム、平日ですねぇ。  


2018年04月03日

第179回 「平和の犬川」



今回紹介する石碑は、これまでもひたすらに地味といわれつつも続けている、井戸にまつわる石碑シリーズです。とはいえ、場所柄、好事家の皆さんにとっては、そこそこに知られている井戸なのではないかと思います。

こちらの石碑は、誰もが知っている漲水御嶽の斜め向かい。祥雲寺や宮古神社へと続く「漲水石畳道」(別名、ネフスキー通り)の昇り口のその脇に建立されています。
石碑そのものはそれほど古いものではなく、なぜ犬川(宮古読みでインガー)の前に、「平和」の文字が冠されているのかについては、よく判りませんでした。

石碑の隣りにあるコンクリートの囲いの中に、蓋がされた掘り抜き型の井戸があり、これが犬川の本体になります。
井戸廻りなのでここは拝所になっており、井戸の奥には複数の香炉が安置された祠があります。そこにも「ニブス川 平和の犬川」と書かれた石碑(畏部か?)が建てられており、昭和48(1973)年旧暦6月9日・新暦7月8日と建立の年月日が記されています。

この犬川はかつては深い洞泉だったそうで、その昔、与那覇原軍と目黒盛が覇権を争っていた戦乱の時代。目黒盛は与那覇原軍に漲水御嶽(かつての漲水御嶽は浜沿いにあり、石垣を波が洗っていた)まで追い詰められて窮地に陥ります。すると突如、洞泉の中から七年前に行方知れずとなっていた目黒盛の飼い犬が(二匹説もある)が飛び出し、與那覇原軍を蹴散らして目黒盛のピンチを救ったという逸話があり、この出来事が井戸の名前の由来にもなっているそうです。
尚、御承知の通り、目黒盛はその後、援軍の到来とともに勢いを取り戻し、与那覇原軍を打ち破ります。しかし、犬の消息については特に伝承はなく、援軍の到来前のドラマチックな物語として盛られたのではないかと、ストーリーテーラーの如く妄想を高めておきます。

余談ですが、目黒盛の援軍は楚野里山(嶺とも。場所は新しいクリーンセンターのある嶺。≒そのりやま)の方からやって来たということなのですが、一説には狩俣の渡来人と云われているクバラパーズ(玖波良葉按司)の一団が援軍として駆けつけたという説があります。直接、関係するかは判断に難しいのですが、時代が下って仲宗根豊見親(目黒盛の子孫)が外征する際、島を預かったのは狩俣を中心として納めていた四島の主(古見の主)だったりするので、なにかを感じざるを得ません(けど、リンク先で紹介している石碑は、与那覇勢頭の白川氏系統なのだけどね)。

なんとなく楽しいので、伝承と妄想のモロモロにもう少しお付き合いください。
漲水御嶽の石垣(共和ホテル側)に沿って、敷石が並んだ水路の痕跡が見てとれます。古い漲水御嶽の写真などを見ると、御獄の入口にも小さなマイ橋が架かっていることも判ります。わずかな高低差もあって、犬川から流れ出した水を通す水路なのではないかと想像します。さすが、漲(みなぎ)る水と書く場所だけのことはある気がします。

犬川の拝所の隣り、現在は月極有料駐車場(JAパーキング)となっている場所(一部、共和ホテルの駐車場)は、昭和52(1977)年頃の地図を見ると、ホテル漲水館(1階は農協マーケット)という宿泊施設がありました。しかもこの犬川の拝所や井戸があるコンクリートの囲いの部分は、建物の一階部分として中に取り込まれ、自由に出入りができる公共的な空間になっていたようです(つまり井戸の上の階は客室だったらしい。構造としてはイーザトのメインストリート、“海ペラー”の角の一階部分と同様の作り)。
そんなちょっと怪しい囲いの中には、もうひとつ祠があります。「唐の神」「水の神(龍宮)」と並んで、なぜか「豆腐の神」が祀られています。唐の主と竜神と並び立つ豆腐の神って、なんか凄いですね。いったいどんな神様なのでしょうか、気になります!。

最後は失われた石碑の話です。
平成3(1991)年に刊行された「沖縄県歴史の道調査報告書Ⅷ 宮古諸島の道」によると、明治の頃。この平和の犬川の石碑のあたりには、「距離測定基標」という構造物があったそうなのです。
いわゆる宮古島の道路元標にあたるもので、明治40(1907)年に焼失した蔵元を、実際に幼少の頃、見たことがあり、100歳の画家としても有名な宮原昌茂の証言によると、「距離測定基標」は、縦1メートル、横2メートル、高さ1.5メートル。外観は屋根型で材料は漆喰を固めたようなもので、岩石のような色合いで、人目に付く堂々とした建造物だったそうです。
ちなみに記憶を元に、蔵元周辺の絵図を書き起こしており、以前は石畳道の前に当時を偲ぶ風景として、看板に仕立てられていましたが、現在は周辺整備により撤去されてしまいました(宮原昌茂についての参照  元図画は市総合博物館に所蔵されています)
蔵元跡(現在の共和ホテル本館から石畳に接する敷地あたり)周辺は、大正10(1921)年の漲水港第二次築港の工事の際に再開発がなされ、その時にすべて消失したと云われています。もしも、これが今も残っていたとしたら、どんなに素晴らしい文化財となったかと思うと残念でなりません。藁にもすがる思いで痕跡探しに「平和の犬川」周囲を漁ってみましたが、当然、微塵も残っていませんでした。
尚、その後の話として、旧宮古警察署(現・平良交番)の角に、新しく基標が置かれたという昔話もあるそうです。こちらは大正2(1923)年から始まった三村組合による道路整備などに関連して置かれたのではないかと云われています。なにしろ警察署の向かいは元・平良村役場(二代目)があった場所でもあるので、起点としては申し分ない場所でもありますから(もちろん、こちらの元標もその後の拡張工事など、街の近代化の結果、跡形も残っていません)。

ちなみに、古い地図(絵図)をひっぱりだしてみると。。。
『元禄国絵図』 1696年 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
平良間切の権現(堂)から島を半時計まわりに、下地(川満-上地-与那覇)、上野(宮国-新里)、城辺(砂川-友利)と繋いで、保良の百名(ぴゃうな≒へんな≒平安名)までの道が描かれ、9里3町(36.33キロ)と記されています。
これは現在の国道390号線(日本最南端最西端の国道)と似た感じのルートなので、ちょっと面白いです(福里を通っていないのは、福里は明治になってから村建てされているから)。友利から保良(百名)にかけてのルートは、個人的に密かに痕跡を追いかけている、保良親道(ぼらうやんつ)とほぼ同じようでもあり、やや頬が緩んでしまいます。
たった一枚の古地図ではありますが、ところどころに植生が描かれていたり、岬の名前が記されていたり、細かなヒントが隠れているのを眺めるのはとても楽しいです。なにより宮古島は平良漲水だけでなく、この島の南岸の集落もまた、島の重要な拠点だったということが、うかがい知れる重要な史料だということが判ります。


【資料】
狩俣集落自治会
第58回「仲宗根豊見親凱旋奉納石垣之碑」
国立公文書館デジタルアーカイブ 天保国絵図(1835年の絵地図)  続きを読む