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2018年04月10日

第180回 「観音堂経塚」

第180回 「観音堂経塚」

先週の「平和の犬川」の石碑があったあたりに、宮古島の道路元標ともいえる、幻の「距離測定基標」という構造物があったそうなのでが、大正10(1921)年の第二次築港に際して、蔵元周辺はすべて取り壊されて再開発されており、「距離測定基標」もこの頃に取り壊されたと推定されています。その折にふれた『元禄国絵図』(1696年 国立公文書館デジタルアーカイブ)に、平良間切から各字までの距離が記されていいました。その絵図の平良間切の脇に権現(堂)と書かれており、まるで元禄絵図の道路元標のような雰囲気だったので、思いつきで今回取り上げてみようとしたのですが、なにを勘違いしたか、観音堂経塚へ行ってしまいました(権現は現在の宮古神社なのに)。なので、急遽、変更して観音堂経塚をお送りします。
第180回 「観音堂経塚」
【左】表側の碑文。【右】裏側の碑文。どちらもよく見えず、判りづらいのが特徴です。

観音堂経塚。祥雲寺の隣りにある小さな御堂の前にある由緒ある石碑です。ちょうど漲水の浦(港)へ下る斜面の肩附近にあり、港を見下ろすロケーションは伊良部島佐良浜まで眺望することができます。
1611年、薩摩藩検察使の進言で祥雲寺が創建されたのち、仲保屋(字西仲宗根の内会)にかつて新里与人を務めていた人物が、中山へ上国した際、観音像を一体持ち帰り、生涯信心しいといいます。
その孫にあたる、砂川大首里大屋子 (白川氏)恵宣は、御堂を建て島中で信心すれば宮古は幸せになれると考え、1684(康熙23)年に上国の折、御堂の建立の許可を得て宮古に戻りましたが、観音像を祥雲寺に託して翌夏に亡くなってしまいます。
その志を祥雲寺の十代目住職・道林西堂が受け継ぎますが、これまた建立の途中で死去。続く十一代住職の江外西堂が寄付を募って1699(康熙38)年にようやく創建されます。
第180回 「観音堂経塚」第180回 「観音堂経塚」
【左】御堂の正面。経塚はこの左手、背を向けた看板の隣りにあります。 【右】御堂の中の観音様・・・。

ここまでが権現堂のお話。やっとら経塚の話に入ります。
御堂の前庭に建つ経塚は、宮古における仏教伝来の事跡を示す、数少ない遺跡です。碑文の表(海側)には「経呪嶺(きょうじゅれい)」、裏(観音堂側)には「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉(ようせいひのえたつふゆしらかわうじけいどうここにたてる)」と記されています。
雍正丙辰は雍正14(1736)年のことですが、実際はこの年に改元されており、乾隆元年となっています。経塚は観音堂が創建されてから37年後に建立された物であることが記されています。
また、この経塚を建てたのは、白川氏(11世)恵道で1731~7年の間、平良大首里大屋子を務めており、在職中に建立されたことになりますが、調べてみると恵道は病死によって平良の頭職を退いていますので、もしかすると大病を患っていて病を祓おうとして強い信仰を求めたのかもしれません。
第180回 「観音堂経塚」尚、この観音堂は上国船の航海安全を崇敬を集めたと伝えられており、確かに港を見下ろすこの立地はまさにうってつけかもしれません(今は建物が多くてよく見えませんが)。
また、この経塚。とても霊験あらたかであったのでしょうか、雍正旧記(1727年)では、祥雲寺よりも観音堂は先に記されおり、「島中萬事宿願ニ付、崇敬仕候事」という人気のある観音様だったようです。

現地を改めて見回してみると、道路から観音堂へ入る階段脇の擁壁に、「史跡 平良市文化財指定 観音堂及経塚参道」とあります。市町村合併で宮古島市に移管され、市指定の史跡として「綾道」などに書かれている名称は、「観音堂経塚」となっています。
あれ、参道はどこに?。
観音堂に登って見ると、経塚の脇にその名残がありました。段数にして三段ほど。どうやら大正道から祥雲寺へ向かう道すがらの道路拡幅によって、参道の階段は削り取られてしまったようです(この参道部分は史跡ではなかったのでしよぅか?)。
第180回 「観音堂経塚」第180回 「観音堂経塚」
【左】道路拡幅により擁壁で隔絶された参道 【右】観音堂の奥。実は関連の深い祥雲寺と繋がっています】

ちなみに大正道は、現在の平良港から平良交番への直登する坂道になる以前。漲水御嶽から犬川、美島旅館の前、八城旅館の裏手をS字に曲がりくねりながら、平良交番の交差点へ登ってゆく道のことで、今もその痕跡が見て取ることが出来ます。
また、祥雲寺前の通りは昭和にも拡張工事(この時、祥雲寺の石垣をセットバックさせた。その後、平成の石垣改修でとある問題が発覚しますが、それは別のお話…)がなされているので、当時とはずいぶんと雰囲気も変わってしまっているようです。

どうも思いつきだけで進行しているので筋道が怪しくてすみません。道ネタで〆ようと、先週から続くネタを用意していたのですが、観音堂経塚は航海安全を祈る場で、海路に挑む心の基点といったものだったようでした。せっかくなので、先週少し言葉足らずだった道路の話を無理矢理に繋いでおきます。
第180回 「観音堂経塚」第180回 「観音堂経塚」第180回 「観音堂経塚」
【左】御堂の前の何かの台座。他にもいくつかある。【中】謎の石柱。文字のようなものも見えるが判読は不能。【右】裏手の石垣。わずかに祥雲寺の方が高い。

二代目とおぼしき道路基点のお話。
犬川の距離測定基標同様、こちらにもすでに影も形もありませんが、宮古警察署(現平良交番)の角にあったと云われています。1923(大正2)年から始まった三村組合道路(平良、城辺、下地の三村のこと)が平良と各地を結ぶ街道の近代化をはかりました。
平良町制施行十周年記念誌によると、ほぼ同時期に整備が進められた、県道の城辺漲水港線(城辺線、西里~福里)、新里漲水港線(上野線、下里~新里)、与那覇漲水港線(西里~与那覇)を補完する、三村組合の整備区間は、狩俣漲水港線(西里~狩俣)、砂川線(野原越~砂川)、宮国線(新里~宮国)とあります(久松線の文字も見えるが、詳細は不明。尚、判り易くするため、新漢字に改めています)。
これのまで主に徒歩道だった里と里を結ぶ親道(うやんつ)に変わって、道幅が三間から二間半の道路が作られ、馬車や自動車を走らせることが出来るようになり、島内の流通が飛躍的に向上しました。
余談ついでに、この連載でも以前紹介した、友利の「道路開鑿紀念碑」、新城の「(新城道路改修)記念碑」などは、その流れを汲んだ道路開鑿の記念碑となっています。伊良部の五ヶ里道開鑿記念碑は、伊良部村単独の公共工事ではありますが、時系列的にはほぼ同時期となりますから、これによりヤマグが跳梁し、マズムヌが跋扈した時代は終わりを告げ、文字通りの近代化が宮古に訪れるのでした。

最後の最後で、結果オーライの上手くまとまりそうなネタを見つけました。
勢いだけで今回紹介した、メインの観音堂経塚とオマケの三村組合道路ですが、どちらも元平良村長にして教育者であった立津春方が関わっていたのでした。村長を務める前、村議員の時代に観音堂の改築を援助。三村組合道はさらに前、平良尋常小学校の校長時代に、宮古の近代化のために奔走したと云われています。

【関連石碑】
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第123回 「道路開鑿紀念碑」
第124回 「(新城道路改修)記念碑」




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