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2016年06月28日

第89回 「平良恒道顕彰碑」



今回の「 んなま to んきゃーん 」も宮古島市熱帯植物園です。先週、「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」の碑を紹介して、短絡的に思いつたので「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」を場当たり的にスタートしてみたいと思います。とはいえ、すでにいくつかは紹介していたりします。たとえば植物園正門前にある「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」の碑や、当植物園の造園した「眞栄城徳松氏の像」、公園前T字路の「730記念之塔」(後にスペシャルも組みました)などかあります。
と、いうことで紹介するのは正門から少し入った左手にあるカフェと、ちがや工房との間の植え込みに、ひっそりとたたずむ「平良恒道顕彰碑」です。

平良恒道と姓名だけを書くと、なんとなく近代の人のイメージをしてしまいがちですが、どうもこの方は1700年代に実在したお役人さんらしいのです。

碑文に記されている、いわれがこちらです。
平良恒道親雲上の功績
伊良部首里大屋子平良恒道と洲鎌目差は、船子四十二名と貢納を済ませ、一七四七年十二月九日、那覇を出帆し宮古へ帰る途中、嵐に逢い台湾に漂着した。
翌年一月五日、沈没寸前の清国船が救助を哀願した。恒道と目差は彼等を救えば“共に飢渇に苦しむ、救は(わ)ざれば死する、見殺しするに忍びず、救って天命に従うと決心し、少ない食料を分かち合って清国の琉球館着いた。
清国皇帝はこの義挙を聞き、多大の褒賞を賜り、尚敬王に感謝の書を送り、中山王の得化通土隅なく輝き国民よく仁心大義あり、誠に守礼の国たるに恥ぢすと賞賛し恩を謝した。
二十四名を救う 之仁義の士なりと、一行は二年後、宮古に帰った。
恒道は平良の頭に任ぜられ、親雲上に列し、子孫はその余栄を受けた。
これロータリー精神「超我の奉仕」の範たり、即ち平良ロータリークラブはこれが顕彰に総力を挙げ、国際ロータリー第三五八地区の支援によりこの碑を建つ。

昭和五十年五月吉日建之(立?)

建設発起人
一、国際ロータリークラブ第三五八地区 遠隔地クラブ友愛委員会
一、平良ロータリークラブ会員
  以下、会員指名29名(省略)
一、第三六六地区大阪クラブ会員 下地玄信
一、英俊氏子一同

※文面がやや読みづらいので句読点を加筆し、改行を施しました。
要約するに、那覇に朝貢へ行った恒道は、1747年12月9日に那覇を発ち宮古へ帰ろうとしたが、嵐に出くわし命からがら台湾へと漂流したと思ったら、同じように嵐にあって沈没しかけの清国の船と遭遇し、こちらも余裕がない状態ながらも、恒道の英断で乗員を救助し、翌年の1月5日に清へ共にたどり着き、色々あって2年後に帰宮したってお話のようですが、いくつか気になる点もあります。
那覇を発ち嵐にあってボロボロの状態で台湾に漂着していながら、清国(中国本土の福州)の琉球館(琉球王府の出先機関)へと、1ヶ月近くかかってたどり着くという点とか気になります。
しかも、清国から救助の恩賞を賜るのはともかく、琉球館にたどり着きながら、清の琉球館から帰国するのに2年もかかっているところも気になります。

帰宮後、平良の頭(間切の長)に任じられているので、歴代の平良大首里大屋子の記録を調べてみると、英俊氏系統、屋号「前ヒヤ」の恒道(童名:三良)という人物を発見しました。任期は乾隆27(1762)年から、乾隆33(1768)年まで。そして残念なことに注釈に生没年不明とありました。いきなり「判りません」という大きな壁にぶちあたってしまいました。
余談になりますが、元号の乾隆(清暦)といえば、乾隆36(1771)年の「明和の大津波」が有名です(明和は和暦で1968年に著作物のタイトルとしてつけられた)。

恒道についてなにかもう少し判らないか、資料をあさってみると、系統の英俊氏について判ってきました。
英俊氏は英氏英祖王(1229-1299 琉球国王)の支流の系統で、渡慶次里之子重張が秋嶺王姫真加戸樽金按司を娶って家を興したのに始まり、子孫は王府で栄職に就いていた。1664(寛文4)年に総奉行職となった重孝は国使とて清へ赴くも、梅花沖(ママ:場所が確定できず)で大風にあって難破した際、清国への貢品の金壺が盗難にあって紛失する。
なんと父・重孝の罪科の連座によって、子・重祐は1667(寛文7)年に、宮古島の野崎(久松)へと流されます。重祐は野崎邑(村)山戸築の娘、真牛を娶り、兄の加那渡名喜、弟の渡名喜の二子をもうけ、後に成長した弟の渡名喜が、恒充を名乗って洲鎌与人となり、これが英俊氏の祖となります。
そして恒道のほかにも、平良大首里大屋子に恒慶(任期1852-1854 上国の途中水納沖で溺死)。砂川大首里大屋子に恒長(任期1808-1813 死去による退任)、恒嘉(任期1829-1830 病死)。下地大首里大屋子に恒盛(任期1777-1799)と、決して他の系統氏と比べると数は多くありませんが、首長を輩出しています。
しかし、恒盛以外はなんとなく在任期間が短く、ちょっと不運な家系のよう気もしますが、そもそもが祖父(重孝)の罪科の連座で流された、父(重祐)の悲運からスタートするので、5人も首長を出すあたり、実は強運いや豪運を持っていたのかもしれません。そしてセカンドチャレンジが可能なこの時代の方が、システムとしては健全だったかもしれませんね。

話を石碑に戻します。ロータリークラブ云々には特に触る予定ではなかったのですが、ちゃっかり下地玄信の名も連なっていて、ついつい唸ってしまいましたので、少し紐解いてみました。
まず、石碑の揮毫に注目してみると、「平良恒道顕彰碑」の文字は国際ロータリークラブ第三五八地区 遠隔地クラブ友愛委員の竹田恒徳という方が書かれているということが読み取れました。
また、碑の右端の話方に「人間とは人と人との間柄」という一文が、国際ロータリークラブ第三五八地区 ガバナー佐藤千尋の署名とともに記されていることにも気づきました。
数字ばかりで判りづらいのですが、ざっくり調べてみたら、面白いことに、この358地区は今から50年前の1966年に設立されていることが判り、奇しくも先週のコラ台風の話にも年代だけですが、リンクしていたのでした。
この顕彰碑の建立の様子については、こちらのPDFにレポートされていました。

「平良恒道顕彰碑序幕」/「遠隔地友愛クラブ委員会 那覇にて開催」(PDF)
※出典ははっきりしませんが、ロータリークラブの月信からのようです。

短時間で毎回毎回、石碑一枚からネタを絞り出すのは、100回が近づくにつれ次第にマイナー色が増し、なにげに厳しくなりつつありますが、ある意味でライフワークとなっているので、体力の続く限りはがんばりたいと思います。あとからでも面白く有益な情報(ネタ)がありましたらぜひぜひお寄せください。
次週もまた「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」が続きます。小さくささやかにご期待下さい。

【参考資料】
宮古島市史「みやこの歴史」
「宮古史伝」 慶世村恒任  続きを読む



2016年06月24日

其の2 まもる君とまるこちゃんの誕生秘話!?ゲンコーさんの錬金術



かつては東北の田舎町あたりでも、時折見かけたハリボテの警官型人形。いつしかその姿を目にすることは少なくなったが、ここ宮古島では、彼らが一大ファミリーを形成している。そう。宮古島まもる君だ。

道路わきや交差点に、365日、24時間、嵐にも灼熱の太陽にも耐えながら立ち続け、宮古島の安全と人々の幸福を見守るまもる君の働きは、確かに尊敬に値するが、住民票が交付され、歌に歌われ、ガイド本が出版され、交通事故で負傷すれば、市長がお見舞いにかけつけるまでの存在になるとは、誰が想像しただろう。お土産店は、関連グッズであふれ、「まもる君に会うために宮古島へ来ました!」なんて観光客もいるほどだ。旧式の警官型人形は、宮古島まもる君となることで、腕利きのプロモーターでもいるかのように、押しも押されもせぬ島のヒーロー、アイドルにまで昇りつめた。

まもる君が、人々からこんなにも愛されるそのワケのひとつは、ひとりひとり違った彼らの表情だ。『宮古島まもる君パーフェクトガイド』には、19人のまもる君のフェイスコレクションが掲載されている。ちょっと悲し気なまもる君、とぼけたまもる君、気弱そうなまもる君と、顔の違いがキャラとなり、それぞれに人格を帯びてくる、ような気がしてくるのだ。

彼らの顔を描き続け、すなわち魂を吹き込んできた人がいる。棚原玄光さん(以下ゲンコーさん)、78歳だ。60歳でNTTを定年退職してから15年ほど、まもる君の修理をボランティアで一手に担った。

安全協会にいた嫁が、お義父さん暇でしょう、まもる君修理してと。
まもる君はグラスファイバーでできていて、加工にも特殊な技術がいるから。
僕は無線関係の仕事をしていて、あ、無線のアンテナカバーね、
あれなんかも同じ材質なわけ。
だから、そっち方面の知識や技術はあったんだよ。


ゲンコーさんの年齢から推し量ると、それは1998年ごろのこと。まもる君が初めて宮古にやってきたのは1991年で、当時は5人が島の各所に配属されたという(※宮古島まもる君パーフェクトガイド)から、修理はすでに急がれていたにちがいない。ちなみに1998年には一気に10人ものまもる君が増員される。「なんだか、どんどん増えてった」というのがゲンコーさんの実感だ。

まず最初にダメになるのは足から。
まもる君の足には、1メートルくらいの太い鉄のパイプが入ってて、
それが錆びてくる。老化は足からって人と同じ。
修理が終わると、塗装をし直すんだけども、一度全部真っ白に塗りつぶす。
元の顔なんてわからなくなるから、やっかいよ。
顔ってどんなになってるかーと、鏡で自分の顔見ながら描いたさ。
緊張して、手が震えるわけよ。


顔の凹凸はあるから、目鼻の位置が変わるわけではない。しかし、眉の引き方、目の輪郭、黒目の入れ方などのほんのちょっとした加減で、まもる君の顔に、ユニークな個性が生まれた。図らずも。
「もともと、絵は苦手。同じように描こうと思っても描けない。ただ、なるべく優しい顔にしたいとは思ったよ」

あるとき、いつものようにまもる君の修理を頼まれたんだが、
なに、女性の警官にしてというんだ。
制服を赤く塗り、本物のヘルメットをかぶせた。
まもる君は一体型で、最初からヘルメットかぶってるでしょう。
あれを脱がすというか、ていねいに削った。
そして、ぱっちりの目と赤い口紅で、可愛い女の子に見えるように。
口の悪い友達は、女装じゃないかというんだけど(笑)


赤いジャケットに白いズボン、白いヘルメットは、婦警白バイ隊のスタイルだ。こうしてまもる君の妹、まるこちゃんは誕生した。まるこちゃんの名は、ゲンコーさんの命名だ。「まるって、安全で平和な感じがするから」が、名前の由来らしい。

ゲンコーさんのもとに搬送されるまもる君の損傷は多岐にわたる。経年劣化の腐食、台風などで転倒し破損、塗装のはがれ、心無いいたずら書きまで。腐食部分は取り除き、欠けたところは再生し、新たに色を塗りなおす。手先な器用なゲンコーさんにかかれば、たいがいの傷は癒え、まもる君たちは生まれ変わって現場に復帰していった。

ないものは作ってしまうというゲンコーさんは、アイディアの天才でもある。その遊び心は、科学と結びつき、奇想天外な世界を創り出す。まもる君修復の基地でもあった山中の庭『ピルマス(不思議な)パーク』は、ゲンコーさんの楽しい実験場だ。パラボラアンテナを利用した東屋、謎の自動ドア、扉を開けると勝手にテレビがつくトイレなどなど、びっくりな仕掛けが、あらゆるところに仕込まれて、人々の笑いを誘う。さらに庭の隅には、どこからか集めてきた「ガラクタ」たちが、次の出番を待っている。

子どものころから、そんなのが好きだったよ。
小学校のとき、軍隊上がりの先生がいて、バケツでスピーカーを作ってくれた。
僕は興味津々で、朝礼の間、ずっと手回しの発電機回してたよ。
難儀だったけど、スピーカーが動くのが面白くてしょうがなかった。


好奇心いっぱいの科学少年は、高校生になると、集落の親子ラジオ局を開設してしまう。親子ラジオとは、戦後、沖縄県で広まったラジオ共同聴取システムのことで、宮古では西里の友利電機が最初に始め、またたくまに宮古中に広まっていったようなのだ。

モクマオウを切って柱にして、線を引っ張って。
おじさんと兄と僕と3人で、鏡原に親子ラジオを引いたんだ。
そのころ、兄とふたりで平良中の前にあった鉄工場を借りて、
自動車を改造したトラクターの試作品なんかも作ったよ。
それが宮古で最初のトラクター(笑)


改造車のトラクターが、どれほどの威力を発揮したのかは不明だが、それを期にお兄さんは、イギリスからトラクターを輸入する商売を始めたというから、人々に大きなインパクトを与えたことは確かなようだ。
その後、ゲンコーさんはNTTに入社。親子ラジオ局は、やがてトランジスタラジオの修理店になった。

宮古で最初にテレビを映したのは、実は僕だよ。
鏡原の山の上に発電機を持って行って、アンテナを立てた。
そこで電波を受信して、ラジオ店のテレビに映したんだ。


親子ラジオ同様、宮古に最初にテレビをもたらしたのは友利電機というのが定説だが、鏡原ではそれより先にテレビ電波の受信に成功していたのだとゲンコーさんはいう。

技術と道具の著しい進歩の風を、好奇心いっぱいに追いかけたゲンコーさん。そこには名誉心も欲もない。ただただ、楽しいことが好きなのだ。そして今日も、こどものように目を輝かせ、ピルマスパークに向かうのだ。

※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
宮古の男たちは、楽しいこと、くだらなくても面白いことが大好き。なにかしら突拍子もないことを考えては、大笑いしている彼らを見ると、人生って楽しむのが当たり前なんだと教えられているような気がします。それから、なんでも自分で作ってしまうということ!欲しい道具はもちろんのこと、家まで作ってしまう器用さと経験値の高さには驚くばかり。ゲンコーさんは、まさにその代表選手です。
「実はね、もう一体あるんだよ、手元に。足もなくなって、ぼろぼろになったまもる君が」
と、ゲンコーさんはささやきます。まもる君の修理は3年ほど前に引退したのですが、修理に必要な材料はすでにそろっているのだと。ということは!ゲンコーさんの科学の知識と修理の技術を合体させた、ハイブリッドなピルマスまもる君が、そのうち・・・もしかすると・・・。  



2016年06月21日

第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」



1966年9月4日から6日にかけ宮古島を通過したコラ颱風(第二宮古島台風)は、30時間にわたって宮古島で猛威を振るい、最大風速60.8m/s(日本の観測史上7位)、最大瞬間風速85.3m/s(日本の観測史上1位)という稀代の記録を観測します。負傷者41名、住家損壊7765棟、浸水30棟を記録しました(理科年表より)。沖縄県公文書館が所有する被害の調査写真などを見ると、数字以上に実際の被害があったのではないかと感じました。そんな大きな被害をだしたコラ颱風に関係する石碑を、宮古島市熱帯植物園で石碑を見つけ、襲来から今年で50年目の節目ということもあり、取り上げてみることにしました。
コラ颱風の思い出やエピソードなどがありましたら、ぜひとも教えてください。よろしくお願いします。

「日本産業開発青年隊 第二宮古島台風災害救援記念碑」というなんとも長いタイトルの石碑が今日の主役です。石碑は植物園の丘を少し登った木陰に建立されています。文字を刻み込んだ石碑ではなく、ペンキを塗って作られた簡易的な感じのするものなのですが、さすがに経年劣化が見られ、今後の記録保存が少し気がかりです。石碑てのとりとめもない第一印象ですが、石碑の中央にあるマークがどことなくショッカーのエンブレムっぽく見えてしまったのは世代だからでしょうか。このマークはおそらく「産業」のSと「青年隊」のSに、ペンとハンマーを重ねたマークのようです(ハンマーだけでなくペンがあるのは事務職の養成も行っていたかららしい)。

この日本産業開発青年隊というのは、当時、深刻化していた農家の次男三男の失業対策の一環で、戦後の荒廃した国土の復興と地域おこしを目的とした青年隊運動のひとつで、寒河江善秋(山形県)が提唱し、1951(昭和26)年に農林省と建設省が協力して、県単位の産業開発青年隊が山形と宮崎で発足。その後、各県にも波及してゆき、後の国際協力機構青年海外協力隊の源流となる組織が作られました(現在は熊本県、宮崎県、沖縄県のみ存続)。
県ごとの組織は地方隊と呼ばれ、設立の趣旨から地域での活動が主で、コラ颱風の際に災害派遣として宮古島にやって来た日本産業開発青年隊とは、名前こそこ同じものの別の組織なのではないかと、手探りで探ってゆく中で思うようになって来ました。
というのも沖縄県の産業開発青年隊は1955(昭和30)年の設立で、組織は出来上がっていますから救援に来ることは可能ですが、地方隊は資格や技術を取得のための研修組織と考えられたので、災害派遣のために動くとはやや考えにくく、また復帰前なので碑文に書かれているような「建設省より派遣」という形にもなりません(後述参照)。
しかし、大方の予想を覆して、公文書館の写真には「沖縄産業開発青年隊 第二宮古島台風コラ被害救援活動」とキャプションが付けられた写真があるのです(でも、県内派遣に大々的に石碑を建てるとは思えないので、日琉二本立ての派遣なのか、キャプションのミスなのか、確信が得られずかえって謎が深まってしまいました)。

この石碑に登場している日本産業開発青年隊は、どうやら中央隊と呼ばれる建設省に組織された、もうひとつの青年隊であることが朧げながら判って来ました。こちらは建設省の長澤亮太(福岡県)が主導して設立され、建設省建設大学校静岡朝霧校(富士教育訓練センター)を経て、現在は国土交通大学校として組織されています(自治大学と同じ公務員等の研修施設としての大学校)。

彼らの宮古島での活躍は石碑の裏にしたためられていました。
1966年10月16日 第二宮古島台風(コラ台風)災害救援のため、建設省から派遣された日本産業開発青年隊32人が来郡、11月13日までの約一ヶ月にわたって応急仮設住宅20棟建築をはじめ倒木処理、路面均し、プロック塀積替等の復旧作業を行う。
1966年11月10日施工
重箱の隅を突くように気になったことがあります。彼らは11月13日まで滞在しているのに、建立が11月10日である点です。
これは単なる妄想ですが、派遣を終えて帰国(復帰前なので)する彼らを、島の人たちが謝意を示す石碑を作り、労をねぎらったのではないでしょうか(だとするとペンキ仕上げなのも、急いで作った感じでなんとなく判る)。
もっとこの時の資料が出てくれば、面白くなりそうなネタなのですが、そうそう都合よく出てきたりはしません(今後に期待?)。

もうひとつ、颱風についても触れておきたいと思います。颱風銀座の真っただ中のにある宮古島なので、記録的に見ても歴史的に見ても1959(昭和34)年の第一宮古島颱風「サラ」、1966(昭和41)年第二宮古島颱風「コラ」、1968(昭和43)年第三宮古島颱風「デラ」と宮古島の名前を冠した颱風三姉妹は有名ですが、この他にも1969(昭和44)年の豆颱風「エルシー」や、2003(平成15)年の14号「マエミー」など、枚挙に暇がありません(この5個の颱風は、宮古で観測された瞬間最大風速ベスト5です)
コラ(18号)のルートを資料から紐解いてみると、8月31日にグアム島西方の海で発生したコラは、発達しながら北西へ、ほぼ真っ直ぐ宮古島を目指すように進み、9月5日9時頃に宮古島にもっとも接近します。コラは島に上陸(気象用語的に、島へは上陸とは云わない)はせず、来間島の南西沖を通過していますが、この頃がもっとも勢力が発達しており、観測された最低気圧は918hPaにも達しています。
しかも、通常、颱風の進行方向の北東側は、一番勢力の強いエリアであり、その部分が丸ごと宮古島を飲み込んだ形となりました。その上、速度もゆっくりだったことから30時間にわたって暴風の中にさらされ、被害が拡大しました。
コラは宮古島を過ぎても北西へ進み、7日9時前に中国大陸に上陸し、同日21時頃には弱い熱帯低気圧に変わり颱風としての一生を終えます。

【左】 宮古島付近のコラの経路図(デジタル台風 台風196618号経路アニメーション ※水色が颱風、紺色は熱低) クリックで拡大
【右】 宮古島地方気象台(旧・測候所)で観測されたコラ颱風のレーダー画像(2016年 宮古島市総合博物館 新収蔵展より)


コラの猛威になすすべもなく破壊尽くされた宮古島に、日本産業開発青年隊は来島し、土木を中心とした復興協力に尽力してくれました。個人的に宮古島を蹂躙したマエミー(2003年)を体験しており、凄まじい颱風の破壊力でへし折られた2000本もの電柱を修復するため、全国各地から色とりどりの高所作業車が宮古入りして、電柱の復旧に汗を流してくれたことを重ねてしまいます。復旧が終わろうとした頃、空港の前ガードフェンスに一枚の横断幕が掲げられます。そこに書かれた「ありがとう」の文字を目にして、謝意で涙腺が緩んだことを回想しました。

最後に余談となりますが、、今年(2016年)はどうやらエルニーニョが終息したことで、颱風が発生しにくい気象状況となってるようで、6月になっても未だ颱風が発生する気配すらないという異常事態が続いています。そうはいっても颱風が来たら来たで困るけれど、なければないで困る気がします。

【関係資料】
一般社団法人 沖縄産業開発青年協会
沖縄辞典wiki沖縄産業開発青年協会 沿革など詳細あり
  



2016年06月17日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十四話「博愛記念碑建立」



1876年(明治9年・光緒元年)3月5日、ドイツの軍艦チクロープ号は、日独語の通訳である山村一蔵(外務省九等出仕)を伴って横浜を出航します。出航直後の3月7日には、激しい雨が断続的に続き、強い南東風や南西風に見舞われたりもしましたが(チクロープ号 艦長フォン・ライヒェはこれを、季節外れの台風の影響だと推測しています)、船は無事に3月12日午後2時頃に那覇港に入港します。
この後ドイツ人一行は3月15日まで那覇に滞在し、この間に首里の王府への表敬訪問なども行った後、多嘉良親雲上を琉球語と日本語の通訳として乗船させて出航します。
その詳細については、フォン・ライヒェ艦長がベルリンの海軍省に出した1876年4月の報告書に詳しいのですが、これを解説し始めると宮古に着けなくなるので今回は割愛します。
なおこの報告書は、『南島』第三輯にもドイツ語の原文が掲載されており、さらに江崎悌三氏(1936年の60周年式典にも参加した九州帝国大学の教授)による訳も付いているものの、現代の私たちにはこの訳の訳が必要なほど漢語が多く読みにくいため、近々現代語訳を出したいと思っているところです。

【上】 「恩河里之子親雲上の墓碑」
石碑の背後にあった樹木が颱風で倒壊したことにより、斜面が崩れはじめて土砂が流出し、石碑が傾きだしている。今後の保存状態が気になります。
【下左】 石碑の設置状況(2016/06/17現在)。元々それほど大きな碑ではないため、草木と土砂で埋もれかかっています。
【下中】 墓碑のある西仲宗根の海沿いの崖に並ぶ墓群。仲宗根豊見親知利真良の墓などがある。
【下右】 石碑の脇にある綾道アプリ対応の案内板。アプリを起動してQRコードを読み込むと、解説や写真、動画(一部史跡)を見ることが出来る。


さて、所変わって舞台は3月16日(旧暦2月21日)の宮古。沖合に突如、異国船が姿を現します。その様子を、狩俣村耕筰筆者の池間仁屋は次のように記しています。

二月廿一日火輪船一艇五ツ時分子牛之間ヨリ走リ出テ四ツ時分三番口ヨリ口入仕申候此段御問合申上候

五ツ時分は朝8時頃、子丑は北北東の方角、四ツ時分は10時頃なので、チクロープ号は朝8時頃に北北東から姿を現し、10時頃に入港したものと考えられます。なお、三番口というのがどこを指すのかは不明ながら、ドイツ側の報告によれば、漲水港に碇を下したことになっています。ロベルトソン号漂着時もそうでしたが、異国船が来るということは、島の役人はじめ民衆にとっても、面倒な仕事が降って湧いたようなもの。そして今回もその例に漏れず、チクロープ号の来航は島に大変な迷惑をかけることになるのでした。

宮古に着いた一行は、すぐさま石碑の設置場所を巡り、現地の役人たちと協議に入ります。在番側は設置場所として、平良の町の中心部と島の南北を結ぶ道とが交差する地点がよいのではないか、と助言を行い、フォン・ライヒェもこれを受け入れます。報告書によればここは、海岸から数百歩離れた海抜20メートルほどの高台にあり、周囲に人家や木々もなく、背後は茂みになっていて、海からもよく見渡すことができたのだそうです。海岸線が沖に遠ざかり、周囲を住宅地に囲まれている現在の周囲の状況とは全く違いますね。
このようにドイツ側は、在番の提案をすんなり受け入れ、翌17日からすぐに工事に取り掛かったのですが、それには深いワケがありました。何としても、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅠ世の誕生日である3月22日に盛大な序幕式を催して石碑を贈呈したかったのです。その期日まではあと5日。しかし大理石と花崗岩でできた石碑は、高さ3.3m、幅87am、重さは約1800kgもあり、チクロープ号に乗って来たドイツ人水兵だけではとても運搬できません。
そのため、本来感謝の受ける側のはずの島民たちが賦役に駆り出され、石碑と礎石の陸揚げ・設置場所への運搬、さらに設置場所周辺の地ならしなどの作業を行わなくてはなりませんでした。石灰岩の岩場をならして石碑の設置場所を整備する作業も大変だったようですが、何よりも一番の困難は石碑と礎石を陸揚げする作業でした。平良から3艘、池間からも2艘の伝馬船が送り込まれ、石碑と礎石の積み替えを行ったものの、その重さのために船が浅瀬に乗り上げて立ち往生しまう始末。最後は、トロッコのようなものを急造し、石碑を人力で船からトロッコに積み替えてこれを陸まで運んだのですが、積み替えの際には数百人の島民が大声で掛け声をあげて石を持ち上げたとのこと。苦労の様子がしのばれます。

このような骨の折れる作業の末、3月20日には、礎石を無事に埋めることに成功、さらにフォン・ライヒェは、石碑建立の趣意や経緯を記した書類と、7種のドイツの貨幣を銅管に収めて、これを石碑の設置予定場所に埋めました。その場には、琉球側の役人として板良敷親雲上(島の最高責任者)ほか5名、島側の役人として平良親雲上はじめ9名、さらにあのヌイチャンと通訳の山村、多嘉良両名が同席したとされています。
そして3月22日にはいよいよ石碑を建立、10時半からは引き渡し式典を挙行しました。既に前日の時点で、島の役人から全島民に対し、式典に参加するよう通達がなされており、実際に当日の記念碑周辺は人だかりでごった返したようです。また、花火が打ち上げられても驚かないようにと、事前に注意喚起もなされていました。晴天の空の下、ドイツ海軍の士官と兵隊が記念碑まで行進し、その後フォン・ライヒェの演説、太平山の知事(板良敷親雲上か?)による石碑の中国語の碑文朗読などもあり、最後にはロベルトソン号救助に功績のあった島の役人たちに記念品が贈られました。記念品を授与された役人と品物の詳細は次の通りです。
【独逸皇帝より贈られた記念品の数々 『南島』第三輯より】
板良敷(親雲上) : 望遠鏡と金時計
上里(親雲上) : 望遠鏡
川平(親雲上) : 金時計
平良(親雲上) : 銀時計
砂川(親雲上) : 銀時計
松原(首里大屋子) : 銀時計
内間(仁屋) : 銀時計

なおこの他に、琉球藩王(つまり尚泰王)と琉球摂政にもそれぞれ望遠鏡と金時計が、また通訳を務めた山村一蔵にも後になって金時計が贈られています。
また記念品を受け取った人物のなかに、川平親雲上という名前がありますが、彼は金井喜久子(1911-1986)、宮古島生まれ。女性で初めて東京音楽学校〔現在の東京藝術大学〕に入学し作曲家となる)の祖父に当たります。
それから、ヘルンスハイム船長の日記に「ヌイチャン」の名前で登場する内間仁屋が銀時計をもらっていますが、下級役人であった彼が記念品をもらえたのは例外的だと言えます。それだけ、ロベルトソン号漂着時にドイツ人一行の面倒を見たからでしょう。
このように彼がある種「報われた」のはよかったものの、反対に可哀想なのは1873年のドイツ船漂着時に島の最高責任者だった花城親雲上です。1872年の琉球藩設置や宮古島民台湾遭難事件、翌73年のロベルトソン号漂着(さらにこの年には首里の王府による先島視察もあった)など、激動の時代に対応に追われた花城親雲上は、既にこの時他界しており、時計や望遠鏡は受け取れませんでした。

しかし最も割が合わなかったのは、記念品をもらえないどころか、記念碑の陸揚げや運搬の作業にも駆り出された一般の民衆でしょう。ドイツ側は、島民へのプレゼント、と言いながら、石碑を運搬できる十分な人員も装備もないまま(しかも通訳も日本側頼みで)宮古に上陸し、ドイツ皇帝の誕生日に間に合わせるために島民を動員して石碑を建立しています。さらに言えば、島民たちはドイツ人に直接雇われたのではなく、船や人員を提供するよう、役人に指示されたのでしょう。
それなのに役人だけが記念品をもらい、大多数の島民は骨折り損のような形になっていて、当時はそれが当然だったのかもしれませんが、現代の視点からは腑に落ちないところです(確かに島の役人たちも、ドイツ人のために様々な対応に追われたとは思いますが)。
とまれかくまれ、無事に3月22日に石碑を建立し、引き渡しの式典も盛大に行ったフォン・ライヒェ艦長。すぐに宮古を出航したかと思いきや、翌日も宮古に残って、湾の水深の調査などを行っています。ここに、チクロープ号のもうひとつの狙いが見え隠れしています。水深の調査は、島に上陸を行う際の重要なデータになりますから、軍事的にも重要な価値を持ちます。
当時のドイツ海軍が、台湾を有力な植民地の候補と見做していたことも踏まえると、先島諸島への軍事的・領土的な関心があったとしても不思議ではありません。こうした事実や、前回・今回で見てきたようなドイツ側の一方的な態度も踏まえると、こんにち「博愛記念碑」と呼ばれるこの石碑が、島民の博愛的行為に感謝して贈られたものというよりも、むしろドイツが勝手に送りつけて来たもの、ともするとありがた迷惑なものでもあり、しかもそれは、東アジアにおけるドイツの覇権の象徴(「こんな所にもドイツは足跡を付けだぞ」というしるし)でもあると位置付けられるのではないでしょうか。

ここまでが、ロベルトソン号をめぐる長い話の前半部分、つまり「博愛記念碑」が宮古に建てられるまでのお話でした。その後の宮古は、近代の日本史(及び世界史)にますます組み込まれて、琉球処分(と旧慣温存)、サンシー事件、人頭税廃止運動など、激動の時代を迎えます。そんな時代の中で、この石碑は、完全に忘却されたわけではないものの、人々の意識からは遠のき、ましてやこの石碑に「博愛記念碑」としての価値を認めることもないまま時代は過ぎ去っていきました。しかし1930年代になり、この石碑が島外の人間によって「再発見」されたことで、石碑は「博愛記念碑」として新たな意味を付与され、一人歩きを始めて、政治的に利用されることにもなります。
そこで次回からは、この「石碑のリバイバル」に着目し、特に1936年11月の「博愛記念碑60周年式典」の様子に迫っていきたいと思います。

【文化財案内】
恩河里之子親雲上の墓碑(市指定典籍)
※宮古島綾道(あやんつ)アプリ:宮古島市教育委員会公認・史跡探訪モデルコースを搭載したアプリに対応したHP
【関連石碑】
第14回 「ドイツ皇帝博愛記念碑」  


2016年06月14日

第87回 「学び舎の碑」



今回紹介する石碑は、先週の金曜日の「島の本棚」で取り上げられた宮古南静園にあります。碑の表題は「学び舎の碑」。副題に「隔離された療養所の中に学び舎があったことを記す」とある通り、園内にあった学校を記録した石碑です。

まず、碑の下部にに記されている沿革を紹介します(碑文を元に読みやすく、資料より加筆修正しました)。
沿革
1935(昭和10)年
寺子屋式の八重菱学園を所内に開設。年齢を問わず、入所者が聖書の読み書きができることを目的に始まる(園内には入所者のための教会がある)。

1937(昭和12)年
八重菱学園を再編。義務教育を受けられなかった17歳未満の少年少女に勉学させることを目的として、生徒数23人で再出発。入所者の有識者3名が学園の教師として委嘱される。

1944(昭和19)年
戦時下で授業が中断。翌年、空襲により園舎消失する。
(戦局が切迫して来ると、南静園そのものが軍によって接収され、入所者は海岸沿いの洞穴で、不自由な避難生活を迫られる)

1947(昭和22)年
生徒8人をもって、八重菱学園が再開。

1952(昭和27)年
琉球政府の設立に伴い、八重菱学園は生徒数は21名ながらも琉球政府立として認可され、宮古南静園小中学校と校名を改称。

1954(昭和29)年
琉球政府立宮古稲沖小中学校と改称。

1972(昭和47)年
校名を琉球政府立那覇養護学校 稲沖分校と改称。5月1日、日本本土復帰に伴い、沖縄県立那覇養護学校 稲沖分校と改称。

1977(昭和52)年
沖縄県立宮古養護学校の設立に伴い、沖縄県立宮古養護学校 稲沖分校に改称。
しかし、在校生がゼロになり休校。

1981(昭和56)年
3月31日をもって閉校。稲沖小中学校45年の歴史に幕。

碑の裏面にはに南静園の年代ごとの概要図(学校を中心とした資料)と、稲沖小中学校の校歌が記されていました。改めて校歌を読んでみると、難解な表現が多く使われた歌詞になっていますが、ひとつひとつの言葉を吟味して読み解くと、ぎゅっと締めつけられる想いが詰まった校歌になっていると気づかされました。
稲沖小中学校校歌 (作詞/伊波義一 作曲/富浜定吉)

一、
流るるせせらぎ 園辺(そのべ)の緑
愛しみ満つる 清らの甍(いらか)
おゝわが学舎(まなびや) 稲沖ぞ
豪(くら)き世代に 先駆けの
自主を目標(ひかり)と 励(いそ)しむ吾等(われら)

二、
浮世の籬(まがき) いや高くとも
胸裡(むなぬち)秘(ひ)める 聖(ひじり)の御声(みこと)
おゝわが学友(とも)ある 稲沖ぞ
友情(なさけ)は交(か)よう 四海の浄火(きよめ)
愛と信(しん)とに 睦(むつ)まな吾等(われら)

三、
豊(たか)汐の香(か) 稲沖原で
いよよ修(おさ)めん 人成(ひとな)る業(わざ)を
おゝわが道標(しるべ)の 稲沖ぞ
百合の真白(ましろ)は 行手の灯(あかし)
描く未来ぞ いざ進まなん

[編集注]
豪き・・・・・・「くらき」にあたる読みがないが、「つよい」とか「きらびやか」という意味。
籬・・・・・・・・垣根のこと。
胸裡・・・・・・胸の内。
稲沖原・・・・南静園のある浜の字名は稲置原。崖の上のは別の名で構川と呼ぶ。
この稲沖小中学校校歌の作詞者は当時27歳の伊波義一(伊良部字前里添出身)。作曲者は当時24歳の富浜定吉(仲地出身)だそうです。
南静園 半世紀ぶりに校歌斉唱/宮高生の演奏に合わせ「宮古稲沖小中学校」卒業生ら
(宮古毎日20061127)

最後に、この碑の建立に協力された団体等についても紹介しておきたいと思います。
建立:2011(平成23)年5月10日 「学び舎の碑」を建てる会
協力:宮古南静園、宮古南静園入所者自治会、沖縄県立宮古特別支援学校、稲沖小中学校元教師、元稲沖小中学校児童生徒、財団法人沖縄県ゆうな協会、宮古南静園退所者有志、全医労南静園支部、ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古、みやこあんなの会、他
南静園というとゲートから先へは、どことなく敷居が高く入りづらい感じがありますが、碑の立つ広場は燦々と日差しが降り注ぐ明るい芝生の広場があり、広々とした浜辺は美しく、遠く与那覇浜崎まで見渡せる、実はとても心地よい場所だったりします。

国立療養所宮古南静園
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2016年06月10日

9冊目 「ガイドブック宮古南静園」



6月です。6月23日は、沖縄戦の戦闘が終結したとされる慰霊の日です。沖縄県では沖縄全戦没者追悼式が行われ正午に黙祷します。本土からも慰霊と平和への祈りを捧げたいと思います。
今月紹介する本は、『ガイドブック宮古南静園-南静園の隔離の歴史を歩く』です。慰霊の日の前日にあたりますが、6月22日は「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」です。奄美、沖縄、宮古にそれぞれハンセン病の療養施設があることをご存知でしょうか。

ハンセン病は、かつてはらい病とも言われ、皮膚と神経を侵す感染症ですが、通常の生活で感染することはほぼなく、今では治療法が確立され完治する病気です。古くから世界中で記録されている病で、病状の外見や感染に対する誤解から人々に恐れられてきました。

日本でも長い間患者の隔離が行われ、現在全国に13カ所の国立療養所があります。奄美には和光園、沖縄には愛楽園、宮古島には南静園があります。1907(明治40)年に法的な隔離が始まり、沖縄は九州(第五区)に加入し、当時の新聞には宮古から熊本に患者が送られたことが記されているそうです。その後、沖縄は第五区を脱退し、沖縄名護と宮古島に療養所を設置しました。

「ガイドブック宮古南静園」は、ハンセン病と南静園の歴史、施設の紹介、入所者の証言などが掲載されています。南静園の敷地は広く、宿舎の他に、病院、美容室、教会、売店、図書室、ゲートボール場などがあります。これは、入所者が一生ここから出ることなく過ごすということを意味しています。

現在、入所者の平均年齢は84歳を超えているそうです。隔離の体験を語る人も少なくなっています。園の納骨堂には、今もどこにも帰れない遺骨が眠っています。強制的に堕胎された子どもたちの供養塔もあります。「一人でも子どもがいたら」「脱走してでも産ませることができなかったのは自分の弱さだ」と語る入所者の心を思うと胸が詰まります。ひとりひとりの人生がどのように奪われていたのか、それを乗り越えてきたのかを知らなくてはいけないと強く思いました。

「・・・多くの犠牲、そして社会の歪み、悲劇を過去のこととして風化させることなく、手渡しで語り継いでいくことは、二度と同じ過ちを許さない警鐘でもあり、教訓としても極めて重要な意味を持つものと思います。」
その願いにより、2015年3月に、人権啓発交流センター(宮古南静園ハンセン病歴史資料館)が開館しました。悲劇から何を学び、未来へむけて何を伝えればよいのか考えるきっかけになると思います。
「入所されている皆さんの穏やかな暮らしと、開館する人権啓発交流センター(宮古南静園ハンセン病歴史資料館)が人権・平和学習と交流の場となることを願います」
(引用)

ちょうど今、沖縄愛楽園では、映像ジャーナリストの森口豁さんと彫刻家の金城実さんによる企画展「沖縄の傷痕-アメリカ世の記憶」(6月30日まで/場所:沖縄愛楽園交流会館/入場無料)が行われています。お近くの方はお運びください。

また、ハンセン病を扱った映画として、2015年公開の河瀬直美監督(原作・ドリアン助川)の映画『あん』もおすすめです。樹木希林さん演じる徳江さんの言葉を聞いてみてください。


〔書籍データ〕
ガイドブック宮古南静園-南静園の隔離の歴史を歩く
編集 / ガイドブック宮古南静園編集事務局
監修 / 国立療養所宮古南静園入園者自治会
発行者 / 国立療養所宮古南静園入園者自治会
印刷 / プラネット
発売日 / 2015年3日  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2016年06月07日

第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」



今回ご紹介する石碑は池間島出身の水産の雄・森田眞弘が築き上げた、沖縄の宝石珊瑚事業の記念碑です。こちらの石碑は池間島の漁港入口にある公園、以前も取り上げた「池間行進曲」の隣りにひっそりと建立されています。

石碑の形がちょっと荒っぽい宮古島の島の形をしています(池間島出身の人の話なのに)。碑の裏面に碑文がありました。
碑文

森田真弘翁の珊瑚漁船この地を根拠に昭和三十四年遂に漁場を開発し、以って沖縄珊瑚事業の今日の基を為す。
昭和五十四年吉日      
漁場開発二十周年に当り建立す
建立者 上里登       

と記されていました(原文のまま)。

眞弘は1912(明治45)年6月15日に、池間島(池間190番地)に生まれています。池間尋常小学校(4年制)を卒業後(当時は池間島に高等科はなかったので、平良尋常高等小学校に通ったのだろうか?)、県立水産学校(現在の県立県立沖縄水産高校。糸満市)へ進学し、1929(昭和4)年に卒業します。
その後、中央大学へと進み、1934(昭和9)年に中央大学予科を卒業(法学部は第一部予科で履修年数は3年制)。1937(昭和12)年に中央大学法学部(当時の学部の履修年数は3年が主)を卒業します。
毎度のことなのですが、今回も学歴の詳細が不詳なので、最終的な中大法学部の卒業年齢を換算してみると25歳になり、ざっくり検証すると、池間尋常小学校を卒業してから水産高校への入学までに5年の月日がかかっています(卒年から3年間と逆算。4年制の尋常高等小学校の在籍記録が不明)。また、中大予科入学(こちらも卒年から3年間を逆算)までに、水産高校の卒業から3年ほど間が空くことになります。
尚、詳細は不明ですが眞弘の歳の離れた弟(四男)の手記によると、大学入学後に体調を崩して、一時、島に戻っていた時期があったようです。細かいことではありますが、ちょっと気になるポイントです(後にこれが重要な意味を持つことに…)。

大学を卒業すると、眞弘は農林省水産局(現在の農林水産省水産庁)に入省します。中央省庁に就職するのですからエリートといっても差し支えないでしょう(池間島初の快挙らしい)。
入省してすぐの7月に岩崎節子と結婚します。なんと妻の節子は北海道小樽市の出身なのだそうです。すでに昭和の話ですから、直接の関係はないと思いますが、仮にも社会人一年目の入省早々に結婚するということはよくあることなのでしょうか?。それとも学生時代からのお付き合いがあったのでしょうか?(時代的には見合いっぽくもある気がしますが)。しかし、詳細については語られていないのではっきりとはしませんが、宮古人と小樽といえばネフスキー(在小樽は1919年)や、石原雅太郎(在小樽は1911年)というつながりがあります。もしかしたら伏流水となってどこかに小樽閥が潜んでいるのではないかと誇大妄想をしてみたくなります。

眞弘は水産庁の立ち上げから黎明期を支え、キャリアを順調に重ねて来ましたが、1951(昭和26)年に郷里・沖縄の求めに応じて、水産庁を辞して琉球臨時中央政府(のちの琉球政府)の農林省水産局長に就任します。
一貫して水産行政を歩み続けた眞弘は、漁業を通した沖縄の復興に尽力しましたが、1955(昭和30)年に琉球政府経済局水産課長を退職。翌1956(昭和31)年から、のちに眞弘の代名詞となる宝石珊瑚漁の経営へと着手します。

宝石珊瑚漁は魚を追う漁業とは異なり、漁場を探りだす特殊性の高い漁法で、なかなか結果が出せずにいましたが、4年目の1959(昭和34)年9月10日、宮古島北東海域の宝山曽根で、敬愛する伯父の名を冠した福太郎丸が有望な珊瑚漁場を遂に発見します。
この発見は眞弘に請われ福太郎丸の船長を務めていた、高知県貝ノ川村(現・高岡郡津野町)出身の中平兼太郎の功績が大きいものでした。兼太郎の祖父、中平由良平は江戸から明治期にかけて高知で興った、日本初の珊瑚漁の事業化に先鞭をつけた人物なのです(黒潮文化圏の相似形なのか、高知も池間も宝石珊瑚漁と鰹漁に奔走させられます)。

【左】海底地形図:左下の白いのが宮古島(北部)。北東(右上)に向かって等高線が下って上った画面中央、小さな点のような曽根が宝山曽根。
【右】GoogleMapの衛星写真:左下が宮古島、右上が沖縄本島。その間にあるオーストラリアか四国のような形をした台地の左端、点が上下に連なっているあたり(赤い環)が宝山曽根。その北側の赤い▲が第三宮古海丘(別注)。 ※クリックで拡大します


珊瑚漁場が発見された宝山曽根は、宮古島から北東に約90キロにある、いうなれば海底のでっばりです。海底地形図で見てみると、本島と宮古の間に広がる海台(水深100~200メートルの台地)の西端部に、南北に伸びる嶺状の高くなった部分が宝山曽根と呼ばれる海底地形になります。いくら高いといってもあくまでも海面下の話であり、宝山曽根の水深は40メートルほどあります。浅瀬ではありませんが海台の外側の水深は軽く2000メートルあります(南側には琉球海溝も迫っている)ので、相対的にはそうとう“浅い”ことが判ります。

漁場を得た眞弘は、翌1960(昭和35)年から本格的な操業に着手するも、砂糖に群がる蟻のごとく殺到するライバルと、許認可する政府の方針の迷走に業界は翻弄されます。やがて対処療法的に組合が組織され、眞弘は会長に担がれますが、漁場も相場も長期的な資源統制を取ることもかなわず、荒れに荒れてしまい1963年の1万4千キロをピークに水揚げ量は衰退。わずか10年間で資源の枯渇とともに宮古の珊瑚ブームも幕を閉じることとなります。

1979(昭和54)年に妻の節子さんが急逝。後を追うように翌1980(昭和55)年3月17日、心不全の発作により不帰の客となります。妻の急逝を境に衰えの様相を呈したこともあったようですが、若い頃に患った胸部疾患の後遺症による体力の減退だとったとも書かれており、先に弟の云う帰省しての療養はこの疾患だったと考えられます。

最後に大いに参考とさせていただいた「水産人森田眞弘 著作集」にあった「宮古漁民のタブー~わが久松五勇士の足跡~」という一節を紹介させていただきます。
昭和48年の沖縄タイムスに掲載された郷土史家・牧野清氏の「久松五勇士の足跡」という連載について、眞弘は誇り高き池間民族として、水産畑を歩んできたものとして、納得のいかない点について熱く語っていました。
それは牧野氏の説で石垣島に急使を派遣する段階で、池間・佐良浜の漁民に断られたという記述についてです。牧野氏によるとバフウ(芒種)の季節は天候が急変するから遠い船旅はしないという、漁民独自のタブーによって急使を断られたと解しているのですが、眞弘はこれを池間・佐良浜の漁民の名誉を著しく毀損するものだと訴えています。
というのも、かねてより池間・佐良浜の漁民はこの季節に吹く北東の風を捉え、順風に乗って帆走して石垣へと向かい、八重山の地で数か月間に渡って、池間漁民の優れた漁業技術を駆使して収入のいい出稼ぎ漁に従事し、夏場の南西の風の頃を使って島に戻って来るという暮らしを、鰹漁が操業される頃まで毎年続けていたという事象を説きます。
そんな池間・佐良浜の漁民が一刻を争う島司の命に叛意を示すとは考えにくい。しかも当日の気象状況は、強い南西の風が吹く荒天で、予定していた八重山への急使の派遣も翌日に延期するほどである。そこから考えるに、池間へ平良から使いを出しても、事象の伝達、人選の稟議、派遣支度などもろもろを整えるのには、さらに時間を要することは明白ゆえ、はなから池間・佐良浜に依頼することなく、陸路で平良から近い久松の漁民に急使を依頼したのではないだろうかという、とても興味深い論説を展開されていました。
本書は随筆やコラム、短編小説に至るまで才高き眞弘のが書き起した文と、眞弘を偲ぶ人々からの寄稿で構成されています。眞弘の最大のトピックスである宝山曽根の珊瑚の話は何度となく繰り返し登場することを除けば、眞弘が差し向けた漁業への情熱を通して沖縄の海を知ることのできる良書です。


【関連史料】
「水産人森田眞弘 著作集」(1988年刊行)
「木を見て森を見ず」からの発想の転換③/日中漁業協定の廃止を目指して
                            (宮古毎日 20140509)
第39回 「青雲の志」
第38回 「池間小学校発祥之地」  続きを読む


2016年06月03日

Vol.4 「キャーギ(イヌマキ)」



青い空に白い雲が浮かび、気温31度。梅雨が明けたかのような宮古だったが、やはり、んな ぴっちゃ(もう少し)梅雨は続くようだ。

この時季、早朝ウォーキングをしていると、山の中からは、かばすかざ(良い香り)がしてくる。月桃の花や、ゲッキツの白い花、ツル状の紫色の花たちが賑やかで、香りを競っているかのよう。

そんな中、キャーギギー(イヌマキの木)は、そっと小さな実をたくさんつけていた。
おごえー、気がつかなかったさいがー。この時季はまだ青いんだね。ふたつの粒がくっついてかわいいがま。実はこれから夏にかけて赤くなり、そして黒っぽくなると食べられるようになる。少し、ヌメッとして甘味のある実は、やらびぱだ(子どもの頃)おやつだった(木の実とあらば何でも食したのだよ)。

キャーギは、針葉樹で、庭木や垣根として、また畑の境界などに植えられ宮古のどこでも目にする。実家の庭にも数本植えられていて、4月には若葉が青々と茂り、きれいだ。

キャーギの葉は、仏花としても宮古ではよく使われる。実家では、仏壇を始めとして、ゆーぬかん(富の神)、うかまがん(火の神)、まうがん(守護神)の棚に常に供えている。
日持ちもよくて、水さえ替えれば2~3週間は生き生きとしている(時々水を忘れて、カラカラになっているキャーギを見て、あわてて庭に走ったりすることもあるが)。

また、キャーギギーはとても固く、昔は建築材としてもよく使われていたとのこと。
シロアリにも強いようだ。父は、床柱によく使われていたと話していた。
ずぐーる(コマ)も作ったが、木があまりに堅くて、削って形にするのに1週間もかかったそうだ。昔は今よりももっと利用されていた木だった。

子どもの頃から身近にありすぎて、和名がなんであるとか、若葉がきれいだとか何も気にかけたことがなかったキャーギ。誇示することなく、宮古の季節の中で営々と根付いている。

今、かわいい実をつけています。ぬかーぬか みーみーるよ(ゆっくり見てみてね)。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々