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2016年06月24日

其の2 まもる君とまるこちゃんの誕生秘話!?ゲンコーさんの錬金術

其の2 まもる君とまるこちゃんの誕生秘話!?ゲンコーさんの錬金術

かつては東北の田舎町あたりでも、時折見かけたハリボテの警官型人形。いつしかその姿を目にすることは少なくなったが、ここ宮古島では、彼らが一大ファミリーを形成している。そう。宮古島まもる君だ。

道路わきや交差点に、365日、24時間、嵐にも灼熱の太陽にも耐えながら立ち続け、宮古島の安全と人々の幸福を見守るまもる君の働きは、確かに尊敬に値するが、住民票が交付され、歌に歌われ、ガイド本が出版され、交通事故で負傷すれば、市長がお見舞いにかけつけるまでの存在になるとは、誰が想像しただろう。お土産店は、関連グッズであふれ、「まもる君に会うために宮古島へ来ました!」なんて観光客もいるほどだ。旧式の警官型人形は、宮古島まもる君となることで、腕利きのプロモーターでもいるかのように、押しも押されもせぬ島のヒーロー、アイドルにまで昇りつめた。
其の2 まもる君とまるこちゃんの誕生秘話!?ゲンコーさんの錬金術
まもる君が、人々からこんなにも愛されるそのワケのひとつは、ひとりひとり違った彼らの表情だ。『宮古島まもる君パーフェクトガイド』には、19人のまもる君のフェイスコレクションが掲載されている。ちょっと悲し気なまもる君、とぼけたまもる君、気弱そうなまもる君と、顔の違いがキャラとなり、それぞれに人格を帯びてくる、ような気がしてくるのだ。

彼らの顔を描き続け、すなわち魂を吹き込んできた人がいる。棚原玄光さん(以下ゲンコーさん)、78歳だ。60歳でNTTを定年退職してから15年ほど、まもる君の修理をボランティアで一手に担った。

安全協会にいた嫁が、お義父さん暇でしょう、まもる君修理してと。
まもる君はグラスファイバーでできていて、加工にも特殊な技術がいるから。
僕は無線関係の仕事をしていて、あ、無線のアンテナカバーね、
あれなんかも同じ材質なわけ。
だから、そっち方面の知識や技術はあったんだよ。


ゲンコーさんの年齢から推し量ると、それは1998年ごろのこと。まもる君が初めて宮古にやってきたのは1991年で、当時は5人が島の各所に配属されたという(※宮古島まもる君パーフェクトガイド)から、修理はすでに急がれていたにちがいない。ちなみに1998年には一気に10人ものまもる君が増員される。「なんだか、どんどん増えてった」というのがゲンコーさんの実感だ。

まず最初にダメになるのは足から。
まもる君の足には、1メートルくらいの太い鉄のパイプが入ってて、
それが錆びてくる。老化は足からって人と同じ。
修理が終わると、塗装をし直すんだけども、一度全部真っ白に塗りつぶす。
元の顔なんてわからなくなるから、やっかいよ。
顔ってどんなになってるかーと、鏡で自分の顔見ながら描いたさ。
緊張して、手が震えるわけよ。


顔の凹凸はあるから、目鼻の位置が変わるわけではない。しかし、眉の引き方、目の輪郭、黒目の入れ方などのほんのちょっとした加減で、まもる君の顔に、ユニークな個性が生まれた。図らずも。
「もともと、絵は苦手。同じように描こうと思っても描けない。ただ、なるべく優しい顔にしたいとは思ったよ」

あるとき、いつものようにまもる君の修理を頼まれたんだが、
なに、女性の警官にしてというんだ。
制服を赤く塗り、本物のヘルメットをかぶせた。
まもる君は一体型で、最初からヘルメットかぶってるでしょう。
あれを脱がすというか、ていねいに削った。
そして、ぱっちりの目と赤い口紅で、可愛い女の子に見えるように。
口の悪い友達は、女装じゃないかというんだけど(笑)


赤いジャケットに白いズボン、白いヘルメットは、婦警白バイ隊のスタイルだ。こうしてまもる君の妹、まるこちゃんは誕生した。まるこちゃんの名は、ゲンコーさんの命名だ。「まるって、安全で平和な感じがするから」が、名前の由来らしい。

ゲンコーさんのもとに搬送されるまもる君の損傷は多岐にわたる。経年劣化の腐食、台風などで転倒し破損、塗装のはがれ、心無いいたずら書きまで。腐食部分は取り除き、欠けたところは再生し、新たに色を塗りなおす。手先な器用なゲンコーさんにかかれば、たいがいの傷は癒え、まもる君たちは生まれ変わって現場に復帰していった。
其の2 まもる君とまるこちゃんの誕生秘話!?ゲンコーさんの錬金術
ないものは作ってしまうというゲンコーさんは、アイディアの天才でもある。その遊び心は、科学と結びつき、奇想天外な世界を創り出す。まもる君修復の基地でもあった山中の庭『ピルマス(不思議な)パーク』は、ゲンコーさんの楽しい実験場だ。パラボラアンテナを利用した東屋、謎の自動ドア、扉を開けると勝手にテレビがつくトイレなどなど、びっくりな仕掛けが、あらゆるところに仕込まれて、人々の笑いを誘う。さらに庭の隅には、どこからか集めてきた「ガラクタ」たちが、次の出番を待っている。

子どものころから、そんなのが好きだったよ。
小学校のとき、軍隊上がりの先生がいて、バケツでスピーカーを作ってくれた。
僕は興味津々で、朝礼の間、ずっと手回しの発電機回してたよ。
難儀だったけど、スピーカーが動くのが面白くてしょうがなかった。


好奇心いっぱいの科学少年は、高校生になると、集落の親子ラジオ局を開設してしまう。親子ラジオとは、戦後、沖縄県で広まったラジオ共同聴取システムのことで、宮古では西里の友利電機が最初に始め、またたくまに宮古中に広まっていったようなのだ。

モクマオウを切って柱にして、線を引っ張って。
おじさんと兄と僕と3人で、鏡原に親子ラジオを引いたんだ。
そのころ、兄とふたりで平良中の前にあった鉄工場を借りて、
自動車を改造したトラクターの試作品なんかも作ったよ。
それが宮古で最初のトラクター(笑)


改造車のトラクターが、どれほどの威力を発揮したのかは不明だが、それを期にお兄さんは、イギリスからトラクターを輸入する商売を始めたというから、人々に大きなインパクトを与えたことは確かなようだ。
その後、ゲンコーさんはNTTに入社。親子ラジオ局は、やがてトランジスタラジオの修理店になった。

宮古で最初にテレビを映したのは、実は僕だよ。
鏡原の山の上に発電機を持って行って、アンテナを立てた。
そこで電波を受信して、ラジオ店のテレビに映したんだ。


親子ラジオ同様、宮古に最初にテレビをもたらしたのは友利電機というのが定説だが、鏡原ではそれより先にテレビ電波の受信に成功していたのだとゲンコーさんはいう。

技術と道具の著しい進歩の風を、好奇心いっぱいに追いかけたゲンコーさん。そこには名誉心も欲もない。ただただ、楽しいことが好きなのだ。そして今日も、こどものように目を輝かせ、ピルマスパークに向かうのだ。

※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
宮古の男たちは、楽しいこと、くだらなくても面白いことが大好き。なにかしら突拍子もないことを考えては、大笑いしている彼らを見ると、人生って楽しむのが当たり前なんだと教えられているような気がします。それから、なんでも自分で作ってしまうということ!欲しい道具はもちろんのこと、家まで作ってしまう器用さと経験値の高さには驚くばかり。ゲンコーさんは、まさにその代表選手です。
「実はね、もう一体あるんだよ、手元に。足もなくなって、ぼろぼろになったまもる君が」
と、ゲンコーさんはささやきます。まもる君の修理は3年ほど前に引退したのですが、修理に必要な材料はすでにそろっているのだと。ということは!ゲンコーさんの科学の知識と修理の技術を合体させた、ハイブリッドなピルマスまもる君が、そのうち・・・もしかすると・・・。



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