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2016年06月28日

第89回 「平良恒道顕彰碑」

第89回 「平良恒道顕彰碑」

今回の「 んなま to んきゃーん 」も宮古島市熱帯植物園です。先週、「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」の碑を紹介して、短絡的に思いつたので「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」を場当たり的にスタートしてみたいと思います。とはいえ、すでにいくつかは紹介していたりします。たとえば植物園正門前にある「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」の碑や、当植物園の造園した「眞栄城徳松氏の像」、公園前T字路の「730記念之塔」(後にスペシャルも組みました)などかあります。
と、いうことで紹介するのは正門から少し入った左手にあるカフェと、ちがや工房との間の植え込みに、ひっそりとたたずむ「平良恒道顕彰碑」です。
第89回 「平良恒道顕彰碑」
平良恒道と姓名だけを書くと、なんとなく近代の人のイメージをしてしまいがちですが、どうもこの方は1700年代に実在したお役人さんらしいのです。

碑文に記されている、いわれがこちらです。
平良恒道親雲上の功績
伊良部首里大屋子平良恒道と洲鎌目差は、船子四十二名と貢納を済ませ、一七四七年十二月九日、那覇を出帆し宮古へ帰る途中、嵐に逢い台湾に漂着した。
翌年一月五日、沈没寸前の清国船が救助を哀願した。恒道と目差は彼等を救えば“共に飢渇に苦しむ、救は(わ)ざれば死する、見殺しするに忍びず、救って天命に従うと決心し、少ない食料を分かち合って清国の琉球館着いた。
清国皇帝はこの義挙を聞き、多大の褒賞を賜り、尚敬王に感謝の書を送り、中山王の得化通土隅なく輝き国民よく仁心大義あり、誠に守礼の国たるに恥ぢすと賞賛し恩を謝した。
二十四名を救う 之仁義の士なりと、一行は二年後、宮古に帰った。
恒道は平良の頭に任ぜられ、親雲上に列し、子孫はその余栄を受けた。
これロータリー精神「超我の奉仕」の範たり、即ち平良ロータリークラブはこれが顕彰に総力を挙げ、国際ロータリー第三五八地区の支援によりこの碑を建つ。

昭和五十年五月吉日建之(立?)

建設発起人
一、国際ロータリークラブ第三五八地区 遠隔地クラブ友愛委員会
一、平良ロータリークラブ会員
  以下、会員指名29名(省略)
一、第三六六地区大阪クラブ会員 下地玄信
一、英俊氏子一同

※文面がやや読みづらいので句読点を加筆し、改行を施しました。
要約するに、那覇に朝貢へ行った恒道は、1747年12月9日に那覇を発ち宮古へ帰ろうとしたが、嵐に出くわし命からがら台湾へと漂流したと思ったら、同じように嵐にあって沈没しかけの清国の船と遭遇し、こちらも余裕がない状態ながらも、恒道の英断で乗員を救助し、翌年の1月5日に清へ共にたどり着き、色々あって2年後に帰宮したってお話のようですが、いくつか気になる点もあります。
那覇を発ち嵐にあってボロボロの状態で台湾に漂着していながら、清国(中国本土の福州)の琉球館(琉球王府の出先機関)へと、1ヶ月近くかかってたどり着くという点とか気になります。
しかも、清国から救助の恩賞を賜るのはともかく、琉球館にたどり着きながら、清の琉球館から帰国するのに2年もかかっているところも気になります。

帰宮後、平良の頭(間切の長)に任じられているので、歴代の平良大首里大屋子の記録を調べてみると、英俊氏系統、屋号「前ヒヤ」の恒道(童名:三良)という人物を発見しました。任期は乾隆27(1762)年から、乾隆33(1768)年まで。そして残念なことに注釈に生没年不明とありました。いきなり「判りません」という大きな壁にぶちあたってしまいました。
余談になりますが、元号の乾隆(清暦)といえば、乾隆36(1771)年の「明和の大津波」が有名です(明和は和暦で1968年に著作物のタイトルとしてつけられた)。

恒道についてなにかもう少し判らないか、資料をあさってみると、系統の英俊氏について判ってきました。
英俊氏は英氏英祖王(1229-1299 琉球国王)の支流の系統で、渡慶次里之子重張が秋嶺王姫真加戸樽金按司を娶って家を興したのに始まり、子孫は王府で栄職に就いていた。1664(寛文4)年に総奉行職となった重孝は国使とて清へ赴くも、梅花沖(ママ:場所が確定できず)で大風にあって難破した際、清国への貢品の金壺が盗難にあって紛失する。
なんと父・重孝の罪科の連座によって、子・重祐は1667(寛文7)年に、宮古島の野崎(久松)へと流されます。重祐は野崎邑(村)山戸築の娘、真牛を娶り、兄の加那渡名喜、弟の渡名喜の二子をもうけ、後に成長した弟の渡名喜が、恒充を名乗って洲鎌与人となり、これが英俊氏の祖となります。
そして恒道のほかにも、平良大首里大屋子に恒慶(任期1852-1854 上国の途中水納沖で溺死)。砂川大首里大屋子に恒長(任期1808-1813 死去による退任)、恒嘉(任期1829-1830 病死)。下地大首里大屋子に恒盛(任期1777-1799)と、決して他の系統氏と比べると数は多くありませんが、首長を輩出しています。
しかし、恒盛以外はなんとなく在任期間が短く、ちょっと不運な家系のよう気もしますが、そもそもが祖父(重孝)の罪科の連座で流された、父(重祐)の悲運からスタートするので、5人も首長を出すあたり、実は強運いや豪運を持っていたのかもしれません。そしてセカンドチャレンジが可能なこの時代の方が、システムとしては健全だったかもしれませんね。

話を石碑に戻します。ロータリークラブ云々には特に触る予定ではなかったのですが、ちゃっかり下地玄信の名も連なっていて、ついつい唸ってしまいましたので、少し紐解いてみました。
まず、石碑の揮毫に注目してみると、「平良恒道顕彰碑」の文字は国際ロータリークラブ第三五八地区 遠隔地クラブ友愛委員の竹田恒徳という方が書かれているということが読み取れました。
また、碑の右端の話方に「人間とは人と人との間柄」という一文が、国際ロータリークラブ第三五八地区 ガバナー佐藤千尋の署名とともに記されていることにも気づきました。
数字ばかりで判りづらいのですが、ざっくり調べてみたら、面白いことに、この358地区は今から50年前の1966年に設立されていることが判り、奇しくも先週のコラ台風の話にも年代だけですが、リンクしていたのでした。
この顕彰碑の建立の様子については、こちらのPDFにレポートされていました。

「平良恒道顕彰碑序幕」/「遠隔地友愛クラブ委員会 那覇にて開催」(PDF)
※出典ははっきりしませんが、ロータリークラブの月信からのようです。

短時間で毎回毎回、石碑一枚からネタを絞り出すのは、100回が近づくにつれ次第にマイナー色が増し、なにげに厳しくなりつつありますが、ある意味でライフワークとなっているので、体力の続く限りはがんばりたいと思います。あとからでも面白く有益な情報(ネタ)がありましたらぜひぜひお寄せください。
次週もまた「植物園の石碑を紹介するシリーズ(仮)」が続きます。小さくささやかにご期待下さい。

【参考資料】
宮古島市史「みやこの歴史」
「宮古史伝」 慶世村恒任




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