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2016年06月21日

第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」

第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」

1966年9月4日から6日にかけ宮古島を通過したコラ颱風(第二宮古島台風)は、30時間にわたって宮古島で猛威を振るい、最大風速60.8m/s(日本の観測史上7位)、最大瞬間風速85.3m/s(日本の観測史上1位)という稀代の記録を観測します。負傷者41名、住家損壊7765棟、浸水30棟を記録しました(理科年表より)。沖縄県公文書館が所有する被害の調査写真などを見ると、数字以上に実際の被害があったのではないかと感じました。そんな大きな被害をだしたコラ颱風に関係する石碑を、宮古島市熱帯植物園で石碑を見つけ、襲来から今年で50年目の節目ということもあり、取り上げてみることにしました。
コラ颱風の思い出やエピソードなどがありましたら、ぜひとも教えてください。よろしくお願いします。
第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」
「日本産業開発青年隊 第二宮古島台風災害救援記念碑」というなんとも長いタイトルの石碑が今日の主役です。石碑は植物園の丘を少し登った木陰に建立されています。文字を刻み込んだ石碑ではなく、ペンキを塗って作られた簡易的な感じのするものなのですが、さすがに経年劣化が見られ、今後の記録保存が少し気がかりです。石碑てのとりとめもない第一印象ですが、石碑の中央にあるマークがどことなくショッカーのエンブレムっぽく見えてしまったのは世代だからでしょうか。このマークはおそらく「産業」のSと「青年隊」のSに、ペンとハンマーを重ねたマークのようです(ハンマーだけでなくペンがあるのは事務職の養成も行っていたかららしい)。

この日本産業開発青年隊というのは、当時、深刻化していた農家の次男三男の失業対策の一環で、戦後の荒廃した国土の復興と地域おこしを目的とした青年隊運動のひとつで、寒河江善秋(山形県)が提唱し、1951(昭和26)年に農林省と建設省が協力して、県単位の産業開発青年隊が山形と宮崎で発足。その後、各県にも波及してゆき、後の国際協力機構青年海外協力隊の源流となる組織が作られました(現在は熊本県、宮崎県、沖縄県のみ存続)。
県ごとの組織は地方隊と呼ばれ、設立の趣旨から地域での活動が主で、コラ颱風の際に災害派遣として宮古島にやって来た日本産業開発青年隊とは、名前こそこ同じものの別の組織なのではないかと、手探りで探ってゆく中で思うようになって来ました。
というのも沖縄県の産業開発青年隊は1955(昭和30)年の設立で、組織は出来上がっていますから救援に来ることは可能ですが、地方隊は資格や技術を取得のための研修組織と考えられたので、災害派遣のために動くとはやや考えにくく、また復帰前なので碑文に書かれているような「建設省より派遣」という形にもなりません(後述参照)。
しかし、大方の予想を覆して、公文書館の写真には「沖縄産業開発青年隊 第二宮古島台風コラ被害救援活動」とキャプションが付けられた写真があるのです(でも、県内派遣に大々的に石碑を建てるとは思えないので、日琉二本立ての派遣なのか、キャプションのミスなのか、確信が得られずかえって謎が深まってしまいました)。

この石碑に登場している日本産業開発青年隊は、どうやら中央隊と呼ばれる建設省に組織された、もうひとつの青年隊であることが朧げながら判って来ました。こちらは建設省の長澤亮太(福岡県)が主導して設立され、建設省建設大学校静岡朝霧校(富士教育訓練センター)を経て、現在は国土交通大学校として組織されています(自治大学と同じ公務員等の研修施設としての大学校)。

彼らの宮古島での活躍は石碑の裏にしたためられていました。
1966年10月16日 第二宮古島台風(コラ台風)災害救援のため、建設省から派遣された日本産業開発青年隊32人が来郡、11月13日までの約一ヶ月にわたって応急仮設住宅20棟建築をはじめ倒木処理、路面均し、プロック塀積替等の復旧作業を行う。
1966年11月10日施工
重箱の隅を突くように気になったことがあります。彼らは11月13日まで滞在しているのに、建立が11月10日である点です。
これは単なる妄想ですが、派遣を終えて帰国(復帰前なので)する彼らを、島の人たちが謝意を示す石碑を作り、労をねぎらったのではないでしょうか(だとするとペンキ仕上げなのも、急いで作った感じでなんとなく判る)。
もっとこの時の資料が出てくれば、面白くなりそうなネタなのですが、そうそう都合よく出てきたりはしません(今後に期待?)。

もうひとつ、颱風についても触れておきたいと思います。颱風銀座の真っただ中のにある宮古島なので、記録的に見ても歴史的に見ても1959(昭和34)年の第一宮古島颱風「サラ」、1966(昭和41)年第二宮古島颱風「コラ」、1968(昭和43)年第三宮古島颱風「デラ」と宮古島の名前を冠した颱風三姉妹は有名ですが、この他にも1969(昭和44)年の豆颱風「エルシー」や、2003(平成15)年の14号「マエミー」など、枚挙に暇がありません(この5個の颱風は、宮古で観測された瞬間最大風速ベスト5です)
コラ(18号)のルートを資料から紐解いてみると、8月31日にグアム島西方の海で発生したコラは、発達しながら北西へ、ほぼ真っ直ぐ宮古島を目指すように進み、9月5日9時頃に宮古島にもっとも接近します。コラは島に上陸(気象用語的に、島へは上陸とは云わない)はせず、来間島の南西沖を通過していますが、この頃がもっとも勢力が発達しており、観測された最低気圧は918hPaにも達しています。
しかも、通常、颱風の進行方向の北東側は、一番勢力の強いエリアであり、その部分が丸ごと宮古島を飲み込んだ形となりました。その上、速度もゆっくりだったことから30時間にわたって暴風の中にさらされ、被害が拡大しました。
コラは宮古島を過ぎても北西へ進み、7日9時前に中国大陸に上陸し、同日21時頃には弱い熱帯低気圧に変わり颱風としての一生を終えます。
第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」第88回 「日本産業開発青年隊第二宮古島台風災害救援記念碑」
【左】 宮古島付近のコラの経路図(デジタル台風 台風196618号経路アニメーション ※水色が颱風、紺色は熱低) クリックで拡大
【右】 宮古島地方気象台(旧・測候所)で観測されたコラ颱風のレーダー画像(2016年 宮古島市総合博物館 新収蔵展より)


コラの猛威になすすべもなく破壊尽くされた宮古島に、日本産業開発青年隊は来島し、土木を中心とした復興協力に尽力してくれました。個人的に宮古島を蹂躙したマエミー(2003年)を体験しており、凄まじい颱風の破壊力でへし折られた2000本もの電柱を修復するため、全国各地から色とりどりの高所作業車が宮古入りして、電柱の復旧に汗を流してくれたことを重ねてしまいます。復旧が終わろうとした頃、空港の前ガードフェンスに一枚の横断幕が掲げられます。そこに書かれた「ありがとう」の文字を目にして、謝意で涙腺が緩んだことを回想しました。

最後に余談となりますが、、今年(2016年)はどうやらエルニーニョが終息したことで、颱風が発生しにくい気象状況となってるようで、6月になっても未だ颱風が発生する気配すらないという異常事態が続いています。そうはいっても颱風が来たら来たで困るけれど、なければないで困る気がします。

【関係資料】
一般社団法人 沖縄産業開発青年協会
沖縄辞典wiki沖縄産業開発青年協会 沿革など詳細あり



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この記事へのコメント
はじめまして、私は産業開発青年隊同窓会長の鈴木と申します。昭和42年に私どもの先輩たちが災害復旧支援で宮古島に派遣されたこと、また、長澤亮太先生も随行したことを同窓会で作成した富士の如くという本にも記載されておりますし、青年隊のPR映画「闘魂」にも復旧の場面が出てきます。産業開発青年隊は、建設省所管のものは昭和25年より各県により教育が実施されています。昭和38年に富士山の麓、静岡県富士宮市根原(朝霧高原)に建設省建設大学校中央訓練所が設立されました。全国の若者が集まったわけです。
産業のS開発のK青年隊のSでペンは技術や学問、ハンマーは実践の意味です。私も卒業生の一人として、ぜひ記念碑を見学したいと思います。
Posted by 産業開発青年隊同窓会長 鈴木 at 2019年08月08日 12:21
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