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2016年09月27日

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」

「んなま to んきゃーん」連載100回突破記念の特番第二弾は、懲りずにまたもや出落ち感の高い企画モノ。その名も「お通りオトーリ」です。
まあ、なにかと申しますと、いわゆる「道」ございです。ええ、そうです。一般的には「道路」とか「通り」とか、「Road」とか、「Street」とか、「Avenue」。「Boulevard」に「Pavement」などと称されるものに名づけられている名前ネタです。実は路傍にそんな石碑があったりするものですから、ちょっとばかり集めてまとめてみました(という言い訳にして、脱線します)。
第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」道の名前と来たら、やはり最初はコレでしょう。
2000年の九州・沖縄サミットが開催された時、当時のドイツの首相シュレーダー氏がドイツ村を表敬訪問し、空港からドイツ村まで通ったルートをシュレーダー通りと名付けました。
とはいっても、空港から千代田の分岐までの県道190号線と、千代田分岐から宮国集落交差点までの県道202号全線の県道につけられた愛称であり、その名を口にして道案内をしている人を見たことがありません。尚、終点のドイツ村はゲート前であるとしても、起点がいまひとつはっきりしていません。島に降り立った宮古空港からなのか、一枚目の石碑がある空港入口交差点なのか(空港から空港入口までは、わずかな距離ですが、県道243号線という別の路線になっています)。
第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」
続いては伊良部の五箇里道(ごかりどう)です。
こちらは(字)伊良部から佐和田まで南区の5集落を縦貫している道路で、大正時代の完成となるとても由緒ある道路だったりします。尚、こちらの石碑は第85回の「開鑿記念碑」で詳しく取り上げていますので、ぜひそちらをご覧ください。
尚、こちらは県道204号線(旧道)に指定されています(現在は、東側にバイパスが完成しており、新旧路線ともどちらも未だ県道に指定されたままになっています)。

もうひとつ、道路に関する石碑を取り上げていたので、そちらも重ねて記しておきます。
第79回「弁務官道路」です。
第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」
第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」本編で石碑はゴルフ場内にあり、道そのものは二重三重に開発が進んでいて、痕跡がはっきりしないとしましたが、その後、上野村が発行した「写真集“上野”~くらしの移り変わり~(平成10年刊行)」の中に、弁務官道路の碑と道が写っていること発見し、これにより道路の一部は開発前の旧路線であることが確認できました。
また、新里のお隣、宮国ではランパート弁務官から名付けられた「ランバート道路」という石柱が建立されている写真を発見。石碑バカとしては色めき立ったですが、聞き込み調査をしてみると、本編で想像していた道路位置ではなく、もっと集落に近い場所であることが判明(上の写真もそれっぽい)。その上、写真に写っている石柱は、未だ発見できていません。

さてさて。前座はここまでとしまして、ここからが本番。舞台を平良市内場所を移して、複雑怪奇な名前ネタを推し進めてゆきたいと思います(尚、ものすごく大量に地名が出て来る上に、とてつもなく複雑なので、地図地理に弱い方は置いてゆきますのであしからずご了承ください)。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」ということで、まずは「まてぃだ通り」からです。
起終点は北給油所(第一給油所)から、サンエーターミナル店、宮古郵便局、TSUTAYAを通って空港に突き当たるあたり(と思われるが、後述の東環状線を考えるとTSUTAYAまでかも)。
初めは平良港か市役所前交差点あたりから始まっていると見ていたのですが、どうやらこの道が開通したことで名付けられたようです。ちなみに、今年取り壊された北給油所(現在は斜向かいに移転)は、その昔はT字路の突当りにあったというのも、今では想像すらできません。

だからという訳ではありませんが、平良港から坂を登って市役所前を通り、「突き当りの」北給油所を右折して、ヤコブ幼稚園からサンエーカママヒルズを経て下地線へと繋がるルートは、県道243号線となっています(この県道もとても複雑で、起点は一周道路の高野から始まります)。
最近ではこの県道の市役所あたりを、「市役所通り」と呼ぶ風潮もあるようですが、云うなれば宮古の国道1号線と云えそうなくらい由緒ある道なのです。
ということで、おさらいがてら過去へと遡ってみたいと思います。まず、現在の県道243号線は、2003(平成15)年までは国道390号線を名乗っていました。バイパスが完成したことで国道から格下げになったのです。
さらに時代を遡ると、1975(昭和50)年に国道390号線に指定される前は、県道平良漲水港線と県道平良与那覇線(の一部)と、元々は県道だったのですが、当然、復帰前は県道ではなく琉球政府道で、1953(昭和28)年に初めて指定されました。その時の起点は元・琉球政府宮古支庁舎。現在の第二庁舎前だったというから、まさしく市役所前。生生流転です。
どんどんと世界線を遡ってゆきましたが、さらにその前があるのです。それは未だに親しまれている呼称、「マクラム通り」です(都市計画の路線名では、北給油所からサンエーカママヒルズまでがマクラム通りとなっています)。
マクラム通りは平良港から県道243号線をなぞって、サンエーカママヒルズ付近までを呼ぶと云われています(一説にはさらに坂を登って、当時の米軍政府が置かれていた宮古測候所までだったともいわれています。)。
これは先の弁務官道路と同じように、軍政府の資金で作られたものですが、名前の元になったマクラム中佐(後に大佐に昇進)は弁務官ではなく、宮古民政官府長でした(弁務官は将官、民政官府長は佐官なので大きく位が異なる)。それでもマクラム中佐は、いわば宮古の中ではトップに君臨する人でした(詳しくはコチラ)。
このマクラム中佐が在籍していたのは、1946(昭和21)年からで、道路はその翌年に完成しています。残念ながら記録と記憶の中にしか、マクラムの文字は残っていませんが、この名は決してなくならないと感じました(ちなみに石垣にもマクラム通りが存在します。こちらは完成の石碑も現存している)。

続いては市街を南北に縦断する通りを見ていきたいと思いますが、その前に平良の都市計画の外郭をなしている「東環状線」を確認しておくことにします。
国道390線のマックスバリュ南店から、古謝そば屋、TSUTAYA、第三給油所、のひなアパート、ファミマ東仲宗根(ニャーツ)、北中、県道83号(砂山入口)と、逆「く」の字に結び東端と北端の二辺を形成しています。これに南端の国道390号を加えた三辺で囲まれたエリアを、市街と呼ぶのではないかとも思われます(ただし定義は不定)。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」そしてこの東端側の東環状線から、ひとつ海側を縦断する道路が「文教通り」になります。
近年は宮高の近くにオープンしたファミマの支店名にも通りの名前が使われており、ようやく日の目を見るようになった気がします。文教通りの区間は、県道243号の陸運局(馬場団地前)から、南小南側、宮高グラウンド、宮古郵便局を経て、県道78号城辺線の旧県立病院東交差点(現在は信号名は撤去)までとなります。不思議なのは、ここから東環状線のひなアパートまでのわずかな区間が、なぜか含まれていません。

次の南北に縦断している道は、カママ嶺公園から、アツママ御嶽、城辺線の東里交差点、ジロー村、東環状のファミマ東仲宗根店に至る通りで、かなりメインルートとなるのですが特に名称はないようです。一応、都市計画では「大道線」と路線名か記されていますが、この名も特に聞いたことがありません。
話は少しそれますが、この通りにはアツママ(東の御嶽)、西里の東里(にすざとのあがいざと。現在の繁華街であるイーザトと対をなしています小字名だが、この話を書くと恐ろしく長くなるのでここでは割愛します)と、旧集落東端を示していますことが見えてきます。つまり、このラインは町の成り立ちとしては、旧集落時代の東端だったのではないかということが、薄っすらと見えてきます(通りの名を示す資料は特にありません)。
そして続く3本目は、先ほど出て来たマクラム通り(現・県道243号線、旧国道390号線)ですので、こちらは割愛させていただきます。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」4本目は「中央通り」です。この道は大原の切通し(民宿川田荘)で市場通りから続く、県道192号からY字に分岐した通りで、ビックチーフ、OKスボーツ、羽地ビル(旧西里村番所跡)を抜けて、県道243号線(マクラム通り)の旧平良図書館(琉米文化会館)交差点までの区間となっています。
この中央通りの名前も、あまり耳にすることはあ第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」りませんが、西里村の番所が置かれていた場所を通ることから、重要なルートであったことは想像に難くありません。

番組の途中ですが、ここでお知らせです。
ただいまの中央通りをもって、メインである石碑のある通りについては終了となります。この先は石碑ひとつ出てこない、ただのオトナの自由研究が延々と続くととなりますのでご了承ください。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」気を取り直して、5本目の「市場通り」に進無こととしましょう。この道は南市場(現・公設市場/旧下里1番地である村番所跡)から、東仲宗根の北市場(2007年に道路拡張により取り壊し)を結ぶ、とても意匠のある通りの名を持っていますが、それを記すものがほとんどなく、地中化工事も進んでいて、街路灯の管理票を覗き込むくらい踏み込まないと判りません。
ちなみに県道ベースでは、これもマニアックなネタがありまして、市役所前交差点を境に、北側は県道83号線ですが、南側は県道78号線をはじめとした4路線が起点となっていて、最大で4階建ての輻輳区間となっています(78号線が西里通り分岐まで、190号線が下里通り分岐まで、192号線が久松へ、252号線が伊良部大橋へと同じ道を共有しています)。
また南北の6本目は、市街南部から長崎カーブ(パイナガマ西の岬)を廻り込んだ海沿いの国道390号(平良港が宮古島での終点ですが、国道はこの先、那覇市通堂へと続きます)と、平良港から人頭税石方面の臨海道路北環状線となりますが、あまり面白味がないので流しておきます。

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ここからは市街を東西に横断する通りを紹介してゆきたいと思いますが、南北に比べて細い道も多いので、名前のある割と大きめモノだけを取り上げさせていただきました(それでもなかなかの数があります。尚、市役所前の県道243号線マクラム通りはすでに取り上げてしまったので割愛します)。
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最初はやはり東西横断編は、「西里通り」からでしょうか。
歴史的に見ても宮古の商業の中心と云える商店街を形成する通りです。区間としては市場通りからマクラム通りまでの2街区で、全線が県道78号線に指定されています(古くて現状では役に立たない案内図ですが、商店街の隆盛を楽しめる宝の地図です)。
ちなみに、現在は東から西への一方通行となっていまが、かつては相互通行で多くの車が行き交っていました。また、島の玄関口にして物流の拠点である漲水港(現・平良港)に近い、通りの西側が本来の入口(起点)なのです。
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第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」お次は「下里通り」。市場(公設市場)に郊外から馬車で荷物を載せて出荷しに来ていたことから、馬車道とも呼ばれいました(現在は軽トラに様変わりしていますが、拡張時に歩道のタイルや駒留、街灯などを馬車の車輪をモチーフにしたデザインにしています)。
区間は西里通りと同じく市場通りからマクラム通りまでの2街区ですが、近年はマクラム通りの東側、平一小手前の大道線までを下里東通り、市場通りから西側で国道390号線までを下里西通りとして拡幅整備されました。尚、下里通りと下里東通りは県道190号線に指定されています。

漲水港を軸にして島外からの物流で発展した西里と、市場を中心とした島内の物流を支えた下里通りという市内の二大通りに続いては、古くから通りの名前は呼ばれているものの、今はちょっとメジャー感の薄い通りたちです。
まずは下里通りの南側。ファミマ市場通り店から、サンエーオリタ裏手(旧OTS)、元新城ストアから、ガングルユマタあたり。この通りは「南部線」と呼ばれています。特に名残を見つけることは出来ませんでしたが、この通りはかつて公設市場と久松地区を結ぶ、旧大和交通のバス路線(後の協栄バス久松線)が走っていました(2016年2月末で廃止されたが、未だに錆びた古いバス停が残っています)。南部線というくらいなので、古い時代はここら辺が町の南端だったのではないかと想像してみました。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」下里通りの一本北側。市場通りのホテルセイルインの向かいから、ダンスクラブ女王蜂、下地眼科、FMみやこ(旧・宮古テレビ)を経て、マクラム通りへと抜ける細い通り。これを「琉映館通り」と呼びました。
現在のA&Wの裏手にある駐車場に、かつて琉映館という映画館があったことに由来しています。すでに映画館はなくなりましたが、電柱に残った通りの名前にその痕跡をしっかりと留めています。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」映画館ネタでもうひとつ続けます。
現在の琉球銀行の南側、宮古歯科から根間公園の予定地となっている中央通りあたりまで。こちらを「国映館通り」と呼びました。
ただ、この呼称には少々問題がありまして、現在のパニパニシネマ宮古島は、かつての国映館なのです。
ではなぜ、琉銀の裏通りが国映館なのかというとになります。実はその琉銀があったところに、移転前の国映館があったからなのです。
こちらも電柱の名前にその名前がしっかりと残っていますが、面白いことに道路が拡張されたせいなのか、道路の左右で電柱に書かれている名前が異なっており、琉銀寄りの電柱は「国映館通り」ではなく、「新琉銀宮古」と新たなランドマークとなった琉銀の名前か入っています。
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それではパニパニシネマ宮古島のある通りは何と呼ばれているのかということになりますが、こちらは「凱旋通り」と名づけられています。なんでもその昔、日清だか日露の戦争の時に、港から平一小まで戦勝パレードをしたのが由来だとか。
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第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」面白いのはこの道、市場通り以西(海側)の区間。比嘉内科の前(酒の鈴屋)あたりの路面を見ると、大きなグレーチングが口を開けており、暗渠であることが判ります。というより、道路の線形とか舗装面(暗渠部分だけコンクリート舗装)から察するに、確実に川(水路)の上に道作っていることが判ります。この暗渠は道なりに港の方へと下って行き、拡幅された下里西通りにぶつかると、歩道の下を通って(工事中に開削工事していた)国道390号線を渡りって埋立地のある海へと消えてゆきます(この区間だけ下水も敷設されていない)。

第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」では、市場通りの東側はというと、東西に走る同じような幅員を持つ市内の通りはいくつもありまずか、どう云う訳かこの凱旋通りだけは、平一小の突き当りまで左右に延々と歩道が設置されているのです。歩道の構造を見ると、左右どちらにも蓋のついた側溝がずらりと並んでいます。
そして家々の前には後付チックな集水桝が点在しています。集水桝は汚水なので車道部分に下水管を通し、それを伝って集めていることが判ります。市場通りを渡って直進せず、西里郵便局方面へ迂回してイーザト界隈に向かっています(市上下水道部下水道MAP)。
一方、歩道の側溝は市場通りにぶつかったところで、左右ひとつずつの大きな集水桝に集められます(市場通りの歩道端延長に桝があるので、道路雨水も集水している)。そして道路の下をくぐって海側に向かっています(市場通りの真ん中に雨水と書かれた人孔もある)。つまり、例の暗渠へと流れ込んでいるのです。
実際、地面を掘って確認したわけではないので、経験則からの妄想ではありますが、この謎すぎる構造の凱旋通りは、おそらく大昔は川(水路or小川)であったのではないかと結論付けました。
実際、イーザト界隈は市内の台地から海に向かっての傾斜地にあり、建物の影に隠れて視認することは難しいですが、今も小さな谷に多くの水路(小川)がいく筋も海に向かって流れています。
また、上流側の平一小界隈(宮古高校野球場~南小にかけてのもう一段高い台地)は、北は平良中、サンエーターミナル店、盛加越公園、荷川取公園を経て、ウプドゥマーラの荷川取漁港へ下る「東仲荷川取集雨水幹線(通称“荷川取川”)」が、南はピータイム、宮古病院、西ツガ墓を経てアトールの下を抜ける「下里雨水幹線(通称“下里川”)」の源流域となっているからです(この川の話もいつか書いてみたい・・・需要があれば)。つまり、西に進む凱旋通りを経て平良港に続く川があってもおかしくない、そんな地形マニアの妄想が暴走するような地形なのです(実際、旧平一小旧正門前にそれらしき痕跡がある)。とはいっても、人々の叡智によって日々近代化され、開発され、町の構造も大きく様変わりし続けているいます。痕跡は残っても昔のままであるとは限らない。でも、そんな隙間が楽しいのです(以上、オトナの自由研究。ご精読ありがとうございました)。
第102回 【連載100回突破特番】 「お通りオトーリ」
あっ。「綾道石畳(ダブルネームで“ネフスキー通り”ともいう)」と、「祥雲寺通り」を忘れた。。。
けど、もう、お腹いっぱいですよね、あはははっ(遁走)。
【追記】
アナタ知っている、名前のある島の通りを教えてください(古い街なのに、東西の仲宗根方面が反映されなかった)。&、間違いや事実誤認、突っ込みなどもお待ちしていますです♪



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