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2018年10月23日

第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」

第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」

島にそこそこ多い事業竣工記念系の石碑。内容が意外と地味な割に、結構、自己主張が強いものが多いものが常なのですが、今回ご紹介する石碑もなかなかに自己主張が強めです。なんたって急傾斜地の崩壊を防止する事業の竣工記念碑ですからね。力強い単語のオンパレードです。
石碑は島で一番の急傾斜地に人々が住まう、伊良部島は佐良浜地区の丘の上にあります。思い浮かべてみると、佐良浜の街並みは、車社会の島でありながら徒歩優先の細道と階段が入り組み、まるで迷宮のような佇まい。まさに崖にへばりついて住んでいるといっても過言ではないくらい急峻な地形に位置する集落です。
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」石碑は海を埋め立て整備された漁港に完成したばかりの漁協(おーばんまい食堂)の直上、佐良浜児童館の並びにあるモモタマナが茂る公園の中にあります。石碑の形もなかなかユニークで、自己主張が強めなので、きっとすぐに判ると思います。余談ですが、崖上なのでとても眺めのよい公園で、対岸の宮古島(平良北部の狩俣から池間島)までよく見渡せます。それではまずは、碑文から紐解いてみようと思います。
急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑

海抜40m地点の急傾斜地に横たわる危険断崖は、この地を基点に約600m東西に走り、その昔地震や大雨等によって崩壊し、人命及び家屋に甚大な被害が出たことから、昭和51年急傾斜地崩壊防止事業を導入し、危険崖地を撤去し公園化した。

工期 昭和51年~56年
工費 2億6千万円
平成6年7月設置
伊良部町長 川満昭吉
平成もそろそろ終わろうとしている昨今、どうも元号での計算が複雑で煩わしくなって来ているので、勝手ながら、碑文に出て来た元号を西暦に変換して計算しやすくしてみました。1976(昭和51)年に工事を初めて、1981(昭和56)年に工事が完了して、1994(平成6)年に石碑が建立されているということらしいです。
完成から随分と経過してから、建碑されているのがちょっと気になりますが、国土地理院の空中写真を覗いてみると、ちょうど事業開始直後の1997年と、建碑された1994年の空中写真があったので、ちょっと見比べてみたいと思います。
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
【左:1977年 中:1996年 右:地形図(赤丸は事業後に変化したとみられるエリア)】

池間島から伊良部に渡って来た、池間民族の人たちが暮らし始めたと云われ、地域名の佐良浜の語源となっている(小字)佐那浜(さなはま)から、ひとつ上の段にあがった断崖が、急傾斜地崩壊防止の事業が対象となった場所のようで、海側(今は防波堤が突き出ているので、少し沖合いから集落が望める)から見上げても、岩々しくちょっと尖って見えています。ここらへんを600メートルほど帯状に岩を削り取ったようです。
地元の人に話に聴くと、子供の頃、大岩に乗って遊んでいたそうですが、その岩は乗っかっただけでもぐらぐらと不安定に揺れていたと云います。つまり、集落の上に、巨大な浮石がゴロゴロとあったということですね。改めて考えてみると、牧山の大和ブー大岩からサバオキを経て、フナウサギバナタ展望台、白鳥崎の西海岸公園まで続いている、佐良浜断層涯の大きな連なりの一部になっているのですが、ここ佐良浜の部分だけが、少しだけ崖の高さが低くなっていることが判ります。ということは、おそらく佐那浜のあたりは、かつて崖が大崩落したために周辺より低くなっているのではないでしょうか。さすれば露岩や巨岩の浮き石などがあったとしても不思議ではありません(佐良浜集落の南方、旧フェリーターミナル周辺の埋め立て地は、海ぎわにゴロゴロと岩が転がっているのもその一例か?)。

【池間添の公園に設置されている「佐良浜地区急傾斜地崩壊危険区域」を知らせる看板】

そんな人々が暮らしている中での岩の除去というは、かなりな神経を使った工事になると思われ、それゆえに工期が長期化したのでしょうか。工事が行われたとみられる場所が、空中写真から4エリアほど確認できるので南から順に見てみましょう。
まず、一番南に位置し、石碑が建立されている公園のエリア。岩場は平地に作り替えられていますが、公園の西側には岩盤が残っています。硬い地盤を生かしてなのか、携帯電話のアンテナ鉄塔が建てられています。
公園の北隣、佐良浜児童館の道向かい。ここで字が池間添から前里添に変わりますが、ここの崖地は緑に包まれていて、あまり大きな変化を見ることが出来ません。しかし、もうひとつ北側の崖地に挟まれた谷になっており、谷の末端(海側)はミャークヅヅが行われるムトゥが位置する場所なので、恐らく池間民族はこのわずかにひらけた谷に伊良部への第一歩を記したのだろうと妄想します(小字は確かに佐那浜)。
谷の北側にあたる崖地の上は、公園として整備されていますが隣接した海側に「んぬつにー(命根)御嶽」があります。この御獄は航海安全や豊漁祈願といった、津佐良浜の海の民が日常的な祈る場所で、生活に深く溶け込んでいます。
崖上にずらりと住宅が並び、宅地の裏手に接している一番北側は、かなり岩は削り取られていますが、今も崖地は露岩しています。その昔、子どもは学校へ早道として、崖の裂け目のような細道を上り下りしていたそうです。
いずれの場所も生活と隣り合わせで、崖の下には歩いてしか近づけない岩の迫る小径が残っており、佐良浜の街の険しい一面を体験することもできます。
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
【左:居酒屋「でんみ」の写真 中:豊島貞夫「佐良浜の三角屋根」(1969) 右:同、部分拡大】

そんな中、たまたま偶然に見つけたのが、字伊良部にある居酒屋「でんみ」の壁に掲げられていた、一枚の古い佐良浜写真。
今の佐良浜児童館のあたりでしょうか。白い岩肌がむき出しになっており、どうやら岩山が崩落しているようです。その様子を人々が遠巻きに見守っている様子が見えます。
気になって、写真の履歴をちょっと調べてみたら、どうやらこの写真は、上野は野原出身の写真家、豊島貞夫さんが撮った「佐良浜の三角屋根」というタイトルの作品(の一部分)ではないかと判明しました(キャプションには1969年とあり)。
 豊島貞夫写真展「風の島・宮古」①
 豊島貞夫写真展「風の島・宮古」②
 ※宮古島市総合博物館 豊島貞夫写真展「風の島・宮古-魂の原郷-」より

工事期間も年代的にもかなり近いことから、この崩落事件が起因して、急傾斜地崩壊防止事業が採択されたものと考えられます。さらにこの崩落事件を追いかけてみると、2016年11月25日~27日に伊良部公民館で行われた、沖縄県公文書館の移動展「公文書館所蔵資料にみる伊良部」で、『佐良浜傾斜地の「危険岩石」』と題して、特集されていたようで、崩落と事業の概要が見えてきました。
沖縄県公文書館 過去の展示会特集「伊良部島移動展」

第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
【左:空から見た佐良浜(沖縄県公文書館) 右:参考資料 1959年にサムエルキタムラが撮影した佐良浜。崩落は不明(宮古島市総合博物館)】

崩落は1958年(昭和33)年3月(みやこの歴史より補足)に発生した大きな地震により、崖上の岩石が崩壊して2軒の家屋を破壊したというもの。さらに、1966年9月の第2宮古島台風(コラ台風)の豪雨によって、一部の地盤が緩み崩落の危険性が増大しており、周辺住民は日夜、恐怖にさらされているという情報を知り得ることが出来ました。
時間が許すなら新聞記事などを追いかけたいところですが、猶予がないので今回は飛ばしちゃいます。ごめんなさい、いずれ機会を見て再放送が出来たらいいな(てか、ここまで割り出すのにかなり時間を費やしてしまった)。
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
【上:沖縄県公文書館 佐良浜の急傾斜地のパノラマ 1963年 下:岩の調査位置(7群に分けられている)】

公文書館の記事によると、岩の箇所は4か所ではなく7か所あり、1967年9月16から20日まで、岩の危険性の調査がおこなわれています。
調査資料も公開されており、かなり細密な調査がなされたことが判ります。
第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
【左:太田主席の視察(1963年) 右:ランパート弁務官の視察(1969年)】

また、公文書館の写真資料によると、1963年11月6日には、琉球政府の第3代行政主席(琉球政府のトップ)大田政作行が、1969年7月9日には、ランパート高等弁務官一行が佐良浜の崩落現場を視察しているようです(関連:第79回「弁務官道路」)。
ただ、ちょっとここで気になることに気づきました。当初、「でんみ」で見つけた豊島氏の写真は、岩の崩落現場の写真と思い込んでいましたが、事象と写真を時系列で並び直してみると。。。

1958年 地震により岩が崩落
1963年 大田主席が佐良浜を視察
1966年 第2宮古島台風(コラ台風)が襲来
1967年 岩石の危険性の調査
1969年 ランパート弁務官が佐良浜を視察
1972年 沖縄復帰
1976年 崩落防止工事が開始
1981年 工事が完了
1994年 完成記念の石碑を建立

後半はまとめの意味も含めて足しましたが、大田首席の視察時の写真では、崩落箇所の上にカヤヤー(茅葺の家)が建っています。。一方、ランパート弁務官の視察の時の写真にある、崩落はでんみの写真と同じ。キャプションの年号も1969年と合致した。となると、この崩落はコラ台風のもので(しかも弁務官の写真にはもう一か所崩れているところも見えている)。
これから推察するに、地震で岩が崩落したのは別の場所であると考えられます。ただし、それがどこなのかは未だ残念ながら判っていません(ご存知ならご教示下さい)。

第206回 「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」
やはり沖縄県公文書館の写真は、何度眺めても発見と驚きがあって面白いです。
最後は今回見つけた写真から。
ランバート弁務官が佐良浜(この時は、どうやら伊良部島内を巡っている)に視察に来た(写真番号的に付番が次なので)帰りなのか、崖の上に鈴なりになっている人々の写真があった。岩の感じと階段からして、サバオキと思われる。きっと弁務官(の船)見たさにやって来たのでしょう。ある意味、場所は違えどもフナウサギバナタの伝承が垣間見れた気がしました。

【付記】
崖崩を想定し訓練/佐良浜(宮古毎日新聞 2015年6月14日)

土砂災害計画区域 佐良浜、狩俣など9カ所指定(宮古新報 2018年8月28日)

急傾斜地崩壊危険箇所 (宮古島市役所) ※pdfの地図
佐良浜池間添佐那浜・前里添佐那浜




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