2019年11月23日
第19回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その7」
皆さん、いかがお過ごしですか?裏座から宮国です!
関東大震災は、関東近辺ばかりか、当時の大日本帝國に住む人たちに大きな影響を与えました。それは、われらが凹天など漫画家も同じでした。職の安定、暮らしそのものの困難という意味でも大変苦労があったのだと思います。
細かく資料を読んでみると、一人ひとりの小さな物語が、その頃は生々しく描かれています。自然災害は、偶然その時いた場所、その時一緒にいた人と新しい物語が始まる瞬間かもしれません。惨事を目の前で経験した時、心がどう動いたかで、その人の人生が一瞬にして決まってしまうように思います。
もしかしたら、隠していたもの、隠れていたものの強弱が露呈しやすいのかもしれません。江戸期、そして明治期から積み上げた近世近代が作った江戸や東京という大都市が、曲がりなりにも保たれ続けたにも関わらず、大災害とそれに続く大火は、そのインフラをあっという間に燃やし尽くしてしまいました。とりわけ、明治維新以降、日清・日露戦争の戦勝気分に浮かれていた人びとにとって、まさに晴天の霹靂だったのではないでしょうか。
当時の大阪朝日新聞社の『大震災寫眞画報』で特集が組まれています。表紙は昭和の皇后陛下が赤十字を慰問している写真です。
当時の宗教者たちは、関東大震災を自らの信仰に従って、意味付けをしました。例えば、明治神宮や日比谷公園などに数千人を収容する規模もするバラック建設。そして漫画家たちも俊敏に動きました。当時、凹天はどういう思いで、何を感じたのでしょうか。手元の資料を見ると、関東大震災の3年前の1920年に『中央新聞』に入社。当時、中央新聞社は旧内幸町一丁目にありました。
ここは、かつて寛永期に、陸奥盛岡藩南部家、肥前唐津藩寺沢家、陸奥会津藩加藤家、日向飫肥藩伊東家、肥後人吉藩相良家の上屋敷が実在。なので、なんの因果か、凹天は、実は「肥後国」という自分の父である下川貞文のルーツに接触しながら、働いていたのです。
1922年には『東海道五十三次漫畫紀行』に執筆しています。その現物を手に入れたので、家でじっくり眺めていると感慨深かったです。特に、落胤やアクセントの色があまりにも可愛らしく、凹天の女性性を感じました。
さて、自筆年譜によると、関東大震災のあった1923年は、 日本漫畫會参加。幽門狭窄にて日本赤十字病院に入院。
「日本漫画会」は4月に結成されたばかり。その前身である「東京漫画会」が東京・帝国ホテルと箱根で行った第10回漫画祭をもって解散。その流れに棹差すように、新たに結成されました。
関東大震災が9月1日ですから、4月は「東京漫画会」のメンバーで新しく名前も変え、気分も一新して、各々の仕事に邁進していたことでしょう。凹天の自筆年譜は、だいたい一年に一行程度です。そこにしっかりと書いてあるのは、凹天にとっても、節目として印象深かったのではないでしょうか。
日本漫画会の存在を世に知らしめたのは1923年9月1日の関東大震災後の活動であった。大震災直後に漫画家らが東京の状況を描いたスケッチを集め、11月17日に大阪三越百貨店にて展覧会を開催し、11月21日には大阪に避難していた金尾文淵堂を版元として『大震災画集』を出版した。
展覧会・画集の出版共に震災から二か月余という異例の速さであったが、これは漫画家たちの「大被害を全国の人々に伝えねばならぬ」という義務感によるものであった。これについては『画集』の序文において水島爾保布(みずしま におう)が「こういう変災と試練に遭遇し、幾多非常の問題乃至生活に当面した事、そうしてそれらを解決あるいは描写して発表するということは、画家及漫画家として平常の主張に対して誠に愉快な責任でなければならない(中略)誰も彼も同じ意見であった」と述べている。
『画集』は大きな反響を呼び、定価5円と当時としては高価であったにもかかわらず、初版から一ヶ月で増刷がかけられた。
石子順『日本漫画史 上巻』(大月書店、1979年)
「大震災直後に漫画家らが東京の状況を描いたスケッチ」「『大被害を全国の人々に伝えねばならぬ』という義務感」というところに、その当時の漫画家の立ち位置が見えます。
凹天らも、結束があったからこそ『大震災畫集』を迅速に作れたのでしょう。当時、凹天は31歳。20代半ばにアニメーションを作り、眼病で入院。続いて幽門狭窄になってしまいます。私事で恐縮ですが、私も同じ時期に、一度目は難病、二度目は妊娠による幽門狭窄で入院しました。不思議な一致です。凹天は、満身創痍という記述は多いのですが、当時としては長生きだったと思うので、ひとまず安心しました。
関東大震災では190万人が被災、およそ10万5千人が死亡あるいは行方不明という大惨事でした。心身ともに傷ついた時、失意の時、人は死が身近かもしれません。でも、生きることを謳歌している時に、突然の災害や不幸に見舞われたら・・・。
関東大震災は、たとえ自分の身が安全だったとしても、家族や友人は無事かどうかはすぐに分からなかったと思います。当時、これから先も一緒に生きられると思っていた人たちと生きられなくなるのも、大きな悲しみでしょう。
凹天は、磯部たま子と結婚して7年目でした。詳しいことは書いていませんが、その頃には精神的に病んで、臥せっていたのではないかと推測しています。私が凹天展で見た写真では、たま子の姿は、結婚した頃の健康的な雰囲気ではなかったからです。その記念写真は結婚して数年後で、関東大震災前でした。
そして、たま子は、関東大震災の17年後に失踪します。その年に凹天は菅原なみをと再婚します。菅原なみをもなかなかの名家出身ですが、言動から推測するに、当時の女性像からは少し浮いているように思えます。もしかしたら、凹天の周囲には普通の女性ではなく、そんな反時代性を帯びて一風変わった女性しかいなかったのかもしれません。
たま子の写真を思い浮かべると、私は複雑な心境になります。人は生まれながら因果なものなのか、軽率な行動や行き違い、理解不足で、縁すらも自分で切り離してしまうこともあるからです。芸術家肌でありながら、型破りな凹天と一緒にいたら、関係を修復どころではなく、自らが壊れていくことでしか物理的な別離はできなかったのかもしれません。一緒にいるためには荷が重いと感じざるを得ない相手もいますから。
高村光太郎・智恵子夫妻
岡本一平・かの子夫妻
スコット・フィッツジェラルド・ゼルダ夫妻
島尾敏雄・ミホ夫妻
同時期では、高村光太郎、智恵子夫妻、岡本一平、かの子夫妻などや、スコット・フィッツジェラルド、ゼルダ夫妻、島尾敏雄、ミホ夫妻など、夫の才能を開花させるため献身的に支える妻や、夫の浮気をきっかけにタガが外れていく妻、出会ったこと自体が不幸だったのかな・・・と、つい思うのです。
小説が残っていたからこそ、彼女たちがある種、特権的にふるまっている印象もしますが、傷ついたり葛藤したりすることには嘘はなかったように思います。たま子やなみをはどうだったんだろう、とついつい女性目線で考えてしまいます。
凹天が自ら招いたことかもしれませんし、なかなか変えられない性質のようなものが凹天の独自性そのものかも。時折、転々と仕事を変えながら(変えさせられながら)、人が遠くなったり、馬鹿騒ぎしたり、孤独になったり、ハメを外したり、病気になったり。凹天自身も気持ちの休まる暇はあったんだろうか、とも思うのです。
一番座にも出てきますが、関東大震災は宗教者からも「天譴論(てんけんろん)」と言う言葉で受け止められ、「関東大震災=天罰」という考え方で、その時代を省みたようです。今、そんなことを言ったら、ヘイトスピーチも真っ青なくらい炎上しそうですが、御年83歳の澁澤榮一(しぶさわ えいいち)の言葉は重みがあります。東京、横浜の明治以降の発展について以下のように話しています。
「この文化は果して道理にかなひ、天道にかなつた文化であつたらうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか」。
天道にかなった文化であっただろうか、という言葉はとても重い。多分、当時の漫画家たちにもさまざまな意味で重かったのだろうと思います。
宮古島・前浜のお天道さま
こんにちは。一番座より片岡慎泰です。
関東大震災が起きた翌年、撮影技師として、柴田勝(しばた まさる)の代表作が生れます。それは『籠の鳥』。
演歌師・鳥取春陽(とっとり しゅんよう)の作曲による流行歌『籠の鳥』にモチーフをとった作品でした。
『籠の鳥』の歌
https://youtu.be/C5JWYOKItWM
原作松屋春翠、監督松本栄一(まつもと えいいち)、撮影は柴田勝の結婚前の姓である大森勝でクレジットされています。配役は、沢蘭子(さわ らんこ)のお糸、歌川八重子(うたがわ やえこ)の女給お光、久世小夜子(くぜ さよこ)のお糸の友人勝子、松本泰(まつもと やすし)の友人岡本、里見明(さとみ あきら)の文雄、若井信雄(わかい のぶお)の番頭豊助。
『籠の鳥』は、1924年に『大阪毎日新聞』から最優秀映画賞を受賞。この時の表彰状を一生柴田勝は身体から離しませんでした。
「表彰、撮影大森勝殿、一、純金賞牌壱個、右本大会に於て大正十三年度中の最優秀映画と認めた籠の鳥の制作に従事された功労に酬ゆるため、贈呈します。大正十四年八月、大阪朝日新聞社内、全大阪映画協会」
帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)は、設立以来、バックに大きな資本もありません。そこで、コストの安い作品ばかりを作っていたため、配給収入と制作費のバランスが悪く、絶えず資金難に悩まされることに。内紛も常に起こっていました。そこを狙って、金儲けに長けた人びとから提携や合併話がもちこまれ続けます。
しかし、東京や横浜を壊滅状態にした関東大震災は、大阪にあった帝キネには、またとない「神風」ともなったと述べることができるかと。多くの映画をダンピングして安く手に入れたりすることが可能に。
そして、『籠の鳥』は、帝キネ創業以来最大のドル箱に。初演から6週連続上映され、余勢をかって、『続籠の鳥』もすぐに制作されます。このブログの第7回と第10回で述べた『船頭小唄』とともに、『籠の鳥』は「小唄映画」というジャンルを生み出します。
ところで、天災と流行小唄との関係、そしてその背景にある大衆文化と為政者との関係についての研究の決定版ともいえる永嶺重敏(ながみね しげとし)著『歌う大衆と関東 大震災』(青弓社、2019年)があります。この著作によれば、『船頭小唄』が震災前から人びとの口に乗っていたのに対し、『籠の鳥』は震災後に本格的に流行しました。
『籠の鳥』は、さまざまなバージョンを生み出しました。ここでは、永峰重敏の説として、原曲にかなり近いとされる『流行小唄籠の鳥』( 親弦楽譜出版社、1924年) を引用しておきます。
あいたさ見たさに こわさもわすれ
暗い夜道を たゞ ひとり。
あひに来たのに なぜ出て来ない
僕の呼ぶ声 忘れたか、
あなたの呼ぶ声 忘れはせぬが
出るに出られぬ 籠の鳥。
かごの鳥さえ ちえある鳥は
ひと目しのんで 会ひにくる。
ひと目しのべば せけんの人は
あやしのをとめと ゆびをさす。
ゆびをさゝれちや いやだよわたし
だからわたしは 籠の鳥
しかし、こうした「小唄映画」に当局は目を光らせます。なぜなら、大震災とその後の荒廃は、マイノリティへの虐待と同時に、時の権力に怒りの刃(やいば)を向けなねないからです。子どもたちは、『籠の鳥』をこぞって歌いました。こうした、子どもの歌は、古来日本では、童謡(わざうた)として、不吉な出来事の前兆として解されていました。すでに、『船頭小唄』は、そうした関東大震災を招いたとして、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)など、多くの人びとの「天譴論(てんけんろん)」の標的に。
天譴論とは、関東大震災は、「天罰」だという意味で、政治や経済の腐敗、そして庶民の生活や風俗の乱れに対し、天から警告を与えたとする説のことです。これは、当局にしてみても、まかり間違えば、耳の痛い論になりかねません。
もっとも、日本的土壌では、天譴論は、常に民衆の側に落ち度があることになるという説もあるのですが。
ともあれ、当局は、小唄合唱の禁止など次々と手を打ちます。ただし、このブログでは、「国民精神作興ニ関スル詔書」を挙げるに留めます。この詔書は、日本社会の享楽的刹那的傾向や、社会主義の深化に警告を与えるためでした。ひいては、それは、大正デモクラシーという時代の大きな流れに楔(くさび)を打つものでした。かの治安維持法(1925年)は、ここから始まったという説もあります。
「国民精神作興ニ関スル詔書」の写真 国立公文書館より
永嶺重敏は、こうした小唄の流行とその取締りについて、以下のように説明しています。
「大正後期という時代の最も大きな特徴として、『大衆』の登場をあげることができる。それまで政治の世界から疎外されてきた諸階層からなる大衆が、大正後期に政治の新たな主体や社会運動の担い手として、一斉に前面に躍り出てくる動きである。
その際に、大衆は歌うことが社会的に大きな力をもつことを発見した。歌うこと、多人数によって合唱することは、労働運動や社会主義運動に関わる人々にとって、連帯と闘争のための大きな武器になりうることを知ったのである。
何千人という群衆が街頭を合唱しながらデモ行進していく、このような光景が日本の歴史上初めて出現してきた時代、それが大正時代である。
しかし、合唱という武器を持ち始めた大衆は権力の側にとっては大いに警戒すべき存在になってきたため、合唱の統制に乗り出すことになった。『革命の歌』の禁止や『メーデー歌』の認可制がそれである。
そして、この合唱の統制がついには映画館内での観客による流行小唄の合唱にまで飛び火した結果が、警視庁による小唄禁止令だったといえるだろう」。
もっとも、私自身、この解釈とは異なる部分もあります。流行小唄の合唱こそが、古来、日本社会の底流にある為政者批判の心性を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、ここが肝心なところですが、当時、柳田國男以来流布した日本の原型が南島にあったという欲望の源流をあぶり出すと考えるのです。
いささか話が跳躍(ちょうやく)したようで。この点については、別の機会があれば述べたいと。
『籠の鳥』の後、柴田勝は帝シネ上層部から認められたようで、同1924年から監督部に籍をおくことになり、第1回作品『笑って働け』を制作。
「帝シネ旋風」といわれる時代が到来。帝シネは、東亜(東亜キネマ株式會社)から、坂東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)、牧野省三(まきの しょうぞう)など、多くの映画人を引き抜きます。
しかし、天シネも大きな内紛が起きて、あっという間に窮地に立たされます。その大きな理由は、引き抜いたスタッフと帝シネに元からいたスタッフとの給料格差でした。帝シネは、旧劇は小阪撮影所、新劇は芦辺撮影所に分かれていました。小坂撮影所には、帝シネ社内の権力関係により、次々と良い映画人が引き抜かれます。しかし、『籠の鳥』は芦辺撮影所作品。これは当然ながら、芦辺派にとって、面白かろうはずがありません。こうした内紛は、多方面に影響を与え、帝シネと契約した映画館も次々と他社へ。
冒頭で「神風」と述べましたが、そういう時こそ凋落の始まりでもあります。田中純一郎(たなか じゅんいちろう)は、『日本映画発達史Ⅱ』(中央文庫、1970年)で次のように記しています。
「あれからちょうど半年、夢の工場は、冷たい現実に放り出された。巡業先で御難にあった旅役者とはちがう。現代文化の寵児を誇り、一躍天下に名声を馳せた映画芸術家にとって、迷夢にしてはあまりに悲惨な犠牲である。一野心家によって描かれた一片の夢想が、いま四百数十名の生命を脅かす現実にまで発展したことを思えば、粗大で思慮浅き彼ら野望家こそ映画の敵、人道の敵といわねばならない。しかもこの種の敵が、新興産業として、まだ経済的基礎も方則も固まらない映画産業の隙をねらって、関西の地方には、ことに繰り返し繰り返された」。
「一野心家」とは、当時、帝シネ、東亜を金儲けのために、無理矢理合併しようと画策し、思うがままに操った立石駒吉(たていし こまきち)。田中純一郎によれば「六尺豊かの大男で、もたもたしたアゴひげを生やし、桜のステッキを振って株主総会などによく出かけ、大言壮語して相手の度肝を抜き、あやよくば一攫千金を得ようとする立石は、一種の暴漢であった」。
ここで、これまでのブログの記述とも重複しますが、われらが凹天の動きを、簡単に述べておきます。これは、当時の漫画が、映画とは異なり、大衆文化において、どのような立ち位置にあったか、そして凹天が、いかに特異な漫画家であったかを知ることができるからです。
1915年 第二回東京漫畫祭参加。
1916年 天然色寫眞株式会社と契約。磯部たま子と結婚。『ポンチ肖像』刊行。
1917年 眼病で日本赤十字病院に入院。失明。『トバエ』に寄稿。
1918年 『讀賣新聞』入社。『東京パック』(第三次)参加。長男矩夫誕生、半年後に死亡。
1920年 『中央新聞』入社。
1922年 『東海道五十三次漫畫紀行』に執筆。
1923年 日本漫畫會参加。幽門狭窄にて日本赤十字病院に入院。『大震災畫集』に寄稿。
1924年 『凸凹人間』刊行。『漫畫人間描法』刊行。
1926年 『漫画』(北斗社)、『漫画』(漫画社)創刊。 『東京毎夕新聞』入社。『東京パック』(第四次)参加。日本漫畫家聯盟設立。日本漫畫家聯盟機關誌『ユウモア』創刊。
1928年 オーストリア人のクラウス博士より『日本人の性生活』執筆を依頼され、完成するも未発表。『漫畫スケツチブツクと描き方』刊行。
1929年 『裸の世相と女』刊行。
1930年 『讀賣新聞』再度入社。
この間、『新愛知新聞』(現・『中部新聞』)、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)、『大阪朝日新聞』、『やまと新聞』(現・『東京スポーツ』)、『婦人界』、『キング』などにも執筆。
注目しておきたいのは、われらが凹天が、新聞社や、その新聞社をバックにもった雑誌社、凹天自身や他の人びとが設立した独立系雑誌社に、次々と漫画を描いている事実です。出版業界から、いかに評価されていたことが分かります。ここでは、いわゆる大御所といわれた当時の漫画家では、凹天だけに際立つということを強調しておきたいと。その頃の大御所は、写真が貴重だった時代には、新聞社の政治部に属していました。その意味でも、当時の漫画家にとって、この「フットワークの軽さ」は驚天動地のことでした。
一番座からは以上です。
現代も映画は斜陽といいながら、映画関連の職業は今も人気です。その創成期がこんなに混乱の只中だったのかと思うと、その関係者たちはどのような喜びや苦しみを担ったのでしょう。
凹天がアニメーションを作り始めてから100年ちょっと。今や、MangaやAnimeは、国際共通語として、押しも押されぬクールジャパンの輸出産業。凹天は想像したでしょうか。可能性は感じていたのかもしれないけれど、現実は、その当時のメディアの中で、仕事から仕事に追われるように働いていたんだと思います。漫画家というのは、当時、高価だった写真ではなかなか表現できないため、随一とも言えるジャーナリストでもあり、クリエイターだったのですから。きっと引く手あまただったでしょう。それでも暮らしぶりは満足できるものではなかったようですが・・・。
凹天は広告媒体としての漫画も描いていました。岡本一平は「漫画漫文」の名手でしたが、そこまで有名人でなくとも、その広告漫画漫談は人気がありました。小さな範囲に書くので、イラストは的確に、言葉にリズムをもたせて、飽きさせないようにしていたように思います。印刷もまだ荒いので、しっかり見ることはできませんが、試行錯誤したのであろうな、ということが見てとれます。
漫画(イラスト)と漫文(言葉)のコラボレーションは、何か機嫌の良い、楽しいリズムが聞こえてくるようです。私は、それが当時の最大限のクリエイティブのような気がしています。
余談ですが、私は文章を日本人と島の人に書いていると意識しています。なので、島の人が直観的に分かるような具体例だと思って提示することがあります。上記の凹天のコラボレーションは、何に似ているのかと考えた時、私は島の歌と踊りに似ていると思うのです。
それは、まるでクイチャーのような、声合わせの歌と踊りです。合わさることで、倍増するもの。「合唱という武器を持ち始めた大衆」という言葉が一番座にありますが、私の感覚では、歌や踊りは武器ではありません。クイチャーが武器という考えは、まるで頭にも浮かばなかったです。
確かに、人頭税廃止運動のクイチャーもあるし、宮古上布を織りながら歌った労働歌、村を開拓するために移動させられた歌も残っています。でも、そこに攻撃としての歌や踊りとイコールではないという確信があります。
私の大好きな歌で『かにくばた』という民謡があります。いわゆる男女の交換歌(クイチャー)です。そこには親が村分けのために移動させられる子どもたち向かって歌っています。それは「やるしかない」、「幸せになれ」という祈りの歌。
ただただ力強く、生まれたてのような生命力しか感じないのです。
「新しく村建をする為野原地から狩俣大浦に移動を余儀無くさせられた子供達に対し親が開墾地の麦の様に勢いよく栄えよ家近くの豆の莢(さや)のように栄えに栄えよと励まし将来の幸福を祈念する歌である」。(平良重信著『解説付 宮古民謡集』)
私の大好きな與那城美和(よなしろ みわ)さんが歌っているYouTubeがあります。初っ端から「かにくばたよ 抱きみいぶす 乙女小(ブナリヤガマ)」という言葉がありますが、これは性的な抱くという表現というよりハグに近い感じかな、と思います。その後、よく働き、よく稼ぎ、生まれた子どもを自分たちのふるさとの地域に連れて帰っておいでよ、というような歌詞の流れ。それは、宮古の民謡によくありますが、恋愛の歌を歌っているような入り口なのです。最終的には共同体や社会、人のあり方などの島の教訓歌のような気がします。もしかしたら、宮古方言の民衆の恋愛歌という形にしか、人頭税時代には残せなかったのかもしれません。
この動画では、手拍子がメインで、いわゆる合唱のような型になっています。古くからある宮古民謡は楽器を使わず、無伴奏のアカペラ。三線(さんしん)が入るようになったのは1950年代頃です。ほんと、つい最近なのですね。
そして、宮古民謡のメインは、恋愛の歌のような気がしています。50年たてば、いやもっと早くかもしれませんが、下地さんの『民衆の躍動』は、宮古民謡誌に掲載されるのではないかと思っています。宮古人の心のど真ん中ストレート。そして、よくある沖縄民謡の三線でないところが、実はとても宮古的だと思っています。
手元にライナーノーツが見当たらないので、ネット上で探しました。うわ、これは高度な宮古久松方言です・・・とり急ぎ、宮国訳詞にて。ほんとに情熱的です。語気のニュアンスすら萌え!です、笑。この情熱は宮古ではいまだデフォルトな気がしています。もし、違うなら教えてほしいくらいです。
今夜、君となら踊ってみせようか、
踊り方は何ひとつ知らないけれど。
君のそばにいたいという僕の心が
踊ったことのない僕を踊らせるんだよ。
地面を這いつくばって、闇夜で手探りで
落ちている硬貨を拾うように
先も見えない、道も歩きづらくて
立ち止まっているときに
君と出逢ったんだ。
そうなんだよ、君に僕は夢中になってしまったんだよ
本当に君を思っているんだ。
君のことを僕は死にそうなくらい愛している。
本当にこういう風に思っているんだよ。
身体が言う通りに。
僕の魂が踊らせるんだ。
本当に君を思っているんだ。
君のことを僕は狂おしいほど愛している。
これをしても、あれをしても、
何をしていても、君を欲っさずにはいられない。
【主な登場人物の簡単な略歴】
柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」
水島爾保布(みずしま におう)1884年〜1958年
画家、小説家、漫画家、随筆家。東京府下谷区根岸に生まれ。東京美術学校現・東京藝術大学)卒。本名は爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父、水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。1915年、大阪朝日新聞社入社、1920年より東京日日新聞社勤務、時事世相漫画を描く。また同人雑誌『モザイク』に小説や戯曲を発表する。著書に『絵本太平記』、『新東京繁昌記』などがある。膵臓癌のため、自宅で死去。SF作家で有名な今日泊亜蘭(水島太郎など、ペンネーム多数)は息子で、漫画家の杉浦幸雄とは中学校からの親友。
鳥取春陽(とっとり しゅんよう)1900年~1932年
演歌師。岩手県新里村苅谷(現在の宮古市)生まれ。本名は貫一。父民五郎、母キクノの長男として生まれ る。刈谷尋常小学校卒。実家の製糸工場が倒産し、14歳で家出して上京。17歳から作曲活動を始め、シンガーソングライターとして活躍。幅広いジャンルで3000曲以上を作曲し、『復興節』、『籠の鳥』、『船頭小唄』、『のんき節』など数々のヒット曲を生み出した。1930年に出版した『モダン小唄集』は、昭和流行歌の源泉ともいわれる。肺結核で、死去。郷土には、宮古新里生涯学習センター玄翁会には、遺品が収められている。
永嶺重敏(ながみね しげとし)1955年~
出版文化、大衆文化研究者。鹿児島県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、図書館短期大学別科修了。東京大学経済学部図書室勤務、同法学部附属明治新聞雑誌文庫、史料編纂所図書室、駒場図書館、情報学環図書室、文学部図書室勤務。1997年『雑誌と読者の近代』で日本出版学会賞、国立大学図書館協議会賞、2001年『モダン都市の読書空間』で日本図書館情報学会賞、2006年『怪盗ジゴマと活動写真の時代』で内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。
澁澤榮一(しぶさわ えいいち)1840年~1931年
官僚、実業家。次回の一万円札の肖像となり、話題となる。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父親の渋澤市郎右衛門元助、母親のエイの長男として生まれた。幼名は栄二郎慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。同年には、大蔵省に入省。しかし、予算編成で大久保利通達と対立。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われている。渋澤が三井高福、岩崎弥太郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋澤財閥」を作らなかったことにある。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋澤は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現・二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。国士舘の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わる。1890年貴族院議員。自宅で、左腹壁腫瘍の手術後、死去。1927年、1928年にノーベル平和賞の候補にも。著作は国会図書館デジタルコレクションで読める。
坂東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)1901年~1953年
俳優。本名は田村傳吉(でんきち)。1901年、東京府神田区橋本町(現・東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。1915年、片岡仁左衛門の門に入り、片岡千久満の名をもらって歌舞伎の舞台を踏んだ。その後、地方巡業や端役で映画に出たが、1910年に青年歌舞伎座を作り、阪東妻三郎を名乗った。12年マキノ映画製作所に入社。同年『紫頭巾・浮世絵師』に出演。端役ながらそのニヒリストぶりが注目を浴び、次の沼田紅緑監督『鮮血の手型』前後編で主役、リアルな立ち回りで人気を得た。1924年、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝・影法師』と『雄呂血(おろち)』でチャンバラ・ファンを熱狂させ、「阪妻」の名は全国に広まり、「剣戟王」と呼ばれた。同年阪妻プロを作り、1931年、千葉に撮影所を建てたが火事で消失。新興キネマに移ったがトーキー出現で発声が不向きで人気は下降線をたどる。1943年、『無法松の一生』で富島松五郎役を熱演し、日本映画を代表する名優の一人となる。『尊王』、『闇』、『血煙高田の馬場』、『破れ太鼓』など200本の映画に出た。脳溢血のため、自宅で死去。俳優の田村高広、正和、亮は遺児。
牧野省三(まきの しょうぞう)1878年〜1929年
映画監督、プロデューサー。京都府北桑田郡山国村(現・京都市右京区)に生まれる。父は漢方医で幕末の勤王派農兵隊・山国隊の西軍沙汰人であった藤野齋、母は娘義太夫師の竹本弥奈吉(牧野彌奈)である。日本映画の黎明期において先駆的な役割を果たした。劇場経営から映画制作に乗り出し、1908年初監督作品『本能寺合戦』を公開。以来数多くの作品の制作、監督、脚本などを務めた。日本最初の映画スター尾上松之助を見出したほか、時代劇映画のプロデューサーとして寿々喜多呂九平、山上伊太郎らシナリオライター、マキノ雅広、衣笠貞之助ら映画監督、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門らのスターを育て上げた。心臓麻痺のため、自宅で死去。
田中純一郎(たなか じゅんいちろう)1902年~1989年
映画史家、映画評論家、編集者。本名は松倉寿一。群馬県新田郡生品村(現・同県太田市新田地区)に生まれる。東洋大学卒。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂で、映画雑誌によく投稿していた。当時の投稿仲間には、飯島正、古川緑波がいた。1919年、16歳のころに流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよう。在学中に批評家としてデビュー。1925年に雑誌『映画時代』、1930年に雑誌『キネマ週報』をそれぞれ創刊した。老衰のため、石神井台桜井病院で、死去。主著に『日本映画発達史』がある。
【2023/04/15 現在】
Posted by atalas at 01:16│Comments(0)
│Ecce HECO.(エッケヘコ)